黙示録 黙想 【イエス様と再会したヨハネ】 20241119(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
黙示録 1:9~201:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。1:10 私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。1:11 その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」1:12 私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。1:13 また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。1:14 その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。1:15 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。1:16 また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。1:17 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。1:19 それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。1:20 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。 使徒ヨハネはパトモス島に流刑されました。「神の言葉とイエスの証のゆえに、パトモスという島にいた。9」 9節によれば、パトモス島に流されたのは、イエス・キリストを証したからです。流刑は肉体的な苦痛だったでしょうが、ヨハネの霊性は神様の前でさらに透明になっていきます。「私は主の日に御霊に捕らえられ 10」 啓示がヨハネに臨み始めます。七つの金の燭台の間に人の子のような方が現れました。それはイエス・キリストです。長い衣をまとい、胸には金の帯を締め、白い髪の毛、燃える炎のような目、輝く青銅のような足、大水の音のような声で現れます。右手には七つの星を握っています。20節によれば、七つの星は教会の御使い、すなわち指導者、または教会を守るすべての存在を指します。ここで「御使いたち」と訳された「ἄγγελοι」は天使を意味しますが、伝達者やメッセンジャーの意味から指導者たちを指す「御使いたち」と訳されたのです。霊的存在の天使ではなく、教会を守る人々を指すと考えるべきです。直後の2章1節で「エペソにある教会の御使いに書き送れ。」とありますので、ここでの「ἄγγελοι」の用法は霊的存在としての天使ではなく、指導者と見るのが正しいでしょう。そして七つの燭台は七つの教会です。イエス様はそれらを手に握っています。口からは両刃の鋭い剣が出ており、太陽のように輝く顔をしています。それは神様の御言葉と栄光です。 ヨハネは懐かしいイエス様に再び出会いましたが、受肉されたイエス様ではないため、近づくこともできませんでした。ヨハネはその御前で死んだ者のように倒れました。恐れて縮こまったのではなく、おそらく気絶したのでしょう。私たちは神様の臨在を求めると言いますが、神的存在の顕現の前では人間は正気で立っていることができません。それを「ヌミノーゼ」と言います。イエス様はヨハネに右手を置き、「恐れるな」と慰めます。人間が神様の前に立つことができるのは、神様が呼んでくださる時だけです。そしてこの慰めの言葉は完全なものでした。なぜなら、今起きていることは全体の一部分または過程に過ぎず、イエス様は初めであり、終わりであるからです。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。17、18」 だからこそ、すべてはイエス様の中で起こることです。どのようなことに遭遇しても、イエス様の中で起こることは平安です。それが完全な慰めです。 イエス様はヨハネに、その力を持つ方が、生きていたが死なれ、そしてよみがえられたことを思い出させます。復活は死を打ち破った出来事です。人間は死に縛られ、死ななければならない存在ですが、イエス様が罪の中で死に、復活されましたので、死を打ち破った、つまり死が死んだのです。イエス様は罪の報酬である死から打ち勝たれました。それゆえ、イエス様は死とよみの鍵を持っておられると言われました。よみとは地獄を意味します。地獄の鍵は悪魔、サタンが持っているのではありません。イエス様が持っておられます。天国も地獄もイエス様の手の中にあります。ここで「ハイデルベルク信仰告白」の冒頭を思い起こさずにはいられません。第1問でこう問いかけます。「あなたにとって、生きる時も死ぬ時も唯一の慰めとは何ですか?」信仰は答えます。「私は、私自身のものではなく、生きている時も死ぬ時も、身体も魂も、私の誠実な救い主イエス・キリストのものです。」 アーメン!イエス様の前で告白しましょう。「生きることにしても、死ぬことにしても私の唯一の慰めは主イエス・キリストです。」