에스겔 묵상 【떠나는 하나님의 영광】 20250731(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 10:9~22 10:09 내가 보니 그룹들 곁에 네 바퀴가 있는데 이 그룹 곁에도 한 바퀴가 있고 저 그룹 곁에도 한 바퀴가 있으며 그 바퀴 모양은 황옥 같으며 10:10 그 모양은 넷이 한결 같은데 마치 바퀴 안에 바퀴가 있는 것 같으며 10:11 그룹들이 행할 때에는 사방으로 향한대로 돌이키지 않고 행하되 돌이키지 않고 그 머리 향한 곳으로…

エゼキエル 黙想 【亜麻布と炭火】 20250730 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 10:1~8 10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上の大空に、サファイアのような、王座に似たものがあり、それがケルビムの上に現れた。 10:2 主は亜麻布の衣をまとった者に命じられた。「ケルビムの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを都の上にまき散らせ。」この人は私の目の前でそこに入って行った。 10:3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。 10:4 主の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。 10:5 そのとき、ケルビムの翼の音が外庭にまで聞こえた。それは、全能の神が語られるときの声のようであった。 10:6 主が亜麻布の衣をまとった者に「車輪の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じられると、この人は入って行き、輪のそばに立った。 10:7 すると、ケルビムのひとりがケルビムの間から、ケルビムの間にある火の方に手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣をまとった者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。 10:8 ケルビムの翼の下には人間の手の形があった   神の栄光が去り始めたとき、エゼキエルが見た聖所の幻は厳粛だった。神は亜麻布(あまぬの)を身にまとった者に命じ、ケルブの下にある炭火を取って、エルサレムの町の上に撒き散らすようにされた。神が人間の堕落した宗教の場を離れるという象徴は、炭火を町に投げ与えることで表された。その炭火は裁きの火であると同時に、清めと回復をもたらす密やかな火でもあった。   木は特別な素材である。炭は、木が完全に燃え尽きた姿だ。木は燃え尽きても、炭という新たな存在として再び始まる。中途半端に燃えた薪は煙だけを上げ、再び火を灯すのは難しいが、炭は静かな熱意を内に秘め、再び火を宿す。激しくはないが、決して冷めることなく、深く、穏やかに燃え続ける。   炭にはそれ自体に清めの使命がある。浄水器のフィルターは炭の原理を利用している。水に入れれば水が清められ、空気中に置けば空気が浄化され、土に入れれば土壌が良くなる。炭は周囲のものを清める。神は人を炭のように造り、用いられることもある。荒野の火はモーセを40年間燃やし尽くし、彼が完全に燃え尽きて炭のようになったとき、神は彼を再び呼び出された。失敗と挫折を経験していたペテロのために、復活のイエスは炭火で魚を焼いて待っておられた。   ケルブの下にある炭火を持ち出す者は、亜麻布を身にまとっていた。粗布(あらぬの)は粗く織られた布だが、亜麻布は時間と手間をかけて、亜麻を精製し、緻密に織り上げて得られるものだ。それは麻布よりも繊細で、さらに清らかな衣、すなわちリネン、セイマホ(細麻布)である。それはイエスの遺体を包んだ布であり、『ヨハネの黙示録』に登場する小羊の花嫁が身にまとう義の衣でもある。   芯を持つ木は炭になる。炭になった人は、自らを焼いた火を静かに内に抱く。だから、その人のそばにいると、心が落ち着き、温かさに包まれる。一片の炭をのぞき込めば、その中には広大な銀河が瞬いている。偽りと貪欲は火によって焼かれ、炭は残された世界を清めていくだろう。亜麻布をまとい、炭火のように長く燃え続け、再び火を宿した人。そんな人がいるところに、神の栄光は再び戻ってくるのだ。  

에스겔 묵상 【베옷과 숯불】 20250730(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 9:1~11 9:1 그가 또 큰 소리로 내 귀에 외쳐 가라사대 이 성읍을 관할하는 자들로 각기 살륙하는 기계를 손에 들고 나아오게 하라 하시더라 9:2 내가 본즉 여섯 사람이 북향한 윗문 길로 좇아 오는데 각 사람의 손에 살륙하는 기계를 잡았고 그 중에 한 사람은 가는 베옷을 입고 허리에 서기관의 먹 그릇을 찼더라 그들이 들어 와서 놋…

