マタイの福音書 黙想【反転に反転】20260307(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 21:1-11 21:1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。 21:2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。 21:3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」 21:4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。 21:5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」 21:6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 21:7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。 21:8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。 21:9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」 21:10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。 21:11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。  さまざまな文学作品や芸術作品の中には、「反転」の要素があります。また、そのような反転の要素が、その作品のおもしろさをいっそう引き上げる調味料のような役割を果たすこともあります。このような姿は、聖書の中にも多く見いだされています。そして今日の箇所は、まさにこのような反転の要素に満ちている箇所です。    イエス様がエルサレムに入られる直前、弟子たちを遣わして、よく手入れされた立派な馬を連れて来させるのではなく、子ろばを連れて来させたことが、その第一の反転です。また、そのようなろばに乗って進まれるイエス様を見て、人々がまるで王様が通るかのようにもてなしたことも、また反転です。ところが、その方はどのようなお方かと問われたとき、ガリラヤのナザレから出た人だということも、人々にとっては反転でした。しかし、そのような所から出た人が預言者であるということも、またさらに反転だったのです。  このように多くの反転が現れていますが、すでに聖書の内容を知っている私たちには、この箇所に関わるさらに多くの反転が見えてきます。このような姿で入って来られたイエス様が、やがて人々の呪いの言葉の中で十字架にかけられて死なれるということが、反転です。しかし、そのように十字架にかけられて死なれたことこそ、まさにイエス様が成し遂げようとしておられたことであり、十字架の死を通してよみがえられたこともまた、大きな反転です。ところが、その十字架とよみがえりのすべてが神様のご計画であったということもまた、反転です。そして、そのご計画が、絶えず神様に背き続けてきた私たちのためのご計画であったということも、反転です。  しかし、私たちが聖書を読み進めながら気づくようになる、最も大きな反転は、実はこのすべてが反転ではなかった、という反転です。すでに神様は、このすべてのことを初めから備えておられ、そのすべてが神様の御心のとおりになされる、まっすぐな一つの道であった、ということです。  聖書の中で、私たちは多くの反転を見るようになります。聖書を一つの文学作品として見る人たちも、これらの要素を見て、聖書を文学的に非常に優れた作品として認めています。しかし、私たちは少し違う見方で聖書を認めなければなりません。そのすべての反転が神様のご計画の中にあるということ、それは、私たちの人生に起こる多くの反転もまた、神様の導きの中にあるものということです。ですから、神様と、その御言葉である聖書を信じる私たちにとっては、どのような反転も恐れの対象にはなりません。それもまた神様のただ一つの善いご計画の一部にすぎないと、すでに知っているからです。 https://youtu.be/bNQ2CnFGtuU?si=EXdfYv14fcp9Ly73

마태복음 묵상【반전의 반전】20260307(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 21:1-11 21:1 그들이 예루살람에 가까이 가서 감람 산 벳바게에 이르렀을 때에 예수께서 두 제자를 보내시며 21:2 이르시되 너희는 맞은편 마을로 가라 그리하면 곧 매인 나귀와 나귀 새끼가 함께 있는 것을 보리니 풀어 내게로 끌고 오라 21:3 만일 누가 무슨 말을 하거든 주가 쓰시겠다 하라 그리하면 즉시 보내리라 하시니 21:4 이는 선지자를 통하여 하신 말씀을…

