로마서 묵상 【하나님의 은사는】 20250916(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 6:15~23 6:15 그런즉 어찌하리요 우리가 법 아래 있지 아니하고 은혜 아래 있으니 죄를 지으리요 그럴 수 없느니라 6:16 너희 자신을 종으로 드려 누구에게 순종하든지 그 순종함을 받는 자의 종이 되는 줄을 너희가 알지 못하느냐 혹은 죄의 종으로 사망에 이르고 혹은 순종의 종으로 의에 이르느니라 6:17 하나님께 감사하리로다 너희가 본래 죄의 종이더니 너희에게 전하여 준바…

ローマ人への手紙 黙想【空けられ、満たされる】20250913(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 5:12-21 5:12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に── 5:13 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。 5:14 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。 5:15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。 5:16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。 5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。 5:18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。 5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。    ヘブライ民族、イスラエルの民、そして彼らによって記された聖書を理解するうえで、必ず心に留めておくべき一つの原理があります。それは「代表性の原理」です。一人称の視点、ある一人の出来事や語られた言葉は、単にその人だけに留まるのではなく、その人を代表とする共同体や集団を念頭に置いて伝えられている、という原理です。  私たちがよく知るアダムとエバの罪、族長たちに与えられた約束、モーセに与えられた律法や預言者たちに与えられた預言など、旧約聖書の数多くの出来事は、この原理を含んでいます。また、新約聖書を記したヘブライ民族出身の使徒パウロも、当然のようにこの原理を持って手紙を書きました。  そして、この原理を直接的に用いて福音を語っている代表的な箇所が、きょうの本文です。すなわち、一人の罪と一人の従順、人間の最初の代表であったアダムの罪と、不滅の代表であられるイエス・キリストの従順です。  私たちには理不尽なことに思われるアダムの罪、不従順と、その結果として入ってきた死は、私たちの中に満たされる場所を空けるための出来事です。最初の代表であったアダムの不従順の結果を認めなければ、私たちの心は空けられません。空けられないということは、そこに満たすこともできないということです。  最初の代表アダムの罪を認め、自分を空けてからこそ、第二の代表であるイエス・キリストの従順と義が私たちの内に満たされるのです。律法によって罪が増し加わった分、その場所に神様の恵みが満ちあふれ、さらにあふれ出すのです。  私たちの人生において神様にささげる罪の告白と悔い改めの祈りは、単に恐れや罪悪感による行為ではありません。それは、自分の中に善があるという思い込み、偽りの義を無くし、場所を空ける時間であり、その場所に神様の恵みを受け入れるための第一歩なのです。 私たちは罪人です。使徒パウロが語るように、罪人の中のかしらのような存在です。しかし、だからこそ、永遠の命に至らせるイエス・キリストの恵みが、私たちの内に満ちあふれます。 https://youtu.be/2KqgSaLNAcE?si=ky9yZlrxbwrjWPub

로마서 묵상【비워진 곳에 채워지는 은혜】20250913(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 5:12-21 5:12 그러므로 한 사람으로 말미암아 죄가 세상에 들어오고 죄로 말미암아 사망이 들어왔나니 이와 같이 모든 사람이 죄를 지었으므로 사망이 모든 사람에게 이르렀느니라 5:13 죄가 율법 있기 전에도 세상에 있었으나 율법이 없었을 때에는 죄를 죄로 여기지 아니하였느니라 5:14 그러나 아담으로부터 모세까지 아담의 범죄와 같은 죄를 짓지 아니한 자들까지도 사망이 왕 노릇 하였나니 아담은 오실…

