로마서 묵상 【함께 살아내는 일】 20251007(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 14:13–23 14:13 그런즉 우리가 다시는 서로 판단하지 말고 도리어 부딪힐 것이나 거칠 것으로 형제 앞에 두지 아니할 것을 주의하라 14:14 내가 주 예수 안에서 알고 확신하는 것은 무엇이든지 스스로 속된 것이 없으되 다만 속되게 여기는 그 사람에게는 속되니라 14:15 만일 식물을 인하여 네 형제가 근심하게 되면 이는 네가 사랑으로 행치 아니함이라 그리스도께서 대신하여 죽으신…

ローマ人への手紙 黙想 【ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです】 20251006 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 14:1–12 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。 14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。 14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。 14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。 14:5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。 14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。 14:7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。 14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 14:9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 14:10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。 14:11 次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」 14:12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。   パウロはローマ教会の中の対立について語っている。ある人は肉を食べ、ある人は野菜だけを食べていた。宗教的な理由である。ある人は特別な日を区別し、ある人はそれに縛られなかった。パウロはこう言って、この論争を貫く。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはいけません。」そのようなことは、本当に大切なことではない。 パウロが言う「信仰の強い人」とは、福音の中で自由を生きる人である。規則や形式を無視するのではない。彼らにはそれよりも大きな基準、すなわち生き方の方向があるからだ。「私たちの中で、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7-8)この言葉は、命と死の境を越えて、存在そのものが主に属しているという告白である。それが「強い信仰」である。生きることも死ぬことも主の御手の中にあるのに、食べる物のことで争うのは、福音の中心から離れているということだ。 信仰の弱い人は、本質に届かず、宗教的な慣習と伝統の枠の中で信仰を守ろうとする。その枠を越えることを恐れている。しかしパウロは、彼らの動機が不純だとは言わない。その慎みの中にも、神への愛と真心があるからだ。ただ、まだ福音の完全な自由を経験していないだけである。神はその心も尊く受け取られる。 「誰が正しいか」ではなく、「誰が主のものか」である。互いに自分の正しさを主張して争っているところに、主に属する人はいない。互いを尊重することは、礼儀の問題ではない。それは神の主権に従うことだからだ。神が受け入れた人を、なぜあなたが裁くのか。対立というものは、本来、正しさを見えなくしてしまう。教会とは、他の人を受け入れる空間の中で建てられる。 今朝、カン・デギョン伝道師の告別式がある。召された日、主はこう言われた。「あなたがたの体を、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物としてささげなさい。」そして、送り出すこの日、再びこう語られる。「それゆえ、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものだ。」主にある信仰とは、命と死の間に線を引かないことだ。

로마서 묵상 【그러므로 사나 죽으나 우리가 주의 것이로라】 20251006(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 14:1–12 14:1 믿음이 연약한 자를 너희가 받되 그의 의심하는 바를 비판하지 말라 14:2 어떤 사람은 모든 것을 먹을만한 믿음이 있고 연약한 자는 채소를 먹느니라 14:3 먹는 자는 먹지 않는 자를 업신여기지 말고 먹지 못하는 자는 먹는 자를 판단하지 말라 이는 하나님이 저를 받으셨음이니라 14:4 남의 하인을 판단하는 너는 누구뇨 그 섰는 것이나 넘어지는 것이…