マタイの福音書 黙想【世の中を通られるイエス】20260306(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 20:29-34 20:29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。 20:30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。 20:31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。 20:32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」 20:33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」 20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。  イエスが通られるという話しを聞いた目の見えない人たちは、イエスを呼び求め、そのあわれみをいただきたいと願いました。その叫び声があまりにも大きかったのか、イエス様について行っていた群衆は彼らを黙らせようとしました。しかし、彼らが止まることはありませんでした。むしろ、さらに大声で叫び続けました。そして、イエス様は、その大きな叫びに応えてくださいました。    群衆がどのような思いで、イエスを呼び求める目の見えない人たちを黙らせようとしたのかは、詳しくは分かりません。しかし、イエス様が彼らの叫びを聞かれたという確かな事実が残っています。群衆の反応とイエス様の反応が相反していることから、福音書の多くの箇所でそうであるように、今日の箇所に出てくる「群衆」は、少しは否定的なイメージをもっていると見てもよいでしょう。そしたら、イエスがあわれんでくださった目の見えない人たちは、どのような者たちだったのでしょうか。  私たちは、三位一体の神様を「無所不在」の神様、「遍在」の神様であると告白します。どこにでもおられるということです。イエス様は今もこの世のただ中のどこにもおられ、その道を通られます。    そのような世の中には、どのような声が上がっているのでしょうか。自分を高める声、他人を欺く声、争い合う声など、様々な声をイエス様は聞いておられるのかもしれません。しかし、イエス様が応えてくださる声は、ご自分の名を呼ぶ求める声でした。    私たちは、この世の中で、イエス様の御名を叫び求め続けなければなりません。時には、その声を聞くこの世の者たちが、うるさいと、もうやめなさいと、私たちを黙らせようとすることもあるでしょう。しかし私たちは、イエスを呼び求めることをあきらめてはなりません。私たちをあわれんでくださいと、イエス様に絶えず求め続けなければなりません。私たちは、イエスなしには生きていけない者たちであるからです。  イエス様は、私たちのそのような叫び声を聞いてくださいます。イエス様の御名を呼び求める私たちの声に応えてくださいます。そして私たちをあわれみ、イエス様について行くための力と心さを与えてくださるでしょう。 https://youtu.be/Y_v4FDr9KEA?si=e-7hddhhJieDaEas

마태복음 묵상【세상 속을 지나가시는 예수】20260306(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 20:29-34 20:29 그들이 여리고에서 떠나 갈 때에 큰 무리가 예수를 따르더라 20:30 맹인 두 사람이 길 가에 앉았다가 예수께서 지나가신다 함을 듣고 소리 질러 이르되 주여 우리를 불쌍히 여기소서 다윗의 자손이여 하니 20:31 무리가 꾸짖어 잠잠하라 하되 더욱 소리 질러 이르되 주여 우리를 불쌍히 여기소서 다윗의 자손이여 하는지라 20:32 예수께서 머물러 서서 그들을 불러…

マタイによる福音書 黙想 【あなたがたの間で信じたいと思う者は】 20260305(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 20:17~28 20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。 20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、 20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。 20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」 20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。 20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」 20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。 20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」 イエス様はエルサレムへ上って行く途中、これから起こる出来事について語られた。大祭司や律法学者たちはイエス様を殺すことを決め、総督に引き渡し、やがて苦しみと辱めを受けて十字架にかけられることになる。しかし三日後に再びよみがえるという内容であった。けれども弟子たちはその意味を理解することができなかった。 ゼベダイの子たち、すなわちヨハネとヤコブの母がイエス様のもとに来て、一人を右に、もう一人を左に座らせてほしいと願い出る。彼らはイエス様のエルサレム入城を政治的な権力の獲得として理解していたのである。イエス様は十字架の苦しみと受難を語っておられるのに、弟子たちは席次をめぐって争っている。十字架を語りながら、それを利用して地位や利益に執着する人は、今の時代にも決して少なくない。 同じ道を歩きながらも違う夢を見ている弟子たちに、イエス様はご自分が飲まなければならない杯を飲むことができるのか、すなわち十字架を担うことができるのかと問われる。期待に満ちたゼベダイの家族は、どんなことでもできると答える。他の弟子たちはヤコブとヨハネに腹を立てるが、その欲望は彼らと大きく変わらない。弟子たちは十字架の背景として立つには十分な姿を見せている。 イエス様は、世では権力を持つ者が人々を支配するが、神様の国ではそうではないと語られる。世では高くなるために人の上に立とうとするが、神様の国では自ら低くなり、人に仕える者こそ大きいのである。野心を持つ人間にとって、これほど魅力のない道はないだろう。 イエス様がこの地に来られたのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、ご自分のいのちを多くの人の身代金として与えるためであると語られる。キリスト教はこれを信じ、実践し、伝える信仰である。しかし倒錯した宗教は、これとはまったく反対の方向へ走ってしまう。この矛盾から抜け出すことができるのだろうか。

