黙示録 黙想 【ラオデキア教会の霊的停滞】 20241125(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 3:14~223:14 また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」 ラオデキア教会は、「生ぬるい」という表現で叱責されました。熱くも冷たくもないということです。ラオデキアという地域は近隣の温泉地の影響を受け、温泉水が混ざり合い、石灰質の白く生ぬるい水が小川に流れていました。それは現在も同じです。そのため、冷蔵技術がなかった当時、ラオデキアの人々は生ぬるい水にうんざりしていました。暑い時に飲む生ぬるい温泉水は、吐き出したくなるほどだったでしょう。そのため、イエス様もその生ぬるさをわたしは口からあなたを吐き出すと言われます。彼らはその感情がどのようなものか、理解していたに違いありません。 彼らの信仰が生ぬるいと例えられた重要な原因の一つは、次の節に出てきます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:17」 彼らの信仰の温度を生ぬるいところに引き下げたのは、経済的な豊かさ、すなわち「生活が安定している」という安心感でした。しかし、イエス様は彼らが実際には裕福ではなく、貧しいのだと言われます。生活が安定している経済力に頼り、それで安心して暮らしている彼らの心が貧しく、みじめで、哀れで、それは盲目の人のようであり、裸のような状態であると言われます。 熱い水を冷たい器に注げば、水はすぐに生ぬるくなるでしょう。内なる熱い福音を受け入れたとしても、世の中という外の温度に妥協し、同化してしまうと、神様への熱い情熱は冷めてしまいます。外部の温度に従って自分の温度が決まってしまうのです。ですから、生ぬるさは卑怯さと同義だと思います。生ぬるいことに気づけないのは、その生ぬるさが相対的な温度だからです。冷たい人々と比べて自分の温度が相対的に高いと思うのです。教会に通っているから救われている、教会に通っていない人とは違う、と思い込むのです。 希望はあります。イエス様は3:18で克服するための3つの勧めを与えています。1つ目、「火で精錬された金」とは、不純物を取り除けという意味です。金鉱石を精錬する過程はすべて苦痛です。採掘後、粉々に砕かれます。その後、重力分離によって激しく回し、金だけを残します。そして1,000度を超える温度で溶かし、不純物を取り除きます。この苦痛の過程を経ると純金だけが残ります。表面だけを飾って人に見せるメッキ人生では、信仰の純度を持つことはできません。2つ目、「白い衣を着る」ということは、人間の努力ではできないことです。水で洗い、火で焼いても罪は消えません。キリストを身にまとう救いの方法以外には、人間の恥を覆う救いの手立てはありません。最後に、「目薬を買って目に塗れ」です。ラオデキアは「フリギア粉(Phrygian powder)」という材料を使って目薬を製造することで有名でした。自分の内に閉じこもらず、目を洗って分別し、見なさいということです。 世が与える安楽さに甘んじていては、霊的な経験や成長はできません。激しい戦いなく、高尚に信仰を守る方法などありません。勇気を出して立ち上がり挑戦しなければ、ラオデキアは霊的な停滞と無気力から抜け出すことはできません。ヨハネの黙示録3:20は、不信者を迎え入れる際に提示する御言葉ではなく、信仰のふりをし、経済的な満足感でふらついている人々に向けられた御言葉でした。「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。3:19-20」

요한계시록 묵상 【라오디게아 교회의 영적 침체】 20241125(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 3:14~223:14 라오디게아 교회의 사자에게 편지하기를 아멘이시요 충성되고 참된 증인이시요 하나님의 창조의 근본이신 이가 가라사대3:15 내가 네 행위를 아노니 네가 차지도 아니하고 더웁지도 아니 하도다 네가 차든지 더웁든지 하기를 원하노라3:16 네가 이같이 미지근하여 더웁지도 아니하고 차지도 아니하니 내 입에서 너를 토하여 내치리라3:17 네가 말하기를 나는 부자라 부요하여 부족한 것이 없다 하나 네 곤고한 것과 가련한…