ローマ人への手紙 黙想【権威に対する姿勢】20251004(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 13:1-7 13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。 13:4 彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。 13:5 ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。 13:6 同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。 13:7 すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。    聖書の御言葉は、私たちに平安を与えることもあれば、時には私たちを混乱させることもあります。    それは聖書が私たちを混乱させるために書かれたからではありません。聖書の御言葉と現実との間にある隔たり、その隔たりを生み出した原因である人間の罪が、完全なる真理である神様の御言葉をそのまま受け入れられず、むしろ混乱をもたらす言葉として受け取ってしまうからです。      社会の中でタブーとされる多くの会話の主題がありますが、その中でも特に政治は敏感な問題の一つです。人それぞれ政治的立場が異なり、その立場はその人の思想や利益と深く結びついているからです。したがって、すべての人を満足させ、納得させる政治を行える人物は誰一人として存在しません。      そのような指導者、権威について、今日の御言葉は「従うべき」と語っています。非常に重い言葉です。さらに彼らに逆らうことは神に逆らうことと同じであるとまで語られています。自分に不利益となる政策を行う政治家、品性が疑われるあの政治家にさえ、従わなければならないように聞こえ、不快にまで感じるかもしれません。      では、なぜ聖書は彼らに従うべきと語るのでしょうか。特に、この本文が書かれた背景を考えるなら、自分たちを迫害する者にまで従うべきだと命じているのでしょうか。それは、その権威が神様から来ているからです。つまり、私たちが従うべき対象は、その人の権威ではなく、その人に権威を与えられた神様なのです。      権威に従うということは、その者のそばに仕える奸となるということではありません。むしろ、忠実な、何より神様の忠実なしもべとして、彼らを立てられた神様の御言葉から逸れないように守り、神様の御業を行うにあたって妨げがないように助けることです。そして、それこそが臣下である者たちが果たすべき神様の御業なのです。      したがって、私たちが考える「権威に従うべき」という意味も、少しは変わる必要があるでしょう。あくまでも私たちが従うべき対象は神様です。そのしるしとして、神様が権威を与えられた者たちに従うことが、神様の御言葉を守り行うこととなるのです。ゆえに、あくまでも私たちの優先順位はこの地の権威ではなく、神様にあります。神様の御言葉をないがしろにしてまで権威に従うことは、決して正しいことではありません。      そのようにして始まった代表的な出来事が宗教改革です。実際、ルターはカトリック教会を憎んでいた人ではなく、誰よりも愛していた人でした。だからこそ、教皇とその教会という当時最高の権威、神様が立てられたと考えられていた人とその教会が御言葉から逸れ、御言葉の上に立とうとする姿を見て、ルターは迷い出ていた教皇と教会を正し、神様の御言葉の権威を取り戻そうとしたのです。      これは単に政治の問題だけではありません。私たちの生活の場である家庭、職場、学校の座に立てられた権威、そして教会に至るまで、すべての権威が神様から与えられていることを覚え、彼らが神様の御言葉から逸れないように誠実を尽くすこと――それこそが神様の権威、神様の命に誠実を尽くす道なのです。 https://youtu.be/XjpwgnFKIL4?si=vAV9k6yqm7uqTLpz

로마서 묵상【권세를 대하는 자세】20251004(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 13:1-7 13:1 각 사람은 위에 있는 권세들에게 복종하라 권세는 하나님으로부터 나지 않음이 없나니 모든 권세는 다 하나님께서 정하신 바라 13:2 그러므로 권세를 거스르는 자는 하나님의 명을 거스름이니 거스르는 자들은 심판을 자취하리라 13:3 다스리는 자들은 선한 일에 대하여 두려움이 되지 않고 악한 일에 대하여 되나니 네가 권세를 두려워하지 아니하려느냐 선을 행하라 그리하면 그에게 칭찬을 받으리라…