エゼキエル 黙想 【聖所から始まる裁き、額に印を受けた者たち】 20250729 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 9:1~11 9:1 この方は私の耳に大声で叫ばれた。「破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い。」 9:2 見ると、六人の男が、それぞれ打ち壊す武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もう一人の人が、亜麻布の衣をまとい、腰には書記の筆入れを付けて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。 9:3 ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルビムから立ち上り、神殿の敷居へ向かっていた。腰に書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている者を呼び寄せて、 9:4 主は彼にこう言われた。「都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。」 9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。「この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない。 9:6 年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。 9:7 それから主は彼らに言われた。「神殿を汚し、庭を刺し殺された者で満たせ。さあ、行け。」彼らは出て行って、都の中で打ち殺した。 9:8 彼らが打ち殺しているとき、私だけが残された。私はひれ伏して叫んだ。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出し、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのですか。」 9:9 主は私に言われた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、地は流血で満ち、都も不正で満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は見ておられない』と言っているのだ。 9:10 だから、わたしもあわれみをかけない。わたしは惜しまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行いを返す。」 9:11 そのとき、腰に筆入れを付け、亜麻布の衣をまとった、あの人がこう報告した。「私は、あなたが私に命じられたとおりに行いました。」   神は裁きの中にあっても、共同体の罪を知り、嘆き悲しむ者たちを区別される。救いの印を受けた者とは、敬虔な外見を持つ者でもなく、宗教的行為に慣れ親しんだ者でもない。罪を知り、それを認め、嘆き悲しみ、涙を流す者たちである。時代と共同体の罪に心を痛め、悲しむ者たちである。イエスが山上の垂訓で「悲しむ者は幸いである。彼らは慰められるであろう」と語られた、その人々である。 エゼキエルが見た「印」は、裁きから守られる保護のしるしであると同時に、究極的には神の所有として生きる存在であることを認められた者たちの証でもある。多くの人々が聖所の中にいたが、自分の欲望に従っていた者たちは、裁きを免れることができなかった。しかし、どこかで時代と共同体の罪に心を痛め、嘆き悲しんだ者たちは、神の保護を受けることができた。 本当に恐れるべきことは、神が「聖所から裁きを始める」と言われたその言葉である。キリスト者にとって、世の堕落よりも恐ろしいのは、神を信じる者たちの無感覚と自己欺瞞である。宗教は信仰を内包する器であるが、その本来の目的を失った瞬間、神に敵対する側に立つことになる。だからこそ、神はご自身の家から裁きを始められるのである。 「印」は、守られる象徴であると同時に、聖なる責任のしるしでもある。信仰と良心が悲しむべき時に、宗教的な誇りを語る愚か者たちがいる一方で、救いと信仰の誇りを語るべき時に、それを恥ずかしく思う偽りの者たちもいる。私の額に刻まれた永遠の救いのしるし、イエス・キリストを誇りとし、時代が直面する宗教の堕落に心を痛め、それに責任を持つことのできるキリスト者を、神はきっと区別されるであろう。  

에스겔 묵상 【성소에서 시작되는 심판, 이마에 표를 받은 사람들】 20250729(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 9:1~11 9:1 그가 또 큰 소리로 내 귀에 외쳐 가라사대 이 성읍을 관할하는 자들로 각기 살륙하는 기계를 손에 들고 나아오게 하라 하시더라 9:2 내가 본즉 여섯 사람이 북향한 윗문 길로 좇아 오는데 각 사람의 손에 살륙하는 기계를 잡았고 그 중에 한 사람은 가는 베옷을 입고 허리에 서기관의 먹 그릇을 찼더라 그들이 들어 와서 놋…

