マタイによる福音書 黙想 【無責任に対する責任】 20260323(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 25:14~30 25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。 25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、 25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。 25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。 25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。 25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』 25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』 25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。 25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』 25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。 25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。 25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。 25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。 25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』 タラントのたとえは、熱心さの問題ではない。かといって、単なる従順の問題でもない。何をどのように従うのかという、根本的でありながら極めて具体的な問題を扱っている。一タラントを受けた三番目のしもべは、元本を失ったわけでもなく、横領したわけでもなかった。きちんと保管していたのである。それにもかかわらず、神様は彼を「悪い怠け者のしもべ」と宣告された。問題は能力でも結果でもなく、神様に対する理解であった。神様を知らず、また知ろうともしないなら、その結果は怠惰であり、悪となり得るということである。彼は主人を「厳しい人」と理解していた。ここで言う厳しい人とは、計算高く、厳格な存在という意味である。その認識の中には信頼はなく、ただ恐れだけがあった。 そしてその恐れは、何もしないという選択へとつながった。信仰は行動の前に、まず関係の問題である。神様をどのように理解するかによって、人生と信仰の方向は決まる。誤った神様理解は、誠実で熱心な不従順さえ生み出してしまうことがある。本文にはない設定だが、もし第四のしもべがいて、彼が投資に挑戦したものの運用に失敗し、損失を出したと仮定してみよう。その場合、主人は彼をどのように評価しただろうか。1、2、3のしもべを見れば、4番目の結論は難しくない。主人は最初から成功や失敗、その大きさに責任を問うていたのではないからである。その点から考えれば、私は彼に対しても称賛と慰めがあったのではないかと思う。 恐ろしいのは失敗ではなく、何もしないことである。誰もが失敗を恐れるが、より恐ろしいのは、何もしないまま、すべての機会が過ぎ去ってしまうことである。それこそが神様を信頼していない状態だからである。「恐れて隠しておきました」という言葉は、謙遜ではなく、不信仰の告白であった。五タラントと二タラントは同じ評価を受けた。神様は結果の大きさをご覧になるのではない。どれだけ増やしたかではなく、与えられたものにどう応答したかをご覧になるのである。 資産運用のたとえとして語られているが、本当に恐ろしいのは資産運用そのものではなく、安全な宗教の中に身を隠すことである。神様理解を固定し、防御だけに回る人の神観は必ず歪む。神様は完全であり、変わることのないお方である。しかし人間の認識は不完全であり、変わり続ける。二十四年前に初めて信じた神様と、今理解している神様は同じではないし、変わっていくべきである。人はより成熟した理解へと変わっていかなければならない。そういう意味で、私は「信仰を守る」という言葉が持つ誤解の余地を常に警戒している。守るなという意味ではない。神様を疑えという意味でもない。自分の理解の不十分さを絶えず疑い、変わり続けるべきだという意味である。 何もしなければ損はしない、何もしなければ責任も負わなくて済むと人は考える。しかし神様は、何も責任を負わなかったその無責任に対して責任を問われる。行動すれば失敗することもある。しかし失敗したとしても、それは少なくとも不従順ではない。だが何もしなければ、失敗しなくてもそれは不従順であり、最終的な失敗となる。教会の建物を購入するときも、リトリートセンターを引き継ぐときも、カフェを始めようとするときも、「責任」という言葉は常に伴ってきた。いや、信仰を持った最初のときから、神学校に行く日までずっとそうであった。成功するか失敗するかは分からない。神様は人の能力を問われるのではなく、神様への信頼を問われている。その問いの前で、合理的な中立にとどまるなら、それはすなわち怠惰であり、悪となる。信仰には責任を負わなければならない。

마태복음 묵상 【무책임에 대한 책임】 20260323(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 25:14~30 25:14 또 어떤 사람이 타국에 갈 때 그 종들을 불러 자기 소유를 맡김과 같으니 25:15 각각 그 재능대로 하나에게는 다섯 달란트, 하나에게는 두 달란트, 하나에게는 한 달란트를 주고 떠났더니 25:16 다섯 달란트 받은 자는 바로 가서 그것으로 장사하여 또 다섯 달란트를 남기고 25:17 두 달란트 받은 자도 그같이 하여 또 두 달란트를 남겼으되…

