ホセア黙想 【当たり前なこと何一つない】 20241002(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
ホセア 2:2~132:2 「問いただせ。あなたがたの母を問いただせ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。その顔から淫行を、その乳房の間から姦淫を取り除け。2:3 そうでなければ、わたしは彼女の衣をはぎ取って裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、荒野のようにし、砂漠の地のようにして、渇きで彼女を死なせる。2:4 彼女の子らを、わたしはあわれまない。彼らは姦淫の子らだから。2:5 彼らの母は姦淫を行い、彼らをはらんで恥をさらした。彼女は言ったものだ。『私の愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』と。2:6 それゆえ、わたしは茨で彼女の道に垣根を巡らし、彼女が通い路を見つけないように石垣を積む。2:7 彼女は愛人たちの後を追っても、追いつけない。彼らを捜し求めても、見つけられない。彼女は言う。 『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。2:8 しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。2:9 それゆえ、わたしはその時になれば、わたしの穀物を取り返す。その時期になれば、わたしの新しいぶどう酒を。また、彼女の裸をおおっているわたしの羊毛と麻をはぎ取る。2:10 今、わたしは彼女の恥を、愛人たちの目の前で暴く。彼女をわたしの手から救い出せる者はいない。2:11 わたしは彼女のすべての喜びを、祭り、新月祭、安息日、すべての例祭を終わらせる。2:12 『これは、愛人たちが払ってくれた私への報酬』と彼女が言った、あのぶどうの木といちじくの木を荒れすたらせる。わたしはこれを林に変えて、野の獣が貪り食うようにする。2:13 彼女がバアルの神々に仕えた日々のゆえに、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルの神々に香をたき、耳輪や飾りを付けて愛人たちの後について行き、このわたしを忘れた。──主のことば。 ■神様はイスラエルに対して「妻」と呼び、その妻であるイスラエルが他の男と姦淫を犯したと語られます。神様は深い裏切りと怒りを感じておられます。妻が愛と信義を裏切り、姦淫を犯したのに怒りや嫉妬を感じないのであれば、それは愛がないからでしょう。出エジプト記20章5節と申命記4章24節で神様は「妬む神」として言及されていますが、それは神様とイスラエルが夫婦のように契約を結んだからです。だからこそ、神様はイスラエルの偶像崇拝を厳しく叱責されるのです。私たちは「羨望(envy)」を自己中心的で否定的な感情と考えますが、「嫉妬(jealousy)」は愛の関係において、愛を証明する感情になることもあります。所有に執着した嫉妬とは区別されるべきです。 ■神様は今、彼らを裁こうとしています。神様がイスラエルから奪い取ったり、苦しめたりするのではありません。ただ、これまで神様が与えてきたものを与えないだけで、それが彼らの苦痛と滅亡につながるのです。神様はもはやこれまで与えてきたものを回収し、与えないでしょう。今まで当然のように楽しんできたものが奪われます。着るものも、飲むものも、食べるものも、すべては神様から与えられたものです。イスラエルがバアルを慕い、バアルに捧げた金や銀さえも、神様が彼らに与えたものです。神様は無意味な供給をやめられます。人が恵みを知らなければ、神様を裏切るのではなく、自ら滅びるのです。すべては神様から来たものだからです。 ■時には、神様を人格的に敬うのではなく、単に神様を神的存在として恐れる人に出会うことがあります。日曜礼拝に出ないと罰を受けるのではないか、何か間違ったことをすると悪いことが起こるのではないかと考えるのです。何をするにも自分勝手に行動し、神様を全く意識しない人よりはましかもしれませんが、病気にならないために、事故に遭わないために、損をしないために、もちろんそれは大切であるが、それを目的にして神様を信じるわけではありません。神様は気分が悪いからといって私たちに害を与える方ではありません。それは町の神社や占い師が言う神々です。彼らはその神を信じなければ自分に災いが降りかかるのではないかという恐れから、その神を信じているのです。 ■私たちはそのような理由で礼拝し、奉仕し、献身するのではありません。より多く行えば、より多くの報いを得られるという欲望で行うのでもありません。すべては神様から来ました。今の平和は、神様の供給があるからこそ可能なのです。食べるものも、飲むものも、着るものも、生命を維持するためのすべての供給とその命さえも、すべて神様から与えられ、救いもまた神様から来ました。それを知り、信じ、告白するからこそ、私たちは神様を崇めるのです。バアルに心を奪われた妻は、欠乏と苦痛に見舞われるでしょう。神様が酷いのではなく、その愛を受けていながら裏切った人間が酷いのです。私が受けたすべては、過ごしてきた時すべて、歩んできた日々すべて、すべてが主からの恵み… 当たり前のことなど何もなく、すべてが恵み、主の恵み…