에스겔 묵상 【행위예술가 에스겔】 20250723(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 4:1~17 4:1 너 인자야 박석을 가져다가 네 앞에 놓고 한 성읍 곧 예루살렘을 그 위에 그리고 4:2 그 성읍을 에워싸되 운제를 세우고 토둔을 쌓고 진을 치고 공성 퇴를 둘러 세우고 4:3 또 전철을 가져다가 너와 성읍 사이에 두어 철성을 삼고 성을 향하여 에워싸는 것처럼 에워싸라 이것이 이스라엘 족속에게 징조가 되리라 4:4 너는 또 좌편으로…

エゼキエル 黙想 【見張り人の責任】 20250722 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 3:16~27 3:16 七日の終わりになって、次のような主のことばが私にあった。 3:17 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞き、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。 3:18 わたしが、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。 3:19 もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。 3:20 また、正しい人がその正しい行いをやめて不正を行うなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。あなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のゆえに死ぬ。彼が行った正しい行いは覚えられない。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。 3:21 しかし、もしあなたがその正しい人に、罪を犯さないように警告を与え、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を聞いたのであるから、彼は必ず生き、あなたも自分のいのちを救うことになる。」 3:22 その場所で主の御手が私の上にあった。主は私に言われた。「さあ、平地に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」 3:23 私は平地に出て行った。すると、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、そこにとどまっていた。それで私はひれ伏した。 3:24 それから、霊が私のうちに入り、私を自分の足で立たせた。主は私に語りかけられた。「行って、あなたの家に閉じこもっていなさい。 3:25 人の子よ。今に人々があなたに縄をかけて縛るので、あなたは彼らのところに出て行けなくなる。 3:26 わたしがあなたの舌を上あごに付かせるので、あなたは話せなくなり、あなたは彼らにとって責める者ではなくなる。彼らは反逆の家なのだから。 3:27 しかしわたしは、あなたと語るときにあなたの口を開く。あなたは彼らに『神である主はこう言われる』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らは反逆の家なのだから。   神はイスラエルのためにエゼキエルを見張り人として立てられた。見張り人とは、夜警や警備兵という意味よりも、予見力と霊的な感受性を持ち、時代の危機を察知してそれを警告できる人のことである。単なる見張り番ではなく、神の視点で世界をいち早く読み取り、神の命令に真っ先に応答する者である。 神はエゼキエルに対して、悪人にも正しい人にも警告するよう命じられ、それを実行しない場合は、その人の血の責任をエゼキエルに問うと語られた。つまり、エゼキエルの責任は悪人を義人にすることではなく、すべての人に伝えることである。警告の責任は非常に重い。語らなかったために救いに至らなければ、その死の責任は語らなかった見張り人にあるのだ。 だから、どんな手段を使ってでも伝えなければならない。軍人は勝手に行動しない。命令系統の中で上官の指示に従って任務を遂行し、その過程と結果を報告することで責任を果たす。だから「第一に報告、第二にも報告、第三は報告の確認」と言われるのだ。任務の責任は見張り人にあるが、作戦の判断と最終結果の責任はすべて命令権者にある。エゼキエルは戦略家ではなく伝達者であり、その救いの作戦を主導されるのは神ご自身である。 預言者は悔い改めの結果まで制御したり責任を負ったりはしない。ただ神の言葉を伝えるだけであり、その結果は聞いた者の責任である。CCC(キャンパス・クルセード・フォー・クライスト)で伝道訓練を受けたとき、「成功した伝道とは、聖霊の力によりイエス・キリストを伝え、その結果は神に委ねることだ」と教えられた。語ることの責任は避けられないが、その結果に対する責任は負わない。神もエゼキエルにその責任の限界を明確にされた。 したがって、「宣教がうまくいかない」という言葉は、神学的にも実践的にも成立しない。宣教とは結果で判断されるものではなく、福音が語られるその行為自体が宣教なのである。人が集まらなかった、教会が建てられなかった、洗礼を授けられなかったからといって、宣教をしていないということにはならない。福音を語らないこと、それこそが宣教をしていないということだ。伝道者はただ語るだけ、見張り人はただ警告するだけだ。 22節以下では、神がエゼキエルにしばらく語ることを禁じ、再び神の言葉が与えられたときだけ語るよう命じている。これは命令権者である神の権威と責任を再確認させるためである。沈黙していても、神の言葉が与えられれば、はっきりと語らねばならない。荷はそれほど重くはない。ノルマを達成しろと迫られるわけではないからだ。時が良くても悪くても語ればよい。救いは神の領域にあり、語ることは伝道者の責任である。 だから、日本宣教がうまくいっていないのか、それともしていないのか、考えるべき問題である。福音が拒まれているのか、それとも見張り人が口を閉ざしているのか、考えるべき問題である。神は今も語っておられ、今も遣わし、今も救い、今も警告されている。見張り人はその口を開いて語らなければならない。