마태복음 묵상 【누구든지 믿으려는 자는】 20260305(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 20:17~28 20:17 예수께서 예루살렘으로 올라가려 하실 때에 열 두 제자를 따로 데리시고 길에서 이르시되 20:18 보라 우리가 예루살렘으로 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘기우매 저희가 죽이기로 결안하고 20:19 이방인들에게 넘겨주어 그를 능욕하며 채찍질하며 십자가에 못 박게 하리니 제 삼일에 살아 나리라 20:20 그 때에 세베대의 아들의 어미가 그 아들들을 데리고 예수께 와서 절하며 무엇을 구하니…

マタイによる福音書 黙想 【後にならないためには】 20260303(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 20:1~16 20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。 20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。 20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。 20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』 20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。 20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』 20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』 20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』 20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。 20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。 20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。 20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』 20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。 20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。 20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』 20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」 ぶどう園の労働者のたとえは、マタイ19章から続く物語である。金持ちの青年が「何をすれば永遠のいのちを得られますか」と尋ねたのは、救いを行為と報いの構造で考えていたからであり、ペテロが「私たちはすべてを捨てて従いました。それでは何をいただけるのでしょうか」と尋ねたのも、献身に対する報酬を期待する計算であった。イエス様は弟子たちに報いを約束されたが、「先の者が後になり、後の者が先になる」と語られた。そしてその言葉を具体的に説明する過程で、ぶどう園のたとえを語られたのである。 ぶどう園の主人は、朝早くから夕方直前まで、時間ごとに順に労働者を雇った。最初に来た人々には一デナリを約束し、その約束を正確に守った。後から来た人々にも同じ一デナリを支払った。約束違反も賃金の減額もなかった。不正は存在しなかったが、早く来て長く働いた者たちは、少ししか働かなかった者と同じ賃金を受けたことに怒った。彼らが少なく受け取ったのではないが、他の者が同じだけ受け取ることに耐えられなかったのである。 近代以降の社会は、労働時間と賃金が比例すべきだという成果中心の秩序に慣れてきた。多く働けば多く受け取り、長く働けばさらに多く受け取り、能力が高ければより大きな報酬を得ることは当然と考えられてきた。しかし、ぶどう園の主人の計算は労働の比例でも成果による差別でもなかった。一デナリは一日を生きるための最低単位であり、主人はすべての人が一日を生きられるようにしたのである。労働と賃金にたとえて語られているが、単なる労働と賃金の話ではない。労働において努力や成果が報酬に反映されるべき側面はあるが、その外にいる人々にも生きる権利が与えられているということである。 この物語は、神様が与えられる「生きる権利」、そして救われる恵みに関する御言葉である。その権利は分け与える方の主権に属している。いのちが与えられ、必要が満たされているからこそ、今ここに生きているという告白は誰にとっても同じである。このたとえの結論は、「自分のものを自分の思いどおりにしてはいけないのか」という主人の主権宣言にある。その主権のもとで、平等に与えられる権利の広がりに共に立つ者は、自らの救いの恵みも保たれる。しかし、ねたみ、怒り、欲にとらわれる者は離れていき、やがて自分に与えられた権利さえ失うことになる。それが先の者が後になる悲劇である。先にされた者が後にされた者の権利を認め、支えるとき、その人もまた後になることなく、先にされた者としての恵みを喜ぶことができるのである。

마태복음 묵상 【나중되지 않으려면】 20260304(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 20:1~16 20:1 천국은 마치 품군을 얻어 포도원에 들여 보내려고 이른 아침에 나간 집 주인과 같으니 20:2 저가 하루 한 데나리온씩 품군들과 약속하여 포도원에 들여 보내고 20:3 또 제 삼시에 나가 보니 장터에 놀고 섰는 사람들이 또 있는지라 20:4 저희에게 이르되 너희도 포도원에 들어가라 내가 너희에게 상당하게 주리라 하니 저희가 가고 20:5 제 육시와 제…

