マタイによる福音書 黙想 【石臼の重さ】 2026026(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 18:1~9 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」 18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。 18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。 18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。 18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。 18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。 18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。 18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。   イエス様は子どもを弟子たちの真ん中に立たせられる。子どもは自分で立つことのできない、依存的な存在である。神様なしでも立てると信じる自己確信を高慢と呼び、回心とはその思い違いが崩れることである。信仰とは、ただ神様のみにより頼む状態である。 子どもを受け入れることが、そのままイエス様を受け入れることであり、それは弱い者に対する態度がそのまま神様に対する態度であるという意味である。高慢な人にとって弱い者は、煩わしく、負担であり、時には脅威となる存在である。だから高慢な者は、弱い者をそのままにせず、押しのけ、這い上がれないようにする。 その高慢が活性化する場所は共同体である。イエス様の警告は強く、厳しい。ひき臼の比喩は誇張ではない。自我の密度を空しくすれば軽くなり上へと上がるだろう。しかし高慢は重いものであるから沈む。ひき臼の重さは、すなわち自己の重さである。 手や足や目を切り捨てよという御言葉も同じである。失敗したら自傷せよという意味ではない。神様よりも愛しているもの、その高慢を断ち切れということである。弟子たちの問いは「天の御国で誰が一番大きいのですか」という問いであったが、イエス様の答えは天国だけの話ではない。この地上においても、大きく見えるが大きくないものと、小さく見えるが小さくなく、むしろ大きいものが十分に見られるのである。

마태복음 묵상 【연자 맷돌의 무게】 20260226(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 18:1~9 18:1 그 때에 제자들이 예수께 나아와 가로되 천국에서는 누가 크니이까 18:2 예수께서 한 어린 아이를 불러 저희 가운데 세우시고 18:3 가라사대 진실로 너희에게 이르노니 너희가 돌이켜 어린 아이들과 같이 되지 아니하면 결단코 천국에 들어가지 못하리라 18:4 그러므로 누구든지 이 어린 아이와 같이 자기를 낮추는 그이가 천국에서 큰 자니라 18:5 또 누구든지 내 이름으로…

마태복음 묵상 【변화산 아래에서】 20260225(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 17:14~27 17:14 저희가 무리에게 이르매 한 사람이 예수께 와서 꿇어 엎드리어 가로되 17:15 주여 내 아들을 불쌍히 여기소서 저가 간질로 심히 고생하여 자주 불에도 넘어지며 물에도 넘어지는지라 17:16 내가 주의 제자들에게 데리고 왔으나 능히 고치지 못하더이다 17:17 예수께서 대답하여 가라사대 믿음이 없고 패역한 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며  얼마나 너희를 참으리요 그를 이리로…

マタイによる福音書 黙想 【変貌の山の下で】 20260225(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 17:14~27 17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、 17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。 17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」 17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。 17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」 17:21 21 17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。 17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。 17:24 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」 17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」 17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。 17:27 しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」   弟子たちは変貌の山で、神様の愛する子であるという御声を聞いた。しかし山を下りたとき、弟子たちは律法学者たちと言い争っており、悪霊につかれた子どもはけいれんして倒れていて、切迫した父親は弟子たちが何の助けにもならなかったとイエス様に訴えた。山の上では神様の御子であることが示されたが、山のふもとでは何一つ作動していなかった。それが本文に現れているイエス様の叱責の理由であった。 弟子たちは権威を与えられていたが、信頼が作動しないために力が発揮されなかった。群衆は奇跡見物をして歩くだけで、神の国を信じもせず追い求めもせず、律法学者たちは相変わらず既得権のための揚げ足取りに余念がなかった。イエス様は悪霊を追い出せなかった弟子たちに、あなたがたの信仰が小さいからだと言われたが、それは信仰の大きさというより信頼の状態と言うべきである。神様は明らかに示されたが、人々の信仰は見いだすことができなかった。 悪霊を追い出すからといって、それが信仰であるとは限らない。マタイの福音書7章では、わたしの名によって悪霊を追い出しても、わたしはあなたがたを全く知らないと言われた。その場合は、部分的に力が現れたとしても、関係がなかったことへの叱責である。結局のところ、問題は力そのものではなく、関係と信頼の問題であった。 そして再び宮の税の話へと続く。この物語は、宗教が税を納めるかどうかという問題ではなく、変貌の山から続いているイエス様の正体に関することである。宮は神様の家であり、イエス様は神様の御子である。変貌の山で、これはわたしの愛する子であるという御声を聞いた人々が、実際の生活の中でその信仰をどのように表すのかという問いである。16章を通して、イエス様はそのことを語っておられたのである。

