마태복음 묵상 【말씀으로만 하옵소서】 202601229(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 8:1~13 8:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라 8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘 8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라 8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려…

マタイによる福音書 黙想 【狭い門】 20260128(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:13~29 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 この本文には、異邦人も、無神論者も、露骨に悪い人間も登場しない。イエスが語っておられる対象は、最初から最後まで、宗教に慣れ親しんだ人々である。道を歩く人も、語る人も、預言する人も、主の名を呼ぶ人も、すべて宗教的な言語と行為に親しんでいる人々の話である。したがってこれは、信仰の外にいる人々への警告ではなく、宗教のただ中にいる人々に向けて、その宗教的言語が生み出してきた自己欺瞞を暴く言葉である。 広い道とは、宗教と区別された「世の道」を指しているのではない。むしろ広い道とは、宗教がうまく機能している道のことである。すでに整えられ、慣れ親しんでおり、説明を必要とせず、多くの人々が疑いなく共に歩いている道である。あえて決断しなくてもよく、今の自分の生活を解体しなくてもよい。既存の宗教というシステムの上に乗りさえすれば、自然に流れていくことができる。信仰と献身の形をしていながら、自分を手放さなくてもよいがゆえに、その道は広いのである。 それに対して、狭い道は宗教的な難易度が高いから狭いのではない。自分を捨てなければ通ることができないがゆえに狭いのである。この道を妨げているのは道幅ではなく、自分自身である。自分の体格や荷物をそのまま抱えたままでは進むことができない。狭い道を行こうとする者は、自分を削り、捨てながら進まなければならない。だからこそ狭い道なのである。 イエスは偽預言者を警告されるが、それを見分ける基準が、いわゆる正統教理であるとは言われない。マタイによる福音書7章で語られている、「裁くな」「罪に定めるな」「自分の目の梁を先に見よ」「人からしてもらいたいと思うことを人にせよ」という流れの中で語られている言葉である。実とは、この流れから切り離された独立した概念ではない。偽預言者と真の預言者の決定的な違いは、教えている内容の正統性や、所属教団、出身神学校ではなく、人を集めて教えようとするその動機にある。健全な共同体であれば、その実を見て分別することができるはずである。 「主よ、主よ」と神を呼ぶことさえ、イエスは指摘される。神を呼ぶこと、その回数や声の大きさは、神の前に立つ真実さや深さと必ずしも比例しない。神への呼びかけが、神の御心に自分自身を調律する場へとつながらないとき、その言葉は親密さではなく仮面となる。そのとき、イエスの応答は「わたしはあなたがたを知らない」である。これは、うまくできたかどうかの問題ではなく、知っているか知らないかの問題である。倫理の問題ではなく、関係の問題である。関係がないところに、倫理や熱心さが築かれることはない。 預言も、力も、奇跡も、それらはすべて現象であった。それが偽りであったからではなく、それらのゆえに、父の御心を問わなくなったからである。神はすでに啓示しておられ、今も啓示しておられるにもかかわらず、人間は絶えず別の啓示を探し求める。それを神そのものだと思い込み、従っていく。御言葉の前に真剣ではなく、見えるもの、感じられるものに神を付与する。それは耐えがたいほど軽い存在のあり方である。 最後のたとえにおいて、倒れた家は、神の言葉がなかった家ではない。確かに御言葉を聞き、理解し、知っていた家である。しかし、神の言葉はその人の人生の構造にはなっていなかった。御言葉はあったが、それを材料として人生を築いてはいなかった。雨が降り、洪水が起こり、風が吹いたとき、その実が明らかになる。実は、根と幹と枝が一つの完全な構造をなしているときにのみ結ばれる。 皮肉なことに、神がいなくても宗教は大きく、華やかで、よく回っていく。それを基準にしてしまえば、人は生ける屍のようになる。自分を削り、周囲に目を配り、緊張をもって狭い道を歩き、自分の動機を吟味し、宗教的な形態から必死に逃れなければならない。見えるものよりも、見えないところで神を見いださなければならない。そうして与えられた時間の中で、「信仰」というものを築き上げていくのである。

