黙示録 黙想 【ラオデキア教会の霊的停滞】 20241125(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 3:14~223:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」 ラオデキア教会は、「生ぬるい」という表現で叱責されました。熱くも冷たくもないということです。ラオデキアという地域は近隣の温泉地の影響を受け、温泉水が混ざり合い、石灰質の白く生ぬるい水が小川に流れていました。それは現在も同じです。そのため、冷蔵技術がなかった当時、ラオデキアの人々は生ぬるい水にうんざりしていました。暑い時に飲む生ぬるい温泉水は、吐き出したくなるほどだったでしょう。そのため、イエス様もその生ぬるさをわたしは口からあなたを吐き出すと言われます。彼らはその感情がどのようなものか、理解していたに違いありません。 彼らの信仰が生ぬるいと例えられた重要な原因の一つは、次の節に出てきます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:17」 彼らの信仰の温度を生ぬるいところに引き下げたのは、経済的な豊かさ、すなわち「生活が安定している」という安心感でした。しかし、イエス様は彼らが実際には裕福ではなく、貧しいのだと言われます。生活が安定している経済力に頼り、それで安心して暮らしている彼らの心が貧しく、みじめで、哀れで、それは盲目の人のようであり、裸のような状態であると言われます。 熱い水を冷たい器に注げば、水はすぐに生ぬるくなるでしょう。内なる熱い福音を受け入れたとしても、世の中という外の温度に妥協し、同化してしまうと、神様への熱い情熱は冷めてしまいます。外部の温度に従って自分の温度が決まってしまうのです。ですから、生ぬるさは卑怯さと同義だと思います。生ぬるいことに気づけないのは、その生ぬるさが相対的な温度だからです。冷たい人々と比べて自分の温度が相対的に高いと思うのです。教会に通っているから救われている、教会に通っていない人とは違う、と思い込むのです。 希望はあります。イエス様は3:18で克服するための3つの勧めを与えています。1つ目、「火で精錬された金」とは、不純物を取り除けという意味です。金鉱石を精錬する過程はすべて苦痛です。採掘後、粉々に砕かれます。その後、重力分離によって激しく回し、金だけを残します。そして1,000度を超える温度で溶かし、不純物を取り除きます。この苦痛の過程を経ると純金だけが残ります。表面だけを飾って人に見せるメッキ人生では、信仰の純度を持つことはできません。2つ目、「白い衣を着る」ということは、人間の努力ではできないことです。水で洗い、火で焼いても罪は消えません。キリストを身にまとう救いの方法以外には、人間の恥を覆う救いの手立てはありません。最後に、「目薬を買って目に塗れ」です。ラオデキアは「フリギア粉(Phrygian powder)」という材料を使って目薬を製造することで有名でした。自分の内に閉じこもらず、目を洗って分別し、見なさいということです。 世が与える安楽さに甘んじていては、霊的な経験や成長はできません。激しい戦いなく、高尚に信仰を守る方法などありません。勇気を出して立ち上がり挑戦しなければ、ラオデキアは霊的な停滞と無気力から抜け出すことはできません。ヨハネの黙示録3:20は、不信者を迎え入れる際に提示する御言葉ではなく、信仰のふりをし、経済的な満足感でふらついている人々に向けられた御言葉でした。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。3:19-20」

요한계시록 묵상 【라오디게아 교회의 영적 침체】 20241125(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 3:14~223:14 라오디게아 교회의 사자에게 편지하기를 아멘이시요 충성되고 참된 증인이시요 하나님의 창조의 근본이신 이가 가라사대3:15 내가 네 행위를 아노니 네가 차지도 아니하고 더웁지도 아니 하도다 네가 차든지 더웁든지 하기를 원하노라3:16 네가 이같이 미지근하여 더웁지도 아니하고 차지도 아니하니 내 입에서 너를 토하여 내치리라3:17 네가 말하기를 나는 부자라 부요하여 부족한 것이 없다 하나 네 곤고한 것과 가련한…