エゼキエル 黙想 【偶像を礼拝する神の聖所】 20250728 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 8:1~18 8:1 第六年の第六の月の五日、私が自分の家に座っていて、ユダの長老たちも私の前に座っていたとき、神である主の御手がそこで私の上に下った。 8:2 私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見えるところから下の方が火であり、腰から上の方が琥珀のきらめきのように輝いて見えた。 8:3 すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす「ねたみ」という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。 8:4 なんと、そこには、私がかつて平地で見た幻と同じような、イスラエルの神の栄光があった。 8:5 その方は私に言われた。「人の子よ。さあ、目を上げて北の方を見よ。」私が目を上げて北の方を見ると、なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像があった。 8:6 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。あなたはなおもまた、大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:7 それから、この方は私を庭の入り口に連れて行かれた。見ると、壁に一つの穴があった。 8:8 この方は私に言われた。「人の子よ。さあ、壁に穴を開けて通り抜けよ。」私が壁に穴を開けて通り抜けると、一つの入り口があった。 8:9 この方は私に言われた。「入って行き、彼らがここでしている悪い忌み嫌うべきことを見よ。」 8:10 私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた。 8:11 また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた。 8:12 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちが、暗闇の中、それぞれ自分自身の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。」 8:13 また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:14 それから、この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。 8:15 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。あなたはなおもまた、これよりも大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:16 それから、この方は私を主の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、主の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは主の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた。 8:17 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ、彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしているではないか。 8:18 だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」   バビロンにいたエゼキエルは幻の中でエルサレムの神殿に導かれ、そこで起こっている偶像礼拝の光景を目撃します。神殿の内外では密かに獣の形に香を焚き、バビロンの神を拝み、太陽に向かってひれ伏しています。エゼキエルの幻はメタ認知です。その時代の宗教から一歩外に出て、現実を痛烈に見つめています。教会でさえも神を排除し、他のものに心を奪われながら生きる霊的姦淫を告発しているのです。神がもはや我慢されないと語られる臨界点です。 偶像が目に見えるものであれば、恐れることもあるでしょう。しかし偶像とは目に見えるものではなく、人間の欲望が何らかの形をとったに過ぎません。すべての偶像礼拝の本質は他宗教にあるのではなく、自分自身を礼拝する「自己崇拝」にあります。偶像とは気づかぬうちに作り出されたものであり、つまりは自我の欲望が宗教の名を借りて乗っかっているのです。神殿の中で偶像礼拝が行われるというのは、大胆だからではなく、むしろ卑怯だからです。宗教から抜け出す勇気もなく、神を歪め、自分の欲望に置き換えるという卑怯さに他なりません。 人間は常に見えるもの、触れるものを作り、それに「神」という名札をつけようとします。神を信じていると言う人でさえ、御言葉との人格的な関係を始めず、感覚にばかり頼っています。しかし、自分の考えと心を信じることを「信仰」とは言いません。そこから聞こえてくる声が本当に神のものであるとは限りません。聖書を読み、それを解釈し、自分の人生に重ね合わせるべきです。自己省察のない、ただ自分のための要求だけをする宗教的形態は、すでに偶像になっているのです。偶像を避ける道は、神の御言葉という人格的な通路のほかにありません。 偶像を捨てるとは、単に物を取り除くことではなく、人生の中心軸を再び神へと移すことです。福音の力とは自分を覆い隠すことではなく、貪欲な自我とそのために築いたものを自ら降ろす勇気にあります。神より良いものなど本来ありません。神より良く見えるもの、それを打ち壊してこそ神の美しさが見え、そしてそのとき、教会と信徒の隅々に入り込んでいた偶像も力を失うことでしょう。  

에스겔 묵상 【우상을 숭배하는 하나님의 성전】 20250728(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 8:1~18 8:1 제 육년 유월 오일에 나는 집에 앉았고 유다 장로들은 내 앞에 앉았는데 주 여호와의 권능이 거기서 내게 임하기로 8:2 내가 보니 불같은 형상이 있어 그 허리 이하 모양은 불 같고 허리 이상은 광채가 나서 단 쇠 같은데 8:3 그가 손 같은 것을 펴서 내 머리털 한 모숨을 잡으며 주의 신이 나를 들어…