마태복음 묵상 【좁은 문】 20260128(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:13~29 7:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고 7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라 7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐 7:17 이와 같이 좋은 나무마다…

マタイによる福音書 黙想 【不安が流れていく先】 20260127(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:1~12 7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。 7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。 7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。 7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。 7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。 7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。 7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。 昨日の本文でイエスは、「明日のことを思い煩うな」と語り、生存の圧力の中で神を父として信頼する道を教えられた。そして続く今日の御言葉は、「裁くな」という言葉から始まる。しかし主題が変わったのではない。思い煩いの話が終わり、裁きの話が新しく始まったのではない。思い煩いは心の中だけにとどまらず、言葉や態度や行動となって現れる。自分の人生をコントロールできないとき、人は他人をコントロールしようとし、自信を失って不安になるとき、誰かを「間違っている」と責め立てて自分の正当性を確保しようとする。 だからこそ「思い煩うな」という禁止から「裁くな」という禁止へと続いていくのである。どちらも関係という意味で破壊的だ。思い煩いが神を信頼できない仕方だとすれば、裁きは人を憎む仕方である。少なくとも、ここでイエスが禁じておられる裁きには、そのような感情が混ざっている。それは関係の中で自然に生まれる葛藤の感情というより、自分の内にある不安や欠乏が外へ漏れ出す心理的な防衛機制に近い。だからイエスは、「まず自分の目から梁を取り除き、その後ではっきり見て兄弟の目からちりを取り除きなさい」と言われたのだ。結局イエスは、あなたの内から始まった不安を他者へ流し込むような非難をやめよ、と語っておられるのである。 したがって、正当な批判意識まで捨てよという意味ではない。批判意識のない社会や宗教は自浄能力を失い、堕落していく。問題だらけなのに「裁くな」という御言葉を文字通りにだけ握りしめてしまえば、結局は墓の上に漆喰を塗るだけの宗教になってしまう。思い煩いを手放すとは思考を止めることではなく、主人を入れ替えることだったように、裁きをやめるとは判断力を捨てることではなく、判断の目的を変えることだ。相手を打ち倒す根拠のない非難ではなく、共同体を生かすための批判意識である。批判意識が消える瞬間、共同体も制度も教会も、一人の魂も病んでいることを感じ取る感覚さえ失ってしまうだろう。 だからこそ6節の「聖なるものを犬に与えるな。あなたがたの真珠を豚の前に投げるな」という御言葉も、次の主題が始まるのではなく、前の御言葉を受け継いでいる。裁かないことが無条件に善なのではない。断罪を手放すからといって、分別まで手放してはならない。イエスはまさにその無分別を、「犬と豚」という荒々しい比喩で厳しく警告される。聖なるものは雑に扱われてよいものではなく、真珠はどこにでも投げてよいものではない。ゆえにイエスが禁じておられるのは「分別」ではなく「断罪」である。同時に、信仰や愛という名のもとで無分別になることも禁じておられるのだ。 イエスはさらに「求めなさい。探しなさい。たたきなさい…」と言われる。これもまた続いている内容である。私たちはしばしばこの箇所を切り離し、「祈れば望むものが手に入る」という約束のように引用する。しかし文脈に沿って読むなら、イエスの焦点は欲望の成就ではなく、分別の知恵である。なぜなら7章は「断罪するな」(1~5節)で始まり、「だからといって無分別になるな」(6節)へと続いているからだ。断罪と無分別の間、その危うい均衡の上で、イエスは「求めよ」と言われる。つまり分別の知恵と判断力を求めよ、というのである。 イエスが用いられた接続詞には、文脈の構造を伝える重要な意味がある。「求め、たたけ」という7節の言葉も突然飛び出したものではなく、先に語られた「裁くな、しかし真珠を豚に投げるな」という緊張の上に置かれた御言葉である。断罪すれば人を傷つけ、無分別になれば聖なるものが踏みにじられる。だからその間で道を見失わないために、神に求めなければならない。語るべきか黙るべきか、健全な批判なのか聖なる沈黙なのか――分別のために求め、探し、たたくのである。 この解釈が正しいことを示す証拠が、12節の結論である。「だから、あなたがたが人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」もし7節が金や名誉を得る祈りの公式であるなら、結論に「だから」という接続詞が来るはずもなく、内容が黄金律で締めくくられる理由もない。イエスは祈りの答えを「欲望の充足」で終わらせず、「他者を扱う仕方の変化」で終わらせる。つまりイエスが求めよと言われたのは、共同体と関係のための分別の知恵を求めよということであり、その知恵が最終的に尊重と回復を生み出すということだ。だからイエスは最後に釘を刺すように言われる。「これが律法であり預言者である。」これこそ聖書全体が語る信仰の核心であり、神の国の民が現実の中で生きるべき道なのである。

