マタイによる福音書 黙想 【マタイがまた連れて来た金持ちの青年】 20260302(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 19:13~22 19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」 19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。 19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」 19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」 19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」 19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。 昨日の主日礼拝で、マルコの福音書10章に出てくる金持ちの青年について説教した。財産を手放すことができなかったその青年は、結局、家へ帰って行った。ところが今朝、マタイがその青年をもう一度連れて来た。昨日、私はこの青年について語るべきことはすべて語ったと思っていたのに、今朝また何を語ればよいのだろうか。静かに読み直してみると、マタイはマルコとは少し異なる叙述構造によって、この青年を再び呼び出していることに気づいた。 昨日読んだマルコの福音書には、イエス様が十戒を引用される中で「欺き取るな」という表現があった。それは十戒そのものの一つではないが、他の戒めを総合した表現であろうと思っていた。しかし、もしかするとこの青年の財産形成の過程が、たとえ合法であったとしても、不正な取得や搾取を含んでいた可能性もあるのではないかと考えた。青年はそれらすべてを守ってきたと言ったが、私は彼に対して合理的な疑いを抱かざるを得なかった。 マルコが「欺き取るな」と記した箇所に、マタイは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉を書き加えている。ユダヤの伝統において、この言葉は律法全体を包括する戒めである。イエス様もマタイの福音書22章で、これこそ律法の核心であると語られた。しかしこれは十戒ではない。レビ記19章18節に記されている律法である。ではなぜマタイは、十戒を列挙する文脈の中にレビ記を挿入したのだろうか。 十戒は、安息日と父母を敬う戒めを除けば、基本的に禁止規定である。しかしレビ記の律法は、禁止の倫理ではなく、積極的に行うべき愛の次元である。青年は自分の口で禁止規定を守ったと言ったが、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは次元が異なる。それは他者の人生を自分の人生の重さとして引き受ける生き方でなければ実現できない。もしそれを本当に守った人がいるとすれば、その人はむしろ自分はまだ守れていないと言うだろう。それは謙遜だからではなく、それが愛の本質だからである。 マタイの福音書において、この青年は禁止規定の遵守を超えて、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めについてもためらうことなく、「私はすでにすべて守ってきました。まだ何が足りないのですか」と言う。これが彼の自己評価を信頼できない理由である。「青年は言った。これらすべてを私は守ってきました。まだ何が足りないのでしょうか」(19:20)。その瞬間、私はこの人間が恐ろしくなった。 結局、イエス様は青年に財産を分け与えるよう求められたが、彼はそこで立ち止まる。隣人を自分のように愛していると自信を持って言ったが、金は嘘をつかない。金の問題が持ち上がった瞬間、彼の自己矛盾はそのまま露わになった。イエス様が貧しい人々に財産を分け与えるよう命じられたのは、私有財産の否定ではなく、抽象的な愛を具体的な行為へと移し替えよという要求であった。弟子道を強調しているマタイは、青年が自ら家へ帰ったのではなく、イエス様が彼を家へ帰されたのだということを語っているのである。










