스가랴 묵상 【자기효능감 향상】 20251027(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 12:1~14 12:1 이스라엘에 관한 여호와의 말씀의 경고라 여호와 곧 하늘을 펴시며 땅의 터를 세우시며 사람 안에 심령을 지으신 자가 가라사대 12:2 보라 내가 예루살렘으로 그 사면 국민에게 혼취케 하는 잔이 되게 할것이라 예루살렘이 에워싸일 때에 유다에까지 미치리라 12:3 그날에는 내가 예루살렘으로 모든 국민에게 무거운 돌이 되게 하리니 무릇 그것을 드는 자는 크게 상할 것이라…

ゼカリヤ 黙想 【自己効力感の向上】 20251027(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 12:1~14 12:1 宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。 12:2 「見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。 12:3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。 12:4 その日──主のことば──わたしはすべての馬を打って驚かし、その乗り手を狂わせる。しかし、わたしはユダの家の上に目を見開き、もろもろの民のすべての馬を打ってその目を見えなくする。 12:5 ユダの首長たちは心の中で言う。『エルサレムの住民は、彼らの神、万軍の主によって私の力となる。』 12:6 その日、わたしはユダの首長たちを、薪の中にある火鉢のようにし、麦束の中にある燃えるたいまつのようにする。彼らは右も左も、周りにいるどの民も焼き尽くす。しかしエルサレムはなお、元の場所エルサレムに残る。 12:7 主は最初にユダの天幕を救う。ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えが、ユダ以上に大きくならないようにするためである。 12:8 その日、主はエルサレムの住民をかくまう。その日、彼らの中のよろめき倒れる者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになって、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。 12:9 その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。 12:10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。 12:11 その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダド・リンモンのための嘆きのように大きくなる。 12:12 この地は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆く。ダビデの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。ナタンの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。 12:13 レビの家の氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。シムイの氏族はひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。 12:14 残りのすべての氏族は、あの氏族もこの氏族もひとり嘆き、その妻たちもひとり嘆く。   帰還そのものが、すでに神の回復の始まりであった。ユダの民は捕囚の地から帰り、崩れた神殿は再び建てられていた。捕囚時代を思えば、それは驚くべき機会であり祝福であった。しかし、現実の回復がすぐに心の回復を意味するわけではなかった。民は自信を失ったまま生きていた。帰ってきたとはいえ、独立を得たわけではない。依然として支配を受け、みずからを小さく、取るに足らない存在のように感じていた。回復のために与えられた課題を果たすには、経験も意志も、そして力量も足りなかった。回復は始まっていたが、「本当に私たちにそれを成し遂げることができるのだろうか」という不安が心を支配していた。 そのような彼らに、神はこう語られた。「わたしは天を張り、地の基を定め、人のうちに霊を造った者である」(12:1)。これは神についての新しい情報を教えているのではなく、「あなたがたの内に、天と地と人の心を造ったわたしの力がすでに宿っている」と告げているのである。ゼカリヤの時代は喪失と絶望の時代ではなかった。問題は外にあるのではなく、内側にあった。自己効力感が低下していたのだ。民は神の約束を知ってはいたが、自分たちにはそれを実行する力がないと思い込んでいた。心が萎えると、信じることと知っていることが分離してしまう。それは不信仰の問題ではなく、自己認識の縮小――すなわち自分を小さく見ることが最大の問題であった。 だからこそ、神はエルサレムを「重い石」とすると言われた。重みをもって耐えられるのは、神が下から支えておられるからだ。世界がそれを持ち上げようとしても持ち上げられず、かえって傷を負うことになる。これは神が民の低い自尊心を慰め、実際に力となってくださるという意味である。神はこの世の力の秩序の中で、彼らを軽く弱い存在のまま放置されはしない。「その日、弱い者もダビデのようになる」と主は言われた。その神の慰めと配慮は涙ぐましいほどである。神は自信を失った民に、ダビデという誇りを呼び覚まし、そのアイデンティティを回復させる。弱い者がダビデのようになるというのは、ダビデの力を真似ることではなく、ダビデのうちにおられた神を信頼せよという招きなのである。 神は彼らの力量を補うのではなく、視線を変えさせられる。「自分自身を見るな。あなたがたの内で働くわたしを見よ。」――これがゼカリヤ12章の福音である。神の回復は新しい約束ではなく、すでに始まっている約束の再確認である。追い詰められるとすぐに沈み、落ち込む弱い人間のための慰めである。神は萎縮した民に向かって、「あなたがたの内に、すでにわたしが始めた業がある」と語られる。神の約束を信頼する信仰は、揺れ動く卑しい感情さえもつなぎとめることができる。自己効力感がなく、世の中が怖いときは、神の約束の効力感によってその危機を乗り越えよう。真の信仰は偽りの感情に勝つことができる。

