Quiet Time:두 증인 20191119

Quiet Time:두 증인 20191119 11장은 하나님의 말씀과 그 말씀과 함께하는 백성을 핍박하는 것들에 대한 성도들의 최종적 승리를 예언하고 있습니다. 천사가 성전을 측량하라고 지팡이 같은 갈대를 주었습니다. 자를 준 것입니다. 천사는 성전과 제단을 측량하라고 하였습니다. 그러나 그것은 예루살렘 성전의 건축조건을 측량라는 것이 아닙니다. 요한에게 계시가 임할 때는 이미 예루살렘의 성전은 모두 파괴된 후였습니다. 이방인의 뜰은 측량하지…

説教:ヨルダン川の十二の石 20191117

2019年11月17日主日礼拝 説教題『ヨルダン川の十二の石』 箇所    ヨシュア記4:1~18   先週、エジプトの奴隷だったイスラエルの民がエジプトを脱出し荒野での40年の生活を経て、いよいよヨルダン川を渡る話をヨシュア記からしました。ヨルダン川に到着した時、川は洪水のせいで氾濫していた雨期でした。しかし神は祭司たちに対して、足を川の水に入れるようにと語られました。私たちの常識と合理性から見れば、これは死ぬことを意味するのではないでしょうか。全く納得のいかない無理な要求でした。   ヨルダン川が凄まじい勢いで岸いっぱいに溢れているのに、その川の真ん中に入りなさいというのです。しかも選ばれた祭司たちは契約の箱を肩に担いでいる状態です。バランスを保つのも一苦労です。川の水に流されて死ぬかもしれません。まさにミッションインポッシブルです。   この話を聞く私たちは面白い聖書の物語だと思うかもしれませんが、これは歴史的事実であり祭司たちにとっては命懸けの従順でした。命懸けだった彼らが、川に流されぬように必死に耐えなければならなかった理由は、彼らの命のみならず、契約の箱、つまり神のことばを守らなければならなかったからです。   神様が確認したかったことは、川を渡る彼らの実力ではなく、神を信頼する信仰と勇気でした。勇気をもってその信仰を実行する時、すなわち祭司たちが急流の中に足を入れる時、ヨルダン川の流れは止まりました。神様はイスラエルのリーダーたちのその信仰をご覧になった後、ヨルダン川の水を止められたのです。   後につづく民は川の水が止まった後にヨルダン川を歩いて渡りました。当時カナンに入ろうとしていたイスラエルの民の人口は、老若男女を合わせて200万人ほどでした。200万人が歩いて渡るきるまで、祭司たちは契約の箱を担いてヨルダン川の真ん中に立っていたのです。一日中、いや、もしかしたらそれ以上の時間がかかったとは思いませんか。民が乾いた地を歩いて渡ったの対して、祭司たちの足は川の水に浸っていました。彼らは濡れた足でずっと川の真ん中に立っていたということです。   祭司たちはどうなりましたか。すべての民が渡りきってから、神様がヨシュアに命じられたことで、ようやくヨルダン川の西側カナンの地に入ることができました。彼らは信仰の従順によって自分たちの任務を終えました。この信仰の奇跡でイスラエルはヨルダン川の東から西へ無地に移動できたのです。ヨルダン川を渡るという大きな課題は、結果的にあまりにも簡単に解決しました。ただ前進すればよかったからです。   私はヨシュア記のこのヨルダン川の記事を読みながら、ヨシュアのリーダーシップと決断は素晴らしいものだと思いました。しかし実はこの話でスポットライトを当てるべき点は、祭司たちの献身です。渡るのは不可能だった川、その川に初めて足を踏み入れた人は契約の箱を担いでいた祭司たちでした。またたくさんの民が川を渡る間も祭司たちは彼らを見守っていました。そしてすべての民が渡ったのを確認して、ヨシュアの命令を受け、最後にヨルダン川から出てきたのも祭司たちでした。   素晴らしい献身者です。どういう人を祭司と呼ぶべきでしょうか。