ローマ人への手紙 黙想【苦難から希望まで】20250912(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 5:1-11 5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。 5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。 5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。    使徒パウロは本日の箇所で、私たちに与えられた義と、その義をお与えくださったイエス・キリストによる神様との平和について語ることから始めています。そして、その後に続けて、イエス・キリストがなさったこと、その方を通して私たちに成し遂げられたことについて語られています。    私たちがよく知っているイエス・キリストの福音は、十字架での死と復活です。またその福音は、私たちに対する神様の愛の確証であり、私たちに救いをもたらす神様の力です。そのイエス・キリストの福音の中に、苦難、忍耐、練られた品性、そして希望という要素が含まれているのです。    良いお知らせである福音の中に、なぜ私たちが恐れ、苦手だと思うような苦難や、忍耐、練られるという厳しい過程が含まれなければならないのでしょうか。ただ単純に、私たちを救われたという喜ばしい知らせ、私たちの希望だけを福音として語られないのはなぜでしょうか。それはイエス様ご自身が私たちの模範となられ、神様の救いがどのように成就するのか、その過程を直接私たちに示してくださったからです。    救いについて語るとき、必ず登場する表現に「すでに、しかし、まだ」という言葉があります。すでに私たちは救いを受けており、私たちに実現しましたが、実際に現れているのは一部分にすぎないということです。だからこそ私たちは今、神様の救いを部分的に体験しながら、完全に現れる未来を希望しつつ生きているのです。    聖書は明確に、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちが世の中で苦難に遭うことを証言しています。実際、私たちはこの世を生きながら、その信仰のゆえに数え切れないほど多くのことを手放さなければならず、時には批判を受け入れなければならないこともあります。しかし、その地点であきらめずに忍耐するならば、その苦難と忍耐は私たちの信仰の成長の土台となります。そうして私たちは練られた品性へと形作られていくのです。    その練られた品性の果てに、私たちは完全な希望を見つめることになります。苦難と忍耐と練られる過程を経て、世のものに満足せず、部分的に現れている神様の救いを体験し、それが完全に成し遂げられるその日への希望を抱いて生きるようになるのです。    イエス様は十字架につけられるまで苦難を受けられました。しかし私たちの完全な救いを成し遂げるために、そのすべての過程を忍耐され、救いの練りを完成されました。ついに、復活によって、完成された救いの希望を私たちに与えてくださったのです。このことが、私たちが歩んでいくべき道であり、イエス・キリストが私たちに示された、苦難から希望まで至る道なのです。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=woYMMLLFSDEx-tHq

로마서 묵상【환난부터 소망까지】20250912(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서  5:1-11 5:1 그러므로 우리가 믿음으로 의롭다 하심을 받았으니 우리 주 예수 그리스도로 말미암아 하나님과 화평을 누리자 5:2 또한 그로 말미암아 우리가 믿음으로 서있는 이 은혜에 들어감을 얻었으며 하나님의 영광을 바라고 즐거워하느니라 5:3 다만 이뿐 아니라 우리가 환난 중에도 즐거워하나니 이는 환난은 인내를, 5:4 인내는 연단을, 연단은 소망을 이루는 줄 앎이로다 5:5 소망이 우리를 부끄럽게…

ローマ人への手紙 黙想 【アブラハムの信仰は、どのようにしてイエスを信じる信仰となるのか】 20250911 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:18~25 4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。 4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。 4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。 4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。 4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、 4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。 4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。   パウロはアブラハムについて、「望み得ない時に望みを抱いて信じた」と語ります。アブラハムは、自分の百歳という老いた身体と、サラの死んだ胎という不可能な現実の前にあっても、神の約束を信仰によって受け入れました。信仰とは、現実を無視したり、避けたりすることではありません。むしろ、現実を正面から見据えた上で、その向こう側で働かれる神の力を期待し、信頼することなのです。アブラハムが神の約束を疑わなかったと記されていますが、彼にも人間的な揺らぎが確かに存在しました。それは欠点なのでしょうか?信仰も人生も、揺らがずに自動的に立つことなどありません。大切なのは、揺れながらも、最終的に神をしっかりと掴み直すところへ戻っていくことです。帰るべき場所、心を預ける場所は、神以外にないのです。信仰とは、自信から出るものではなく、神を信頼するところから生まれる粘り強い希望です。 「『彼には義と認められた』と書いてあるのは、彼だけのためでなく、私たちのためでもあるのです」(ローマ4:23–24)。アブラハムの信仰について語るのは、ある一人の英雄的な人物の物語を語ろうとするのではなく、神が信仰を通して人を義とされる方法を明らかにするためなのです。すべてが変わっても、信仰の価値は変わりません。アブラハムの信仰は歴史の中で終わった出来事ではありません。それこそが信仰の原型であり、同じ本質の信仰を持つ者たちに、今も変わらず同じ祝福が与えられるのです。では、どのようにして「同じ本質」となるのでしょうか?「義と認められた」という表現は、法的でありながら存在論的な決定です。ルターは、「同時に義人であり、罪人である(simul justus et peccator)」と述べました。アブラハムに義が転嫁されたように、死者の中からイエスをよみがえらせた神を信じる者にも、義が転嫁されるのです。 アブラハムはモリヤの山で、息子を献げよという神の命令に従いました。それは決定的な出来事でした。アブラハムは、神が息子を再び生かすことがおできになると信じていました。モリヤ山では、イサクが死ぬ直前に止められましたが、イエス・キリストの苦しみと死は、残酷なまでに現実そのものでした。イエスは死に、そして復活されました。したがって、この物語はアブラハムの偉大さを称えるためにあるのではなく、キリストを証しするためにあるのです。大切なのはアブラハムではなく、その信仰を通して明らかにされる神の救いのご計画なのです。キリストこそ、アブラハムの従順を完全に成し遂げた方であり、十字架の死と復活は、アブラハムの信仰を究極的に完成させる出来事です。アブラハムの信仰はメシアに向けられた影であり、私たちの信仰はそのメシアを信じる具体的な告白なのです。 私たちは、アブラハムの信仰という過去の模範に届かないからといって、自分を責める必要はありません。むしろ、今日の私たちの人生の中で、信仰によって義とされるという、現実に与えられた祝福を味わうべきなのです。結局のところ重要なのは、人間アブラハムの信仰そのものではなく、そのような信仰を可能にした神の約束と誠実さなのです。ですから、イエスを信じる者は皆、アブラハムの子孫であり、その信仰の系譜の中にある者なのです。この信仰は人間の理解を超えています。望み得ない中で信じること、死者を生かす神を信頼すること、現実よりも神の約束に重きを置くこと。それがアブラハムの祝福であり、今日イエスを信じる私たちが受けている祝福なのです。