ローマ人への手紙 黙想【悪に負けないよう】20251003(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 12:15-21 12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。 12:16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。 12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。 12:18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。 12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。 12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」 12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。    誰かと共に喜び、共に悲しむこと、つまり他人のことを自分のことのように思い、共感することは、私たちにとって本当に難しいことです。なぜなら、私たちはどうしても自分のことが先である、自己中心的な存在だからです。    ですから、私たちは自分の周りの人が置かれている状況に共感し、共に喜び、共に悲しもうと努力はしますが、思うほど簡単ではありません。しかも、その対象が自分の敵であるならば、その難しさはさらに増すでしょう。      敵が喜んでいるときに自分が悲しみ、敵が悲しんでいるときに自分が喜ぶこと、それは私たちにとってあまりにも簡単で当たり前のことのように思えます。しかしそれは、悪に悪を返すことと同じことなのです。今日の御言葉は「すべての人の前で善を図り、できる限りすべての人と和睦しなさい」と語っています。私たちは彼らの不幸を願ったり、彼らの幸福を悲しむのではなく、周囲の人々に対してするように、彼らの喜びに共に喜び、彼らの悲しみに共に悲しまなければならないのです。      本日の本文の最後の節を、もう少し原文の意味を生かして読むならば、「悪に征服(勝利)されてはいけません。むしろ善をもって悪を征服(勝利)しなさい。」と解釈することができます。この意味を念頭に置いたまま、先の内容を振り返ると、「悪に負けてはいけない」というのは、単に敵に負けてはいけない以上の意味があることが分かります。      私たちの内にある悪い心、悪に悪を返してやりたいという思い、そうした罪に負けてはならないと語っているのです。私たちがそのようなものに打ち勝つためには、また敵に勝利するためには、彼らの前においても善を図り、彼らとも和睦しなければならないのです。これこそが、クリスチャンが戦っていくべき敵、すなわち罪と敵に勝利する方法なのです。      では、なぜこのようなことが私たちの勝利となるのでしょうか。それは、神様が喜ばれる人の姿がまさにこの姿だからです。その神様が、ご自分の喜ばれる子どもたちを助け、勝利させてくださるからです。      この御言葉の実践があまりにも難しく、逃げ出したくなるときに、私たちは「できる限り」という条件に頼ってしまいがちです。しかしイエス様はきっぱりと、「『できるものなら』とはどういうことか。信じる者にはすべてのことができる」と語られました。そのイエス様の御言葉どおり、信じる者には不可能なことはありません。 https://youtu.be/2KqgSaLNAcE?si=WCKQEPp76y-t-i6F

로마서 묵상【악에게 지지 말라】20251003(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 12:15-21 12:15 즐거워하는 자들과 함께 즐거워하고 우는 자들과 함께 울라 12:16 서로 마음을 같이하며 높은 데 마음을 두지 말고 도리어 낮은 데 처하며 스스로 지혜 있는 체 하지 말라 12:17 아무에게도 악을 악으로 갚지 말고 모든 사람 앞에서 선한 일을 도모하라 12:18 할 수 있거든 너희로서는 모든 사람과 더불어 화목하라 12:19 내 사랑하는 자들아…

ローマ人への手紙 黙想 【自分ではないものを愛することができるだろうか】 20251002 (木 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 12:9~14 12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。 12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。 12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。 12:13 聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 12:14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。   誰もが本能的に自分を中心に考え、自分を基準にして他者を評価する。だから「自分を愛してこそ他人も愛せる」という言葉をよく耳にする。まず自分を満たし、そのあふれた分で他者に向かえばよいと言うのだ。それは間違いとは言えないが、愛の供給者を自分自身だと思っている人々の話にすぎない。自己愛を越えられない人にとって、愛は始まりすらしない。では、私たちは自分ではない存在を愛することができるのだろうか。 パウロは救いの核心を長く語った後、具体的な生活の態度へと導いている。最初の主題は「献身」であり、その次に必然的に伴うものとして「愛」が語られる。「悪を憎み、善に従え。兄弟を愛し、互いに尊敬することを先にせよ。怠けず、心に熱意を抱き、主に仕えよ。希望のうちに喜び、苦難のうちに耐え、祈りに励め。聖徒の必要を満たし、もてなしを熱心にせよ。さらに迫害する者をも祝福せよ。」 パウロが提示する愛の言葉はすべて、自分中心を否定し、他者へと向かう動詞である。愛が名詞であるとき、それは概念となり、よく見えるが手に取れず、言葉だけの観念にすぎない。しかし動詞であるとき、それは出来事となる。赦しとなり、分かち合いとなり、尊敬となり、歓待となる。その瞬間、愛は生きて動く実在となるのだ。 敵を祝福し、迫害する者のために祈ることは、人間の本能では不可能である。パウロはその反論を受けるつもりがなかったからこそ、先にキリストの福音を語ったのだ。愛はすでにそこにあるからである。私が自分ではない神に愛されていると信じるとき、私は自分ではない誰かを愛することができるだろう。この議論に律法が入り込む余地はない。たとえ今持っているものを愛と呼ぶには及ばないとしても、与えられた人生がその方向に向かっていると信じること、それを信仰と呼ぶべきだろう。

