詩編 黙想 【義の神】 20241116(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 72:1-11 72:0 ソロモンのために。 72:1 神よあなたのさばきを王にあなたの義を王の子に与えてください。 72:2 彼が義をもってあなたの民をさばきますように。公正をもってあなたの苦しむ民を。 72:3 山も丘も義によって民に平和をもたらしますように。 72:4 王が民の苦しむ者たちを弁護し貧しい者の子らを救い虐げる者どもを打ち砕きますように。 72:5 彼らが日と月の続くかぎり代々にわたってあなたを恐れますように。 72:6 王は牧草地に降る雨のように地を潤す夕立のように下って来ます。 72:7 彼の代に正しい者が栄え月がなくなるときまでも豊かな平和がありますように。 72:8 海から海に至るまで川から地の果てに至るまで王が統べ治めますように。 72:9 砂漠の民は王の前に膝をつき王の敵はちりをなめますように。 72:10 タルシシュと島々の王たちは貢ぎを納めシェバとセバの王たちは贈り物を献げます。 72:11 こうしてすべての王が彼にひれ伏しすべての国々が彼に仕えるでしょう。     詩篇72編の頭文字は「ソロモンのために」となっています。この詩の最後の部分をあらかじめ見ると、「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」と記録されています。ここから見て、この詩はソロモンの幼い頃、ダビデが彼のために神様に祈ったことをソロモンが詩として記録したものであることを分かります。  ダビデの生涯は忍耐と訓練の連続でした。彼は神様の時、主の日を待ちながら身を避け、隠れて暮らし、ただ神様の御前に祈ることしかできなかった日々を何度も経験しました。  そのような彼が、そのすべての時間を耐え、乗り越えることができたのは「義の様」を信じていたためだと思います。神様が彼の民、義人たちを苦みの中に放置しない方であることをダビデは信じていたのです。  そのような義の基準は他のものではありません。ただ神様だけが義の基準であり、義そのものであります。そして、そのような神様の義の頂点が、まさにイエス·キリストです。義である方であるからこそ、人々を救うためにイエス·キリストを送らなければならなかったのです。  神様の義の前には、砂漠に住む者たちの力も、タルシシュの富も、シェバとセバの王たちの知恵も必要ありません。そのすべてを義を持って治める方が神様であるからです。  その神様がご自分の義を、イエス·キリストを通して私たちに与えられました。私たちが神様のその義を持って生きながら、世の中に伝えるように任せておられました。   私たちはその義を伝える使命を受けた者として、私たちの中に神様の義を立て、世は勝てないその神様の義を告げていかなければなりません。https://youtu.be/ZWktcXSPVCY?si=6UEiZBeqy4G3u-SM

시편 묵상 【공의의 하나님】 20241116(토) 최종석 전도사

시편 72:1-11 72:1 하나님이여 주의 판단력을 왕에게 주시고 주의 공의를 왕의 아들에게 주소서 72:2 그가 주의 백성을 공의로 재판하며 주의 가난한 자를 정의로 재판하리니 72:3 공의로 말미암아 산들이 백성에게 평강을 주며 작은 산들도 그리하리로다 72:4 그가 가난한 백성의 억울함을 풀어 주며 궁핍한 자의 자손을 구원하며 압박하는 자를 꺾으리로다 72:5 그들이 해가 있을 동안에도 주를 두려워하며…

