黙示録 黙想 【数々の書物といのちの書】 20241226(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
黙示録 20:11~15 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。 20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。 最終的な裁きの中でも、白い御座の裁きについてです。白い御座の上に神が座っておられ、地と天は神の御前から消え去ります。恐ろしく感じるかもしれませんが、不思議なことではありません。世界を存在させた方によって、世界が終わりを迎えるのは当然のことです。この裁きは、神の完全な聖さと正義を表しています。人間が罪を認識し、それを消し去ろうとしても、その消しゴムにも罪が染み付いており、完全に清めることはできません。神が不条理で満ちた世界を終わらせる日、すべての行いは神の御前で裁きを受けることになるのです。 死んだ者の「大きさ」や「小ささ」が語られているのは、生きていた時の地位や影響力を指しているのでしょう。しかし、その大きさに関係なく、すべての人が平等に裁きを受けます。世の中で大きな存在として生きた者も、小さな存在として生きた者も、死を通過したとき、その大小が何の意味も持たないことを既に知ることになります。それぞれの行いに応じて、書物に記された通りに裁きを受けます。そして、その横にはもう一冊の書物、いのちの書があります。いのちの書に名前が記されている者は、罪に定められることはありません。行いの書に自分の罪が記されないように慎んで生きるべきです。しかし、いのちの書に自分の名前が記されるためには、必死になるべきです。行いの書は人間の行いによって裁きを行い、いのちの書はイエス・キリストの十字架によって救いを示します。 死とよみも、その中にいる死者を吐き出し、最終的に死と火の池も火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。第一の死とは、アダム以降、罪の報酬が死となった人間の状態です。すべての人間は第一の死を経験しますが、いのちの書に名前が記されている者は第二の死を免れます。しかし、いのちの書に名前が記されていない者は火の池に投げ込まれるのです。世間では人は死後に名前を残すと言いますが、この世が死者の名前を記憶するのは、利用価値がある時だけです。死ねば忘れ去られます。欲望や執着によって名前を残そうとするのではなく、いのちの書にイエス・キリストの血で書かれた自分の名前、必ず残さなければなりません。