私たちはみな王である祭司ではないですか。それが新約聖書の整理された要点であり、宗教改革の精神です。すべての人が祭司です。イエス様の十字架の力がそれを成就したのです。十字架で死なれた時、聖所の垂れ幕が裂かれました。門が開かれたということです。大祭司が一年に一度だけ入ることができたその至聖所に、誰でも入ることができるようになったのです。   しかし、ただ入れば良いということではありません。イエスの十字架の恵みによってのみ、入ることができるのです。カナンはイエスの名によって入る神の国です。だからヨルダン川に立っていた祭司たちは、いわば王である祭司たちでした。王は民を愛し、祭司は礼拝者を愛する者です。ヨルダン川に立っていた祭司たちは王である祭司でした。宗教的に特別な務めを担った者だけが祭司になるのではありません。礼拝共同体のために信仰と勇気を持って、流れる川の中に最初に足を入れることのできる人、その人が王である祭司なのです。   祭司について考えていた時、ふとある映画のワンシーンを思い出しました。かなり前の映画で、メル・ギブソン主演の『ワンス・アンド・フォーエバー』という映画です。ベトナム戦争の時の実話をもとに制作されたのですが、ハル・ムーアという米軍の中佐が部隊を率いて戦争に向かいます。映画ではアメリカを経つ前に、部下たちとその家族たちにしたスピーチが登場します。   「私たちはこれから戦闘のために出発する。私は君たちに生きて帰還させるという約束はできない。しかしこれだけは誓うことができる。私たちが戦いに行く時、私は誰よりも最初に戦場に到着し、誰よりも最後に戦場を離れる。そして生存しても戦死しても、私は君たちを一人残らず連れて帰ってくる。私たちは全員家に帰ってくる。So Help Me God。」と誓ったのです。   軍隊は死の渓谷と呼ばれる場所で、激しい交戦に入りました。そしてメル・ギブソンの部隊が撤収する日、自分が最後にヘリコプターに乗り込みます。地面についていた左足を離し、ヘリに乗ったそのシーンは今でも印象深く覚えています。メル・ギブソンは約束を守りました。ヨルダン川で最後に足を離し、カナンの地に登って行った祭司たちの歩みが、この指揮官の責任感に似ています。   今日はこの話の続きをします。不可能は可能になりますが、神様が与える使命は終わりません。神様がヨシュアを通して命じられます。もう一度、民の各部族から一人ずつ選抜するという命令です。神による二番目の選びです。神様が彼らに何を命じられたのかというと、祭司たちが立っていた場所に戻り、十二の石を選び、それを持って来なさいというものでした。そしてそれを今日の夜から宿営地に運んで、据えておくようにされたのです。   神様は人間が渡ることができないと思った時、信仰を求めました。そして渡った後にはその川の石を拾ってくるために、再び川に戻るように言われました。神様はなぜその石を持ってくるように言われたのでしょうか。それは覚えるためです。神の恵みを歴史に記録し、共同体がそれを記念し、その恵みを記憶するためにです。いずれ子孫が「この石たちは何ですか」と尋ねた時、ヨルダン川の水が主の箱の前に途絶えた奇跡を証明するためのものでした。   ヨシュアはその命令をいただきました。何を命じられたのですか。神の命令の目的は、共同体が受けた恵みという歴史的意識と、それを教えるという次世代のための教育にありました。ヨシュアは十二人の選ばれた者たちとともに、川に入りました。そしてヨシュアは自ら十二個の石を立てました。神のことばはその石をそれぞれ一つずつ持ってきて、ギルガルの宿営に記念碑をつくるようにしたのですが、ヨシュアはそれとは別にヨルダン川の中にも石を立てて記念碑を作ったのです。記憶し、記念するという神様の意図をよく理解していたからです。   歴史に対する意識がない人は記録も記憶もすることがありません。