エゼキエル 黙想 【エルサレムの責任感】 20250724 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 5:1~17 5:1 人の子よ、あなたは鋭い剣を取れ。それを床屋のかみそりのように使って、あなたの髪とひげを剃れ。それから秤を使って量り、その毛を分けよ。 5:2 その三分の一を、包囲の期間の終わるときに町の中で焼き、またもう三分の一を取って町の周りで剣で打ち、残りの三分の一を風に乗せて散らせ。わたしは剣を抜いてその後を追う。 5:3 あなたはそこからわずかな毛を取って、あなたの衣の裾に包み、 5:4 その中からさらにいくらかを取って、火の中に投げ入れ、火で燃やせ。火がそこから出て、イスラエルの全家に燃え移る。」 5:5 神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。 5:6 エルサレムは悪事を働き、諸国の民以上にわたしの定めに、周囲の国々以上にわたしの掟に逆らった。実に、エルサレムはわたしの定めを嫌い、わたしの掟に従って歩まなかった。 5:7 それゆえ──神である主はこう言われる──あなたがたは周りの国々よりも粗暴な者たちで、わたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを行わず、それどころか、あなたがたの周りの国々の定めさえ行わなかった。 5:8 それゆえ──神である主はこう言われる──今、わたしはあなたを敵とし、国々の目の前で、あなたのただ中でさばきを下す。 5:9 あなたのしたすべての忌み嫌うべきことのゆえに、これまでしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたに対して行う。 5:10 それで、あなたのうちの父は自分の子どもを食べ、子どもは自分の父を食べるようになる。わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をみな四方に散らす。 5:11 それゆえ──神である主のことば──わたしは生きている。あなたが、あらゆる忌まわしいものと、あらゆる忌み嫌うべきことによって、わたしの聖所を汚したので、わたしもまた身を引き、あわれみをかけない。わたしもまた、惜しまない。 5:12 あなたの三分の一は疫病で死ぬか、あなたのただ中で飢饉によって滅び、三分の一はあなたの周りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らの後を追う。 5:13 わたしの怒りが出し尽くされると、わたしは彼らに対する憤りを収めて満足する。わたしが彼らに対する憤りを終わらせたとき、彼らは、主であるわたしが、ねたみをもって語ったことを知る。 5:14 わたしは、あなたの周りの国々の中で、通り過ぎるすべての者の目の前で、あなたを廃墟とし、そしりの的とする。 5:15 わたしが、怒り、憤り、また憤りによる懲罰をもってあなたにさばきを下すとき、あなたは周りの国々のそしりとののしりの的、教訓と恐怖となる。主であるわたしがこれを告げる。 5:16 わたしが飢饉という悪しき矢を、滅びのため彼らに放ち、あなたがたを滅ぼそうとして放つとき、わたしは飢饉をあなたがたの上にいっそう増して、あなたがたのパンの蓄えをなくす。 5:17 わたしはあなたがたに飢饉と悪い獣を送る。それらはあなたに子を失わせる。疫病と流血があなたのうちに起こる。わたしはあなたの上に剣をもたらす。主であるわたしがこれを告げる。」   エルサレムは神が世の基準として立てられた神の都でしたが、エゼキエルの時代の人々はその基準を崩し、中心を打ち砕いてしまいました。宗教的にも文化的にも神殿といけにえは存在していましたが、その中に神への畏れや聖さへの渇望はありませんでした。恵みに鈍感で、その恵みを与えた神を無視する時、人間はその恵みという材料を使って、悪以上の悪を選んでしまうことさえあります。 エルサレムの堕落は、倫理的な失敗ではなく、契約を裏切った集団的な反逆でした。選民として与えられた特権を盾にして、神の名を汚した秩序の転覆でした。「恵み」という言葉をどう定義すべきでしょうか。恵みは、必要な時に使う割引クーポンのようなものではありません。責任を引き受ける姿勢であり、神のものを守ろうとする献身であるべきです。恵みが本物であるならば、その恵みを受けた人の人生も本物でなければなりません。 エゼキエルは自分の髪とひげを剃り、火で焼き、剣で斬り、風に散らしました。それはエルサレムが直面する飢饉と疫病、バビロンの剣、滅亡と捕囚を象徴しています。神の裁きは、汚された聖を清めようとする神の熱意であり、汚された神の御名を再び回復しようとする道のりです。神への信仰の責任を果たすことは、すなわち自分自身に対する責任を果たすことであると、彼らは苦しみの中で気づくことになるでしょう。  

에스겔 묵상 【예루살렘의 책임감】 20250724(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 5:1~17 5:1 인자야 너는 날카로운 칼을 취하여 삭도를 삼아 네 머리털과 수염을 깎아서 저울에 달아 나누었다가 5:2 그 성읍을 에워싸는 날이 차거든 너는 터럭 삼분지 일은 성읍 안에서 불사르고 삼분지 일은 가지고 성읍 사방에서 칼로 치고 또 삼분지 일은 바람에 흩으라 내가 그 뒤를 따라 칼을 빼리라 5:3 너는 터럭 중에서 조금을 가져 네…