黙示録 黙想 【ペルガモが受けた二つの挑戦】 20241121(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 2:12~172:12 また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。2:13 わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。2:14 けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。2:15 同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる。2:16 だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。2:17 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。』 ペルガモン教会は、「サタンの王座がある」においても主の名を堅く守り、信仰を捨てなかったと称賛されています。「サタンの王座」と言われていることから、ペルガモン教会が置かれていた霊的環境が決して良いものではなかったことがわかりますペルガモンには他の都市と同じように皇帝崇拝が行われており、ゼウス神殿やアスクレピオス神殿もありました。このアスクレピオス神殿は蛇を象徴としていたため、クリスチャンにとってそれはサタンの拠点のように見えたことでしょう。 そんな霊的環境の中で、キリストを証したアンティパスが殉教しました。アンティパスが殺害された背景について正確にはわかりません。ゼウス神殿やアスクレピオス神殿が原因であったかもしれませんし、ローマ皇帝崇拝の強制によるものであったかもしれません。明らかなのは、キリストを信じる信仰のゆえに偶像崇拝の拠点で殺されたということです。こうしてペルガモン教会は殉教者を生み出した教会でもあり、それについて称賛を受けています。 しかし、ペルガモン教会は同時に叱責も受けました。それはバラムとニコライ派に従う者たちがいたためです。民数記にはバラムとバラクの話が登場します。バラムはモアブの女性たちを利用してイスラエルの男性たちを誘惑し、淫行に陥らせる計略をバラクに提案しました。このように、バラムの教えとは誘惑と妥協を通じて神の民を堕落させるものであり、それは倫理的なつまずきにとどまらず、それを正当化するための神学的な歪曲まで意図したものでした。一方、ニコライ派も偶像崇拝と淫行を公式に許容する背徳的な異端でした。彼らは外部の迫害よりも内部の堕落を狙いました。 殉教者を生み出したペルガモ教会に、バラムの教えやニコライ派のような背徳的な異端が共存していたのは驚くべきことです。しかし、これは教会が外部の迫害と内部の堕落という二つの挑戦に常に直面していることを示しており、それに対処する信仰共同体の霊的複雑性をも浮き彫りにしています。ある人々は命を懸けて信仰の純粋性を守り抜きますが、ある人々は妥協し、変質し、堕落します。迫害は殉教を生み出しましたが、妥協は堕落を生み出しました。堕落や変質は一瞬で起こるものではありません。最初は部分的な妥協から始まり、自己合理化を続けるうちに、気づけばバラムやニコライ派のような怪物になっているのです。妥協を正当化しようとする詭弁を止め、主のための苦難に立ち向かうことができる信仰を持てることを祈ります。

요한계시록 묵상 【버가모가 받은 두 가지 도전】 20241121(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 2:12~172:12 버가모 교회의 사자에게 편지하기를 죄우에 날선 검을 가진 이가 가라사대2:13 네가 어디 사는 것을 내가 아노니 거기는 사단의 위가 있는 데라 네가 내 이름을 굳게 잡아서 내 충성된 증인 안디바가 너희 가운데 곧 사단의 거하는 곳에서 죽임을 당할 때에도 나를 믿는 믿음을 저버리지 아니하였도다2:14 그러나 네게 두어 가지 책망할 것이 있나니 거기 네게…

黙示録 黙想 【失われた初めの愛】 20241120(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 2:1~112:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。2:2 わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。2:4 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5 だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者には、わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。』2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり終わりである方、死んでよみがえられた方が、こう言われる──。2:9 わたしは、あなたの苦難と貧しさを知っている。だが、あなたは富んでいるのだ。ユダヤ人だと自称しているが実はそうでない者たち、サタンの会衆である者たちから、ののしられていることも、わたしは知っている。2:10 あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。2:11 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によって害を受けることはない。』 七つの教会についての話の中で、最初がエペソ教会の話です。エペソは大都市の世俗的な環境の中で福音と教会を守るために努力しました。「使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いた」とあります。「悪者たちに我慢がならず」ということは、彼らに霊的な分別力と、決断する強さがあったことを示しています。エペソ教会は神学的な中心を持っていました。また、倫理的にも世から区別され、道徳的で霊的な純潔を守っていました。さらに勤勉であったため、イエス様は「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった」と言い、彼らの忍耐と誠実さを称賛されました。 ところが、エペソ教会にも非難される点がありました。イエス様はエペソ教会が初めの愛を失ったので、それを回復するようにと言われました。私たちにとっての課題は、エペソ教会が失った「初めの愛」とは何かを見つけることです。エペソ教会は神学的な中心を持ち、共同体もよく整備され、倫理的にも堕落せず、自分たちの立場をよく守っていました。もし私たちの中で信仰を失ったが回復したという人がいるなら、おそらくエペソ教会が称賛された点を取り戻すために努力するでしょう。つまり、神様についての知識を深め、礼拝と奉仕に励み、誠実で敬虔な生活を回復するということです。しかし、それらをすでに行っていたエペソ教会が失われていることは、いったい何でしょうか。 それは、外見的な評価ではわからない本質的な信仰の動機や生き方を含んでいると思います。あるいは、エペソ教会が称賛された点の裏側にある問題かもしれません。彼らがよくやっていると評価されるのは、神学的、組織的、規範的な面においてです。それは確かに良いことですが、その背後で、キリストに対する愛と感謝からの個人的で人格的な献身が失われ、組織的で機械的なシステムに変質していたことではないでしょうか。世のやり方を取り入れれば、信仰がなくても組織は整然と動くことができます。確かに、神学や組織や制度は重要ですが、それがエペソ教会の信仰の温度を冷ましてしまったのではないでしょうか。間違ったものを防御することはできても、正しいものを積極的に証明することはできなかったのです。 イエス様はエペソ教会について「初めの行いをしなさい」と求められます。これは、学問的、社会的、倫理的、宗教的、組織的な要素も大切ですが、それ以上に本質的なキリストとの関係を回復することを意味しています。行動はその関係の回復に伴います。続いて記されているスミルナ教会への評価に、ヒントがあるかもしれません。スミルナ教会には懲らしめがありません。七つの教会の中でスミルナ教会とフィラデルフィア教会だけです。スミルナ教会はエペソ教会ほど体系的ではなかったようです。弱々しく見え、困難の中で奮闘しているようです。イエス様は彼らに「死に至るまで忠実でありなさい」と言われます。この忠実さは少なくともエペソ教会が称賛された点を見習えという意味ではありません。神学、制度、組織、規範といった外面的なものではなく、もっと根本的なことを指しています。 エペソ教会が回復すべきものは、組織体として整備される過程で失われた何かです。「初めの愛」と言われるため、私たちは「初め」に焦点を当てがちですが、失われたものは初めの愛であれ後の愛であれ、確かに「愛」そのものです。神様を愛そうとする人々が即座に熱心になることは、エペソが称賛されたことです。しかし、それはポイントでないです。失われた愛を探す手がかりは、兄弟に対する愛です。外向きには分析力や分別力がありましたが、内向きには互いに愛し合う温かさを失ったのです。愛を失った教会は、福音宣教の力と魂の救いの使命を失います。兄弟を愛する温もりを失った教会が、神様を愛する信仰の熱さを維持することはできません。信仰が学問や組織、規範によって体系化されると、人間はその枠外に置かれてしまいます。伝道しない教会は存在理由を失います。教会が取り戻すべきものは、それです。