스가랴 묵상 【자기효능감 향상】 20251027(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 12:1~14 12:1 이스라엘에 관한 여호와의 말씀의 경고라 여호와 곧 하늘을 펴시며 땅의 터를 세우시며 사람 안에 심령을 지으신 자가 가라사대 12:2 보라 내가 예루살렘으로 그 사면 국민에게 혼취케 하는 잔이 되게 할것이라 예루살렘이 에워싸일 때에 유다에까지 미치리라 12:3 그날에는 내가 예루살렘으로 모든 국민에게 무거운 돌이 되게 하리니 무릇 그것을 드는 자는 크게 상할 것이라…

ゼカリヤ 黙想 【裁きの領域】 20251023(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 9:1~8 9:1 宣告。主のことばはハデラクの地にあり、ダマスコは、それがとどまる場所。主に向けられるのは、人々の、そしてイスラエルの全部族の目。 9:2 これに境を接するハマテや、非常に知恵のあるツロやシドンの目も。 9:3 ツロは自分のために砦を築き、銀をちりのように、黄金を道端の泥のように積み上げた。 9:4 見よ。主はツロを占領し、その富を海に打ち捨てる。ツロは火で焼き尽くされる。 9:5 アシュケロンは見て恐れ、ガザも大いにもだえる。エクロンもだ。自分たちが頼みにしていたものが辱められたからだ。ガザから王が消え失せ、アシュケロンには人が住まなくなる。 9:6 アシュドデには混血の民が住むようになる。わたしはペリシテ人の誇りを断ち切り、 9:7 その口から流血の咎を、その歯の間から忌まわしいものを取り除く。彼も、私たちの神のために残され、ユダの中の一首長のようになる。エクロンもエブス人のようになる。 9:8 わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。   神の言葉の警告がユダの周辺諸国に及ぶ。神はツロとシドンの富と知恵、ペリシテの高慢を裁かれ、その世俗的な権勢を打ち倒される。しかし、その裁きの中にも残りの者を保たれ、彼らを神ご自身のもとに立ち返らせ、暴虐の道を閉ざしてご自分の民を守られる。ここには、神の主権的な裁きと保護、そして回復の恵みが同時に働いている。 ここで語られるユダの周辺諸国とは、単なる地理的な境界ではない。神なき自律と自己救済の意志を象徴する世俗的な体系として読むべきである。神を排除し、人間中心の秩序に従う社会——信仰が押し出され、世の論理が支配する世界である。成果と所有を絶対化する資本の秩序、快楽と自己確信で飾られた自我の崇拝、そして市場と自我が神の座を奪う機能的無神論(神の存在を積極的に否定はしないが、実用的理由で信じようとしない態度)である。利益が信仰となり、自己実現が救いの物語にすり替えられた世界——それが今日のツロとシドンである。 神はまさにその領域に介入される。神の統治は、教会や宗教という制度的な囲いの中に限定されない。神は世のただ中に御言葉を送り、人間が絶対化してしまった偽りの秩序を揺り動かされる。神の裁きは報復ではなく、破壊のための破壊でもない。それは偶像を解体し、神ご自身を啓示する出来事である。神が世界の構造を揺るがされるのは、その中に隠された虚像を打ち砕き、その場所に神の実在的主権を現すためである。