에스겔 묵상 【파수꾼의 책임】 20250722(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 3:16~27 3:16 칠일 후에 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 3:17 인자야 내가 너를 이스라엘 족속의 파숫군으로 세웠으니 너는 내입의 말을 듣고 나를 대신하여 그들을 깨우치라 3:18 가령 내가 악인에게 말하기를 너는 꼭 죽으리라 할 때에 네가 깨우치지 아니하거나 말로 악인에게 일러서 그 악한 길을 떠나 생명을 구원케 하지 아니하면 그 악인은 그 죄악 중에서…

Ⅰテモテ 黙想 【しかし、神の人よ】 20250717 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 6:11~21 6:11 しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。 6:12 信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。 6:13 私は、すべてのものにいのちを与えてくださる神の御前で、また、ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 6:14 私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。 6:15 キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 6:16 死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。 6:17 今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、 6:18 善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、 6:19 来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。 6:20 テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。 6:21 ある者たちはこの「知識」を持っていると主張して、信仰から外れてしまっています。恵みがあなたがたとともにありますように。   パウロはテモテを「神の人」と呼びました。なんと胸に迫る呼び名でしょうか。テモテも、パウロから「神の人」と呼ばれることに大きな喜びを感じたに違いありません。「あなたは神の人なのだ!」——誰かがそのように私の信仰や神との関係を認めてくれたなら、私もきっと嬉しいことでしょう。しかし、それは同時に重い責任を伴う呼び名でもあります。何を求められても、それを守り、「神の人」として生きなければならないからです。 パウロは、テモテと、彼から教えを受けるすべての人々に対して、世俗的な欲望や物質主義、そして虚偽の教えをきっぱりと退けるように勧め、代わりに、義と敬虔、信仰と愛、忍耐と柔和を追い求めるように促しています。神の人は「信仰の立派な戦い」を戦わなければなりません。それは個人の信仰生活のためだけではなく、真理が歪められる中で福音の真理を守り、宣教の妨げとなるものの中で福音を広めるという、共同体的な使命と直結しています。 だからこそパウロは、「神の人」に「ゆだねられたものを守れ」と命じています。ゆだねられたものとは、純粋な福音を守り、それを伝えることです。この二つは常に一体です。歪められれば伝えられなくなり、伝えなければ歪み始めます。だから、伝えることをやめて内に留まってしまうと、無意味なおしゃべりや偽りの知識の誘惑に陥ってしまいます。パウロはそれを徹底して警戒するよう強く訴えています。 テモテへの手紙の冒頭、1章2節でパウロはテモテを「真実の子」と呼びました。パウロは、「神の人」であり「愛する子」のようなテモテに、いつも言い続けてきました——「苦しみにあずかれ」、「福音のために苦しむ覚悟をせよ」と。幼いテモテは、ルステラで福音を伝えて血だらけになったパウロおじさんの姿を記憶していたでしょう。パウロがテモテを苦難へと招いたのは正当であり、テモテはいつも従順の立場に立っていました。本物の下には、本物が育つのです。 テモテは80歳を超える高齢でエペソにて牧会していたとき、アルテミス女神崇拝にふける町を公に批判し、イエス・キリストの福音を語ったため、怒り狂った群衆によって殉教しました。テモテは約束を守ったのです。福音を守り、福音を伝えることを決して諦めませんでした。テモテはパウロがどう死んだかを知っており、パウロが自分に何を教えたかも知っていました。神の人、パウロの真の子は、その約束を最後まで守ったのです。なんと美しい生涯でしょうか。 今日でテモテへの第一の手紙は終わりますが、私たちの信仰の機会もいつかは終わりを迎えるでしょう。与えられた時間を美しいものにするために、神の人々は、その約束を最後まで守り抜いて生きるべきなのです。

