스가랴 묵상 【욕망의 페르소나】 20251020(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 7:1~14 7:1 다리오왕 사년 구월 곧 기슬래월 사일에 여호와의 말씀이 스가랴에게 임하니라 7:2 때에 벧엘 사람이 사레셀과 레겜멜렉과 그 종자를 보내어 여호와께 은혜를 구하고 7:3 만군의 여호와의 전에 있는 제사장들과 선지자들에게 물어 가로되 우리가 여러 해 동안에 행한대로 오월간에 울며 재계하리이까하매 7:4 만군의 여호와의 말씀이 내게 임하여 이르시되 7:5 온 땅의 백성과 제사장들에게 이르라…

ゼカリヤ書 黙想【罪の行方】20251018(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 5:1-11 5:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。 5:2 御使いは私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻物を見ています。その長さは二十キュビト、幅は十キュビトです。」 5:3 すると彼は私に言った。「これは全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて取り除かれる。」 5:4 「わたしがそれを送り出す。──万軍の主のことば──それは盗人の家に、また、わたしの名によって偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまって、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」 5:5 私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」 5:6 私が「これは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ升だ。」さらに言った。「これは、全地にある彼らの目だ。」 5:7 見よ。鉛のふたが持ち上げられると、エパ升の中に一人の女が座っていた。 5:8 彼は、「これは邪悪そのものだ」と言って、その女をエパ升の中に閉じ込め、エパ升の口の上に鉛の重しを置いた。 5:9 それから、私が目を上げて見ると、なんと、二人の女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、あのエパ升を地と天の間に持ち上げた。 5:10 私は、私と話していた御使いに尋ねた。「この人たちは、エパ升をどこへ持って行くのですか。」 5:11 彼は私に言った。「シンアルの地に、あの女のために神殿を建てるためだ。それが整うと、そこの台の上にその升を置くのだ。」    ゼカリヤが見た巻物は、神様の完全な裁きでした。あらゆる罪を犯した人々の家に入り、その家を裁き、滅ぼすことがその巻物の役割だったのです。    しかしその後に示された幻には、「エパ升」と呼ばれる穀物を入れるかごと、「邪悪」と呼ばれた女、そして鉛の重しが登場します。天使はその女をエパ升の中に入れ、鉛のかたまりでその上を覆って密封し、それをシンアルの地、バビロンの平野へと運びました。    イスラエルには依然として罪が満ちており、神様は彼らを裁かねばなりませんでした。しかし厳密に言えば、神様が裁かれる対象はイスラエルという民族そのものではなく、彼らの罪でした。それでも神様はご自分の民を深く愛しておられるがゆえに、彼らを滅ぼすのではなく、彼らの中にある罪を滅ぼし、悪を取り除かれることを、このゼカリヤの幻を通して示されたのです。つまりこの幻は、罪に対する神様の裁きと、罪からの回復を同時に表しているのです。      シンアルの地に移されたエファは、罪の起源へと戻されたものとして解釈されるのが一般的です。バビロンのシナル平原は『創世記』のバベルの塔の事件が起こった場所であり、また地理的にもエデンの園と同じ地域にあるとされています。そして罪の始まりは、最初の人間アダムにあったのです。      アダムが負わねばならなかった罪の代価、それを贖うためにこの地に来られた第二のアダムこそ、主イエス・キリストでした。ですからイエス様はすべての罪を背負って十字架につけられ、罪からすべての民を回復されたのです。      私たちの内にあった罪は、その場で消え去ったわけでも、行方不明になったわけでもありません。どこかに移された罪を、誰かが代わりに担ってくださったからこそ、その罪が再び私たちに戻ることなく、その問題が完全に解決されたのです。だからこそ、私たちは自分の罪がどこへ行ったのか、どのようにして回復されたのかを忘れてはなりません。その罪を背負ってくださった主イエス・キリストを決して忘れてはならないのです。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=OprDNDH7O4jApzGV

