黙示録 黙想 【戻れないあの日々】 20241219(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
黙示録 18:9~24 18:9 彼女と淫らなことを行い、ぜいたくをした地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣いて胸を打ちたたく。 18:10 彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。 18:11 また、地の商人たちは彼女のことで泣き悲しむ。彼らの商品を買う者が、もはやだれもいないからである。 18:12 商品とは、金、銀、宝石、真珠、亜麻布、紫布、絹、緋色の布、あらゆる香木、あらゆる象牙細工、高価な木材や青銅や鉄や大理石で造ったあらゆる器具、 18:13 シナモン、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、小麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、それに人のいのちである。 18:14 「おまえの心が欲しがる果物は、おまえから遠ざかり、ぜいたくな物や華やかな物は、すべておまえから消え失せて、もはや決して見出すことはできない。」 18:15 これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみに恐れをなして、遠く離れて立ち、泣き悲しんで言う。 18:16 「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、 18:17 あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。」また、すべての船長、その場所を航海するすべての者たち、水夫たち、海で働く者たちもみな、遠く離れて立ち、 18:18 彼女が焼かれる煙を見て、「これほどの大きな都がほかにあっただろうか」と叫んだ。 18:19 彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫んだ。「わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。海に船を持つ者たちはみな、ここでその繁栄から富を得ていたのに、その都が一瞬にして荒れ果ててしまうとは。」 18:20 「天よ、この都のことで喜べ。聖徒たちも使徒たちも預言者たちも喜べ。神があなたがたのために、この都をさばかれたのだから。」 18:21 また、一人の強い御使いが、大きいひき臼のような石を取り上げ、海に投げ込んで言った。「大きな都バビロンは、このように荒々しく投げ捨てられ、もはや決して見出されることはない。 18:22 竪琴を弾く者たち、歌を歌う者たち、笛を吹く者たち、ラッパを鳴らす者たちの奏でる音が、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。あらゆる技術を持つ職人たちも、おまえのうちで、もはや決して見出されることはない。石臼の音も、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。 18:23 ともしびの光も、おまえのうちで、もはや決して輝くことはない。花婿と花嫁の声も、おまえのうちで、もはや決して聞かれることはない。というのは、おまえの商人たちが地上で権力を握り、おまえの魔術によってすべての国々の民が惑わされ、 18:24 この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。」 バビロンと共に淫行にふけり、贅沢な生活を送っていた世の王たちは、その都市から立ち上る煙を遠くから見つめ、悲しみ、嘆きます。しかし彼らの悲しみは、バビロンを助けたいという思いからではなく、ただ自分たちの安全や安泰が脅かされることへの不安から来るものです。バビロンを通して富を得ていた商人たちも、もはや商品を売ることができなくなった現実に涙します。王たち、商人たち、そして貿易業者たちはバビロンの崩壊によって自らの富が途絶えたことを嘆きますが、その悲しみの本質は自らの利益を失ったことだけにあります。貪欲によって結ばれた関係の結末は、結局、自己中心的な裏切りへと行き着くのです。 しかし、天ではバビロンの滅亡を喜び、神に栄光を帰します。それは神の公正な裁きが悪を終わらせ、正義を打ち立てるからです。正義は、不義によって覆い隠された真実を明らかにするために存在します。不義と堕落に満ちた権力が崩れ去った場所にこそ、政治的、経済的、そして社会的に尊厳ある人間の権利が守られるようになるのです。 強い御使いが大きな臼のような石を取り上げ、海に投げ込む姿は、バビロンの滅亡がもはや取り返しのつかないものであることを象徴しています。そこでは、もう二度と音楽の響き、働く人々の音、灯りの光、そして花婿と花嫁の喜びの声が聞こえることはありません。この視覚的、聴覚的なイメージは、どこか懐かしさや寂しさを感じさせます。もし貪欲に支配されず、日常の価値を愛しながら生きていたならば、これらの日常の要素はすべて美しいものだったはずです。 バビロン、すなわちこの地上の生は、私たちに与えられたたった一度の機会です。霊的に生きるということは、神秘的で非現実的な何かを追い求める生き方ではありません。それは、人間らしく生き、共に生きる市民としての責任を果たし、神を認め、聖徒としての姿勢を守ることです。日常と共同体の中で信仰を実践し、神と共に歩むことこそが、真の霊的な生き方なのです。