디모데전서 묵상 【오직 너 하나님의 사람아】 20250717(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 6:11~21 6:11 오직 너 하나님의 사람아 이것들을 피하고 의와 경건과 믿음과 사랑과 인내와 온유를 좇으며 6:12 믿음의 선한 싸움을 싸우라 영생을 취하라 이를 위하여 네가 부르심을 입었고 많은 증인 앞에서 선한 증거를 증거하였도다 6:13 만물을 살게 하신 하나님 앞과 본디오 빌라도를 향하여 선한 증거로 증거하신 그리스도 예수 앞에서 내가 너를 명하노니 6:14 우리 주…

Ⅰテモテ 黙想 【革命より強く】 20250716 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 6:1~10 6:1 奴隷としてくびきの下にある人はみな、自分の主人をあらゆる面で尊敬に値する人と思わなければなりません。神の御名と教えが悪く言われないようにするためです。 6:2 信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽んじることなく、むしろ、ますますよく仕えなさい。その良い行いから益を受けるのは信者であり、愛されている人なのですから。あなたはこれらのことを教え、また勧めなさい。 6:3 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、 6:4 その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。 6:5 これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。 6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。 6:7 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。 6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。 6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。 6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。   1世紀のエペソは、文化と商業の中心地である一方で、人間が物のように売買される奴隷市場が存在する街でもありました。人口の半分が奴隷であったとも伝えられています。そんな都市でパウロは、「奴隷も主人もキリストにあってひとつである」という急進的な宣言と共に教会を始めました。エペソの経済や宗教は、階層的に明確で差別化された、いわば「高級ブランド」のようなものでした。しかし、教会は奴隷と主人、ユダヤ人とギリシア人が共に礼拝するという、ぎこちなく不快感さえ伴う共同体として始まりました。 パウロは奴隷制度を正面から批判することも、革命を扇動することもしていません。それは人権意識がなかったからではありません。彼はまず、主人と奴隷が互いを兄弟と呼び、共にパンを裂き合い、仕え合う神の家族としての共同体を築こうとしたのです。人と人との間に存在する優劣という幻想を教会の中で打ち壊さなければ、次のステップへ進むことはできないと信じていたからでしょう。だからこそ彼は、奴隷たちに被害者意識に閉じこもることなく、まず主人を敬うように教えたのです。 今日の本文は、すべての立場にある共同体の構成員への言葉です。しかし、少なくとも本文の中には「主人に奴隷を仕えなさい」という命令は登場しません。だからといって主人は仕えなくてよい、という意味ではありません。他の書簡では、それも教えています。パウロは単に、愛の出発点をより低いところに設定しただけなのです。主人が奴隷に施す親切よりも、奴隷が主人に仕えるその心には、よりはっきりとした真実性が宿っているからではないでしょうか。何千年も後に奴隷制度の廃止のために闘った人々は、きっとパウロと、彼が残した書簡の中に、その志の根拠を見出したことでしょう。 世界における差別は、今もなお教会の敷居に引っかかっています。学歴、経済力、職業、性別、年齢、国籍、身体的条件……それらは人々を分ける線となります。政治的・制度的な取り組みは、差別を「禁止する」ところまではできます。しかし、それだけです。法や制度が人に愛を教えることはできません。それが律法の限界でもありました。福音は、政治的革命よりもさらに深い変革を求めます。制度よりも早く働く、隣人への関心、兄弟への思いやり、互いに受け入れるもてなし――それこそが福音の方法です。パウロは、悔しく、つらく、差別される立場にある奴隷たちに向かって、その主人を愛しなさいと語りました。