詩編 黙想 【希望と向き合う姿】 20241115(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 71:14-24 71:14 しかし私は絶えずあなたを待ち望みいよいよ切にあなたを賛美します。 71:15 私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。 71:16 神である主よ私はあなたの力とともに行きます。あなたのただあなたの義だけを心に留めて。 71:17 神よあなたは私の若いころから私を教えてくださいました。私は今なおあなたの奇しいみわざを告げ知らせています。 71:18 年老いて白髪頭になったとしても神よ私を捨てないでください。私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。あなたの大能のみわざを後に来るすべての者に。 71:19 神よあなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よだれがあなたのようでしょう。 71:20 あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられましたが私を再び生き返らせ地の深みから再び引き上げてくださいます。 71:21 あなたが私の偉大さを増し振り向いて私を慰めてくださいますように。 71:22 私もまた琴であなたをほめたたえます。わが神よあなたの真実を。私は竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。 71:23 私があなたにほめ歌を歌うとき私の唇は高らかに歌います。あなたが贖い出された私のたましいも。 71:24 私の舌も絶えずあなたの義を告げます。私のわざわいを求める者どもが恥を見て屈辱を受けるからです。    人の口癖は、その人の心の奥から出て来ることだと言われます。数年前まで、私の口癖は“家に帰りたい”でした。ところで、不思議なことは私は家にいながらも口癖のように「家に帰りたい」と言っていたということです。おそらく私の無意識の中の家は、物理的な空間ではなく、気楽にいられる場所、当時の私の不安定な心の中に安定感を求めていたのではないかと私は思います。  このように人の口癖はその人の心の奥を抜き出し、その口癖を通して、今その人がどのような状態にあるのか、何を望んでいるのか少しは覗いて見ることができるでしょう。  今日の箇所の詩人の口には、いつも神様への賛美があふれていました。そして、神様がなさったことへの証、その方に対する希望を語ることが絶えず語られました。もしかしたら、これが詩人の口癖だったのかも知れません。詩人は心の底から神様だけを考え、望んでいたのです。  神様が私たちの唯一の希望であること、その方が私たちになさった驚くべきことがあることを、私たちは頭では知っているはずです。しかし、それでも私たちの言葉はそれと一致しない時があります。お金と健康、世の中のことが私たちの口癖になってしまっているのです。  今日、詩人が繰り返し神様が希望であることを強調し、神様が私たちの賛美を受け取ることに相応しい方であることを語っているのは、それが頭で理解されただけではなく、心の奥から出てきたものであるからです。それを言わずにはいられなくなっているのです。  私たちの唯一の希望である神様に対する姿、賛美すべき神様に対する相応しい姿は、知識に基づいた告白ではなく、心の奥から出てくる告白と賛美をささげることです。  賛美が私たちの口癖になり、証が私たちの口癖になること、それが詩人が見せた姿のように、神様だけが私たちの唯一の希望であることを認め、告白する最も優れた姿であるでしょう。https://youtu.be/64er54gdx2E?si=okv08j8B4KRarMNH

시편 묵상 【소망을 대하는 모습】 20241115(금) 최종석 전도사

시편 71:14-24 71:14 나는 항상 소망을 품고 주를 더욱더욱 찬송하리이다 71:15 내가 측량할 수 없는 주의 공의와 구원을 내 입으로 종일 전하리이다 71:16 내가 주 여호와의 능하신 행적을 가지고 오겠사오며 주의 공의만 전하겠나이다 71:17 하나님이여 나를 어려서부터 교훈하셨으므로 내가 지금까지 주의 기이한 일들을 전하였나이다 71:18 하나님이여 내가 늙어 백발이 될 때에도 나를 버리지 마시며 내가…

詩篇黙想【ゆりかごから墓まで】 20241114(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 71:1~1371:1 主よ私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。71:2 あなたの義によって私を救い助け出してください。あなたの耳を私に傾け私をお救いください。71:3 私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌私の砦なのです。71:4 わが神よ私を悪者の手から助け出してください。不正を行う者や残虐な者の手から。71:5 神である主よあなたは私の望み若い日からの拠り所。71:6 私は生まれたときからあなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。71:7 私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。71:8 私の口にはあなたへの賛美があなたの栄えが絶えず満ちています。71:9 年老いたときも私を見放さないでください。私の力が衰え果てても見捨てないでください。71:10 私の敵は私のことを相談し私のいのちを狙う者がともに企みます。71:11 彼らは言っています。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。」71:12 神よ私から遠く離れないでください。わが神よ急いで私を助けてください。71:13 私をなじる者どもが恥を見て消え失せますように。私を痛めつけようとする者どもが恥辱と恥でおおわれますように。 詩人は人生を貫く神様の恵みについて語ります。私個人の証は、いつも留学してイエス様に出会った時から始まります。ところが、神学校の授業で神様の視点から自分の人生を振り返る機会を持った時、改めて気づかされました。私が神様を知らなかった頃から、神様は私の中で働いておられ、そのすべての時間に共におられたのだということを。そして、神様を信じていなかった自分の過去も、あの時に経験したすべても神様の内にあったのだと悟ったのです。神様の愛は一方的に始まりますが、私たちがその愛を見出すと、両方性、神様に対する信仰が始まります。 「私は生まれたときからあなたに抱かれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。6」詩人は、自分が母の胎にいた時から神様に選ばれ、招かれ、支えられてきたことを賛美します。ここで「胎にいた時」というのは、自分がまだ知らず、悟ることもできなかった時を意味しています。詩人も記憶から語っているのではなく、魂が振り返ってそれを悟り、告白しているのです。幼い頃は自立できないため、養育者の保護が必要であり、成長すると自らの力で生きる青年・壮年期を迎えます。そしてその後、再び弱くなる老年期を迎え、多くの場合、幼い頃と同じように誰かの助けが必要になります。詩篇の表題には「ダビデの詩」という言葉はありませんが、その文体と内容からダビデの詩であると多くの人が推測しています。ダビデの人生を思う時、老年において神様に頼るその真心が私たちに深く伝わってくるようです。 人間は、人生の階段ごとに、神様に対する態度は変わるかもしれません。神様を頼りにする時もあれば、離れている時もあるでしょう。しかし、ひとりの魂を見守る神様の愛は、その人の年齢や状態によって変わることはありません。母の胎でまだ臓器も形成されていない頃から、また歩けない幼い頃からも支えてくださり、神様を知らずに迷い彷徨う時も見守り、守り続けてくださったのです。「年老いたときも私を見放さないでください。私の力が衰え果てても見捨てないでください。9」信仰者は、自らの人生の中で見出した神様の変わらぬ愛に基づいて、老年の安全と平安を祈ることができるのです。尽きることのない敵の攻撃、罠、誘惑、欠乏がいつどのように襲ってくるかはわかりません。まだ口がなかった胎の中にいた時から私を知り、支えてくださった神様が、私の唇から捧げられる全生涯の祈りを聞いてくださることを願います。