エゼキエル 黙想 【パフォーマンスアーティスト、エゼキエル】 20250723 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 4:1~17 4:1 人の子よ。あなたは粘土の板を一枚取り、それを自分の前に置き、その上にエルサレムの町を描け。 4:2 それから、それに対する包囲網を張れ。それに対して塁を築き、包囲壁を作れ。それに対して陣営を設け、周りに城壁崩しを配備せよ。 4:3 また、鉄の板一つを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立てよ。あなたが自分の顔をしっかりとこの町に向けると、この町は包囲される。あなたがこれを攻め囲むのだ。これがイスラエルの家に対するしるしだ。 4:4 あなたは左脇を下にして身を横たえ、イスラエルの家の咎をその上に置け。あなたがそのように横たわっている日数だけ彼らの咎を負え。 4:5 わたしはあなたのために、彼らの咎の年数を日数にして三百九十日とする。このように、あなたはイスラエルの家の咎を負わなければならない。 4:6 あなたがこれらのことを終えたら、次に右脇を下にして身を横たえ、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは一年を一日としてあなたに課す。 4:7 それから、あなたは顔をしっかりと、包囲されているエルサレムの方に向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。 4:8 見よ。わたしはあなたに縄をかけ、あなたの包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする。 4:9 あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、粟、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それで自分のためにパンを作り、あなたが脇を下にして横たわっている日数、すなわち三百九十日間それを食べよ。 4:10 あなたが食べる食物は、重さにして一日分二十シェケルである。一日一回それを食べよ。 4:11 あなたが飲む水も、六分の一ヒンを量って、それを一日一回飲め。 4:12 あなたは大麦のパン菓子を食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け。」 4:13 主は言われた。「このようにイスラエルの民は、わたしが追いやる国々の中で、自分たちの汚れたパンを食べなければならない。」 4:14 そこで私は言った。「ああ、神、主よ。私は身を汚したことがありません。幼い時から今まで、死んだ動物や野獣にかみ裂かれたものを食べたことも、不浄な肉を口にしたこともありません。」 4:15 すると、主は私に言われた。「では、人の糞の代わりに牛の糞でよい。あなたはその上で自分のパンを作れ。」 4:16 そして私に言われた。「人の子よ、見よ。わたしはエルサレムで、パンの蓄えをなくそうとしている。彼らは恐る恐る量ってパンを食べ、おびえながら水を量って飲む。 4:17 こうしてパンと水が乏しくなり、だれもかれもが茫然として、自分たちの咎のゆえに朽ち果てる。   神の言葉を語っても誰も耳を傾けなかった時代、預言者は自分の語るべき言葉が尽きたとき、それ以上何も語らなかった。神は預言者を横たわらせ、彼の口ではなく、もがきと沈黙によってご自身の言葉を続けられた。その沈黙の重みこそ、聞かれなかったその言葉の重みであった。沈黙は神の叫びだった。パフォーマンス・アートは言葉で説明しない。身体で空間と時間をつくり、沈黙し、繰り返すことでメッセージを伝える。説教者は説教を止め、パフォーマンス・アーティストとなって身体でメッセージを展示したのである。 エゼキエルはレンガの上にエルサレムを描き、それが敵に包囲される場面を演出した。左を向いて390日、右を向いて40日、民族の罪と裁きを自らの身体で背負った。恐怖を身体で視覚化した預言だった。一年以上にわたって続いたパフォーマンスである。彼は言葉を語らなかったが、語りたいことはあった。言葉を使わず、むしろ切実に訴えていた。パンを焼くときには人糞で火を起こし、水も制限された。人糞でパンを焼くということは、尊厳が崩れたということだ。尊厳を捨てなければ生き延びることができないという予告だった。 神の言葉は、耳があるから聞こえるのではなく、目があるから見えるのでもない。自分自身を徹底的に打ち砕かない限り、本来の神の言葉は聞こえてこないのだ。見張り人のサイレンも聞こえず、預言者のもがきも見えない。エゼキエルが言葉で語ったときも宣言するだけで説明はせず、この奇怪なパフォーマンスの意味も彼自身からの解釈や説明はなかった。 神の言葉を聞こうとする者は、自ら解釈しなければならない。読書も同じである。解釈しながら読む本は自分の知識になるが、文字だけを読んだものは何も残らない。信仰のためには、聖書を読むことや暗唱することよりも、解釈し、書くことのほうが大切である。誰もエゼキエルの説教を聞いて生き方を変えようとせず、彼の身振りを見て意味を読み取ろうともせず、彼の沈黙から何かを聞き取ろうともしなかった。民が神の言葉を聞けなかったのは、聴覚障害ではなく、「解釈障害」だったのだ。エゼキエルの言葉と行動はすべて、解釈を要求していた。神のメッセージを聞いて、それを解釈しようとする努力をしない者は、結局何も聞いていなかったという事実に気づくことになるだろう。