Ⅰテモテ 黙想 【神学と律法の役割】 20250708(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
Ⅰテモテ 1:1~11 1:1 私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。 1:3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、 1:4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。 1:5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。 1:6 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、 1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。 1:8 私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。 1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、 1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、噓をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。 1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。 パウロはテモテにエペソの教会を託し、他の教えを説く者たちに警戒するように言います。この「他の教え」とは、福音の本質を曖昧にする思弁的な信仰を指しています。見分けるべきことは、真実か偽りかという問題ではなく、「信仰の言葉」と「信仰でない言葉」とを区別することです。信仰でない言葉は、たとえ悪意がなくとも、最終的には悪しき結果をもたらすのです。 当時のユダヤ伝統に基づく系図論争やグノーシス主義は、福音を単なる知識体系に還元し、共同体を分裂させる危険な思想でした。福音を知る者は、そのような誤りに陥ることはありません。誤りは神学を学ばなかったから起こるのではなく、福音を知らないことから生じます。神学は教会の意味や価値を創出したり、教会の存在を証明するための手段ではなく、教会が福音をより明確に証しするために存在する言語であるべきです。 パウロは律法の本質についても明確に述べています。律法は「正しい人」のためではなく、「不法な者や罪人」のためにあるのです。律法は罪を明らかにし、福音の必要性を自覚させるための道具です。律法が福音と切り離されるなら、共同体は裁きと比較、功績主義による傲慢と偽善、そして功績主義の舞台となってしまうでしょう。 宗教的・学問的優越を誇ろうとする態度は、すべて共同体が警戒すべき害悪です。正しい教えとは、知的優越のための道具ではなく、教会を通して人々を変化させる命の通路でなければなりません。エペソ教会は今、核心を周辺へと押しやり、形式が本質を飲み込もうとしています。パウロの心は焦っています。福音と共同体を愛する者は、その現状を見極めることができるでしょう。