マタイによる福音書 黙想 【解釈の上に落ちた種】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 13:1~17 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。 13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。 13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。 13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。 13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。 13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。 13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。 種まきのたとえは、同じ種が異なる土に落ち、異なる結果を生む物語である。道ばたに落ちた種は消えてしまい、石地に落ちた種はしばらく芽を出すがやがて枯れ、いばらの中に落ちた種は育つように見えても実を結ばない。しかし、良い地に落ちた種は実を結ぶ。このたとえでは、種は神様の御言葉であり、土はそれを聞き受け入れる人の状態である。御言葉は同じでも、結果は異なる。問題は種ではなく、土、すなわちそれを聞く人の側にある。 それぞれの土がどのように違っていたかを詳しく説明する必要はないだろう。今日注目したいのは、このたとえを聞いた弟子たちが「なぜたとえでお語りになるのですか」と尋ねたことと、それに対するイエス様の答えである。これは種まきのたとえが終わり、教え方の話題に切り替わったのではない。土の状態によって種の結果が変わるように、聞く人の状態によってたとえの意味も変わるからである。種まきのたとえこそ、なぜ“たとえ”という方法が必要なのかを証明している。 神様の国は公開された秘密である。隠されてはいないが、すべての人が自動的に理解するものでもない。すべての人に同じ方法で与えられる情報ではなく、聞く態度と状態によって現れたり隠れたりする。見る者は見、聞く者は聞くが、見ようとしない者は見えず、聞こうとしない者は聞けない。だからこそ、弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、種まきのたとえの解説でもあるのである。 イエス様は整理された教理や完成された結論を注入しようとはなさらなかった。物語を通して、聞く者が自ら解釈することを望まれた。説明できなかったからたとえで語られたのではなく、解釈の余地を残されたのである。聞く人は自分の人生と信仰の責任をもってそれを解釈し、応答しなければならない。何も考えず、誰かの解説だけに頼るなら、そのたとえは結ばれたまま解かれない。同じ御言葉を聞いても、何も見えない人もいれば、その中に神様の御心と自分の人生との関係を読み取る人もいる。 神様の御言葉であっても、それが耳に入った瞬間に自動的に意味になるわけではない。それぞれの条件と経験を通して解釈されるとき、はじめて生きて動き始める。ドイツの哲学者ガダマーは『真理と方法』で、意味はテキストの中に固定されているのではなく、読者との出会いの中で生まれると語った。テキストはそれ自体で完結して語るのではない。テキストは問いを投げかけるだけであり、解釈者がそれに応答するときに意味が生まれる。種まきのたとえも同じである。それはイエス様の完成された説明ではなく、それを読む者が解釈し、応答するときに意味が起こる出来事である。これは御言葉が可変的だという意味ではない。イエス様が各人に解釈の過程を求めておられるからこそ、たとえで語られたのである。 だから種まきのたとえは、御言葉をどれほど多く聞いたかを問うているのではない。その御言葉を解釈する人間として生きているかを問うているのである。良い地とは、情報を正確に理解する人のことではない。御言葉を自分の人生の中に持ち込み、解釈し、自分の物語として語り直し、待ち、葛藤し、耐え抜く人のことである。種はそのときに芽を出す。信仰とは正解を所有することではなく、解釈の責任を引き受けることである。

마태복음 묵상 【해석 위에 떨어진 씨】 20260212(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 13:1~17 13:1 그 날에 예수께서 집에서 나가사 바닷가에 앉으시매 13:2 큰 무리가 그에게로 모여 들거늘 예수께서 배에 올라가 앉으시고 온 무리는 해변에 섰더니 13:3 예수께서 비유로 여러가지를 저희에게 말씀하여 가라사대 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서 13:4 뿌릴쌔 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고 13:5 더러는 흙이 얇은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧…

マタイによる福音書 黙想 【私の所属】 20260211(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:38~50 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。 12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、 12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。 12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。 12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。 12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。 12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 本文には、三つの出来事が語られているように見える。第一に、律法学者とファリサイ人たちがイエス様にさらなるしるしを求めたことに対し、イエス様がヨナのしるし以外には与えられないと答えられた場面である。第二に、悪霊が出て行った後、その空いたところを神様のもので満たさなければ、以前よりも悪い状態になるという警告である。第三に、イエス様の母と兄弟たちが訪ねて来たとき、血縁の家族ではなく、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られた場面である。 一見すると別々の話のようだが、これら三つの出来事は共通して「どこに属しているのか」という所属の問題を語っている。マルコはこの共通点を意識して本文を編集したのだろう。しるしを求める人々は、しるしがもっと明確に現れたなら信じてもよいと言う。しかし、聖書的にも、歴史的にも、また経験的にも、確認が信仰になった例は一度もない。今後もないだろう。確認できないから信仰なのであり、確認された瞬間、それはすでに信仰ではなくなる。奇跡を見たり体験したりすること自体が信仰になるわけではない。人は確認し、量り、判断しようとするが、その所属はすでに神様の内にはない。 続く空になった家のたとえは、信仰において「所属のない中立」というものが存在しないことを語っている。信じるか、信じないかであり、いわゆる合理的な信仰というものは存在しない。中立であること自体が、すでに神様の所属ではない。悪霊の支配は断ち切られたが、その内側を神様で満たさなければ、かえってより危険な状態になるという警告は、神様への所属を曖昧にすればするほど、神様ではないものへの所属が明確になっていくという意味である。最後にイエス様は、血縁を超えて、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られる。神様への所属は、どのような所属よりも優先される。 自分の所属を語らず、隠して生きる人々は、何をそれほど恐れているのだろうか。何がそんなに恥ずかしいのだろうか。本文が求めている所属は、証明書として発行できるものではない。教会籍謄本や洗礼証明書でも示すことはできない。語る言葉と、取る行動と、選び取る生き方、その現実によってのみ示される所属である。