스가랴 묵상【죄의 행방】20251018(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 5:1-11 5:1 내가 다시 눈을 들어 본즉 날아가는 두루마리가 있더라 5:2 그가 내게 묻되 네가 무엇을 보느냐 하기로 내가 대답하되 날아가는 두루마리를 보나이다 그 길이가 이십 규빗이요 너비가 십 규빗이니이다 5:3 그가 내게 이르되 이는 온 땅 위에 내리는 저주라 도둑질하는 자는 그 이쪽 글대로 끊어지고 맹세하는 자는 그 저쪽 글대로 끊어지리라 하니 5:4…

ゼカリヤ書 黙想【これらは何ですか】20251017(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 4:1-14 4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。 4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。 4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」 4:4 私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」 4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」 4:6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。 4:7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」 4:8 また、私に次のような主のことばがあった。 4:9 「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成させる。』そのときあなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知る。 4:10 だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」 4:11 私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」 4:12 そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」 4:13 すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」 4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」      私たちが信仰を持って生きる中で直面する最大の困難は、私たちの人生の中で示される神様の御心を理解できないことです。私たちはその御心を知らないがゆえに、苦難の中で挫折し、時には神様を恨んでしまうのです。    そのようなとき、私たちが神様にどのように祈っているのかを振り返ってみると、問題の解決や状況を打開するための力や方法を求めてはいないでしょうか。その時間の中で、私たちはどれほど神様の御心を知りたいと願っているでしょうか。    ゼカリヤに示された幻は、彼にとって非常に曖昧で理解し難いものでした。確かに目の前に鮮明に見えていたにもかかわらず、その幻が意味するところを全く理解することができなかったのです。だからこそゼカリヤは尋ね、神様は彼に答えてくださいました。    幻と私たちに訪れる苦難は、別の問題のように思えるかもしれません。しかし、その中に神様の御心があるという点においては同じです。神様は私たちに理由のない苦難を与えられることはなく、私たちの必要を知っておられ、最も良いものを与えてくださるお方だからです。    だからこそ、今日私たちが神様にささげるべき祈りも、ゼカリヤのようであるべきです。「これらは何ですか。ここにはどんな御心があるのでしょうか。主よ、知りません」という祈りです。    私たちの人生は、誰にも完全に解釈することができないものです。私たちの解釈は、状況によって刻一刻と変わるからです。人生全体を知ることができなければ、すべての瞬間を完全に理解することはできません。    その答えは神様のもとにしかありません。誰も知りえないとしても、私たちを造り、ご自身の計画どおりに導かれる神様はすべてをご存じです。私たちはただ神様の霊によってのみ、人生のすべての瞬間、その意味を見出すことができます。私たちが神様にその御心を求めるとき、神様は必ず私たちに答えてくださいます。 https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=wt1esMAFce6CiyNc

스가랴 묵상【무슨 뜻이니이까】20251017(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 4:1-14 4:1 내게 말하던 천사가 다시 와서 나를 깨우니 마치 자는 사람이 잠에서 깨어난 것 같더라 4:2 그가 내게 묻되 네가 무엇을 보느냐 내가 대답하되 내가 보니 순금 등잔대가 있는데 그 위에는 기름 그릇이 있고 또 그 기름 그릇 위에 일곱 등잔이 있으며 그 기름 그릇 위에 있는 등잔을 위해서 일곱 관이 있고 4:3…

