로마서 묵상 【선택의 주체】 20250922(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 9:1~13 9:1 내가 그리스도 안에서 참말을 하고 거짓말을 아니하노라 나에게 큰 근심이 있는 것과 마음에 그치지 않는 고통이 있는 것을 내 양심이 성령 안에서 나와 더불어 증거하노니 9:2 내 형제 곧 골육의 친척을 위하여 내 자신이 저주를 받아 그리스도에게서 끊어질지라도 원하는 바로라 9:3 저희는 이스라엘 사람이라 저희에게는 양자 됨과 영광과 언약들과 율법을 세우신 것과…

ローマ人への手紙 黙想【相続人たち】20250920(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 8:12-17 8:12 ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。 8:14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 8:16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。     私たちは聖霊の働きによって、もはや罪に定められることがなくなっただけでなく、神様の子どもとして、神様を「父」と呼ぶことのできる特権までも得るようになりました。けれども、そのようにイエス様と同じ相続人として、その栄光を共に受けるためには、苦難もまた共に受けなければならないのだと、今日の本文は語っています。    韓国のドラマ『相続者たち』では、「王冠をかぶろうとする者は、その重さに耐えよ」というシェイクスピアの劇中の台詞を標語として用いていました。大衆的な意味としては、目標を成し遂げるためには必ず重荷や責任を担わなければならない、という意味を持っています。  しかし、もともとカトリックの信者であったシェイクスピアがこのような台詞を作ったのは、単なる社会的意味だけを込めたものではなかったでしょう。彼がよく知っていた聖書こそが、この「王冠をかぶろうとする者は、その重さに耐えよ」という台詞に最もふさわしい教えを扱っているからです。  それでは、人々はなぜこのような責任や重荷が伴うにもかかわらず、王冠をかぶろうとするのでしょうか。それは彼らが王冠の価値を知っているからです。どれほどの責任や重荷が伴おうとも、王冠が持つ価値はそれらと比べることができないほど大きいため、すべてを耐えてでも王冠をかぶろうとするのです。もし王冠にそのような価値がなかったとしたら、誰が責任や重荷を背負ってまで王冠をかぶろうとするでしょうか。  私たちに与えられた相続権、そしてその相続人に与えられる栄光とは、まさにこのようなものです。その栄光を受けるためには必ず苦難を共に受けなければならないと語られていますが、その苦難は私たちに与えられる栄光と比べ物にならないものだからです。  この世界を造られた神様、その神様の子どもとなるという王冠をかぶるために、私たちは自分の体の行いを死に渡し、御霊によって生きるのです。それこそが私たちが受けなければならない苦難であり、イエス様が肉体を取って来られたときに受けられた苦難でもあります。けれども決して、苦難が栄光の前に立ちはだかることはありません。私たちは苦難を見つめて生きるのではなく、その向こうにある、決して苦難が覆い隠すことのできない、私たちに与えられる栄光を見つめながら生きていかなければならないのです。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=Jap7MPFGYBWtvL9K

로마서 묵상【상속자들】20250920(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 8:12-17 8:12 그러므로 형제들아 우리가 빚진 자로되 육신에게 져서 육신대로 살 것이 아니니라 8:13 너희가 육신대로 살면 반드시 죽을 것이로되 영으로써 몸의 행실을 죽이면 살리니 8:14 무릇 하나님의 영으로 인도함을 받는 사람은 곧 하나님의 아들이라 8:15 너희는 다시 무서워하는 종의 영을 받지 아니하고 양자의 영을 받았으므로 우리가 아빠 아버지라고 부르짖느니라 8:16 성령이 친히 우리의…

ローマ人への手紙 黙想【いのちの御霊】20250919(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 8:1-11 8:1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。 8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。 8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。 8:5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。 8:6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。 8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。 8:8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。 8:9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。 8:10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。 8:11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。    イエス・キリストにあって、私たちに罪に定められることがないということ、イエス・キリストの贖いが私たちに適用されるということは、キリストの中に、また私たちの中におられる聖霊の働きの結果です。    イエス様はこの地に人間の肉をもって来られましたが、罪はなかったと聖書は語っています。では、イエス様はどのように私たちと同じ肉を持ちながらも罪がなかったのでしょうか。その答えが、今日の箇所が語っている「いのちの御霊の律法」なのです。肉を持ちながらも御霊に従って生きること、それこそが答えです。    そしてその事実は、私たちの人生の希望でもあります。なおも肉に従って生き、罪を犯してしまう私たちが、自分の肉の弱さゆえに守れなかった律法をイエス・キリストが成就され、その御霊を送ってくださったということは、私たちもまたその御霊に従って生きることによって命を得るようになったということであるからです。    イエス様ははっきりと私たちに言われました。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。」と。これはイエス様が父のもとへ行かれるからだと。そしてイエス様が父のもとへ行かれ、私たちに聖霊を送ってくださったのです。だからこそ、私たちはイエス様に似た者とされ、その御霊と共にどんなことでもできるようになるのです。    そしてそのすべてを行うためのただ一つの条件は、神様がそうしてくださるという事実を信じることです。自分で行うのではなく、私たちのうちにおられる神様、その御霊によって行うこと、イエス様がそう生きられたように、私たちもまたそう生きるのです。    聖霊について最もよく知られている役は「助け主」でしょう。助け、教え、そばにいてくださる方という意味です。では、なぜ聖霊はそのようなことを私たちにしてくださるのでしょうか。それは、私たちに永遠の命を与えるためです。 https://youtu.be/9B-fHC-2LXE?si=YX7RxeYxlWu6s4z7