마태복음 묵상 【내가 속한 곳】 20260211(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:38~50 12:38 그 때에 서기관과 바리새인 중 몇 사람이 말하되 선생님이여 우리에게 표적 보여주시기를  원하나이다 마12:39 예수께서 대답하여 가라사대 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 선지자 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없느니라 마12:40 요나가 밤낮 사흘을 큰 물고기 뱃속에 있었던것같이 인자도 밤낮 사흘을 땅 속에 있으리라 마12:41 심판 때에 니느웨 사람들이 일어나 이 세대 사람을…

マタイによる福音書 黙想 【御霊に対する冒瀆】 20260210(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:22–37 12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。 12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」 12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」 12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。 12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。 12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。 12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。 12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。 12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。 12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。 12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。 12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。 12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」 悪霊に取りつかれ、目が見えず口もきけなかった人をイエス様が癒やされると、パリサイ人たちはその力をバアル・ゼブルの力を借りたものだと非難した。人の内にいた悪霊が追い出されたにもかかわらず、その出来事を悪霊の力によるものだと説明しようとする論理には説得力がない。悪霊が悪霊を追い出したという主張は、論理的にも成立しない。それは事実を説明しようとする試みではなく、すでに自分の内に定められた結論を守るための、痛々しいほどのこじつけにすぎない。 このような歪みは、私たちの周囲にありふれている。特別な狂気の姿をしているわけではない。社会的地位や宗教的権威を持つ人々であっても、事実を事実として見ず、真実を真実として語らないことがある。彼らは自分の利益や立場に合うものだけを事実として認める。自らの権威や既得権が揺らがないように、事実を否定し、無理な理屈を押し通す。その論理の中には、もはや真実も事実も残っていない。これは認知の歪みである。そこに残るのは、どんな手段を使ってでも自分の立場を守ろうとする頑なさだけである。 先にイエス様が癒やされた悪霊憑きの人の症状は、見えないこと、そして語れないことであった。つまり、その悪霊は人をして真実を見えなくし、事実を語れなくする状態を象徴しているとも言える。その意味で、実際に見えなくされ、語れなくされているのはパリサイ人たちである。彼らは肉体的に目が見えず、口がきけなかった人よりも、さらに深刻なかたちで悪霊に支配されている。目の前に明白な事実が示されているにもかかわらず、ためらいなく歪んだ解釈を下しているからである。 イエス様は、目が見えず語れなかった人に対しては、憐れみをもって癒やしと回復を与えられた。しかし、心を悪意と意図をもって歪める人々の前では、常に例外なく厳しい態度を取られる。悪霊が悪霊を追い出すことはない以上、悪霊が出て行ったのは聖霊の働きによるものである。にもかかわらず、その出来事を最後まで否定し、言い争いを続ける態度は、聖霊の働きを意図的に妨げる行為となる。したがって、イエス様が警告された「聖霊を冒瀆する罪」とは、「自分の利益と自分の頑なさのために、真実を否定し続ける態度」である。それこそが、最も執拗で恐ろしい悪霊の正体である。

마태복음 묵상 【성령을 훼방하는 죄】 20260210(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:22–37 12:22 그 때에 귀신들려 눈 멀고 벙어리 된 자를 데리고 왔거늘 예수께서 고쳐 주시매 그 벙어리가 말하며 보게 된지라 12:23 무리가 다 놀라 가로되 이는 다윗의 자손이 아니냐 하니 12:24 바리새인들은 듣고 가로되 이가 귀신의 왕 바알세불을 힘입지 않고는 귀신을 쫓아 내지 못하느니라 하거늘 12:25 예수께서 저희 생각을 아시고 가라사대 스스로 분쟁하는 나라마다…