ゼカリヤ 黙想 【火から取り出した燃えさし】 20251016 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 3:1~10 3:1 主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。 3:2 主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」 3:3 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。 3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。 3:6 主の使いはヨシュアを諭して言った。 3:7 「万軍の主はこう言われる。『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。 3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。 3:9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。──万軍の主のことば──一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。 3:10 その日には、──万軍の主のことば──あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う。』」   ゼカリヤは幻の中で大祭司ヨシュアを見た。ヨシュアは主の使いの前に立ち、その右にはサタンが立って彼を訴えていた。ヨシュアは聖なる祭司であったが、汚れた衣を身にまとっていた。サタンの告発は根拠のあるものだった。誤りではない。大祭司には「罪」という問題があった。しかし神は彼の欠点について、「火の中から取り出された焦げた木片のような者」と言われた。罪はある。だが神がヨシュアを救い出し、祭司として再び用いようとしておられるのだ。罪の現実を否定せず、むしろ恵みの現実をより深く示される。 神は天使たちに命じ、ヨシュアの汚れた衣を脱がせ、美しい衣を着せられる。イエスはこの旧約の記憶の中から「放蕩息子のたとえ」を語られたのだろう。そしてパウロはその記憶を受けて、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」(エペソ4章)と勧めたのだろう。衣が変わるということは、存在の転換を意味する。神が着せてくださる衣は倫理の衣ではなく、存在そのものの衣である。神はヨシュアの罪を否定されなかったが、ヨシュアを見捨てられもしなかった。神は彼を再び祭司として立てられた。サタンが告発していたその場で、神は恵みの判決を下されたのである。これこそが「福音に弁護される法廷」である。 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中で、ジャン・ヴァルジャンはパン一切れを盗んで投獄され、出獄後も前科者の烙印のために世から拒まれる。唯一、司教ミリエルだけが彼を温かく迎え、食事と宿を与えた。しかしヴァルジャンはその好意を裏切り、銀の燭台を盗んで逃げる。やがて警察に捕らえられて戻ったとき、罪は明白であり、告発は正当であった。だがミリエル司教は言う。「これは私があげたものです。しかも銀の皿も差し上げたのに、持って行かなかったのですか。」ヴァルジャンは断罪の場で、かえって歓待を受けた。彼の人生を変えたのは、告発による正義ではなく、慈悲による赦しだった。ゼカリヤのヨシュアと『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンはどちらも告発されたが、その結末は断罪ではなく、回復であった。 神はヨシュアに清い冠をかぶらせ、その前に七つの目を持つ新しい石を据えられる。そして言われる。「この地の罪を一日のうちに除く。」その「一日」とは十字架の日である。キリストの死と復活によって、世界のすべての罪が一度に取り除かれた。告発は終わり、恵みが始まった。パウロが「新しい人を着なさい」と語ったとき、それは道徳的な強制ではなく、十字架の恵みによって古い衣を脱ぎ、新しい衣、すなわちキリストの義を着る救済の出来事を意味していた。燃え尽きもせず、燃え残りでもない、あの中途半端に焦げた不格好な棒切れのような私にも、神は新しい衣を着せてくださった。 Epilogue この箇所は聖徒の存在論的救いを証ししているが、決して牧師や指導者の道徳的堕落を覆い隠す神学的言い訳として誤用されてはならない。恵みとは罪の隠蔽ではなく、存在の変革である。赦しとは悪の逃げ道を与えることではなく、その悪を正直に見つめ直す場所で新しい実存を築く信仰の行為である。ゆえに恵みは免罪符ではない。罪の現実を耐え抜き、それを超える責任と信頼の決断でなければならない。神は罪を軽んじられない。その深みを通過した者の存在を新しくされるのだ。赦しを語る言葉、信仰を語る言葉が、空しく宙に消え去ることなく、一人の魂の深みに沈潜し、現実を変える真理となることを願う。

스가랴 묵상 【불에서 꺼낸 그슬린 나무토막】 20251016(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 3:1~10 3:1 대제사장 여호수아는 여호와의 사자 앞에 섰고 사단은 그의 우편에 서서 그를 대적하는 것을 여호와께서 내게 보이시니라 3:2 여호와께서 사단에게 이르시되 사단아 여호와가 너를 책망하노라 예루살렘을 택한 여호와가 너를 책망하노라 이는 불에서 꺼낸 그슬린 나무가 아니냐 하실때에 3:3 여호수아가 더러운 옷을 입고 천사 앞에 섰는지라 3:4 여호와께서 자기 앞에 선 자들에게 명하사 그…