歴史の意識がないだけでなく、集団的に利己的でさえある共同体というのは、歴史を歪曲したり修正したりするものです。次世代を考えることもしません。記録もせず、記憶もしない、ましてや教育もしないということです。ただエジプトでの奴隷時代に食べていた肉だけを覚えているのです。食べて、休んで、眠りさえすれば、それで満足です。奴隷に戻ろうと言っていた者たちは、肉が食べたかったのです。経済は私たちの生活にあって重要ですが、経済の奴隷になってはいけません。ほんの少しでも歴史に対する意識を持っていたならば、肉を欲することなどできないはずです。子供たちが代々奴隷として生きながら肉を食べることが、果たして喜ばしいことでしょうか。   「神様が川を乾かしてくださったから、この川を渡ることができた。神の恵みを覚えよ。川の中にあるあるべき石が私たちの前に立っているのは、私たちがあそこに入ったことがあるからだ。私たちは洪水の時にあの川を渡った。私ではなく、神が成してくださり、私たちをカナンに導いてくださったから、今の私たちがここにいるのだ。」このことを子供たちに教えるためでした。人生の絶望の場所で体験した神様の救い、その神様の恵みを覚えていますか。それを次の世代に教えていますか。   約束の地に踏み入り、ヨルダン川を渡ったからと言って、カナンに入るということが完結するのではありません。これからが始まりです。征服戦争が残っています。最初の戦争の前に神様が昔のことを記念するようにされたのです。川を渡らせてくださった神様が恩に着せるために石を立てるように命じたのではありません。その記憶があるからこそ、その恵みを忘れることがなく、その記憶があるからこそ、この先の戦争にも勝利することができるからです。これは戦略の戦いではなく、軍費や戦闘力の問題でもありません。神を信頼するのかしないのかの戦いなのです。   ヨルダン川を渡ったイスラエルの民がギルガルに宿営を設けました。戦争の準備をしなければなりません。この戦争はこれから7年が掛かります。その間ギルガルが宿営地となるのです。イスラエルが戦うあらゆる戦争がギルガルで始まり、ギルガルに復帰します。相手の強さに恐れを覚える度に、また疲れのせいで諦めたくなる度に、出征と復帰の時に目にするこの石を通して、神が共におられるということを覚えるのです。だから神様はギルガルに石を立てるように言われました。   また、それは士気高揚のためだけではありませんでした。本当の霊的危機はいつ訪れますか。大丈夫だと思う時ではないですか。終わったと思い、高くなったと思い、欲しいものは手に入れたと思えば、心は高まって神の恵みを覚えることができなくなります。神様は、そのことを心配しながら、私たちに何度も教え、強調されるのです。それが死ぬ病気になることをご存知だからです。高慢にならないためには、命を救ってくださった恵みを毎日覚える方法しかありません。   ヨシュアがリーダーシップの交代をしっかりできたのは、ヨシュアだからではありませんでした。4章14節、「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。」   リーダーシップが変わる時、混乱を心配される神様が特別な恵みで介入され、ヨシュアがイスラエル社会で認められるようにされたのです。カナン征服戦争が始まり、ヨシュアが卓越したリーダーシップでイスラエルを導きましたが、モーセはその時にもやはり恋しい人物でした。イスラエルの次世代を愛したモーセは遺言を残して自ら去りました。モーセのその言葉をもう一度見てみましょう。   申命記8章12〜14節、「12 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、13 あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、14…

