マタイによる福音書 黙想 【らくだは飲み込む盲人】 20260316(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 23:13~24 23:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。 23:14 ※異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕 23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。 23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』 23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。 23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』 23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。 23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。 23:21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。 23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。 23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。 23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。 イエス様は、パリサイ人と律法学者たちを通して、宗教がどのように本質を失い、どのように歪められていくのかを、一節一節、まるで憤りをもって告発するかのように語られた。導くべき人々が、かえって人々の信仰の道を塞いでしまっている。宗教体制を拡張するために人の人格を道具として用い、教権のために人々を動員する。信仰の自由と解放はなく、誓いの規定によって縛り上げる宗教的な技術で人々を支配する。何を守るべきか、何を求めるときの条件なのかという問題は呪術のように堕落し、神殿よりも金を重んじ、祭壇よりも供え物を大きなものと見なすようになっていた。 彼らが規定に厳格であった理由は、信仰が絶対であったからではない。それが統制の手段になったからである。そして統制の目的は金である。金が集まれば権力になり、またその順序が逆になることもある。信仰の秩序、正義、愛と仕え合いは、その金の下に押しやられてしまう。だからこそイエス様は彼らに向かって、「ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」と言われた。腹よりもへそが大きくなるような、滑稽な本末転倒である。人が集まるところではどこでも起こり得ることではあるが、宗教の世界ではその害はさらに深刻である。実際、彼らは形式そのものに縛られていたのではない。むしろ利益のため、人々を動員し、搾取するために、その形式や技術を用いていただけなのである。形式そのものが悪いのではない。その形式を動かしている動機が悪いのである。 したがって、これは単にパリサイ人たちの偽善を指摘しているのではない。イエス様は宗教が堕落していく構造そのものを語っておられるのである。信仰が神様との関係から出発しない、あるいはその関係を失ってしまうとき、宗教は霊的にも社会的にもすぐに逸脱してしまう。最初は小さな偽善や過ちのように見えるかもしれない。しかしそれはやがて日常となり、現実となる。宗教の技術者たちは、人と金を動員することに没頭し、そのために規定と形式を増やし、やがてより強固な組織と支配体制を築いていく。今日の黙想の語調が強く聞こえるのは、イエス様の語調を学んだからであり、その語調を学ばざるを得ないのは、当時も今も同じことが繰り返されているからである。 よく異端やカルトに気をつけなければならないと言われる。しかし、どの集団に属しているかは本質的な問題ではない。重要なのは動機を見分けることである。羊の皮をかぶった狼は外にだけいるのではなく、家の中にもいる。人々は、自分が生きているこの時代の教会を指さして批判する。もし自分をクリスチャンだと自負するなら、自分の時代に与えられている教会の責任から自由でいることはできない。イエス様はご自身の時代にこれほど強く語られたが、私たちの時代においてもなお、非難と罵声を一身に受けておられる。それはイエス様のせいでもなく、イエス様を信じない人々のせいでもない。信じていると言う人々、とりわけ声の大きい人々のせいである。導きもしないし、導くこともできないのに、腕章をつけて自ら指導者を名乗る人々のせいである。 代議民主政治では、国民が政治家に権力を委任する。そしてその権力が危険なものになり得ることを知っているからこそ、憲法や制度という装置を設けて互いに牽制させる。委任された権力であるからこそ、統制の装置が存在するのである。しかし教会の絶対的な権威は神様に属しており、人に委ねられている権威は支配する力ではなく、仕える責任としての権威である。政治権力は制度によって抑制されるが、宗教権力は神様の名によって簡単に正当化されてしまう。そのため、委任されてもいない教権を自ら作り出し、それを享受し、既得権として行使することが起こるのである。人々はその被害者でありながら、むしろ忠実な盾となって宗教権力を守る。信仰において欺かれる者の罪の重さも決して軽くはない。不法を行う者と、それを黙認する者は共に責任を負うことになるだろう。