ゼカリヤ 黙想 【エルサレムの境】 20251015 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 2:1~13 2:1 私が目を上げて見ると、なんと、一人の人がいた。その手には、一本の測り綱があった。 2:2 私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測りに。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えた。 2:3 すると見よ、私と話していた御使いが出て行った。また、もう一人の御使いが、その御使いに会うために出て行き、 2:4 彼に言った。「走って行って、あの若い者にこう告げよ。『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。 2:5 わたしが──主のことば──それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。 2:6 さあ、すぐに、北の国から逃げよ。──主のことば──天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたのだ。──主のことば── 2:7 さあ、シオンに逃れよ。娘バビロンとともに住む者よ。』 2:8 あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の主がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。 2:9 見よ、わたしは彼らに手を振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちに略奪される』と。このときあなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知る。 2:10 『娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。──主のことば── 2:11 その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。 2:12 主は聖なる土地で、ユダをご自分の受ける分とし、エルサレムを再び選ばれる。 2:13 すべての肉なる者よ、主の前で静まれ。主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。」   エルサレムの城壁が崩れたとき、人々は神が去られたのだと思ったに違いない。城壁こそが神の臨在と守りを象徴する印であったからである。しかし今、神はゼカリヤを通してまったく新しい言葉を告げられる。「この町は城壁を持たない。わたしがその周囲の火の城壁となり、その中に栄光となって住む。」古代の城塞文化にとっては衝撃的な言葉であった。石で築かれた境界が消え、神の臨在そのものが都市の新しい境界となるということ。火は破壊ではなく守りであり、裁きではなく臨在となる。火はやがてエルサレムを照らす光となるだろう。 カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で「教会の安全は制度や囲いにあるのではなく、神ご自身がそこに臨在されることにある」と語った。カルヴァンは教会を人間の作った制度的な構造として見なかった。教会は神の幕屋であり、神が共におられる限り、教会は決して崩れない。教会の本質は閉ざされた城壁ではなく、神が中心におられる空間である。信仰の囲いは外部を遮断する防壁によって守られるのではなく、神がわたしたちの内におられるという内的な確信のうちに築かれるものである。神が臨在されるところは開かれた場所であり、その開かれた空間の中でわたしたちは安全を経験する。 東京・上野の国立西洋美術館はル・コルビュジエによって設計された。彼は、壁で閉ざす構造ではなく、光が流れる境界が都市であり、光の中で形をつくる秩序の芸術こそ建築だと考えた。この美術館では、中心から螺旋状に拡張する構造の中に、開放と循環の秩序が実現されている。境界は壁ではなく、光がつくり出す見えない秩序であった。カルヴァンが語った臨在の幕屋、コルビュジエが設計した開かれた空間、それらはすべてそのビジョンを今日の言葉に置き換えたものだ。ゼカリヤが見た火の城壁という建築的な想像力が、西洋キリスト教美術を包むこの美術館に具現化されたと言ってもよいだろう。 わたしたちが生きる都市と教会は、安全や防犯のために、あるいはそれぞれのアイデンティティを守るために、垣根を築き、外部を遮断している。しかし神の臨在は壁によって制限されることはない。神は城壁を越えて都市のすべての場所に臨在される。神の守りは孤立ではなく開放であり、排除ではなく包容である。それこそが、外からの攻撃や非難から真に守られる教会の価値となる。教会と都市の間に壁を築かない教会によって、都市と教会は共に神のうちに守られるだろう。それが、わたしたちが今回復すべき火の城壁の都市、すなわち神が臨在される開かれたエルサレムではないだろうか。

스가랴 묵상 【예루살렘의 경계】 20251015(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 2:1~13 2:1 내가 또 눈을 들어 본즉 한 사람이 척량줄을 그 손에 잡았기로 2:2 네가 어디로 가느냐 물은즉 내게 대답하되 예루살렘을 척량하여 그 장광을 보고자 하노라 할 때에 2:3 내게 말하는 천사가 나가매 다른 천사가 나와서 그를 맞으며 2:4 이르되 너는 달려가서 그 소년에게 고하여 이르기를 예루살렘에 사람이 거하리니 그 가운데 사람과 육축이 많으므로…

