詩篇 黙想 【感情が現実を支配する時】 20250707(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 89:38~52 89:38 しかしあなたは拒んでお捨てになりました。あなたは激しく怒っておられます。あなたに油注がれた者に向かって。 89:39 あなたはあなたのしもべとの契約を廃棄し彼の王冠を地に捨てて汚しておられます。 89:40 あなたは彼の城壁をことごとく打ち壊しその要塞を廃墟とされました。 89:41 道行く者はみな彼から奪い取り彼は隣人のそしりの的となっています。 89:42 あなたは彼の仇の右手を高く上げ彼の敵をみな喜ばせておられます。 89:43 しかもあなたは彼の剣の刃をさやに戻し彼が戦いに立てないようにしておられます。 89:44 あなたは彼の輝きを消し彼の王座を地に投げ倒されました。 89:45 あなたは彼の若い日を短くし恥で彼をおおわれました。セラ 89:46 いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは。 89:47 心に留めてください。私の生涯がどれほどかを。あなたがすべての人の子らをいかにむなしいものとして創造されたかを。 89:48 生きていて死を見ない人はだれでしょう。だれが自分自身をよみの手から救い出せるでしょう。セラ 89:49 主よあなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは真実をもってダビデに誓われたのです。 89:50 主よみこころに留めてください。あなたのしもべたちの受ける恥辱を。私が多くの国々の民をすべてこの胸にこらえていることを。 89:51 主よあなたの敵どもはそしりました。あなたに油注がれた者の足跡をそしったのです。 89:52 主はとこしえにほむべきかな。アーメン、アーメン。 神の契約を受けた共同体が、その契約を疑わなければならないほどの絶望と混乱に陥っている。すべての基盤が崩れ去り、世の中で恥をかかされている。約束と現実のギャップに苦しんでいる。神の契約は確かであっても、人間が現実の中で感じる感情は、その契約の重みに耐えられない。現実の苦しみが長引くと、人は約束よりも状況に大きく影響され、結局約束を握ることができず、状況に揺さぶられて中心を失ってしまう。 人々は「神についての話は現実味がなく信じがたい」と言うが、実際には人間は現実さえもありのままに認識できない存在である。約束と現実の衝突が大きくなるほど、人は感情的に揺らぐ。心理学ではこのような内的な衝突を「認知的不協和(にんちてきふきょうわ)」と呼ぶ。信仰にまつわる緊張が深まると、人は通常2つの方法で反応する。1つは神とその信仰を疑うことであり、もう1つは自分を無価値な存在とみなし、自らを崩壊させることである。 信念の解体であれ、自己の放棄であれ、その根は約束にあるのではなく、感情の傷にある。感情が傷つき始めると、人は限りなく揺れ、崩れていく。まるで約束が破棄されたかのように感じ、神に見捨てられたように思い、最終的には「神など存在しない」との結論に至る。感情に騙されたのである。問題は約束にあるのではなく、追い詰められた感情が約束を信じられず、感情に欺かれたということだ。 状況を変える力がないなら、この危機を乗り越える唯一の方法は「耐えること」を見出すことしかない。約束という原則は、感情には役立たないときがある。だからこそ、約束よりも感情を先に扱うアプローチは実際的と言えるかもしれない。感情に騙されたなら、自ら感情を騙してみるのだ。人間は手のひらで空を覆おうとし、小さな誉め言葉で自尊心を回復することもある。時には、感情をなだめ、欺いてでも安定を見つけるべきではないか。それによって、約束への信頼を回復する足がかりが得られるならば。 詩人は絶望的な現実の中でも、心の告白を止めることなく、最後には賛美で詩を締めくくっている。「主をとこしえにほめたたえよ。アーメン、アーメン(詩篇89:52)」。この最後の節から感じられる呼吸は、胸がいっぱいになるようだ。賛美が詰まってしまっているが、それでももがきながら賛美の場所へ向かっているように見える。感情に打ち勝てない現実、その「現実」という衣を一時的に脱ぐことができる力は、宗教と芸術が本来的に持っていたものである。賛美はついには心の汚れを洗い流し、感情を新たにしてくれるだろう。彼は感情が崩れた中でも、絶えず祈りの詩を書き続けていた。詩が完成した頃には、彼は再び耐える力を得ていただろう。