사랑에 미친 이야기

사도행전 26:24-29 베스도는 로마에서 파견나온 유대의 신임 총독입니다. 그래서 신임 총독의 부임 인사를 위해 유대왕 아그립파 왕이 총독부를 방문했습니다. 아그립바 왕은 유대인이고 베스도 총독은 로마사람입니다. 그래서 배스도 총독이 아그립바 왕을 만나자마자 지금 진행 중인 골치 아픈 사건, 이 바울의 재판 문제를 상담합니다. 왜냐하면 이 사건에는 유대인들만이 알 수 있는 그들의 종교와 전통의 문제가 복잡하게 얽혀있기…

신념인가 믿음인가

한국에 다녀왔다. 한국의 공기는 분노였다. 역사관과 정치관이 무섭게 대립하고 갈등하고 있었다. 감정은 격양되어 있었지만, 양상은 단순했다. 오직 두 가지 관점 이른바 보수와 진보, 좌파와 우파로 대립해 있었다. 다양한 정치적 과제가 있지만, 견해는 오직 두 개로 헤쳐 모여져 있는 것이다. 그것이 이상했다. 사람들이 사회와 정치에 관심을 가지고 있다면 왜 더 다양하지 않은 것일까. 사회적 변수는 다양한데…

あなたが見た光を私にも見せてくれ・네가 본 빛을 나에게도 보이게 해달라

韓国の代表的な碩学でイ・オリョンという人物がいる。キリスト教信仰は文化的現象であり、それを信仰するということは迷信に他ならないと公表的に言い続けた人である。成功した学者は、入閣後に長官を務め、韓国社会における知性のアイコンとして通じるようになった。何一つ不自由のなかった先生は、国際弁護士として出生コースを突っ走っていた娘の不幸から人生の転換点を迎えるようになる。孫の障がいによる娘の苦しみとその娘の視力喪失、そればかりか孫の死と娘の死、、、娘の不幸な人生を側で見ながら何もやってあげられない無能な父が自分自身であるという絶望を体験する。彼は苦しみの中で祈っていた娘、死を目前に誰かに仕えていた娘の人生を見ながら、「お前が見た光を私にも見せておくれ」と泣いた。 神様 あなたに一束の花ですら捧げたことがないので私を覚えていないでしょう しかし神様 すべての人が眠っている夜にあなたの低い息の音が聞こえます とても寂しい時にはあなたの前に跪いて祈ることもあります 神様 どうやってあの多くの星を造ったのですか、そしてはじめに海に魚を泳がせた時、あの銀色に輝く羽を造って鳥たちが一斉に飛び上がる時、神様も拍手をしたのですか ああ!実に神様 光よあれと言われ、そこに光があっとは 人々は今詩を書くために足爪のような鈍い心を裂き、鼻血のように濃い涙を流しています 砂粒みたいな星でも良いので私にそれを造る力をください いいえ空の星ではなく真っ暗な心の中の夜空に光る蛍の一筋の光で十分です もう少し近くに行ってもいいですか あなたの足の先を隠す神聖な裾を汚れた手で少し触ってもいいですか それによってあの無知な人たちの心の中をオルガンのように響かせる美しい一行の詩を書くことを許してくださいますか 神様 -ある無神論者の祈り- イ・オリョン この詩は彼がクリスチャンになる前に綴った詩である。こうやって神様を求める小さな歌が「ある無神論者の祈り2」では変わる。「あなたを呼ぶ前は何の声も聞こえませんでした。あなたを呼ぶ前は何の姿も見えませんでした。しかし今は違います。うっすらと見えて、遠くから聞こえます。」彼は神様が聞こえ見え始めたのだ。一生涯無神論者として生きてきた学者は73歳でイエスを信じた。彼は洗礼を受ける時「一人バタバタと生きてきた自分が哀れだ」と告白した。 ある講義で自分の人生はイエスを信じる前まではすべてが順調だったと言ったそうだ。