시편 묵상 【요람에서 무덤까지】 20241114(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 71:1~1371:1 여호와여 내가 주께 피하오니 나로 영영히 수치를 당케 마소서71:2 주의 의로 나를 건지시며 나를 풀어주시며 주의 귀를 내게 기울이사 나를 구원하소서71:3 주는 나의 무시로 피하여 거할 바위가 되소서 주께서 나를 구원하라 명하셨으니 이는 주께서 나의 반석이시요 나의 산성이심이니이다71:4 나의 하나님이여 나를 악인의 손 곧 불의한 자와 흉악한 자의 장중에서 피하게 하소서71:5 주 여호와여…

詩篇黙想【恥を覆う】 20241113(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

詩篇 70:1~570:1 神よ私を救い出してください。主よ急いで私を助けに来てください。70:2 私のいのちを求める者たちが恥を見辱められますように。私のわざわいを喜ぶ者たちが退き卑しめられますように。70:3 「あはは」とあざ笑う者たちが恥をかいて立ち去りますように。70:4 あなたを慕い求める人たちがみなあなたにあって楽しみ喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが「神は大いなる方」といつも言いますように。70:5 私は苦しむ者貧しい者です。神よ私のところに急いでください。あなたは私の助け私を救い出す方。主よ遅れないでください。 近隣の高齢者施設で、月に一度か二度、日曜の午後に説教をしています。思っていた以上に、皆さんは真剣に耳を傾けてくださいます。聖書の物語の背景をあまりご存じないため、興味が湧きにくいのではと思うのですが、聞こうと一生懸命努力されている姿が見て取れます。牧師や教師は、聴衆の中で誰が聞いているのか、または聞いていないのかを前からしっかりと感じ取れるものです。施設のご高齢の方々は一生懸命聞いておられます。肉の弱いこそ、魂の強いです。 このようにして、高齢者施設は私たちにとって非常に重要な宣教の場となりました。今週も出張して洗礼を授けました。普段から施設で働いている執事の方々が伝道を続けてくださった結果です。洗礼を受けられた方は、まるで子どものように質問に答え、涙を流しながら洗礼を受けられました。かつての職業は仏像や仏壇を作り販売する方でした。仏像をハンマーで打ち壊してもイエス様を信じるわけではありません。しかし、肉体が衰えるとイエス様が見えてくるのでしょう。壊すべきはオブジェクトではなく、「自分の力で十分に生きられる」という人間の高ぶりでした。それが弱まると、聞こえるようになり、見えてくるのです。 ご高齢の方々を対象に説教する際に特に目を引くのは、彼らが最も集中して聞く瞬間です。経験上、彼らが最も反応する言葉があります。それは「恥」と「悔い」です。人生を生き抜いた方なら、誰にでも恥と悔いがあるものです。言葉にできない恥を隠していない人はおらず、後悔や申し訳なさがない人もいないでしょう。そのため、「恥」について話すと、皆さんは俯いていた顔を上げ、驚いた目で救いを求めるように私を見つめます。しかし、私も説教をしているだけ、同じように恥に向き合っている一人であるに過ぎません。 ヨハネの黙示録には、イエス様が再び来られるとき、人々が言うであろう言葉が予め記されています。「彼らは山々と岩々に言った。私たちの上に落ちて、御座にある方の顔と、子羊の怒りとから私たちを隠してくれ。6:16」 明るみに出た罪と恥に耐えられないからです。山が崩れ、岩が自分の上に覆いかぶさっても、隠してほしいと願うのです。日曜の説教で語った信仰義認とは、自らの力で義を得ることではなく、愛によって義とされることです。自ら恥のない生き方を成し遂げたのではなく、十字架がその恥を覆ってくださるのです。すべてを後悔しても、イエス様を信じなかったことを後悔してはいけません。恥は思いの中から消えません。ただ、主イエス・キリストをまといましょう。