マタイによる福音書 黙想 【イエス様は変わられたのだろうか】 20260224(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 17:1~13 17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。 17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。 17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。 17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。 17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。 17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」 17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」 17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。 17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」 17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。   イエス様はIncarnationによって私たちのただ中に来られた。御言葉が肉となられた。天が地へと下って来た出来事である。それは神性が変わったということではなく、その栄光が低い所へと降りて来られたということである。イエス・キリストのケノーシス、すなわち自己の空しさは、存在論的な変化ではなく、栄光の隠蔽であった。神であられることが変わったのではない。ただ神様が人間の条件の中へ入って来られたのである。 人間はTransformationを望む。変身したいと願う。もっと強く、もっと輝き、もっと優れた存在になりたいと思う。技術や知識によって自分を変え、アップグレードしようとする。しかしその多くは外面的な調整や状態の改善にすぎない。本質を自ら変え出すことのできる存在ではない。努力もし、前向きな期待も抱くが、人間は自力救済が不可能な存在である。 山の上で起こった出来事はTransfigurationであった。イエス様が変身して、より神的な存在になられたのではなく、隠されていた栄光が現れたのである。イエス様は変わられなかった。ベツレヘムのIncarnationによって栄光は覆われていたが、変貌の山のTransfigurationによって本来の栄光が現れ、神様はそれを弟子たちにお示しになったのである。 人間の罪の姿も、神様があらわされれば天下に露わになるだろう。しかし神様が照らしてくだされば、その人を通して神様のかたちが現れることもある。自らをTransformationによって新しくすることはできないが、Incarnationされたキリストのうちにあるとき、私たちはキリストの栄光にあずかる存在としてTransfigurationされ得る。神様の創造が私の内にあり、その上に光が注がれるなら、私もまた光を放つことができる。

마태복음 묵상 【예수님은 변화하셨을까】 20260224(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 17:1~13 17:1 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 그 형제 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라가셨더니 17:2 저희 앞에서 변형되사 그 얼굴이 해 같이 빛나며 옷이 빛과 같이 희어졌더라 17:3 때에 모세와 엘리야가 예수로 더불어 말씀하는 것이 저희에게 보이거늘 17:4 베드로가 예수께 여짜와 가로되 주여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 주께서 만일 원하시면 내가 여기서…

マタイによる福音書 黙想 【信仰告白の縦糸と横糸】 20260223(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 16:13~28 16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。 16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」 16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。 16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。 16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 数週間前の主日礼拝で、マルコの福音書8章を本文として「あなたはわたしをだれだと言うのか」という題で説教しました。今日のマタイの本文も、カイサリア・フィリピでのペテロの信仰告白、再びあの出来事です。書物は違いますが、出来事は同じです。私はマルコとマタイをそれぞれ尊重します。それは単なる繰り返しや重なりではないからです。福音書は一つの出来事をそれぞれ異なる角度から解釈します。視点と意図が異なります。それはそれぞれ異なる共同体に向けた異なるメッセージとして伝えられました。であるならば、今日の私たちの黙想も、事実を歪めない範囲で意味を解釈しなければなりません。黙想とは、他人の解釈にうなずく行為ではなく、出来事の意味を自分が立っている場所から責任をもって思索するための訓練です。 マルコの福音書では、ペテロの告白は最小限に紹介されています。告白はマタイのものより短く、その後に続くイエス様の祝福もなく、その告白からつながる教会への言及もありません。そしてすぐに「サタンよ、わたしの後ろに下がれ」という厳しい叱責だけが続きます。そこから読み取れるマルコの意図は明らかです。イエス様をキリストと呼ぶことと、イエス様の道を理解し従うこととは別の問題だということです。告白の言葉は正しくても、その内容はまだ十字架を通過していません。十字架を通らないメシア理解は未完成です。だからこそマルコの関心は弟子道にあります。自分を否み、十字架を負わない告白は、まだキリストに対する明確な告白ではないということです。 マタイの福音書は、ペテロの告白を個人の信仰表現に閉じ込めません。さらにさかのぼり、その告白が初めから神様によって開かれた霊的認識であったことを示します。マタイが語るペテロの信仰告白の源は人間ではなく神様です。しかしそれは人間の口によって告白されたものであり、その告白は共同体の土台となります。したがって共同体の根源的な出発点もまた神様です。教会は信仰告白、すなわちその源である神様の選びによって建てられます。その意味でマタイの関心は共同体にあります。個人の悟りと告白が集まり教会の基礎となり、その土台の上に共同体が築かれていきます。経験的にもこれを否定することはできません。信徒一人ひとりの人格的な信仰告白が網のように結び合わされて健全な教会が形づくられます。 二つの福音書の結論は異なりません。マルコは十字架のないメシアは存在しないと語り、マタイは十字架のメシアの上に教会が建てられると語りました。告白は十字架を通過しなければなりません。そしてその十字架を通過した告白の上に教会が建てられます。先に主体的に解釈しようと言いましたが、それは恣意的な解釈を意味するのではありません。根拠をもって正当に解釈されたなら、それは再び問いとなって戻ってくるでしょう。正しい解釈は解釈した者をあらためて問い直します。私はイエス様をだれと告白しているのか。私の告白は十字架を通過しているのか。そしてその告白の上に、私は今何を築いているのか。

