マタイによる福音書 QT54 20210315月【わざわいだ】マタイ 23章 13~24

マタイ 23章 13~2423:13 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。23:14 ※異本に十四節として以下を加えるものもある。〔わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見栄のために長い祈りをしている。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けるのだ。〕23:15 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。23:16 わざわいだ、目の見えない案内人たち。おまえたちは言っている。『だれでも神殿にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、神殿の黄金にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』23:17 愚かで目の見えない者たち。黄金と、その黄金を聖なるものにする神殿と、どちらが重要なのか。23:18 また、おまえたちは言っている。『だれでも祭壇にかけて誓うのであれば、何の義務もない。しかし、祭壇の上のささげ物にかけて誓うのであれば、果たす義務がある。』23:19 目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。23:20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上にあるすべてのものにかけて誓っているのだ。23:21 また、神殿にかけて誓う者は、神殿とそこに住まわれる方にかけて誓っているのだ。23:22 天にかけて誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方にかけて誓っているのだ。23:23 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。23:24 目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。   イエス様は真理を教える際には、比喩で教え、貧しくて弱い者には条件なしの癒しと助けを与えました。しかし、偽善者に対しては非常に厳しい言葉で非難されました。「わざわいだ」今朝の本文には、イエス様が律法学者やパリサイ人たちに言われた、厳しい七つの「わざわい」が出てきます。「わざわい」は、呪いを意味し、この呪いをもたらす本文全体の共通的な罪として偽善があります。   13節の最初のわざわいは、教える立場で偽善を行うことによって、教える自分も、教えられる者も滅ぼすということです。教える人は誰かを教えながら自分も学びます。つまり教えることこそが最高の学習であります。知らなければ教えることができないからです。間違ったことを教えたら教えた者も間違ったことを学習した訳です。偽善のことを教え、矛盾のことを教えるなら、自分が教えたことに自分も学習されて矛盾と偽善を積み重ねることになります。そのような環境の中で、知的かつ人格的な影響を受ける人は、一緒に偽善的、二律背反的なことに汚染されます。   15節の第二のわざわいは、信者を教育する目的が聖書の真理を教えるのではなく、教権を確立させるための教えだという批判です。パリサイ人たちは、ユダヤ教の信仰の問題において、絶対的な権限を持っていました。彼らは信者に神への献身を求めることには問題がありません。むしろそれが彼らがしなければならない職務でもあるからです。しかし、イエス様が戒めているのは、献身を託して宗教を追従させ、信者を労働力と財政の動員を目的としている点です。最近教会を政治的に扇動する人たちがいましたが、そのようなものを許してはいけません。   16節の第三のわざわいは、律法学者とパリサイ人たちの本音が明らかにされます。神殿を根拠に、誓いとそれを守る義務はありませんが、神殿の金で誓いをすれば、必ず守らなければならないと教えていたのです。信者を現金化したいという意図が分かります。欲は秩序を崩します。偽善者は、神を、金よりも低いものにしてしまいました。信じている中身がそのままあらわれたのです。   23節の第四のわざわいは、細かい規定と伝統については敏感ですが、それより大切な根本的な律法の精神については、無関心です。信者が十分の一の献金をささげることの教育は徹底にしますが、正義とあわれみと誠実の教育はおろそかにしたと言われます。正義に訳したクリシス(κρισις)は、公義でもありますが、それによる終末的な審判を意味する言葉でもあります。あわれみのエレオス((ἔλεος)は慈悲、誠実のピスチス(πίστις)は信頼、信仰です。偽善の中で義と憐れみと信頼が一緒にあることはできません。偽善というわざわいから逃れるための客観的な基準というのはありません。毎朝、自分の信念と立場を捨て、神のことばによって自分を喚起しなければ、自分も知らないうちに偽善という仮面をかぶってしまいます。  

마태복음 QT54 210315월【화 있을찐저】마태 23장 13~24

마태 23장 13~24마23:13 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 천국 문을 사람들 앞에서 닫고 너희도 들어가지 않고 들어가려 하는 자도 들어가지 못하게 하는도다마23:14 (없 음)마23:15 화 있을찐저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 교인 하나를 얻기 위하여 바다와 육지를 두루 다니다가 생기면 너희보다 배나 더 지옥 자식이 되게 하는도다마23:16 화 있을찐저 소경된 인도자여 너희가 말하되 누구든지 성전으로…

한국어 예배 (2021-03-14)