요한계시록 묵상 【잃어버린 처음 사랑】 20241120(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 2:1~112:1 에베소 교회의 사자에게 편지하기를 오른 손에 일곱 별을 붙잡고 일곱 금촛대 사이에 다니시는 이가 가라사대2:2 내가 네 행위와 수고와 네 인내를 알고 또 악한 자들을 용납지 아니한 것과 자칭 사도라 하되 아닌 자들을 시험하여 그 거짓된 것을 네가 드러낸 것과2:3 또 네가 참고 내 이름을 위하여 견디고 게으르지 아니한 것을 아노라2:4 그러나 너를…

黙示録 黙想 【イエス様と再会したヨハネ】 20241119(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

黙示録 1:9~201:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。1:10 私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。1:11 その声はこう言った。「あなたが見たことを巻物に記して、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアに送りなさい。」1:12 私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。1:13 また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。1:14 その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。1:15 その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。1:16 また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。1:17 この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。1:19 それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。1:20 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台の、秘められた意味について。七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。 使徒ヨハネはパトモス島に流刑されました。「神の言葉とイエスの証のゆえに、パトモスという島にいた。9」 9節によれば、パトモス島に流されたのは、イエス・キリストを証したからです。流刑は肉体的な苦痛だったでしょうが、ヨハネの霊性は神様の前でさらに透明になっていきます。「私は主の日に御霊に捕らえられ 10」 啓示がヨハネに臨み始めます。七つの金の燭台の間に人の子のような方が現れました。それはイエス・キリストです。長い衣をまとい、胸には金の帯を締め、白い髪の毛、燃える炎のような目、輝く青銅のような足、大水の音のような声で現れます。右手には七つの星を握っています。20節によれば、七つの星は教会の御使い、すなわち指導者、または教会を守るすべての存在を指します。ここで「御使いたち」と訳された「ἄγγελοι」は天使を意味しますが、伝達者やメッセンジャーの意味から指導者たちを指す「御使いたち」と訳されたのです。霊的存在の天使ではなく、教会を守る人々を指すと考えるべきです。直後の2章1節で「エペソにある教会の御使いに書き送れ。」とありますので、ここでの「ἄγγελοι」の用法は霊的存在としての天使ではなく、指導者と見るのが正しいでしょう。そして七つの燭台は七つの教会です。イエス様はそれらを手に握っています。口からは両刃の鋭い剣が出ており、太陽のように輝く顔をしています。それは神様の御言葉と栄光です。 ヨハネは懐かしいイエス様に再び出会いましたが、受肉されたイエス様ではないため、近づくこともできませんでした。ヨハネはその御前で死んだ者のように倒れました。恐れて縮こまったのではなく、おそらく気絶したのでしょう。私たちは神様の臨在を求めると言いますが、神的存在の顕現の前では人間は正気で立っていることができません。それを「ヌミノーゼ」と言います。イエス様はヨハネに右手を置き、「恐れるな」と慰めます。人間が神様の前に立つことができるのは、神様が呼んでくださる時だけです。そしてこの慰めの言葉は完全なものでした。なぜなら、今起きていることは全体の一部分または過程に過ぎず、イエス様は初めであり、終わりであるからです。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。17、18」 だからこそ、すべてはイエス様の中で起こることです。どのようなことに遭遇しても、イエス様の中で起こることは平安です。それが完全な慰めです。 イエス様はヨハネに、その力を持つ方が、生きていたが死なれ、そしてよみがえられたことを思い出させます。復活は死を打ち破った出来事です。人間は死に縛られ、死ななければならない存在ですが、イエス様が罪の中で死に、復活されましたので、死を打ち破った、つまり死が死んだのです。イエス様は罪の報酬である死から打ち勝たれました。それゆえ、イエス様は死とよみの鍵を持っておられると言われました。よみとは地獄を意味します。地獄の鍵は悪魔、サタンが持っているのではありません。イエス様が持っておられます。天国も地獄もイエス様の手の中にあります。ここで「ハイデルベルク信仰告白」の冒頭を思い起こさずにはいられません。第1問でこう問いかけます。「あなたにとって、生きる時も死ぬ時も唯一の慰めとは何ですか?」信仰は答えます。「私は、私自身のものではなく、生きている時も死ぬ時も、身体も魂も、私の誠実な救い主イエス・キリストのものです。」 アーメン!イエス様の前で告白しましょう。「生きることにしても、死ぬことにしても私の唯一の慰めは主イエス・キリストです。」