ゼカリヤ 黙想 【四つの角と四人の職人】 20251014 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 1:7~21 1:7 ダレイオスの第二年、シェバテの月である第十一の月の二十四日に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。 1:8 夜、私が見ると、なんと、一人の人が赤い馬に乗っていた。その人は、谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。そのうしろには、赤毛や栗毛や白い馬がいた。 1:9 私は「主よ、これらの馬は何ですか」と尋ねた。すると、私と話していた御使いが「これらが何なのか、あなたに示そう」と言った。 1:10 すると、ミルトスの木の間に立っていた人が答えた。「これらは、地を行き巡るために主が遣わされた者たちだ。」 1:11 すると彼らは、ミルトスの木の間に立っている主の使いに答えた。「私たちは地を行き巡りましたが、まさに全地は安らかで穏やかでした。」 1:12 それに答えて主の使いは言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたが憤られて七十年になります。」 1:13 すると主は、私と話していた御使いに、恵みのことば、慰めのことばで答えられた。 1:14 私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。 1:15 しかし、わたしは大いに怒る。安逸を貪っている国々に対して。わたしが少ししか怒らないでいると、彼らは欲するままに悪事を行った。』 1:16 それゆえ、主はこう言われる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。──万軍の主のことば──測り縄がエルサレムの上に張られる。』 1:17 もう一度叫んで言え。『万軍の主はこう言われる。わたしの町々には、再び良いものが満ちあふれ、主は再びシオンを慰め、再びエルサレムを選ぶ。』」 1:18 私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。 1:19 私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ。」 1:20 そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。 1:21 私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」   イスラエルの民がバビロン捕囚から帰ってすでに数十年が過ぎていた。神殿の基礎は据えられていたが、人々の信仰は冷め、エルサレムの再建は依然として未完成の廃墟のままであった。主は預言者ゼカリヤを通してこう語られた。 「わたしに立ち帰れ。万軍の主の御告げ。そうすれば、わたしもあなたがたに立ち帰ろう。」主の御心はすでに民に向かっており、人々が目を覚ますならば再び主に向かうことができた。本日の本文は、その約束が歴史の中でどのように実現するかを示している。立ち帰れと招かれた神ご自身が、今や自ら立ち帰られる物語である。 ゼカリヤは夜の中で幻を見た。紅い馬、栗毛の馬、白い馬に乗る者たちがミルトスの木の谷間に立っていた。彼らは神の使いであり、全地を巡って報告していた。「全地は静かで穏やかです」と。確かに帝国の政治的な状況は安定していたかもしれない。しかし、神の都エルサレムは依然として崩れていた。そこで天使が神に問う。「いつまでエルサレムをあわれまれないのですか。」この問いは不平ではなく、沈黙の中で神を信頼して待つ祈りであった。 その問いに対して、神は答えられる。「わたしはエルサレムのためにねたみ、シオンのために激しく憤る。わたしは再びエルサレムに帰り、あわれみを注ぎ、わたしの家はその中に建てられるであろう。」神は「民が立ち帰れば、わたしも帰る」と言われたが、今や「わたしが先に帰る」と言われる。回復は人間の決意から始まるのではない。すべての回復の出発点は神ご自身である。人間の信仰がどれほど大きくても、神の愛に先行することはできない。神のあわれみがまず流れるからこそ、人の悔い改めが目覚める。信仰の主導権は常に神にある。 ゼカリヤはさらにもう一つの幻を見る。四つの角が現れ、それに続いて四人の職人が現れた。角はイスラエルを圧迫した諸帝国――アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシア――を象徴している。しかし神は、その角を打ち砕くために職人たちを遣わされる。彼らは単なる技術者ではない。神が救いの道具として立てられた人々である。彼らの手によって、傲慢な帝国は砕かれ、崩れた共同体が再び建て直される。回復は職人の繊細な手によって緻密に進められる。神はエルサレムの石を直接積まれはしないが、職人を呼び、その手を通して世の中に働かれる。神はいつも人を通して御業を行われる。 最初の幻は、立ち帰られた神の「心」であり、第二の幻は、その心が世界を癒やす「御手」である。昨日は「主に立ち帰れ」という呼びかけであり、今日は「主が立ち帰られる」という宣言である。愛する者が先に動くように、愛しておられる神が先に立ち上がられる。人の悔い改めと神のあわれみが向かい合う瞬間である。神が先に立ち帰られるからこそ、私たちは立ち帰ることができる。私たちが向きを変えるとき、主は再び私たちの中に満ちてくださる。神の愛は常に先にあり、その愛こそがすべての回復の始まりである。