레위기 5:14 – 6:714 여호와께서 모세에게 일러 가라사대15 누구든지 여호와의 성물에 대하여 그릇 범과하였거든 여호와께 속건제를 드리되 너의 지정한 가치를 따라 성소의 세겔로 몇 세겔 은에 상당한 흠 없는 수양을 떼 중에서 끌어다가 속건제로 드려서16 성물에 대한 범과를 갚되 그것에 오분 일을 더하여 제사장에게 줄 것이요 제사장은 그 속건제의 수양으로 그를 위하여 속한즉 그가 사함을…

日本語礼拝 (2021-03-14)

レビ記 5:14 – 6:714 主はモーセにこう告げられた。15 「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。16 その人は、その聖なるものに関して罪に陥っていたことの償いをする。それにその五分の一を加えて、祭司に渡す。祭司は、その代償のささげ物の雄羊をもって彼のために宥めを行い、彼は赦される。17 また、もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う。18 その人は羊の群れから、代償として評価された、傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。祭司は彼のために、彼が自覚せずに、また気づかずに犯した過失のゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。19 これは代償のささげ物である。彼は確かに主の前に償いの責めを負っていた。」1 主はモーセにこう告げられた。2 「人が罪に陥っていて主の信頼を裏切るとき、すなわち、預かり物や担保の物やかすめた物について同胞を欺いたり、あるいは同胞を脅迫してゆすり取ったり、3 あるいは落とし物を見つけながらも欺いたりするなどして、人が罪に陥っていて行う事柄の一つについて、偽りの誓いをするようなとき、4 その人が罪に陥り、後になって責めを覚える場合には、そのかすめた品や脅迫してゆすり取った物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、5 あるいは、それについて偽って誓った物をすべて返さなければならない。元の物を償い、また、それに五分の一を加えなければならない。彼は自分が責めを覚えるときに、その元の所有者にそれを返さなければならない。6 その人は羊の群れから、傷のない、代償として評価された雄羊一匹を、主への自分のための代償のささげ物として、祭司のところに連れて行く。7 祭司は主の前でその人のために宥めを行う。彼は、自分が行って責めを覚えるようになったどのことについても赦される。」

한국어 예배 (2021-03-07)

히브리서 5:11-1411 멜기세덱에 관하여는 우리가 할 말이 많으나 너희의 듣는 것이 둔하므로 해석하기 어려우니라12 때가 오래므로 너희가 마땅히 선생이 될 터인데 너희가 다시 하나님의 말씀의 초보가 무엇인지 누구에게 가르침을 받아야 할 것이니 젖이나 먹고 단단한 식물을 못 먹을 자가 되었도다13 대저 젖을 먹는 자마다 어린 아이니 의의 말씀을 경험하지 못한 자요14 단단한 식물은 장성한 자의…

日本語礼拝 (2021-03-07)

ヘブル人への手紙 5:11-1411 このメルキゼデクについて、 私たちには話すことがたくさんありますが、 説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

マタイによる福音書 QT53 20210313土【一番重要な戒め】マタイ 22章 34~46

マタイ 22章 34~46 22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 22:38 これが、重要な第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、 22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。 サドカイ人がイエス様を論破できなかったので、今度は再びパリサイ人のうちの律法学者が立ち上がって、自分の専門分野でイエス様に質問します。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。36」律法の原語は「ノモス(νόμος)」であり、その言葉は、財産分配にかかわる動詞として使われてた言葉です。神様を愛し、隣人を愛するという精神から律法の各条項が分かれたということです。ノモスが英語の「法(Law)」の語源になります。 質問に「どの戒めが一番重要ですか」という表現が出てきますが、これの原語は「メカレー(μεγάλη)」で、原型はメガス、英語の大きいの意味の「メガ(Mega)」の語源になります。分けるという意味と大きい意味が一つの文章の中にあります。当時、しなければならない律法条項が248個、してはならない条項が365個、合計613個の律法がありました。律法学者は、これだけある律法の中で上位の律法は何なのかと質問したのです。 イエス様は申命記6章5節を引用しておられます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。37」申命記6章は、5章で紹介された十戒の神学的まとめです。神様の十戒は、人間を制限し、強制するためのものではなく、神を愛し、隣人を愛するために与えられたのです。ということで、神を礼拝するようにし、親や隣人を愛するようにし、奪ってはいけない、殺してないけない、偽りをしてはならないとしたものです。律法は愛するためのものです。 世はますます専門化され、大学の専攻は意味もなく細分化されています。世界を割ってみるとすべて分かると思いましたが、それでも人間は世界のすべての秘密を解くことはできません。律法学者は、613個の律法を暗記することはできたかもしれませんが、律法の精神は知りませんでした。むしろ専門ということで巨視的な見識を失ってしまいました。日本のことわざに「鹿を追う者は山を見ず」という言葉があります。木は見ても森は見ません。 私たちには、613個の行動規範が定められていることではありませんが、神様という森は変わりありません。その森は神様を愛することと、隣人を愛するという大原則です。愛という大きなもの(Mega)から行動という小さなものに分けられた(Law)のです。すべての解釈と判断と決定においてこれを思い出さなければなりません。愛に基づけば間違いません。木を植えるとき、森を見て、その木を植えることができるなら、それは良いことであり、神のものとなります。