스가랴 묵상 【심판의 영역】 20251023(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 9:1~8 9:1 여호와의 말씀의 경고가 하드락 땅에 임하며 다메섹에 머물리니 세상 사람과 이스라엘 모든 지파의 눈이 여호와를 우러러 봄이니라 9:2 그 접경된 하맛에도 임하겠고 두로와 시돈은 넓은 지혜가 있으니 그들에게도 임하리라 9:3 두로는 자기를 위하여 보장을 건축하며 은을 티끌 같이 정금을 거리의 진흙 같이 쌓았은즉 9:4 주께서 그를 쫓아 내시며 그의 바다 권세를 치시리니…

ゼカリヤ 黙想 【Missio Dei】 20251022(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 8:18~23 8:18 さらに、私に次のような万軍の主のことばがあった。 8:19 万軍の主はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」 8:20 万軍の主はこう言われる。「再び諸国の民がやって来る。多くの町々の住民が。 8:21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、主の御顔を求め、万軍の主を尋ね求めよう。私も行こう』と言う。 8:22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の御顔を求めるために来る。」 8:23 万軍の主はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」   7章で神は、形式的な断食と外面的な信仰を戒められた。しかし今や、その断食が喜びと楽しみの祭りの日に変わることを約束される。神が臨在されるとき、不在の時代を象徴していた断食はもはや意味を持たず、その代わりに喜びがその座を占めるだろう。人々は神殿という建物に執着していたが、神の臨在はそのような条件や構造に比例するものではない。神殿が再建されたからではなく、神が憐れみによって再び臨在してくださるからである。イエスは「花婿が共にいる間は断食できない」と言われたが、そのときこの御言葉を思い起こしておられたに違いない。 神の臨在によって回復されたシオンは、決して自分の中にとどまらない。「その後、多くの民と多くの町の住民が来るであろう。」神が共におられる場所は、必ず世界に向かって開かれている。閉ざされた、自己中心的な神の国など存在しない。神がひとつの国を回復されたのは、特定の民族のためではなく、神の支配が諸国民に流れ出す出発点とするためである。ゆえに回復はユダの自慢ではなく、諸国を招く神の招待である。神の臨在がとどまる共同体は、必然的に人を引き寄せる力を持っている。宣教は人間の努力による拡大ではなく、神の臨在が生み出す結果なのである。 これこそが 神の宣教(Missio Dei)である。「Missio Dei」とはラテン語で「神の宣教」を意味し、宣教の主体が教会ではなく神ご自身であることを示す神学的概念である。父なる神が御子を、御子が聖霊を遣わされたように、宣教の主体は神であり、教会は神の宣教に参与する共同体である。神の臨在は神殿という囲いの中に閉じ込められる制度的問題ではなく、神が選ばれた民を通して世界の中にご自身と契約を現される出来事である。教会はその臨在の証であり、通路として召された存在だ。臨在の確信は個人の内面にとどまるものではなく、世界に向かうメッセージとして開かれていくべきである。

스가랴 묵상 【Missio Dei】 20251022(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 8:18~23 8:18 만군의 여호와의 말씀이 내게 임하여 이르시되 8:19 만군의 여호와가 말하노라 사월의 금식과 오월의 금식과 칠월의 금식이 변하여 유다 족속에게 기쁨과 즐거움과 희락의 절기가 되리니 오직 너희는 진실과 화평을 사랑할찌니라 8:20 만군의 여호와가 말하노라 그 후에 여러 백성과 많은 성읍의 거민이 올 것이라 8:21 이 성읍 거민이 저 성읍에 가서 이르기를 우리가 속히…