マタイによる福音書 黙想 【らくだは飲み込む盲人】 20260316(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 23:13~24 23:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。 23:14 ※異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕 23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。 23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』 23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。 23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』 23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。 23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。 23:21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。 23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。 23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。 23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。 イエス様は、パリサイ人と律法学者たちを通して、宗教がどのように本質を失い、どのように歪められていくのかを、一節一節、まるで憤りをもって告発するかのように語られた。導くべき人々が、かえって人々の信仰の道を塞いでしまっている。宗教体制を拡張するために人の人格を道具として用い、教権のために人々を動員する。信仰の自由と解放はなく、誓いの規定によって縛り上げる宗教的な技術で人々を支配する。何を守るべきか、何を求めるときの条件なのかという問題は呪術のように堕落し、神殿よりも金を重んじ、祭壇よりも供え物を大きなものと見なすようになっていた。 彼らが規定に厳格であった理由は、信仰が絶対であったからではない。それが統制の手段になったからである。そして統制の目的は金である。金が集まれば権力になり、またその順序が逆になることもある。信仰の秩序、正義、愛と仕え合いは、その金の下に押しやられてしまう。だからこそイエス様は彼らに向かって、「ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」と言われた。腹よりもへそが大きくなるような、滑稽な本末転倒である。人が集まるところではどこでも起こり得ることではあるが、宗教の世界ではその害はさらに深刻である。実際、彼らは形式そのものに縛られていたのではない。むしろ利益のため、人々を動員し、搾取するために、その形式や技術を用いていただけなのである。形式そのものが悪いのではない。その形式を動かしている動機が悪いのである。 したがって、これは単にパリサイ人たちの偽善を指摘しているのではない。イエス様は宗教が堕落していく構造そのものを語っておられるのである。信仰が神様との関係から出発しない、あるいはその関係を失ってしまうとき、宗教は霊的にも社会的にもすぐに逸脱してしまう。最初は小さな偽善や過ちのように見えるかもしれない。しかしそれはやがて日常となり、現実となる。宗教の技術者たちは、人と金を動員することに没頭し、そのために規定と形式を増やし、やがてより強固な組織と支配体制を築いていく。今日の黙想の語調が強く聞こえるのは、イエス様の語調を学んだからであり、その語調を学ばざるを得ないのは、当時も今も同じことが繰り返されているからである。 よく異端やカルトに気をつけなければならないと言われる。しかし、どの集団に属しているかは本質的な問題ではない。重要なのは動機を見分けることである。羊の皮をかぶった狼は外にだけいるのではなく、家の中にもいる。人々は、自分が生きているこの時代の教会を指さして批判する。もし自分をクリスチャンだと自負するなら、自分の時代に与えられている教会の責任から自由でいることはできない。イエス様はご自身の時代にこれほど強く語られたが、私たちの時代においてもなお、非難と罵声を一身に受けておられる。それはイエス様のせいでもなく、イエス様を信じない人々のせいでもない。信じていると言う人々、とりわけ声の大きい人々のせいである。導きもしないし、導くこともできないのに、腕章をつけて自ら指導者を名乗る人々のせいである。 代議民主政治では、国民が政治家に権力を委任する。そしてその権力が危険なものになり得ることを知っているからこそ、憲法や制度という装置を設けて互いに牽制させる。委任された権力であるからこそ、統制の装置が存在するのである。しかし教会の絶対的な権威は神様に属しており、人に委ねられている権威は支配する力ではなく、仕える責任としての権威である。政治権力は制度によって抑制されるが、宗教権力は神様の名によって簡単に正当化されてしまう。そのため、委任されてもいない教権を自ら作り出し、それを享受し、既得権として行使することが起こるのである。人々はその被害者でありながら、むしろ忠実な盾となって宗教権力を守る。信仰において欺かれる者の罪の重さも決して軽くはない。不法を行う者と、それを黙認する者は共に責任を負うことになるだろう。