마태복음 묵상 【염려가 흘러가는 곳】 20260127(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:1~12 7:1 비판을 받지 아니하려거든 비판하지 말라 7:2 너희의 비판하는 그 비판으로 너희가 비판을 받을 것이요 너희의 헤아리는 그 헤아림으로  너희가 헤아림을 받을 것이니라 7:3 어찌하여 형제의 눈속에 있는 티는 보고 네 눈속에 있는 들보는 깨닫지 못하느냐 7:4 보라 네 눈속에 들보가 있는데 어찌하여 형제에게 말하기를 나로 네 눈속에 있는 티를 빼게하라 하겠느냐 7:5…

マタイによる福音書 黙想 【逆説的に…】 20260126(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 6:25~34 6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。 6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。 6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。 6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。 6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。 6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。 今日の本文は、直前に語られた「宝をどこに積むのか」「神と富とを同時に仕えることはできない」という御言葉に続いて出てくる。重要なキーワードは「思い煩い」だろう。しかしイエスは、思い煩いを性格的な繊細さとして扱われない。誰を主人として仕えているのか、その結果として必然的に生まれるものとして扱われる。神が主人でなければ富が主人になる。富が主人になれば、人の人生は食べて生きる問題に侵食され、ついには思い煩いが避けられない生活様式になってしまう。 けれども、人間にも言いたいことがある。私たちは、鳥やユリを用いた詩的な表現よりも、はるかに具体的で露骨な問題を語ることができる。底をついた残高、関係の危機、病の恐怖――思い煩わずにはいられない現実の中で、私たちはまるで追い詰められたネズミのように必死にもがく。だからこそ、口に出せなかった言葉が胸の奥で膨らむ。「イエスの御言葉が良いことは分かっています。でも正直に生きてみると、あまりにも非現実的です!」この感情に共感することには説得力がある。しかし、だからといって思い煩う生き方まで説得力があるわけではない。その罠から抜け出さなければならない。 食べること、飲むこと、着ることは、実際に私たちの一日を左右する力をもっている。重要な霊的原理は、重要な現実を正面から扱わざるを得ない。だからイエスは、私たちの最も重要な現実である「生存の圧力」に真正面から触れられる。これもまた逆説である。イエスは最も現実的な問題を取り上げながら、それを最も非現実的に見える方法――「思い煩うな」という解決で扱われるように見える。けれども実は、現実を扱う人間のやり方こそが最も非現実的であり、それが「思い煩い」だと語っておられるのである。 思い煩いはみっともなく見えるが、たいていはまじめで勤勉だ。これも逆説的だ。私たちは「備え」という言葉で不安を合理化する。しかし思い煩いとは、苦しみを避けるための備えではなく、苦しみを前払いしてしまうことに過ぎない。だからイエスは問われる。「あなたがたのうち誰が、思い煩ったからといって背丈を一尺でも伸ばすことができるだろうか。」ここで「一尺」と訳された一キュビトは約45センチである。背が低いことを心配して45センチ伸びるなら、私もたくさん心配しただろう。思い煩いは熱心に生きる技術のように見えるが、実際には人生の幅を狭めてしまう無効な精神労働なのかもしれない。 「まず神の国と神の義を求めなさい。」ここで「まず」とは時間の順番ではなく優先順位である。国を先に求めるとは「お金を無視しなさい」という意味ではなく、「お金が主人にならないようにしなさい」という意味だ。イエスは私たちの必要を否定されない。ただ、その必要が神になってしまうことを止められる。必要は現実だが、それが神になった瞬間、人は果てしなく不安になる。「そうすれば、これらのものはすべて与えられる」という約束もまた逆説である。それは報いの公式ではなく、関係に対する信頼である。神は「欲しいもの」をすべて与えるとは言われず、「必要なもの」をご存じだと言われた。 「一日の苦労は、その日だけで十分である。」一日に担うべき苦しみがあるという事実も、主は認めておられる。人生は苦しみを避けられない。この前提が違えば、この御言葉の解釈も変わらざるを得ない。それでも主は、その苦しみが一日を越えてはならないように境界を引かれる。だとすれば、信仰とは苦しみを消す力ではなく、苦しみの範囲を限定する力だと言うべきではないだろうか。今日の十字架は今日負えばよく、明日の十字架は明日の恵みによって負えばよい。逆説的に、私たちが今日を十分に生きられない理由は、明日がいつも今日を侵食してくるからである。 現実は重く、明日は恐ろしい。しかし今日と明日は神より大きくない。必要は現実だが、私の主人の現実はお金ではない。「神の国をまず求めよ」という言葉は、「現実を捨てよ」という意味ではなく、「現実を神の下に置け」という意味である。神の御言葉をより現実的に受け取る方法――それは現実をあまり考えないことではなく、神をより現実として受け取ることだ。これも逆説である。誰であれ、信仰を取り出して実際に用いてみない限り、この御言葉はその人の内で現実にならない。神を最優先に置く瞬間、人は最も現実的な人生を生きるようになるだろう。逆説的に――。