로마서 묵상【생명의 성령】20250919(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서  8:1-11 8:1 그러므로 이제 그리스도 예수 안에 있는 자에게는 결코 정죄함이 없나니 8:2 이는 그리스도 예수 안에 있는 생명의 성령의 법이 죄와 사망의 법에서 너를 해방하였음이라 8:3 율법이 육신으로 말미암아 연약하여 할 수 없는 그것을 하나님은 하시나니 곧 죄로 말미암아 자기 아들을 죄 있는 육신의 모양으로 보내어 육신에 죄를 정하사 8:4 육신을 따르지 않고…

ローマ人への手紙 黙想 【肉体と恵みの葛藤】 20250918 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 7:7~25 7:7 それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。 7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。 7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、 7:10 私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。 7:11 罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。 7:12 ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。 7:13 それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。 7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。 7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。 7:16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。 7:17 ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。 7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。 7:19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。 7:20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。 7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。 7:22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、 7:23 私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。 7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 7:25 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。     パウロは第6章で、キリストと結ばれて罪に対して死に、新しいいのちの中を生きる生活について語った。しかし第7章では、罪の執拗さゆえに、聖徒の内的矛盾が依然として存在することを告白した。信仰によって義とされたとはいえ、この地上に生きている間は、罪の律法と神の律法との間の葛藤は消え去らないというのである。この主題を読むには、正直でなければならない。信仰の確信を求められた人々は、この自己矛盾を認める勇気を持つことができなかった。 律法自体は悪いものではなかった。ただ罪が律法を利用して聖徒を欺いただけである。問題の根源は律法ではなく罪にある。だからこそパウロは、善を願いながらも悪を行ってしまうという自己矛盾を暴露したのだ。心では神の律法に従おうとしながらも、体は罪の律法に引きずられてしまう、その矛盾の極みにおいて「わたしは本当にみじめな人間です」と叫んだ。これはパウロ個人の道徳的葛藤の告白ではなく、人間存在の実相を告発したのである。 絶望と希望は隣り合わせにある。「救い」とは、絶望を知るということだ。絶望を知らなければ「救い」という言葉は成立しない。したがってパウロの絶叫と告白に共感する者にとって、その絶望はやがて感謝へと変わる。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」。律法も悪くなく、自分自身も大切な存在である。聖徒の実存とは、肉と恵みの間の葛藤の中であきらめずに福音を握りしめる生活である。私たちはこの緊張の中で、救いをもたらす福音を見出しつつ生きるのである。

로마서 묵상 【육체와 은혜의 갈등】 20250918(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 7:7~25 7:7 그런즉 우리가 무슨 말 하리요 율법이 죄냐 그럴 수 없느니라 율법으로 말미암지 않고는 내가 죄를 알지 못하였으니 곧 율법이 탐내지 말라 하지 아니하였더면 내가 탐심을 알지 못하였으리라 7:8 그러나 죄가 기회를 타서 계명으로 말미암아 내 속에 각양 탐심을 이루었나니 이는 율법이 없으면 죄가 죽은 것임이니라 7:9 전에 법을 깨닫지 못하였을 때에는 내가…