マタイによる福音書 黙想 【神のための人間の律法、人のための神の安息】 20260209(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:1–21 12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。 12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。 12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。 12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」 12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。 12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」 12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。 12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。 12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。 12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」 イエス様は安息日をめぐる論争を通して、形骸化し惰性に陥った律法を表に引き出し、それが本来何のために存在しているのかという根本的な問いを示される。問題は律法を守っているかどうかではなく、律法が何を目的として与えられたのかという点にある。イエス様はユダヤの伝統の内側に立ちながら、議論の相手が否定できない形で旧約聖書を根拠として示される。ダビデの事例、そして「わたしはいけにえを喜ばず、慈しみを喜ぶ」というホセアの言葉は、聞く者に反論の余地を残さない。 宗教は本来、目的である命を守るための手段として制度を生み出す。しかし、その制度が目的であるはずの命を抑圧してしまうことがある。制度化された宗教の中では、主と客の関係が容易に逆転する。安息のために規則を設けることは可能である。しかし、規則を守ること自体が安息になることはない。世の中で疲弊した命が、自らの本来の場所を取り戻すために、時間と空間の中に身を置くこと、それが安息の本質である。 人は常に緊張の中に置かれている。規則を正しく守っているか、非難されるようなことをしていないかを、絶えず自己点検し続ける。模範的に生きていると見なされる人よりも、むしろ「十分にできていない」と感じている人のほうが、その強迫は強くなる。安息日を守るという行為は、いつの間にか安息ではなく規則となり、自由ではなく義務となっていく。それは混乱を生む。しかし、その混乱こそが、イエス様が意図的に引き起こされるものである。 真に安息している人とは、すべてを完璧に守り抜いた人ではない。安息の本質、すなわち神の憐れみの内に身を置いている人である。神が「いけにえではなく、憐れみを求める」と語られた言葉は、安息の核心を示している。規則や資格の内側で、人は安息することはできない。憐れみの内においてのみ、人は安息することができる。人間がその憐れみを再び規則へと変えてしまったにすぎない。安息日と安息が重なり、主の日と主ご自身が一致するならば、それは本来あるべき姿である。

마태복음 묵상 【하나님을 위한 인간의 율법, 사람을 위한 하나님의 안식】 20260209(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:1–21 12:1 그 때에 예수께서 안식일에 밀밭사이로 가실쌔 제자들이 시장하여 이삭을 잘라 먹으니 12:2 바리새인들이 보고 예수께 고하되 보시오 당신의 제자들이 안식일에 하지 못할 일을 하나이다 12:3 예수께서 가라사대 다윗이 자기와 그 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하였느냐 12:4 그가 하나님의 전에 들어가서 제사장 외에는 자기나 그 함께한 자들이 먹지 못하는 진설병을…

マタイによる福音書 黙想 【召されたところで】 20260205(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 10:16~33 10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。 10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。 10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。 10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。 10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。 10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。 10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。 10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。 10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。 10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。 10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。 10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。 10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。 10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。 10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。 イエス様は弟子たちを遣わされるとき、「羊を狼の中に送るようなものだ」と言われました。これは、使命がそのまま危険を取り除いてくれるという約束ではないようです。しかし、それを乗り越えるための道はあります。それが、「蛇のように賢く、鳩のように純粋であれ」ということです。蛇のように賢いとは、ずる賢くなるという意味ではありません。現実を読み取る感覚を持つということです。この世が善意だけで動いていると思うのは、あまりにも素朴な幻想です。だからこそ、鳩のように純粋であれというのも、単なる無邪気さを意味しているのではありません。この世のやり方に染まるな、ということです。蛇が現実認識だとすれば、鳩は自分のアイデンティティです。 弟子たちは、イエス様が遣わされた道の途中で、宗教や社会が作り出した権力や秩序とぶつかり、近しい家族とも感情的に衝突することになるでしょう。信仰は、心や考えの中だけに留まることはできません。信仰が潜伏しているうちは、誰も困らせません。しかし、信仰を公に告白すると、必ず葛藤が生まれます。だからこそ、イエス様は「人の前でわたしを認めるなら」と語られたのです。閉ざされた信仰は、歪められやすいものです。信仰とは沈黙することではなく、歪んだものを握りしめて生きる観念でもありません。信仰は生きている命です。告白し、認め、公に表して、外へ引き出し、呼吸させなければならないのです。 心から信じられない人は、いつの時代にもいます。信じる人より、信じない人のほうが常に多いものです。問題は、信じながらそれを隠して生きている人たちです。「聞かれなかったから答えなかった」という言葉は、結局、恥ずかしくて言えなかったということなのです。信仰のゆえに、世や家族と一度も衝突したことのない人こそ、最も深刻な問題です。恥ずかしいと思うものを信じるはずがなく、自信のないものを信じるはずもありません。それは本当に信仰だったのでしょうか。神様への信頼と、この世に立ち向かう勇気は、同じ意味です。人が神様を恥じるなら、神様もその人を恥じる、と言われました。遣わされた道の上で、信仰のゆえに憎まれ、無視され、損をするとしても、神の人が支えられているのは、信仰の告白と、それを知っておられる神様との関係があるからです。

마태복음 묵상 【부르신 곳에서】 20260205(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 10:16~33 10:16 보라 내가 너희를 보냄이 양을 이리 가운데 보냄과 같도다 그러므로 너희는 뱀 같이 지혜롭고 비둘기 같이 순결하라 10:17 사람들을 삼가라 저희가 너희를 공회에 넘겨 주겠고 저희 회당에서 채찍질하리라 10:18 또 너희가 나를 인하여 총독들과 임금들 앞에 끌려 가리니 이는 저희와 이방인들에게 증거가 되게 하려 하심이라 10:19 너희를 넘겨줄 때에 어떻게 또는 무엇을…