마태복음 묵상 【역설적으로…】 20260126(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 6:25~34 6:25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 목숨이 음식보다 중하지 아니하며 몸이 의복보다 중하지 아니하냐 6:26 공중의 새를 보라 심지도 않고 거두지도 않고 창고에 모아 들이지도 아니하되 너희 천부께서 기르시나니 너희는 이것들보다 귀하지 아니하냐 6:27 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나…

マタイの福音書 黙想【祈りの通りに生きること】20260124(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 6:1-15 6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。 6:2 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。 6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:5 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。 6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 6:7 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。 6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。 6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。 6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。 6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。 6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』 6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。  言葉と行いが一致することは、人間関係においても、また社会的にしても、きわめて重要な美徳とされています。言ったとおりに行い、語ったことを守って生きる人には、自然と信頼が生まれます。その意味で私たちは、自分の言葉と行い、さらに、祈りと行いとを調べてみる必要があります。私たちの祈りもまた、私たちの「言葉」であるからです。    私たちは、どのような内容を祈っているでしょうか。私たちは本当に自分が願い、必要としていること、大切だと考えていることを、神様に自分の言葉としてささげているはずです。そうではなく、考えもせずに習慣的に唱えているだけならば、それは「祈り」とは呼べません。それが同じ言葉をただ繰り返すことであり、別の目的をもつ、偽善のようなものです。    私たちが心から祈ることが実現されることを求めるのであれば、それに伴う行いが求められます。人は本来、本当に求めているもののためなら、どんな手を使っても手に入れようとする存在であるからです。イエス様は祈りについて教えられただけでなく、その祈りをご自身の生き方そのもので示されました。そう考えると、主の祈りは「このように祈りなさい」と教えられた祈りであると同時に、「このように生きなさい」と教えられた生き方そのものでもあるでしょう。    しかし当然のことで、イエス様のように完全ではない私たちが神様にささげる祈りの中には、私たちの力では成し遂げることのできないこと、実現できないこともあります。聖い生き方を求めて祈っているのに、思い通りに生きて行けない自分の姿を見て、落胆することもあるでしょう。また、祈り、実践しようと決意しても、その思いが何度も崩れ、元の自分の生き方に戻ってしまう自分に、悔しさを覚えることもあります。    しかし、今日イエス様がそのような私たちに、祈りと生き方を教えておられること、そしてその教えがどこから始まっているのかに目を向けると、私たちがこれからどのようにして歩んでいくべきか、その糸口を見いだすことができるでしょう。私たちは、この教えが「山上の説教」の一部であることを、忘れてはいけません。    その始まりは、心の貧しい者、悲しむ者など、特定の心の状態や姿で生きている人々に向けて語られます。そしてそこに描かれている姿は、祈り通りに生きることができない、私たち自身の姿とも重なり合います。この姿こそが、私たちが祈り通りに生きるための、最初の一歩なのです。    祈りには、必ずそれに伴う行いが求められます。しかしそれは、自分の努力で成し遂げられるという傲慢さから出ることではありません。心から求めているからこそ行動し、そして結局は失敗してしまう自分の姿の中で、「自分にはできない」という謙遜な姿になるためのことです。そのような私たちの姿を通して、神様は、私たちに「祈りの通りに生きること」を成し遂げてくださいます。 https://youtu.be/QQiLmv4cjC0?si=PxklkWliHSqskPqF