로마서 묵상 【나 아닌 것을 사랑할 수 있을까】 20251002(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 12:9~14 12:9 사랑엔 거짓이 없나니 악을 미워하고 선에 속하라 12:10 형제를 사랑하여 서로 우애하고 존경하기를 서로 먼저 하며 12:11 부지런하여 게으르지 말고 열심을 품고 주를 섬기라 12:12 소망 중에 즐거워하며 환난 중에 참으며 기도에 항상 힘쓰며 12:13 성도들의 쓸 것을 공급하며 손 대접하기를 힘쓰라 12:14 너희를 핍박하는 자를 축복하라 축복하고 저주하지 말라    …

ローマ人への手紙 黙想 【聖なる生きたささげ物】 20250930 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 12:1~8 12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。 12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、 12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。 12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。   本日の本文は「ですから」という言葉で始まる。パウロは11章までに、人間の罪、神の義、そして恵みによって与えられる救いについて述べてきた。そして12章に入り、その福音の真理を基盤として、信徒の生活における応答を求めている。したがって12章の冒頭の「ですから」は、大きな文脈の中で重要な転換点を示している。「ですから」以降の内容は、「それでは、これからどのように生きるべきか」という問いに答えるものとなっている。 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」という言葉は、礼拝が単なる儀式的な集会を超えた意味を持つことを示している。私たちのからだ、すなわち人生全体が神にささげられるとき、礼拝が成立するということである。したがって問題は、どれほど多くの礼拝に出席したかではなく、神の前に立つ礼拝の意識がその人の生活様式にどの程度根付いているかという点である。 さらにパウロは「この世と調子を合わせてはいけません」と述べている。ここで言う「世」とは、ローマの既成世代のことではなく、神を拒み、自らの欲望と偶像に縛られている人類全般の生き方を指している。そこから抜け出す必要がある。「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」という言葉は、福音によって再構成された思考を持つことを意味し、それによって生活の様式を変えて生きることを示している。それに関心を持たず、自信を持てない人々は、宗教に固執するあまり、かえって歪んだ存在になってしまう。 パウロの手紙は、集団的な儀式宗教を批判し、個人的な抽象的宗教に対しても根本的な変化を求めている。「生きたまま祭壇にささげよ」「時代の惰性に従うな」「自分の考えを打ち砕け」と述べる。それは非常に強い表現であり、革命的な言葉である。そのため、口で覚えることはできても、実際の生活に適用することは難しく、なじみの薄い言葉として響くかもしれない。しかし、この瞬間にも、確かに誰かは世に倣わずに生き、確かに誰かは自分の人生を神にささげている。 かつて共に働いた伝道師が、若くして召された。神学校を卒業してすぐに、福島原子力発電所の隣にある二つの教会に赴任した。ひとりの人間として、鞄ひとつを持ってその地に赴き、私は東京に戻った。その日の福島の灰色の空が悲しげに見えたことを覚えている。この世であれば誰も行こうとしない場所に赴き、生きたまま供え物のようにささげられた。信仰があるからといって、悲しみを避けることはできない。葬儀に出席しなければならないが、子を失った両親の悲しみを直視する勇気を持つことは容易ではない。