로마서 묵상 【아브라함의 믿음은 어떻게 예수님을 믿는 믿음이 되는가】 20250911(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:18~25 4:18 아브라함이 바랄 수 없는 중에 바라고 믿었으니 이는 네 후손이 이같으리라 하신 말씀대로 많은 민족의 조상이 되게 하려 하심을 인함이라 4:19 그가 백세나 되어 자기 몸의 죽은 것 같음과 사라의 태의 죽은 것 같음을 알고도 믿음이 약하여지지 아니하고 4:20 믿음이 없어 하나님의 약속을 의심치 않고 믿음에 견고하여져서 하나님께 영광을 돌리며 4:21 약속하신…

ローマ人への手紙 黙想 【それで聖くなれるのか】 20250910 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:9~17 4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、 4:10 どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。 4:11 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、 4:12 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。 4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。 4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。 4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。 4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。 4:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。   パウロは前日の本文で、すべての人が罪のもとにあり、律法や行いによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされると語った。だからこそ神がアブラハムの信仰を義と認められたことを思い起こさせたのである。続く今日の本文では、アブラハムが義とされたのは「割礼を受ける前」であったという事実を喚起している。アブラハムはまず信仰によって義とされ、その後に割礼を印として受けたのである。したがって割礼は救いの条件ではなく、すでに与えられた信仰の義を確認するしるしに過ぎない。イスラエルの歴史を見ても同じである。出エジプトは割礼を受けてから起こったのではなく、むしろ出エジプトという救いを先に経験し、荒野の旅を終えカナンに入ろうとしたときに割礼を受けた。律法もまた出エジプトの後に与えられた。割礼よりも、律法よりも、救いの恵みが常に先であった。 もし律法によって約束が成り立つのなら、信仰は無意味となり、約束は破棄されることになる。結局、律法は人間の罪を明らかにするだけであり、信仰による救いという福音の安全装置なしには誰も神の怒りを逃れることができない。律法が相続の条件であるならば、人間は相続の権利を得ることができず、ゆえにただ信仰によってのみ救いが可能だというのがパウロの力強い主張である。そして信仰でなければ、神の約束はすべての子孫に適用されることができない。信仰でなければ、私自身にも救いの機会が与えられない。これこそがイエスがトマスに「見ずに信じる者は幸いである」と言われた理由である。こうしてアブラハムは血統的イスラエルだけの祖先ではなく、信仰によって生きるすべての人の祖先となる。 しかしここで私たちは割礼そのものを問い直さざるを得ない。割礼はもともと神とアブラハムの間の契約を思い起こさせる信仰的なしるしであったが、時が経つにつれユダヤ人にとっては民族的誇りと境界線として機能するようになった。肉体に刻む単なるしるしに過ぎなかったのに、イスラエルはそれを救いの絶対条件のように執着したのである。律法にはそれなりの精神があるとしても、割礼そのものにこだわったことは一種の集団的催眠であった。本来の意味は失われ、外面的行為が本質であるかのように強調され、「我々は割礼を受けた民」という同一化が「我々は選ばれた民族だ」という優越感へと固定されてしまったのである。 パウロはまさにこの幻想を打ち砕いた。アブラハムが義とされたのは割礼以前であったことを証拠として提示し、救いの本質は集団的所属や外面的しるしではなく、心に刻まれる割礼、すなわち福音を受け入れることであると宣言したのだ。では、この時代の教会にとって割礼とは何であろうか。世と自分を区別する私たちだけのしるしとは何か。私たちは所属や権威に頼って福音の深みを見失ってはいないだろうか。制度や集団的同一化の中で「あなたたちの天国」を自画自賛しながら生きてはいないだろうか。教会の存在理由は集団的しるしや社会的影響力ではなく、他者に近づき、受け入れる共同体の実現である。パウロは帝国の心臓部、ローマ教会に向かってまさにこれを説いたのである。