ゼカリヤ 黙想 【神の熱心】 20251021(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 8:1~17 8:1 次のような万軍の主のことばがあった。 8:2 万軍の主はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。 8:3 ──主はこう言われる──わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。 8:4 ──万軍の主はこう言われる──再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。 8:5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。 8:6 ──万軍の主はこう言われる──もし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。──万軍の主のことば。」 8:7 万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の沈む地から救い、 8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」 8:9 万軍の主はこう言われる。「勇気を出せ。万軍の主の家である神殿を建てるために基が据えられた日以来、あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いてきたではないか。 8:10 その日以前は、人の働きに報酬がなく、家畜の働きにも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安がなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。 8:11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。──万軍の主のことば── 8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。 8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」 8:14 まことに、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意し──万軍の主は言われる──わたしは思い直さなかった。 8:15 そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。 8:16 これがあなたがたのなすべきことだ。あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばきを行え。 8:17 互いに心の中で悪を謀るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むものだからだ。──主のことば。」   これはエルサレムに向けられた神の回復の宣言である。神は再びその都のただ中に住まわれると約束された。そのとき町の通りには老人と子どもたちが共に歩き、平和といのちが回復するだろう。神は散らされた民を各地から呼び集め、誠実と正義をもって彼らの神となられる。かつての不安と欠乏は消え去り、ぶどうの木は実を結び、大地は産物を生み、天は露を降らせる。回復されたユダは祝福の通路となる。神は民に「真実を語り、平和な裁きを行い、互いに害を企てるな」と命じられる。神がなさることと人がなすべきことは異なる。回復そのものは人間の働きではないが、人がすべきことは神の御心に従い、公義と平和を追い求めることである。 七章では、断食の問題をきっかけに人間の偽善と頑なさについて「おまえたちが立ち返らなかったので、わたしは怒った」と言われ、八章では「わたしはシオンのために激しくねたみ、熱意を燃やした」と語られる。七章は怒りの熱情であり、八章は回復の熱情である。だからそれはすべて神の愛の熱情である。救いの保証は人間の決意や持続力にあるのではない。神の働きは人間の意志が足りないからといって止まることはない。イザヤはメシアの到来を預言したとき、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と言った。救いに対する神の熱情は確かにそれを支え、ついには完成させる。神の熱情とは救いを動かす推進力である。人間にはその推進力がない。信頼すべきものは自分の信仰ではなく、神の約束とその熱情である。私たちは自分の力で救いを成し遂げたり守ったりする存在ではなく、神の熱情の中に捕らえられた存在である。それを信じることが信仰である。 「ねたみ」とは、あきらめることのできない頑固な愛を意味する。愛しているからこそ手放すことができないのだ。神の属性と人間の属性の中には共有するものと共有しないものがあるが、「ねたむ愛」という性質は共通している。私たちはすべての人に親切であることを愛と呼ぶわけではない。もし男女の愛にねたみがなければ、その愛の真実を疑わねばならない。愛の関係は特別であり、密やかであり、その中で自発的な献身が生まれる。愛には集中と献身の排他性がある。しかしその排他性は他者を閉め出すことではなく、関係に対する絶対的な集中を意味する。だからこそ純粋である。そのような愛を捨てきれない神の怒りは罪に向かい、回復の熱情は人に向かう。私たちの失敗よりも神の熱情は大きく、私たちの無関心よりもその愛は常に深い。ゆえに、救いの確信は私の誠実さにではなく、その方の熱情を信じる信仰にある。

스가랴 묵상 【하나님의 열심】 20251021(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 8:1~17 8:1 만군의 여호와의 말씀이 임하여 이르시되 8:2 만군의 여호와가 말하노라 내가 시온을 위하여 크게 질투하며 그를 위하여 크게 분노함으로 질투하노라 8:3 나 여호와가 말하노라 내가 시온에 돌아왔은즉 예루살렘 가운데 거하리니 예루살렘은 진리의 성읍이라 일컫겠고 만군의 여호와의 산은 성산이라 일컫게 되리라 8:4 만군의 여호와가 말하노라 예루살렘 길거리에 늙은 지아비와 늙은 지어미가 다시 앉을 것이라…