마태복음 묵상 【약대를 삼키는 소경】 20260316(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 23:13~24 23:13 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 천국 문을 사람들 앞에서 닫고 너희도 들어가지 않고 들어가려 하는 자도 들어가지 못하게 하는도다 23:14 (없 음) 23:15 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 교인 하나를 얻기 위하여 바다와 육지를 두루 다니다가 생기면 너희보다 배나 더 지옥 자식이 되게 하는도다 23:16 화 있을찐저 소경된 인도자여 너희가…

マタイの福音書 黙想【主が主なる理由】20260314(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 22:34-46 22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 22:38 これが、重要な第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、 22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。  今日の箇所は、律法主義者たちと神の御子であるイエス様との違いを、はっきりと示している箇所であると言えるでしょう。律法学者たちは数多くの律法を知っていましたが、その本質については知りませんでした。一方、イエス様はそのすべての律法を貫く一つの主題、すなわち「愛」について語られました。  律法を守ってきたユダヤ人たちにとって、いつの間にかその律法が持っていた意味は失われ、伝統と習慣という名目だけが残るようになっていました。そのため、イエス様がこれまで行われた多くの仕業は、彼らにとっては伝統を破り、自分たちが守ってきた規則を壊す衝撃的で冒瀆的な行為としてしか見えなかったのです。  しかし、イエス様がそのようなことを行われたのは、その律法が与えられた本来の意図、その本質が何であるかを示すためでした。イエス様を試そうとしていた律法学者は、イエス様がどの律法が一番重要であるとおっしゃったなら、それに対して批判をするわなの準備をしていたでしょう。しかしイエス様は律法の行為について語られたのではなく、その本質である「愛」について語られました。ですから、このイエス様の答えに反論するということは、律法全体に反論することと同じであったため、彼らは何も反論することができなかったのです。律法の完成であるイエス様だからこそできるお答えだったのです。  今度はイエス様が彼らに質問されました。キリストとは誰なのか、すなわちメシアは誰であり、どのような存在なのかという質問です。律法学者たちの答えは当然、律法に書かれているとおり、ダビデの子として来られる方でした。確かにイエス様はダビデの血統、その系図に従って来られました。しかし、それだけがイエスがキリストである理由ではありませんでした。  「主が私の主に言われた」という言葉は、翻訳の過程を経た結果の表現です。その原文となる詩篇110篇1節は、「主は(ヤハウェは、すなわち、神は)私の主に言われた」と記されています。簡単にまとめると、「主である神様が、主であるキリストに言われた」という風に、今日の箇所の流れの中で、その名詞をよりはっきりと表すことができます。  ダビデは、自分の子孫として来られるキリストを「主」と呼びました。その理由は、自分がキリストより優れた存在ではなく、むしろキリストが来られるために用いられる存在であることを知っていたからです。しかし律法学者たちはその本質を理解できず、ただダビデの子孫、王の血統という人間的な側面だけを考えてきたのでした。  当時の文化と言語的な特徴の一つは、子は父と同等な存在として見なされるという思想です。そのため彼らは、ただローマの皇帝にだけ「主」という称号を使わなければなりませんでした。ローマ皇帝が「神の子」であると信じられていたからです。ですから彼らは、あえて答えることができなかったのです。  しかし、今日イエス様が彼らに示された御言葉は、ローマ皇帝ではなく、キリストこそが「神の御子」であるということでした。それが、キリストが主であり、私たちの主となる理由です。おそらく彼らの中には、すでにその答えを知っていた者もいたかもしれません。しかし、それを口に出すことはできませんでした。それは彼らがイエスを殺そうとした理由、すなわち’自らを神の子とし、神を冒瀆した’というイエス・キリストを訴えようとしているのに、イエスを本当に神の御子として認めることになり、同時にローマに対する反逆にもなってしまうからです。  イエス様が私たちの主である理由は数えきれないほどあります。その方が行われた御業によっても説明することができますし、その御性質によっても、また預言によっても説明することができます。しかし、最も最初に、そして最も確かで簡潔に説明できる方法は、その方の存在そのものによる説明でしょう。この世界を造られ、私たちを造られた神の御子、神ご自身であられるお方であるからこそ、イエス・キリストは私たちの主であられるのです。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=sD3PcfEsxCUrUTym