시편 묵상 【수치를 덮는 것】 20241113(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 70:1~570:1 하나님이여 속히 나를 건지소서 여호와여 속히 나를 도우소서70:2 내 영혼을 찾는 자로 수치와 무안을 당케 하시며 나의 상함을 기뻐하는 자로 물러가 욕을 받게 하소서70:3 아하 아하 하는 자로 자기 수치를 인하여 물러가게 하소서70:4 주를 찾는 모든 자로 주를 인하여 기뻐하고 즐거워하게 하시며 주의 구원을 사모하는 자로 항상 말하기를 하나님은 광대하시다 하게 하소서70:5 나는…

詩篇黙想【あなたの心を生かせ】 20241112(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 69:29~3669:29 私は苦しんで痛みの中にいます。神よ御救いが私を高く上げますように。69:30 歌をもって私は神の御名をほめたたえ感謝をもって私は神をあがめます。69:31 それは雄牛にまさって主に喜ばれます。角が生えひづめが割れた若い牛にまさって。69:32 心の貧しい者たちよ見て喜べ。神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ。69:33 主は貧しい者に耳を傾け捕らわれたご自分の民を蔑まれない。69:34 天地よ主をほめたたえよ。海とそこにうごめくすべてのものも。69:35 まことに神はシオンを救いユダの町々を建て直される。彼らはそこに住みそこを自分たちの所有とする。69:36 主のしもべたちの子孫はその地を受け継ぎ御名を愛する者たちはそこに住む。 詩人は32節で「神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ。」と語ります。心を生かせるということは、つまり心が死んでいる状態を意味します。心が死んでいるとはどのような状態なのでしょうか。どの国の言葉でも「心」は深い場所にあり、真実が宿るところです。心は人の中心です。それが汚されるか、退いてしまうと、心は死んでいるのです。第一サムエル記16章7節で、ダビデが油を注がれるとき、神様がサムエルに「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」と言われます。この「心」はヘブライ語で「לֵב(レブ)」であって、今日の詩篇の「心」に使われた言葉と同じです。韓国語訳では「中心」という表現が使われていますが、これは心が人間の中心であることを強調しています。神様の御姿が宿るべき場所である心、それを失ってしまった人間が、この不安定な世界でどこに安息を得られるでしょうか。利益のために良心を無視し、自分の心を欺く人の魂には、安らぎの場がありません。そのため、箴言では「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。4:23」と語られています。 信仰を守ると言いながら、信仰の名のもとに嘘をつき、命を奪い、戦争さえ引き起こす人がいます。それは宗教はあっても心がないからです。心なくして続け、心なくして繰り返します。心がなくても合理的で効率的に、そして熱心に物事を行うことはできます。しかし、心を守る人にはそれはできません。心が死んでいる状態で神様に祈ったとして、どのような言葉が出てくるでしょうか。まずは自分の心が元気であるか、問いかけるべきです。心が死んでいては、神様を見出すことはできません。ですから詩人は、神様を求める前に、まず心を生かせと言います。「神を求める者たちよあなたがたの心を生かせ32」 神様を求めるならば、まず真実を、人間性を、そして良心を求めなさいということでしょう。神様を口実にして人間性を無視する無知な宗教は、必ず暴力へと転じるのです。 詳しく読んでいくと、心を生かせるための具体的な方法として、賛美が挙げられています。歌によって神様に感謝し、賛美せよということです。厳かな儀式よりも、賛美が神様の喜びとされるのです。しかし、それがすべての儀式よりも賛美が重要だということではないでしょう。神様は心が込められているものを求めておられるのです。だからこそ、もし牛のいけにえに心が込められているならば、神様はそれを受け取られるでしょうし、賛美に心がなければ、それは空虚な音楽に過ぎません。「心」を語りつつ賛美を勧めているのは、心が感情と深く結びついているからでしょう。枯れ葉が落ち、冷たい風が吹いても心が動かず、人々が年老いて死んでいくのを見ても何も感じることなく、世の中が厳しさを増しているのを見ても忙しさに流されるばかりで、世に対する怒りも、人への慈しみも、自分に対する謙遜もなければ、私たちの心は死んでいるのかもしれません。心が込められたものは、神様に届きます。私たちは、その心を「信仰」と呼ぶべきでしょう。秋の感受性が私たちの心を生かせ、その心が信仰の告白となることを祈ります。

시편 묵상 【너희 마음을 소생케 할지어다】 20241112(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 69:29~3669:29 오직 나는 가난하고 슬프오니 하나님이여 주의 구원으로 나를 높이소서69:30 내가 노래로 하나님의 이름을 찬송하며 감사함으로 하나님을 광대하시다 하리니69:31 이것이 소 곧 뿔과 굽이 있는 황소를 드림보다 여호와를 더욱 기쁘시게 함이 될 것이라69:32 온유한 자가 이를 보고 기뻐하나니 하나님을 찾는 너희들아 너희 마음을 소생케 할지어다69:33 여호와는 궁핍한 자를 들으시며 자기를 인하여 수금된 자를 멸시치…