마태복음 QT53 210313토【가장 큰 계명】마태 22장 34~46

마태 22장 34~4622:34 예수께서 사두개인들로 대답할 수 없게 하셨다 함을 바리새인들이 듣고 모였는데22:35 그 중에 한 율법사가 예수를 시험하여 묻되22:36 선생님이여 율법 중에 어느 계명이 크니이까22:37 예수께서 가라사대 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하셨으니22:38 이것이 크고 첫째 되는 계명이요22:39 둘째는 그와 같으니 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라 하셨으니22:40…

マタイによる福音書 QT52 20210312金【生きている者の神】マタイ 22章 23~33

マタイ 22章 15~2222:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。22:27 そして最後に、その妻も死にました。22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。   今日はサドカイが登場します。パリサイ派が宗教的であるとすれば、サドカイ派はパリサイ派よりも政治的なので、ローマの支配勢力に協力して強大な既得権を独占していました。彼らはモーセ五書以外は何も認めていなかったし、パリサイ人たちとは違って、復活と永遠の命、霊的な存在をも信じていませんでした。現世がすべてだから、政治的影響力にそれほど執着したかもしれません。パリサイ人とはいつも対立関係にありましたが、今朝の本文では、イエス様という共同の敵を排除するために、彼らは渾然一体と協力しています。   彼らが提起した問題も、律法の解釈です。ユダヤ社会は兄が死ぬと、兄の名を継承するために弟が義理の姉と結婚します。これを「継代結婚」といいます。サドカイ人たちの質問は、七人の兄弟が順番に死に、継代結婚が繰り返された場合、復活後は、誰の妻になるかということです。継代結婚と復活は、このような矛盾を抱えているので、復活はないというのがサドカイ人の論理です。非常に幼児的な発想です。   継代結婚と復活が論理的に衝突するので復活はないはずだという論理の前に、天国はどんなところであり、復活は何なのかという質問がまずあるべきではないでしょうか?しかし、彼らは復活はないという揺るぎない信念に立ってすべてのことを考えます。見えるものだけを信じて、信じたいことだけを固く信じます。現実に基づいて考えると、霊の世界はフィクションだと思ってしまうのです。そのような人々は、宗教を無視して現実的な自分を合理的かつ理性的、科学的だと思い込みます。   しかし、うぬぼれている瞬間、自分がすべてを知っていると信じてしまう瞬間、合理も、理性も、科学も止まってしまいます。疑わない科学は科学ではありません。サドカイ人が律法と復活について、言葉の定義もないまま使っているように、いわゆる科学主義者も科学という言葉を定義せずに、むしろそこに完全な神格を与えていることに気づかなければなりません。科学的思考のになら、部分に対して部分的にしか知ることができません。   「物事の構造と性質を経験主義と自然主義的な立場から繰り返し観察し、それを通って得られた理論的な知識体系が科学」です。観察することができ、証明できるものがない場合、科学は無力です。しかし、目に見えないもの、観察することのできないことは無数に存在します。それに対してないと言ってしまう、間違っていると言ってしまいますが、実は、それは科学が解決できないだけです。   人が観察できるのは、復活ではなく、死です。それだけでもよく観察すれば人間の思いは変わります。死ぬことは科学的に証明することができますが、復活は証明できません。それがないと断言する人は、科学を知らない人です。それは科学の限界であり、神様の限界にはなりません。科学的な論理にとどまらず、霊的な思惟を広げなければなりません。神様の力は、生かすことにあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」というのは、神様は復活の命に入らない人々に神と呼ばれることを拒否しておられるからです。  

마태복음 QT52 210312금【산 자의 하나님】마태 22장 23~33

마태 22장 23~33마22:23 부활이 없다 하는 사두개인들이 그 날에 예수께 와서 물어 가로되마22:24 선생님이여 모세가 일렀으되 사람이 만일 자식이 없이 죽으면 그 동생이 그 아내에게 장가 들어 형을 위하여 후사를 세울찌니라 하였나이다마22:25 우리 중에 칠 형제가 있었는데 맏이 장가 들었다가 죽어 후사가 없으므로 그의 아내를 그 동생에게 끼쳐두고마22:26 그 둘째와 세째로 일곱째까지 그렇게 하다가마22:27 최후에…