요한계시록 묵상 【예수님과 재회한 요한】 20241119(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 1:9~201:9 나 요한은 너희 형제요 예수의 환난과 나라와 참음에 동참하는 자라 하나님의 말씀과 예수의 증거를 인하여 밧모라 하는 섬에 있었더니1:10 주의 날에 내가 성령에 감동하여 내 뒤에서 나는 나팔소리 같은 큰 음성을 들으니1:11 가로되 너 보는 것을 책에 써서 에베소, 서머나, 버가모, 두아디라, 사데, 빌라델비아, 라오디게아 일곱 교회에 보내라 하시기로1:12 몸을 돌이켜 나더러 말한…

黙示録 黙想 【今日のための黙示録】 20241118(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

黙示録1:1~81:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。1:2 ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。1:3 この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。1:4 ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、1:5 また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、1:6 また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。1:7 見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。1:8 神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」 使徒ヨハネがヨハネによる福音書を記した目的と黙示録を記した目的は同じです。黙示録は、恐ろしい終末の予言ではなく、神様がイエス・キリストを通して啓示された救いのメッセージを記録するために使徒ヨハネに示されたものだからです。読む者、聞く者、守る者は幸いであると言われているので、黙示録は生活の中で実践され、体験されるべき言葉です。その「幸い」は、漠然とした未来の報酬でも、体験できない何かでもなく、今日の従順の中で味わえるものです。 イエス様が雲に乗って来られるというのは、すべての人に普遍的に明らかにされるという意味です。そして例外なくすべての人がその前に立つことになります。ある人にはそれが裁きの日となり、またある人には贖いの日となります。聖徒たちにとっては、完全な救いの成就の日です。贖いの場に立つのか、裁きの場に立つのか、そのどちらかしかありません。自分は信仰があると思っていたのに裁きの場に立つ人もいるでしょう。また、イエス・キリストによる救いを望まなかった人が贖われることはありません。救いの条件は「信仰」にあるからです。 神様はアルファでありオメガ、つまり始まりであり終わりです。時空間の中で生きられる人間が、始まりと終わりを語ることができるのはただ神様によるものです。神様が歴史の始まりと終わりを司る方であると告白することで、人間は時空間を理解します。始まりであり、終わりであり、前におられ、再び来られる方と記されています。時空間の主は再び来られるイエス様です。移り行く時間の中で生きる私たちは、時間は握りません。信仰をしっかりと握りしめて生きるべきです。秋から始めて、冬の間、黙示録を黙想する予定です。難解で恐ろしい黙示ではなく、今日のための黙示録を読むことができることを期待します。

요한계시록 묵상 【오늘을 위한 요한계시록】 20241118(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 1:1~81:1 예수 그리스도의 계시라 이는 하나님이 그에게 주사 반드시 속히 될 일을 그 종들에게 보이시려고 그 천사를 그 종 요한에게 보내어 지시하신 것이라1:2 요한은 하나님의 말씀과 예수 그리스도의 증거 곧 자기의 본것을 다 증거하였느니라1:3 이 예언의 말씀을 읽는 자와 듣는 자들과 그 가운데 기록한 것을 지키는 자들이 복이 있나니 때가 가까움이라1:4 요한은 아시아에 있는…