디모데전서 묵상 【혁명보다 강하게】 20250716(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

디모데전서 6:1~10 6:1 무릇 멍에 아래 있는 종들은 자기 상전들을 범사에 마땅히 공경할 자로 알지니 이는 하나님의 이름과 교훈으로 훼방을 받지 않게 하려 함이라 6:2 믿는 상전이 있는 자들은 그 상전을 형제라고 경히 여기지 말고 더 잘 섬기게 하라 이는 유익을 받는 자들이 믿는 자요 사랑을 받는 자임이니라 너는 이것들을 가르치고 권하라 6:3 누구든지 다른…

Ⅰテモテ 黙想 【持続可能なエペソ宣教のために】 20250715 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 5:17~25 5:17 よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために労苦している長老は特にそうです。 5:18 聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。 5:19 長老に対する訴えは、二人か三人の証人がいなければ、受理してはいけません。 5:20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。そうすれば、ほかの人たちも恐れを抱くでしょう。 5:21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちの前で、あなたに厳かに命じます。これらのことを先入観なしに守り、何事もえこひいきせずに行いなさい。 5:22 だれにも性急に按手をしてはいけません。また、ほかの人の罪に加担してはいけません。自分を清く保ちなさい。 5:23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を用いなさい。 5:24 ある人たちの罪は、さばきを受ける前から明らかですが、ほかの人たちの罪は後で明らかになります。 5:25 同じように、良い行いも明らかですが、そうでない場合でも、隠れたままでいることはありません。   パウロは教会の指導者に対する尊重と責任、そして共同体内の秩序と聖さについて語っています。ここでの「長老」とは、長老派教会の長老ではなく、今日で言えば牧師に近い教職者を指します。御言葉と教えのために労する指導者は、より多くの信頼と敬意を受けるべきであり、その責任に応じた正当な報酬を受けるべきだと述べています。牧師も一人の社会人として、責任と職務に対する公正な待遇を受けなければなりません。今日の教会は、過度な報酬を受ける一部の牧師と、生計すら困難な多くの牧師の間でそのバランスを失い、資本主義的な構造に変質しています。高い所にはへりくだりが必要であり、低い所には満たしが必要です。 教会財政の透明性と共同体としての責任は、神学的倫理の核心です。小規模な教会ほど、牧師にすべての財政運営を任せたり、重荷を負わせたりする場合が多いですが、これは牧師の誠実さと献身のみに依存する危険な構造です。教会は規模にかかわらず、財政の透明性と共同責任体制を確立し、牧師に過度な権限や負担をかけるのではなく、正当な経済的報酬を提供すべきです。指導者の権威を尊重し支援しつつも、抑制の仕組みを通して聖さを守らなければなりません。 そのためにパウロは、指導者選びにおいて慎重さを強調します。「軽々しく按手してはならない」というのは、教会の人事に慎重になれという意味です。外見的な基準ではなく、職務と信仰に基づいた識別が求められます。現代で言えば、牧師の見た目や出身校、学位などでは判断できないということです。牧師を立てる権威は教会にあります。牧師は教会に対して責任を持って献身し、教会は牧師に対して責任感を持たなければなりません。誰を立てたかということは、その共同体のレベルを示す印です。時が経てば、すべては明らかになるでしょう。牧師には管理や運営の能力よりも、本質的には御言葉の力が重要であり、信徒は主体的に管理や運営に参加すべきです。 パウロはテモテの健康にも細かく配慮します。形式的な敬虔さにとらわれず、少量のぶどう酒を薬用として使うように勧めます。健康を維持できなければ、何もできなくなるからです。指導者の健康は共同体の健康に直結しています。献身の象徴とも言えるパウロでしたが、後輩のテモテには、霊的な指導者にも身体的・心理的ケアが必要であることを語っています。しかし厳密には、パウロがテモテに語るテモテの権利と責任は、テモテ個人のためではなく、「持続可能な宣教のため」のものです。教会と牧会者は、持続可能な宣教と礼拝のために、知的にも霊的にも、そして身体的にも管理され、成長していかなければなりません。