마태복음 묵상【주가 주 되시는 이유】20260314(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 22:34-46 22:34 예수께서 사두개인들로 대답할 수 없게 하셨다 함을 바리새인들이 듣고 모였는데 22:35 그 중의 한 율법사가 예수를 시험하여 묻되 22:36 선생님 율법 중에서 어느 계명이 크니이까 22:37 예수께서 이르시되 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하셨으니 22:38 이것이 크고 첫째 되는 계명이요 22:39 둘째도 그와 같으니 네 이웃을…

マタイの福音書 黙想【死の論争】20260313(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 22:23-33 22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。 22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。 22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。 22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。 22:27 そして最後に、その妻も死にました。 22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」 22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。 22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。 22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。 22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」 22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。   今日の箇所は、サドカイ人たちについての紹介とその登場から始まっています。彼らについての簡単な紹介は、「復活はないと言っているサドカイ人」です。しかし、そのような彼らがイエス様にした問いかけは、何と復活に関する問いでした。    その理由は明らかです。彼らが自信を持っていたことは、復活がないということを証明することだったからです。復活はないと言うサドカイ人たちは、いつも自分たちの考えを納得させるための多くの根拠を備え、誰かが復活について語るならば、それに対して細かく反論する準備をしていたでしょう。    サドカイ人たちは、なぜ復活はないと考えていたのでしょうか。その理由を簡単に見ると、彼らは聖書の中でも特にモーセ五書の権威を高く評価する人々だったからです。イエス様もまた、この事実をよく知っておられました。それゆえ彼らの質問に対して、イエス様は彼らが最も尊重しているモーセ五書のみことばから、その答えを提示されました。    しかし、私たちもまたイエス様のお答えを誤解してしまう可能性があります。イエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」と言われましたが、その前にすでに、遠い昔に死んだ彼らの先祖、アブラハムとイサクとヤコブの神であるという御言葉を引用しておられるからです。つまり、イエス様の目には、アブラハムとイサクとヤコブがまだ生きている状態のように見えていたということです。    多くの聖書はこの箇所の小題として「復活論争」という題を付けていますが、実際の内容は復活についての論争というよりも、復活を語るために必然的に通らなければならない「死」に関する論争に近いものです。サドカイ人たちが考えていた「死」と、イエス様が見ておられる「死」が異なっていたからです。    ただ肉体が死ぬことを「死」だと考えるなら、「神は死んだ者の神ではない」というイエス様の言葉は、とても冷たい言葉のように聞こえるかもしれません。しかし、その死の定義をイエス様の視点から改めて立て直すならば、その言葉はこの世のすべての人に希望を与える神様のみことばとなるのです。    イエス様は、肉体が死ぬことを「死」とは考えておられませんでした。実際にラザロをよみがえらせるとき、イエス様は「彼は眠っている」と言われました。イエス様が見ておられる本当の「死」とは、神様の約束から離れている状態です。ですから神様との約束の中にとどまっていたアブラハムとイサクとヤコブは、生きている者であり、イエス・キリストがすべての働きを終え、この地に再び来られるとき、生きている姿のままでお会いする者たちなのです。    私たちはこの「死」に関する論争を見ながら、今を「生きて」いる私たち自身について、もう一度考えなければなりません。私たちは今、本当に「生きて」いるのでしょうか。神様の永遠の真実な約束の中にとどまっているのでしょうか。 https://youtu.be/RvvnF2he6_c?si=1rvJjIfeaX_aAqpj

마태복음 묵상【죽음논쟁】20260313(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 22:23-33 22:23 부활이 없다 하는 사두개인들이 그 날 예수께 와서 물어 이르되 22:24 선생님이여 모세가 일렀으되 사람이 만일 자식이 없이 죽으면 그 동생이 그 아내에게 장가 들어 형을 위하여 상속자를 세울지니라 하였나이다 22:25 우리 중에 칠 형제가 있었는데 맏이가 장가 들었다가 죽어 상속자가 없으므로 그 아내를 그 동생에게 물려 주고 22:26 그 둘째와 셋째로…