마태복음 묵상【기도하는 대로 사는 삶】20260124(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 6:1-15 6:1 사람에게 보이려고 그들 앞에서 너희 의를 행하지 않도록 주의하라 그리하지 아니하면 하늘에 계신 너희 아버지께 상을 받지 못하느니라 6:2 그러므로 구제할 때에 외식하는 자가 사람에게서 영광을 받으려고 회당과 거리에서 하는 것 같이 너희 앞에 나팔을 불지 말라 진실로 너희에게 이르노니 그들은 자기 상을 이미 받았느니라 6:3 너는 구제할 때에 오른손이 하는 것을…

マタイの福音書 黙想【法の上にある法】20260123(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 5:38-48 5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。 5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。 5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。 5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。 5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。 5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。  律法は、確かに神様の御心を表す神様の法です。ゆえに、その法を守ることのできない者は、その結果を負わなければなりませんでした。そして聖書は、その律法に従って生きることができた者は、誰一人としていなかったと、はっきりと証言しています。それこそが、罪がもたらした現実です。しかし、そのように無秩序化した世界を整えるために、律法の上に立つ「法の上にある法」が与えられました。それが、イエス・キリストを中心とする、信仰と愛の法です。    世の法において、法の上の法とされる憲法には、その法のもとに生きる人々の権利と義務が定められています。同じように、神様の法の上にある法にも、確かな権利と義務が存在します。    神様の愛の法のもとに生きる者には、神の国の民であることを超えて、神様の子どもとされるという権利が与えられています。これは、この世のいかなる権利にもまさる、最も大きな権利です。しかし同時に、神様の子どもとして生きる責任と務めも、確かに伴っています。その権利が大きいがゆえに、与えられる義務もまた、決して簡単なものではありません。    しかし、ここには、この世の法の枠組みでは説明しきれない重要な点があります。それは、この法の中心が、「信仰と愛」にあるということです。たとえるなら、憲法の第二章に国民の権利と義務が記されているとするなら、第一章には、神様の変わることのない、真実な愛が記されているのです。    もし、今日の御言葉が示すこの高い基準を、私たちの力だけで守らなければならないとするなら、それは神様の子どもになりたいと願いながらも、決して手にすることのできない、絵に描いた餅のように感じられるかもしれません。確かに、「第二章」だけを見るなら、そのように思わされるでしょう。しかし、その前に記されている「第一章」の法、神様の愛と恵みを知るとき、私たちはその無力感から解き放たれるのです。    だからといって、神様の子どもとされた私たちが、律法を軽んじてもよいわけではありません。むしろ私たちは、律法が示している一つ一つの教えを、神様の法の上にある法である、イエス・キリストを中心とする信仰と愛と通して照らしながら、守り行うことに心を尽くすべきです。そうするとき、誰ひとり守ることのできなかったその律法を、私たちはこの「法の上にある法」によって、少しずつ守り生きることができる者として変えられていくのです。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=zXcymJkrl9vdPwSq