디모데전서 묵상 【지속가능한 에베소 선교를 위해서】 20250715(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

5:17 잘 다스리는 장로들을 배나 존경할 자로 알되 말씀과 가르침에 수고하는 이들을 더할 것이니라 5:18 성경에 일렀으되 곡식을 밟아 떠는 소의 입에 망을 씌우지 말라 하였고 또 일군이 그 삯을 받는 것이 마땅하다 하였느니라 5:19 장로에 대한 송사는 두 세 증인이 없으면 받지 말 것이요 5:20 범죄한 자들을 모든 사람 앞에 꾸짖어 나머지 사람으로 두려워하게…

Ⅰテモテ 黙想 【パウロが愛した三人】 20250714 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰテモテ 5:1~16 5:1 年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、 5:2 年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。 5:3 やもめの中の本当のやもめを大事にしなさい。 5:4 もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずその人たちに、自分の家の人に敬愛を示して、親の恩に報いることを学ばせなさい。それが神の御前に喜ばれることです。 5:5 身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげていますが、 5:6 自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。 5:7 彼女たちが非難されることのないように、これらのことも命じなさい。 5:8 もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。 5:9 やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満ではなく、一人の夫の妻であった人で、 5:10 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助けるなど、すべての良いわざに励んだ人にしなさい。 5:11 若いやもめの登録は断りなさい。彼女たちは、キリストに背いて情欲にかられると、結婚したがり、 5:12 初めの誓いを捨ててしまったと非難を受けることになるからです。 5:13 そのうえ、怠けて、家々を歩き回ることを覚えます。ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話さなくてよいことまで話すのです。 5:14 ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子を産み、家庭を治め、反対者にそしる機会をいっさい与えないことです。 5:15 すでに道を踏み外し、サタンの後について行ったやもめたちがいるからです。 5:16 もし信者である女の人に、やもめの身内がいるなら、その人がそのやもめを助けて、教会に負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会は本当のやもめを助けることができます。   パウロはテモテに、教会内での人間関係における秩序について具体的な指針を与えています。年長者に信仰的な勧めをする際の注意点、未亡人など経済的弱者を助ける際の原則、家族の責任などに関する現実的な助言を通して、極端に傾いたときに見失いがちな反対側の価値を思い出させてくれます。 「何が規則か」よりも重要視しているのは、「どうすれば関係を損なうことなく、信仰の本来の目的を目指すことができるか」という牧会的な知恵と情緒的な感受性の要請です。教会内の公的な秩序について語っているように見えますが、その中にある私的な尊厳や関係の大切さも見落としてはいません。 教会は規範だけでは維持できません。パウロが規則を作っているように見えても、その背後には「規則だけでは支えきれない感情」という重みへの配慮が見て取れます。年長者にも矯正が必要なことはありますが、無礼を犯してはならず、貧しい未亡人に対して福祉を実践することも大切ですが、支援の対象となる状況を見極め、逆効果を避けることも忘れてはいけません。 この本文を先輩から受け取った手紙として読み、それを一言で要約するならば、「教会の秩序と個人の尊重の間にある複雑な問題を柔軟に乗り越えていくようにというパウロの気遣いに満ちた助言」と言えるでしょう。もちろんこれは共同体のための使徒的な識別ですが、制度的な教会論ではなく、関係的な有機体としての教会理解だと言えます。 規則として読んでも有益です。しかし、テモテはパウロの弟子として、それを機械的に規則化することなく、パウロが大切にしていた「教会の秩序」と「聖徒の尊重」という二つへの愛を汲み取っていたでしょう。そしてその愛に従って、原則を守りつつも、より広い器の人格をもって信徒たちに接したに違いありません。ここでパウロが愛したのは、キリストの体なる教会、その中の聖徒たち、そして愛する後輩テモテでした。