マタイによる福音書 黙想 【誰が天の御国にはいるのか】 20260303(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 19:23~30 19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。 19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」 19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」 19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。 富は自分をコントロールできる力を与える。お金が多ければ選択できる権利は広がり、危険や困難に対して安全装置を整えることができる。その意味で、金持ちの青年は自分の人生を予測可能に統制できる人であった。しかし経済的に生活をコントロールする能力は、彼が口で求めた永遠のいのち、すなわち救いの能力とはまったく別の問題である。救いは人間が確保したり設計したりできる領域ではない。神様にしかできないことである。それを信じる信仰の根源的な出所もまた神様である。 不正な富者であれば、この地でもあの天の御国でも良い評価を受けることはないだろう。しかし貧しいことが必ずしも善であるわけでもない。善い富者もあり得るし、怠惰で悪い貧者もあり得る。貧しさは謙遜への通路となり得るが、貧しさがもたらす歪みも小さくはない。欠乏は怒りと絶望を生み、生存中心の信仰は視野を狭めざるを得ない。危険であることに変わりはない。富者は天の御国に入りにくいと語られたイエス様の御言葉は、経済的地位がそのまま救いの条件であるという意味ではない。問題は経済的位置ではなく、人間存在の依存構造にある。 「人にはできないが、神様にはできる」という宣言は、全的堕落と全的恩寵を思い起こさせる。人間は自ら救いを作り出すことはできず、神様だけがそれを成し遂げられる。しかし救いの主権が神様にあること、そしてその全的恩寵による救いという真理は、時に極端な予定論や運命論へと誤解されることがある。偏れば、誰がいつどこで何をどのように、なぜ行うべきかという緊張が麻痺する。無脊椎動物のように力なく揺れ動き、やがて信仰から消えていく。だからこそイエス様は、「先の者が後になり、後の者が先になる」とも語られた。何が神様に属し、何が自分に与えられた使命なのかを考えなければならない。 ペテロがまたもや前に出る。「私たちはあの青年と違ってすべてを捨てて従いました。それで何が得られるのでしょうか。」ペテロの道は金持ちの青年とは異なるが、思考の構造はまだ同じである。青年もペテロも、投資対回収、献身対報酬という計算をやめない。献身を叫んできた人間たちは、この地上で既に報いを受け取っている。完全燃焼する献身を見たことがない。私たちも同じである。蒸留水のような純粋な人間は存在しない。 それにもかかわらず、イエス様は彼らを叱責せず、豊かに報いると約束された。ただしイエス様の要求と報いの約束は、金持ちの青年にもペテロにも一貫している。イエス様は彼らを責任の位置へと召しておられる。幾倍もの報いと永遠のいのちの約束は、単なる繁栄の保証ではなく、新しい秩序の中で委ねられる役割と使命である。神様は救いを主権的に成し遂げられるが、その救いを歴史の中で人を通して実現していかれるからである。権限を委ねられれば責任も伴う。非難や反対もついてくるだろう。しかし責任を担うことこそが、この箇所の主題である。 AIという驚異と混乱の時代にあって、資本は移動し、権力も移動するだろう。ある富は危機に直面し、ある貧しさは機会をつかみ、別の資本や権力はさらに固定化する危険もある。私たちは知らない。データと技術は拡張しているが、人間には全体を統制する力はまだない。私たちが批判してきた金持ちの青年の統制欲求は、不確実な時代に不安を抱く私たち自身の姿としてそのまま現れている。 私たちは、人がしようとしていることと神様がなさることとの間の緊張を見つめ、その間で自分がなすべきことを探さなければならない。職を失わないことが目標なのではなく、それをどのように制御し、運用するかに関心を向けるべきである。金持ちの青年は宗教的形態や資本の運用には関心があったかもしれないが、時代の責任には関心がなかった。信仰とは、富の側に立って貪欲を正当化することでもなく、貧しさを善やロマンとして装うことでもない。労働の価値を尊びつつ資本の役割も認め、より多くの人に神様の賜物が行き渡るよう責任を担う位置へと進むことである。

마태복음 묵상 【누가 천국에 들어갈까】 20260303(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 19:23~30 19:23 예수께서 제자들에게 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 부자는 천국에 들어가기가  어려우니라 19:24 다시 너희에게 말하노니 약대가 바늘귀로 들어가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라 하신대 19:25 제자들이 듣고 심히 놀라 가로되 그런즉 누가 구원을 얻을 수 있으리이까 19:26 예수께서 저희를 보시며 가라사대 사람으로는 할 수 없으되 하나님으로서는 다 할 수 있느니라…