マタイによる福音書 黙想 【解釈の上に落ちた種】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 13:1~17 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。 13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。 13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。 13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。 13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。 13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。 13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。 種まきのたとえは、同じ種が異なる土に落ち、異なる結果を生む物語である。道ばたに落ちた種は消えてしまい、石地に落ちた種はしばらく芽を出すがやがて枯れ、いばらの中に落ちた種は育つように見えても実を結ばない。しかし、良い地に落ちた種は実を結ぶ。このたとえでは、種は神様の御言葉であり、土はそれを聞き受け入れる人の状態である。御言葉は同じでも、結果は異なる。問題は種ではなく、土、すなわちそれを聞く人の側にある。 それぞれの土がどのように違っていたかを詳しく説明する必要はないだろう。今日注目したいのは、このたとえを聞いた弟子たちが「なぜたとえでお語りになるのですか」と尋ねたことと、それに対するイエス様の答えである。これは種まきのたとえが終わり、教え方の話題に切り替わったのではない。土の状態によって種の結果が変わるように、聞く人の状態によってたとえの意味も変わるからである。種まきのたとえこそ、なぜ“たとえ”という方法が必要なのかを証明している。 神様の国は公開された秘密である。隠されてはいないが、すべての人が自動的に理解するものでもない。すべての人に同じ方法で与えられる情報ではなく、聞く態度と状態によって現れたり隠れたりする。見る者は見、聞く者は聞くが、見ようとしない者は見えず、聞こうとしない者は聞けない。だからこそ、弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、種まきのたとえの解説でもあるのである。 イエス様は整理された教理や完成された結論を注入しようとはなさらなかった。物語を通して、聞く者が自ら解釈することを望まれた。説明できなかったからたとえで語られたのではなく、解釈の余地を残されたのである。聞く人は自分の人生と信仰の責任をもってそれを解釈し、応答しなければならない。何も考えず、誰かの解説だけに頼るなら、そのたとえは結ばれたまま解かれない。同じ御言葉を聞いても、何も見えない人もいれば、その中に神様の御心と自分の人生との関係を読み取る人もいる。 神様の御言葉であっても、それが耳に入った瞬間に自動的に意味になるわけではない。それぞれの条件と経験を通して解釈されるとき、はじめて生きて動き始める。ドイツの哲学者ガダマーは『真理と方法』で、意味はテキストの中に固定されているのではなく、読者との出会いの中で生まれると語った。テキストはそれ自体で完結して語るのではない。テキストは問いを投げかけるだけであり、解釈者がそれに応答するときに意味が生まれる。種まきのたとえも同じである。それはイエス様の完成された説明ではなく、それを読む者が解釈し、応答するときに意味が起こる出来事である。これは御言葉が可変的だという意味ではない。イエス様が各人に解釈の過程を求めておられるからこそ、たとえで語られたのである。 だから種まきのたとえは、御言葉をどれほど多く聞いたかを問うているのではない。その御言葉を解釈する人間として生きているかを問うているのである。良い地とは、情報を正確に理解する人のことではない。御言葉を自分の人生の中に持ち込み、解釈し、自分の物語として語り直し、待ち、葛藤し、耐え抜く人のことである。種はそのときに芽を出す。信仰とは正解を所有することではなく、解釈の責任を引き受けることである。