ローマ人への手紙 黙想 【自由の条件】 20250917 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙  7:1~6 7:1 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。 7:2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。 7:3 したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。 7:4 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。 7:5 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。 7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。     パウロは律法と聖徒の関係を結婚にたとえている。ここで語られているのは一般的な意味での結婚ではなく、当時の結婚制度を取り巻く社会的状況である。結婚は愛の関係であると同時に、法と社会秩序によって強制される制度であった。特に女性にとってそうであった。妻は夫の権威と支配の下に束縛され、経済的にも社会的にも独立することができなかった。妻が夫の支配から解放される唯一の道は夫の死であった。ユダヤやローマの伝統に離婚は存在したが、それは例外的であり、女性の権利を守るためではなかった。したがって、権利を奪われた女性が自由と解放を得る唯一の道は夫の死であった。 パウロはこの状況を引き合いに出して律法を説明した。人間は律法の下で不当な夫に縛られた妻のように自由のない存在である。律法が死ななければ解放はない。しかし聖徒はキリストの死と結び合わされたことによって、律法に対してすでに死んだ者となり、古い夫である律法から根本的に解放された。ここで語られている自由は、以前の束縛から解かれた状態にとどまるものではなく、新しい結びつきへと導かれるものである。 パウロがこの関係を説明したのは、律法の下にある人間の無力さを示すためであった。自由や権利を奪われた女性はそれを自覚するが、宗教的抑圧はしばしば自覚されない。もしパウロが宗教を築こうとしたのであれば、律法の垣根を取り払うことはなかっただろう。しかし福音は人を隷属させるものではなく、解放し自由にするものである。パウロの主題は教会組織や敬虔、聖化ではなく、福音そのものであった。 規則は個人にとっても共同体にとっても生活のために重要である。福音の自由を知ったからといって、人間が社会的存在としてすべての規則を破棄することはできない。しかしそれを福音と混同してはならない。パウロには二つの訴えがあった。一つは福音そのものへの訴えであり、もう一つは教会への訴えである。このことを理解すればパウロの教えに矛盾はない。信仰は規則を守る律法的な信仰ではなく、キリストとの愛の結合から生まれる自発的な従順である。教会はそのような福音の人々によって建てられていく。

로마서 묵상 【자유의 조건】 20250917(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 7:1~6 7:1 형제들아 내가 법 아는 자들에게 말하노니 너희는 율법이 사람의 살 동안만 그를 주관하는 줄 알지 못하느냐 7:2 남편 있는 여인이 그 남편 생전에는 법으로 그에게 매인바 되나 만일 그 남편이 죽으면 남편의 법에서 벗어났느니라 7:3 그러므로 만일 그 남편 생전에 다른 남자에게 가면 음부라 이르되 남편이 죽으면 그 법에서 자유케 되나니 다른…

ローマ人への手紙 黙想 【神の賜物は】 20250916 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 6:15~23 6:15 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。 6:16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。 6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、 6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。 6:19 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。 6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。 6:21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。 6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。 6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。   パウロはローマ人への手紙5章で、アダムとキリストを対比させて福音を説明した。アダムの罪の後、すべての人が罪の中に生まれ、死のもとに入ったように、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるすべての人に義といのちが与えられた。人間はそれぞれ独立して善悪を選び、自らの救いを達成できる自律的な存在ではない。善を行いたいと願ってもそのとおりにできず、悪を避けようと思っても避けられない。これは単なる意志の問題ではない。人間は望むと望まざるとにかかわらず、アダムとキリストという代表のもとに属する存在であるという意味である。神がいないと言い信じる人はどこにでもいるが、自らその枠組みの外に出ることができる人は誰もいない。 パウロは「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれました」(ローマ5:20)と言った。これは福音の偉大な宣言だが、一方で「罪を多く犯すほど恵みも多く受けられる」という誤解を招きかねない言葉でもある。しかしパウロの意図は、罪と恵みが量的に比例するということではない。むしろ、罪を深く自覚するほど、神の恵みをより深く知るようになるという意味である。パウロはこの誤解を正すために、洗礼の意味を持ち出す。洗礼とはイエス・キリストの死と復活に結びつけられる出来事である。すなわち、洗礼を受けた者は古い人がキリストとともに十字架につけられて罪に対して死に、よみがえられた主と結ばれて新しいいのちに生きるのである(ローマ6:3-5)。したがって、なお罪を犯し続け、それを正当化したり恵みによって合理化する人の口から出る「恵み」や「信仰」は、その真実性を疑わざるを得ない。 続いてパウロは、しもべと主人のたとえを用いて説明する。人間は決して中立的な存在ではなく、必ずある主人のもとに置かれている。分別のある人なら、人間が本来的に自立した存在ではなく、従属的であることに異を唱えられないだろう。罪に従えば罪のしもべとなり、神に従えば義のしもべとなる。世を好めば世のしもべとなり、みことばを好めば神のしもべとなる。これは避けられない帰結である。世の期待に従って生きながら口先で信仰を語っても、その中身は空虚である。世の忙しい歩みを止め、神の前に立ち止まる勇気がなければ、信仰は居場所を失い、消えていく。真実な信仰であるならば、立ち止まり、問い、従うことが必ず伴う。 いわゆる「ただで受けた恵み」に頼って、緊張感なく罪を重ねて生きることはできない。パウロが語る恵みとは、新しい主人に仕える力であり、真の自由を得る力である。その人の生き方が恵みの実在を証明する。完全であるという意味ではない。人は依然として不完全である。しかし、敬虔な時も、失敗してつまずく時も、良心はそれを映し出す。パウロはこう結論する。 「罪の報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23 恵みとは罪の言い訳ではなく、永遠のいのち、すなわち救われた聖徒の生へと導く力である。