マタイによる福音書 黙想 【銀貨の帰巣本能】 20260312(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 22:15~22 22:15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。 22:16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。 22:17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」 22:18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。 22:19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。 22:20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」 22:21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」 22:22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。 パリサイ人とヘロデ党の人々は、税金の問題を利用してイエス様を罠にかけようとした。この組み合わせは少し奇妙である。パリサイ人はローマ支配に批判的な宗教勢力であり、ヘロデ党の人々はヘロデ王家を支持する政治勢力だったからである。立場の異なるこの二つの集団が手を組んで、ようやく考え出した質問が「カイサルに税を納めることは正しいでしょうか、それとも正しくないでしょうか」というものだった。正しいと言えば民衆は失望するだろうし、正しくないと言えば反体制の罪を着せることができるからである。質問そのものが幼稚な水準だった。 しかしイエス様は、人類に長く影響を与えることになる法哲学的な応答をされた。まず、硬貨に刻まれている像と文字が誰のものかを尋ねられた。当時流通していたデナリオンは、ローマ皇帝ティベリウスの顔が刻まれた銀貨だった。表には「神格化されたアウグストゥスの子、ティベリウス・カイサル皇帝」(TI CAESAR DIVI AVG F AVGVSTVS)と記され、裏には「最高祭司」(PONTIF MAXIM)と刻まれていた。良いことはすべて皇帝がしたという思想である。皇帝は政治であり、同時に宗教でもあった。古代のこととはいえ、これもまた幼稚な水準であった。 そこで彼らは当然のように「カイサルのものです」と答えた。世の中は支配する者と支配される者が入れ替わることで変わるのではなく、抵抗する人々によって変えられていく。イエス様はその答えの上に、「カイサルのものはカイサルに、神様のものは神様に返しなさい」と言われた。これは皇帝にも神殿にも二重に捧げよという意味ではない。また政教分離を語っているのでもない。硬貨にはカイサルの像が刻まれているのだからカイサルに返せばよい。しかし人間には神様のかたちが刻まれている。だから人間の存在は神様に帰るべきだという意味である。 私たちはこの世の制度や秩序の中で生きている。しかし人間の存在そのものが政治体制の所有物になるわけではない。支配する者も誤解し、支配される者も勘違いするが、昔も今も人間は国家や権力の所有物ではない。近代の法哲学は、国家が人間を所有することはできないという原理から出発した。その思想を始めた人々の中にはキリスト教精神があった。人間が神様のかたちに創造された存在であるというキリスト教的な人間理解が、近代の法哲学と人権思想の柱となったのである。法ははっきりと宣言している。人間は国家より先に存在する尊厳ある存在であり、国家は人間を支配したり所有したりする体制ではない。ただ人間の自由と権利を守るために、限定された権限を持つ制度にすぎないのだと。 イエス様は税金の話をしているのではない。人間が誰に属する存在なのかという根本的な問いを投げかけておられるのである。私たちもその問いを受け取らなければならない。私はいったい誰のものなのか。お金のかたちなのか、権力のかたちなのか、それとも神様のかたちなのか。私たちの時間と関心、心と人生がどこへ向かっているのかを答えなければならない。お金にはカイサルの像が刻まれている。しかし人間には神様のかたちが刻まれている。そして信仰とは、いわば帰巣本能である。私たちの人生は神様へと帰っていかなければならない。1ドルはジョージ・ワシントンへ、1万円は渋沢栄一へ、5万ウォンは申師任堂へと帰る、神様の人は神様のもとへ帰るのである。

마태복음 묵상 【동전의 귀소본능】 20260312(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 22:15~22 22:15 이에 바리새인들이 가서 어떻게 하여 예수로 말의 올무에 걸리게 할까 상론하고 22:16 자기 제자들을 헤롯 당원들과 함께 예수께 보내어 말하되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 참으로써 하나님의 도를 가르치시며 아무라도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 아니하심이니이다 22:17 그러면 당신의 생각에는 어떠한지 우리에게 이르소서 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까 한대…