ヨハネの黙示録 黙想 【子羊、謙遜の王】 20241129(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
ヨハネの黙示録 5:8-14 5:8 巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老たちは子羊の前にひれ伏した。彼らはそれぞれ、竪琴と、香に満ちた金の鉢を持っていた。香は聖徒たちの祈りであった。 5:9 彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、 5:10 私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」 5:11 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。 5:12 彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」 5:13 また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」 5:14 すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。 御座についておられる方の右手にあった巻物、その巻物を受け取ったのは力のある御使いでもなく、長老たちでもなく、四つの生物でもなく、子羊でした。これがイエス·キリストがこの地に来られた姿です。今日の箇所は、このように子羊として来られたイエス·キリストが、本来どのような方なのかを良く表しています。 私たちの頭の中にある羊という動物のイメージは、確かに弱く、保護が必要な存在です。今日の箇所に書かれている表現たちは決して子羊という存在に相応しい表現ではありません。私たちの頭の中にある解釈、今日の箇所に登場している子羊がイエス·キリストであるということを排除してから、再び読んでみると、ついに笑ってしまうほど、その表現の不自然さを感じるでしょう。 しかし、私たちがよく知っているように、この子羊がイエス·キリストであるという事実を覚えてから読むならば、この表現が豊かで、美しく考えられ、むしろこの程度の表現では足りないと思われるほどに変わります。このことがまさにイエス·キリストがこの地に来られたことがどれほど驚くべきことなのかを良く表していることです。 イエス様は神様の右手にある巻物の封印を解くのにふさわしい唯一の存在、この世のすべての聖徒の祈りと、すべての存在から力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方でありながらも、この地には弱くて小さい子羊として来られました。ご自分の血によってすべての部族、言葉、民族、国民の中から人々を神のために贖い、神様に捧げるために。 そのため、私たちはイエス様を単なる王ではなく、「謙遜の王」と呼びます。 ご自分のすべての力と権威を捨て、犠牲になるために来られた王であるのです。そして、その方が私たちをこの地を治める王の役割として立てられました。 そうであるならば、私たちがこの地の王としてあるべき姿は何でしょうか。私たちが見習うべき王の姿はどんな姿でしょうか。私たちを王に立てられた、私たちの王なる主イエス·キリストの姿がその姿でなければならないでしょう。https://youtu.be/1zLJXJXwkjo?si=Dl1M-PPwb_jJfz9S