마태복음 묵상 【신앙고백의 세로줄과 가로줄】 20260223(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 16:13~28 16:13 예수께서 가이사랴 빌립보 지방에 이르러 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 인자를 누구라 하느냐 16:14 가로되 더러는 세례 요한, 더러는 엘리야, 어떤이는 예레미야나 선지자 중의 하나라 하나이다 16:15 가라사대 너희는 나를 누구라 하느냐 16:16 시몬 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시요 살아계신 하나님의 아들이시니이다 16:17 예수께서 대답하여 가라사대 바요나 시몬아 네가 복이 있도다 이를 네게…

マタイの福音書 黙想【人を知っている人イエス】20260221(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 15:29-39 15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。 15:30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。 15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。 15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」 15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」 15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」 15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。 15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。 15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。 15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。    イエス様の公生涯におけるすべての働きには、人に向けられた神様の憐みが表されています。神様の御言葉を教え、宣べ伝えられたのも、人々を癒やされたのも、彼らをその悲惨の中から救い出すためでした。そして、その神様の憐みは、いつも具体的な実践をもって現れました。    今日の箇所に記されているイエス様の御業は、人々を癒やされたこと、そして群衆を食べさせられたことです。これまでのすべての働きと同様に、その中心には「憐み」がありました。しかし、彼らをあわれみ、癒やし、食べさせられたのは、それがイエス様の義務であったからではありません。彼らの苦しみを深く理解し、共に痛み、悩む、彼らと同じ「人」としてこの地に来られたからです。    以前の箇所で、イエス様は「盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちる」とのたとえをもって弟子たちを教えられました。確かに、目の見えない者が目の見えない者を導けば、共に転んでしまうのは当然です。では、目の見える者が盲人を導けば安全でしょうか。ある程度はそうかもしれません。しかし、目の見える者は盲人の立場を完全には理解できません。その道が目の見えない人にとってどのように感じられるのか、何が妨げになるのかを、すべて知ることはできないからです。そこにも危険は残ります。    しかし、もしその盲人の立場を完全に理解し、なおかつ道も知っている者が導くとするならばどうでしょうか。あらゆる危険から守られながら、目的地に安全に着くことができるでしょう。それが、イエス様と私たちの関係です。完全な人として来られたイエス様は、同時に人を創られたお方でもあります。だからこそ、人のあらゆる弱さや限界を知っておられます。どのような状況に置かれた人であっても、イエス様はその痛みや悩み、すべての感情を完全に共有することができる方なのです。    イエス様は、口のきけない者、目の見えない者、歩くことのできない者、そのような者たちが抱えている苦しみや痛みを、誰よりも深く理解しておられました。そのため、イエス様のあわれみは、助ける側と助けられる側という上下の関係、上から目線のような憐みではありません。共に痛み、共に泣く水平的なあわれみです。イエス様は、空腹の人々と同じ場に立ち、その切実さをご存じであったからこそ、「かわいそうに」と言われ、彼らを満たされたのです。      このような出来事を超えて、今の私たちのあらゆる状況もまた、イエス様は完全に理解してくださっています。単なる「共感」ではありません。さらに深い「同感」する方です。そのすべてを知っておられる主が私たちを導いてくださるので、私たちは疑うことも、恐れることもなく、安心してイエス様に従ってともに歩むことができるのです。 https://youtu.be/Yx_JuC1FWLc?si=gkt2IDyD7i84WyOthttps://youtu.be/ZWktcXSPVCY?si=xmlpXGE8SmqOP7Sd

마태복음 묵상【인간을 아시는 인간 예수】20260221(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 15:29-39 15:29 예수께서 거기서 떠나사 갈릴리 호숫가에 이르러 산에 올라가 거기 앉으시니 15:30 큰 무리가 다리 저는 사람과 장애인과 맹인과 말 못하는 사람과 기타 여럿을 데리고와서 예수의 발 앞에 앉히매 고쳐 주시니 15:31 말 못하는 사람이 말하고 장애인이 온전하게 되고 다리 저는 사람이 걸으며 맹인이 보는 것을 무리가 보고 놀랍게 여겨 이스라엘의 하나님께 영광을…