しかしイエスが自分の人生に登場してからは患難と苦しみと喪失が絶えなかったという。実際にそうだった。しかし彼はその人生でイエスに出会ったと言った。それも事実だ。消え去る欲望のために喉がかれるまで求め、それを恵みだと騙し、それを信仰だと信じ込む世の中にあって、学者は匕首(あいくち)のような真理を突き刺したのだ。 イエスを信じた理由で殆どの読者は離れていき、非難と中傷を受けたが、彼は自分の神様を大胆に語った。彼は孫と娘を天に先に送り、彼も癌を患った。しかし今彼の神様はもっと鮮明に彼に近づいてこられ、もっと大きく語りかけられる。彼は言う。自分の宗教は今始まっているのだと。 人々は彼の娘の目が癒されたことで神様を信じたのだと言う。しかし彼はそうではないと言う。神様に出会ったのは癒しという奇跡のためではない。癒しと奇跡は今も起こるが、それが信仰ではない。そこから神様と語り合うことで信仰が始まるのだ。 私たちの教会は主日の夜にCBSIという聖書教材を使っている。全巻を学ぶには20年がかかる。もともと英語だった教材を韓国語に翻訳した人はソウル大学社会学科名誉教授のクォン・テファン長老だ。アルツハイマーを患いながら全巻を翻訳した。私は彼の家の書斎で彼と初めて出会った。不便な手でキーボードを打ちながら新・旧約の教材を翻訳していた。翻訳というのは読んで理解したという意味である。その作業が終わった時、彼は光の中に佇むかのように平和に見えた。書き終えた喜びではなく、光に出会った喜びであった。 彼の妻は、家を訪れる人たちに対して、夫が退職後に体は不自由だけど聖書教材の翻訳ができたことは本当に良かったと話していた。その言葉を聞いたノ教授は、自分の人生で一度も経験したことがない、最も幸せで意味のあることをしているんだから、可哀想だとか、暇つぶしができて良かったとか、そんなことは言わないでくれと言った。もともと彼は妻の信仰に倣っていた人だった。しかし彼は神様のことばを翻訳しながら聖書にある光を見たのだ。小さな部屋の中で不便な手を使いながら神様のことばを翻訳していくうちに、光なる神様のことばと語り合い出したのだ。 誰かの恵みの話を伝えようとこれを書いたのではない。誰かの神様ではない、私の神様を話すためである。誰かの証の偉大さに圧倒される必要はない。彼らもみな誰かの助けによって外に出てきた人たちだからだ。ただ彼らは家の奥の自分の部屋で神様に出会った人たちである。神様の恵みは私たちにも溢れているが、私たちがそれを発見できずにいるだけなのだ。私の人生を通してあらわれる私の神様を証しできずにいるだけなのだ。神様の恵みは大きくしていくのではなく、その大きさを発見することである。告白が大きくなればなるほど、私を愛している神様の愛と恵みの証が日に日に大きくなるのだ。 自分が出会った神様ほど大きい神様はいない。誰かの不治の病を癒す神様よりも、私の指に刺さったトゲを抜いてくれる神様を私たちはもっと体験せざるを得ないからである。神様を語るには、どこから語るべきだろうか。聖書をどれほど知れば伝道ができるだろうか。誰かの神様ではない、私の神様を発見しよう。そしてそれを神様に語る時、それは救いに相応しい信仰の告白となり、それを誰かに話す時、それは宣教となる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 한국의 대표적 석학으로 이어령 교수라는 분이 있다. 기독교 신앙은 문화적인 현상이고 그것을 신앙한다는 것은 미신과 다름없다고 공공연하게 말해왔던 사람이다. 성공한 학자는 입각하여 장관을 지냈고 한국사회에서 지성의 아이콘으로…