로마서 묵상 【그것으로 거룩해질 수 있을까】 20250910(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:9~17 4:9 그런즉 이 행복이 할례자에게뇨 혹 무할례자에게도뇨 대저 우리가 말하기를 아브라함에게는 그 믿음을 의로 여기셨다 하노라 4:10 그런즉 이를 어떻게 여기셨느뇨 할례시냐 무할례시냐 할례시가 아니라 무할례시니라 4:11 저가 할례의 표를 받은 것은 무할례시에 믿음으로 된 의를 인친 것이니 이는 무할례자로서 믿는 모든 자의 조상이 되어 저희로 의로 여기심을 얻게 하려 하심이라 4:12 또한…

ローマ人への手紙 黙想 【行いより大きな信仰、信仰より大きな神】 20250909 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:1~8 4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 4:3 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 4:4 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 4:5 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 4:6 同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。 4:7 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。 4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」   ローマ人への手紙3章で、パウロはすべての人が罪のもとにあることを明らかにし、律法の行いによっては義と認められることができず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのだと語った。この宣言は当時のユダヤ人には耳慣れないものであり、パウロが律法を否定したり、新しい思想を唱えていると誤解される可能性もあった。そこでパウロは、ユダヤ人にとって最も信頼される象徴であるアブラハムを呼び出す。ユダヤ人が祖と仰ぎ誇りとしていたアブラハムさえも、実は行いではなく信仰によって義と認められたのだという事実を思い起こさせようとするのである。パウロは、いかなる場合においても、神の恵みとそれを信じる信仰に基づいた義認だけが神の方法であると語ろうとしているのである。だからこそパウロは、アブラハムとダビデを引き合いに出し、信仰によって得られる義と罪の赦しの幸い、すなわち神から始まった恵みについて語っているのである。 アブラハムがアブラハムとなり得たのは、能力や努力のおかげではなかった。いわゆる「信仰が強かった」からでもなかった。人々が「信仰深い」と言うときのその信仰ではなかった。アブラハムは最初から最後まで、神の召しに導かれて生きた。歯を食いしばって献身したのでもなく、信仰が強かったから従ったのでもなかった。ただ、それ以外は見えなかったからである。だからこそ、恵みなのだ。人々の目には難しく、立派に見えたかもしれないが、アブラハム自身にとっては苦しいことではなかっただろう。他のものは見えなかったからである。パウロは律法ではなく信仰だと言っているが、その信仰さえもアブラハムがひねり出したものではなかった。すべては、神がアブラハムを召し、支えられた恵みによって可能になったのである。 アブラハムの生涯は部分的な成就で終わった。空の星のような子孫の代わりにイサク一人を得ただけであり、カナンの地の嗣業の代わりに墓穴ひとつを所有したにすぎなかった。その未完成の中にあっても、アブラハムはなおその道を歩み続けた。疑わないことが信仰なのではなく、その道を最後まで歩むことこそが信仰である。自分の空間と時間を超えて、神が成し遂げられる約束に捕らえられて生きることである。アブラハムが恐れの中で揺れ動き、待つ中で過ちを犯したときでさえ、神は彼を見捨てられなかった。信仰とは、完全な人の力ではなく、弱き者を支えられる神の恵みの出来事である。 これを何と呼べばよいだろうか。アブラハムとダビデは誰よりも激しい信仰と従順の生涯を生きた人々であったが、それらすべてが神の恵みであったことを語らざるを得ない証言で終わる。逆に、自分は信仰が強いからその信仰によって何かができると思っている人は、アブラハムの人生も、ダビデの証言も、パウロの訴えも理解できないだろう。パウロは律法ではなく恵み、行いではなく信仰について語っているが、それはすなわち「私」ではなく「神」について語っているのである。歴史の中で問題を引き起こしてきたのは、信仰のない人々ではなく、自分は信仰が強いとうぬぼれる人々であった。肩や首に入った力を抜き、自分の位置と関係を告白しなければならない。神の召しと導きは、いつでも私の信仰と従順よりも大きいのである。