ゼカリヤ 黙想 【欲望のペルソナ】 20251020(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 7:1~14 7:1 ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。 7:2 そのとき、ベテルは主の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、 7:3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」 7:4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。 7:5 「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。 7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。 7:7 エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」 7:8 それから、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。 7:9 万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。 7:10 やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」 7:11 ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。 7:12 彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。 7:13 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の主は言われる──。 7:14 わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」   ユダが断食を行っていた理由は、バビロンによって神殿が蹂躙された重要な日々を記憶し、その痛みを心に刻むためであった。4月の断食はエルサレムの城壁が破られた日、5月の断食は神殿と都が焼かれた日、7月の断食は総督ゲダルヤが暗殺され共同体が崩壊した日、10月の断食はエルサレムがバビロンに包囲された日である。イスラエルはバビロン捕囚の時代から、この四つの断食日を70年以上守り続けてきた。いわばそれは伝統となり、それ自体が宗教であった。 ところが、捕囚からの帰還後、神殿は再建されつつあった。そこで人々は祭司と預言者に問いかけた。「私たちは神殿が崩壊したことを悲しんで断食してきたが、今やその神殿が再建されつつあるのだから、もはや断食を続ける理由はないのではないか」──すなわち、「肯定的な現実の中で、過去の否定的な記憶を悲しみ続ける必要があるのか」というのである。この問いは、形式に縛られず、合理的に本質を回復すべきだという主張のようにも聞こえる。 しかし、神はその問いの動機を指摘される。「断食を続ける必要があるのか」という異議申し立ては、実のところ「食べたり飲んだりしたい」という欲望から来ており、信仰の本質を深く考えた結果ではなく、敬虔の重荷を下ろそうとする言い訳にすぎないというのだ。彼らが断食していた時も、その断食は神のためではなく、自らの宗教的敬虔さを誇示する道具でしかなかった。長い年月、自分を欺き、信仰を演出してきた彼らの偽善と盲目を、神はすでにご存じであった。 神は、この卑しい断食論争の上に、少し異なる主題を語られる。「真実な裁きを行い、互いに慈しみと憐れみを施し、やもめと孤児、寄留者と貧しい者を虐げてはならない。」これはどう考えても、断食という敬虔な行為とは異なる、社会の正義、人権、福祉に関する命令である。イザヤ書にも同様の言葉が記されており、「断食」という主題と「神の公義」という主題が並んで語られることは不思議ではない。 しかしここで、私たちは一つの根本的な問いを避けて通ることができない。なぜ社会的正義と慈善が、断食を置き換える原理として登場するのか? 形式的で偽善的な断食を克服する方法であるならば、例えば、より厳格で真実な断食を要求することもできただろうし、より深い悲嘆と悔い改めの方法を命じることもできただろう。だが神は、断食の克服を「より強い敬虔の要求」ではなく、「正義と憐れみを実践する社会的な生き方」として示された。なぜ神は、敬虔な行為ではなく社会的実践を通して断食の本質を回復させようとされるのだろうか? エルサレムがなぜ滅びたのかを考えねばならない。それはバビロンが強大だったからではなく、ユダが神の公義と正義を捨てたからである。宗教的には神を礼拝していると言いながら、社会的には弱者を虐げ、神の名を語りながら生活の中では不正を行い、正義を無視していた。その結果として神殿は破壊されたのである。したがって、断食は神殿という物理的な建物が壊されたことへの嘆きではなく、その原因である「公義を愛さなかった堕落した宗教」への痛恨であった。 ゆえに神はこう語られる。「神殿が再び建てられるということは、石や壁を積み上げることではなく、正義と公義、慈しみと憐れみが再び築かれることなのだ。」形式的な断食ならば、やめて食べてもよいだろう。しかし、断食の理由を忘れてはならない。神殿が崩壊した理由が「不義」だったなら、神殿が建てられる道は「正義の回復」である。だからこそ、断食と神の公義は常に一体である。 神は、繰り返される盲目的な行為にも、合理的で進歩的な身振りにも欺かれない。断食してもよいし、食べてもよい。変えてもよいし、変えなくてもよい。その判断の根拠は、伝統でも習慣でも形式でもなく、神の言葉に従い、神の心を読み取る信仰である。断食は、願いを取引する手段でも、駄々をこねるための道具でもなく、自らの欲望を放棄し、神の心と世の痛みに参与することである。私たちは、もっと多く断食しなければならないのだ。