미움받을 용기

트라우마는 의학적으로 정신적 외상이라는 의미로 주로 사용된다. 프로이트 정신분석의 기본적인 사상이며 프로이트에 따르면 현재는 과거의 상처가 만들어낸 결과라고 할 수 있다. 근년 일본과 한국에서 베스트셀러가 된『미움받을 용기』는 아들러라는 심리학자를 소개하고 있다. 아들러는 프로이트의 트라우마를 전면적으로 부정한다. 과거의 상처가 사람을 지배한다는 것을 인정하지 않는다. 사람을 움직이는 것은 과거의 상처의 기억이 아니라 현재의 목적이라고 말한다. 과거의 상처는…

「お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った」 ・「어머니는 자장면이 싫다고 하셨어」

韓国の人気アイドルグループだったG.O.Dの「お母さんに」という歌の歌詞には、涙ぐましい母と息子の愛が込められている。   (歌詞) 昔からうちは貧乏で みんながしていた外食も数え切れるほどしかなく 仕事で母が家にいない時は いつも一人で食べていたインスタント麺 そんな食事にもうんざりして 美味しいものが食べたいと駄々をこねた そしたらお母さんは仕方なく非常用のお金を取り出して注文してくれた ジャージャー麺一つでとても幸せだった だけどお母さんはなぜか食べなかった お母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った 母さんはジャージャー麺が嫌いだと言った そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、   母がジャージャー麺を嫌ったのではなく、息子が好きだったのである。母はジャージャー麺を食べる幸せよりも、ジャージャー麺を食べさせる幸せの方が良かったのだ。息子はジャージャー麺を食べて幸せになり、母はジャージャー麺を食べさせて幸せになった。しかしこの母の愛の歌はなぜ悲しいのだろうか。息子が一人でジャージャー麺を全部食べてしまったから悲しいのだろうか。母がそれを食べられなかったから私たちは悲しくなるのだろうか。そのジャージャー麺の器から、この世では味わうことができない愛を味わえたから悲しいのだろう。   韓国の実家に行った時、母をヘウンデに連れて行き刺身を食べさせた。母が食べられずにいることも知らず、私は腹一杯に食べた。息子の分がなくなるといけないから、食べなかったのではない。母には刺身を噛む歯が無かったのだ。私はそんなことも知らずに一人で満腹になっていた。母は歯がないのに、なぜ喜んでついて来てくれたのだろうか。母は、自分に歯がないことに気がつかない息子、歯医者のお金も渡さない息子と一緒に、息子の大好きな刺身屋さんに行ったのだ。   不思議だ。今はジャージャー麺を思う存分食べられるのに、母に大盛りのジャージャー麺も買ってあげられるのに、悲しいのは同じである。「そんな風に生きて そんな風に悔やんで 涙も流して またそんな風に生きて とても痛くて でもまた笑って、、、。」なぜ悲しいのだろうか。後悔と涙と痛みと喜びとが愛が生んだ息子だからではないろうか。愛は後悔も生み、涙も生み、痛みも生む。母の愛を悟る時、後悔し、痛み、泣くしかない。親孝行がどんなに大きくても、母性にはかなわないからである。故郷の家・東京に住む80を過ぎた一人のお婆さんはクリスチャンではないが、月に一度ある祈祷会によちよちと歩いて来られる。その方の祈祷課題を聞くと、息子が病気なので祈ってほしいとのことだった。   この愛は悲しい。その悲しみに打ち勝つ方法はない。「でもまた笑って、、、」と、この歌を終わらせよう。もっと愛すべきものが残っているから。食べる喜びよりも食べさせる喜びがあり、愛される喜びよりも愛する喜びが、私たちの人生にはまだ残っているのだから。「でもまた笑いましょう。」これからも愛が流れていくために。     한국의 인기 아이돌 그룹이었던 G.O.D의 「어머님께」라는 노래의 가사에는 애절한 어머니와 아들의 사랑이 있다. (가사) 어려서부터 우리 집은 가난했었고 남들 다하는 외식 몇 번 한 적이 없었고 일터에 나가신 어머니 집에 없으면 언제나 혼자서 끓여먹었던 라면 그러다 라면이 너무 지겨워서…

【子どものように】・【어린아이와 같이】

아이들은 부모에게 양육과 훈계를 받고 자랍니다. 부모는 자녀를 가르쳐야 할 책임과 의무를 하나님에게 받았기 때문입니다. 하지만 부모가 자녀를 가르칠만한 완전한 실력과 인격을 충분히 가지고 있는 것은 아닙니다. 아무도 부모 고시를 치고 합격해서 부모가 된 사람은 없습니다. 우리는 모두 자신을 아이라고 생각하다가 어느 날 갑자기 부모가 됩니다. 사람이 사람을 낳고 사람을 만들어 가는 것은 누구에게나 어려운…