黙示録 黙想 【悔い改めなかった】 20241204(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
黙示録 9:1~219:1 第五の御使いがラッパを吹いた。すると私は、一つの星が天から地に落ちるのを見た。その星には、底知れぬ所に通じる穴の鍵が与えられた。9:2 それが底知れぬ所に通じる穴を開くと、穴から大きなかまどの煙のような煙が立ち上り、太陽と空はこの穴の煙のために暗くなった。9:3 その煙の中からいなごが地上に出て来た。それらには、地のサソリが持っているような力が与えられた。9:4 そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。9:5 その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。9:6 その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。9:7 いなごたちの姿は、出陣の用意が整った馬に似ていた。頭には金の冠のようなものをかぶり、顔は人間の顔のようであった。9:8 また、女の髪のような毛があり、歯は獅子の歯のようであった。9:9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その羽の音は、馬に引かれた多くの戦車が戦いに急ぐときの音のようであった。9:10 彼らはサソリのような尾と針を持っていて、その尾には、五か月間、人々に害を加える力があった。9:11 いなごたちは、底知れぬ所の使いを王としている。その名はヘブル語でアバドン、ギリシア語でアポリュオンという。9:12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。9:13 第六の御使いがラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から、一つの声が聞こえた。9:14 その声は、ラッパを持っている第六の御使いに言った。「大河ユーフラテスのほとりにつながれている、四人の御使いを解き放て。」9:15 すると、その時、その日、その月、その年のために用意されていた、四人の御使いが解き放たれた。人間の三分の一を殺すためであった。9:16 騎兵の数は二億で、私はその数を耳にした。9:17 私が幻の中で見た馬と、それに乗っている者たちの様子はこうであった。彼らは、燃えるような赤と紫と硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄が出ていた。9:18 これら三つの災害、すなわち、彼らの口から出る火と煙と硫黄によって、人間の三分の一が殺された。9:19 馬の力は口と尾にあって、その尾は蛇に似て頭を持ち、その頭で害を加えるのである。9:20 これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。9:21 また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。 第五のラッパと第六のラッパが吹き鳴らされると、災害の深刻さは一層増します。自然や環境だけでなく、人間の魂と命が損なわれ始めます。第五のラッパが吹き鳴らされると、天から落ちた悪しき存在が底なしの淵の鍵を受け取ります。その淵を開くとイナゴのようなものが出てきて、神様の印を額に受けていない人々を苦しめます。極限の苦痛を受けた人々は、むしろ死を願いますが、死ぬことさえできません。それは神様の保護を受けていない者たちの苦しみです。第六のラッパが吹き鳴らされると、ユーフラテス川に縛られていた四人の天使が解放されます。その四人の天使は人類の3分の1を殺します。 しかし、生き残った人々は依然として災害の理由を理解していません。それでもなお、神様に悔い改めることなく、罪悪から離れようとしません。彼らの罪とは、悪霊や偶像を崇拝すること、殺人、魔術、淫行、盗みだと言われています。彼らは偶像や悪霊を崇拝しても、金や銀、銅などの豪華なものを用いて崇拝していたことでしょう。また、人を殺し盗みを行うにしても、それを司法的に行っていたかもしれません。淫行をしても、それをロマンスだと思っていたことでしょう。自己合理化を繰り返していると、良心は麻痺し、基準は消え去り、ついには怪物となってしまいます。 罪というのは行為の問題だけではなく、自分自身を基準にして判断し、神様との関係を断絶させる根本的な態度、自己中心的な態度のことです。だからこそ、悔い改めないのではなく、悔い改めることができないのです。イザヤ書で神はこう言われました。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな イザヤ6:9、10」 神様の御言葉を黙想せず、自分を弁護することばかりを考える人々が陥る罠です。悔い改めるべきものが何かを知ること、それは神様に守られている人々が受ける恵みです。