9月 黙想 【廉恥不顧】 20230914 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

  聖書に関心を持ったある留学生と会った。よく集中して聞いてくれて楽しくて有益な対話を交わした。その一方で、青年は少し慎重になっているようだった。聖書の勉強に参加することにしたが、その後肯定的な反応ができなければ、人々に失望を与えたり、失礼を犯すのではないかと心配をしていた。   私は知っている通り、そして信じている通りに答えた。「人が信じたいと言って信じられるわけではなく、信じたくないからといって信じないわけでもないです。ただ主イエス·キリストの福音を伝えられる機会に感謝するだけです。」 それは本気だった。信じる、信じないは私の手にはない。私にはきちんと伝えるかどうかの問題があるだけだった。   そういえば、青年は、礼儀正しく、廉恥のある人のようだった。好意に対して失望させたくない慎重さを持っていたし、昼休みに訪ねてきただけで申し訳ないと思っていた。ところが、ある意味では、クリスチャンとは実に廉恥知らずの人々ではないか。罪は自分が犯したが、神様の子が十字架にかけられ、それによって救われたと信じるが、十字架の前で涙一滴落とさない人ではないか。   もちろん、人は廉恥を重んじなければならない。恵みで受ける救いとすべてのことに責任が伴う社会的な道理を混同してはならない。明らかなことは、救いは罪人が廉恥知らずに受ける恵みであるということだ。「廉恥不顧」は、恥を顧みないという言葉である。資格はないが、大胆に受けることである。「お言葉はありがたいですが、私は大丈夫です!」救いは廉恥で遠慮することではない。こう言わなければならない。「御言葉であれば私が救われます。」 あの兄弟にも救いの恵みが望まれるように。

9월 묵상 【염치불고하고】 20230914(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  성경에 관심을 가진 한 유학생과 만났다. 내가 유학생이었던 시절에 전도자들에게 거칠었던 것에 비하면 그 청년은 교양 있고 훌륭했다. 잘 집중해서 들어주었고 즐겁고 유익한 대화를 나누었다. 그러면서도 청년은 약간 조심스러워하는 것 같았다. 성경공부에 참가하기로 했지만 그 이후에 긍정적인 반응을 하지 못한다면 사람들에게 실망을 주거나 실례를 범하게 되는 것이 아닌지 걱정이 된다는 것이다.   나는 아는…

9月 黙想 【熟成と成熟】 20230913 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

  まだ日差しが熱いが、夏のものとは違う。少し穏やかになった。この日差しの下で何かが熟しつつあることが感じられる。夏が情熱の季節なら、秋は成熟の季節だ。成熟と裏返して使う熟成という言葉がある。熟成はあせらずじっと寝かせることである。その間に中身が熟され、深い味が入る。   化学的には自然状態で食べ物の分子が分解され、変形することが熟成である。熟成の経験をしてきたのは、熟成前のものとは味が違う。努力してみて願ってみても、自分の思い通りにはいかないと、その時に心が熟成される。心の分子構造が分解されるのだ。腐心という言葉もある。心が腐るということだ。熟成するためには、心を腐らなければならない。心を腐らせる腐心を通り、心の構造が分解され、解体される熟成を過ぎると、それが成熟である。   私たちは皆その過程を通っていく。意地を張らず、知らんぶりをしないならば、皆が熟成の時を通り、ある日、秋に似て成熟を成す。朝は涼しくなり,夕方には草虫の音が聞こえ始める。秋には一歩でも私の魂が成熟することを祈る。

9월 묵상 【숙성과 성숙】 20230913(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  아직 햇살이 뜨겁지만 여름의 것과는 다르다. 좀 온화해졌고 편안해졌다. 이 햇살 아래서 무언가가 익어가고 있다는 것을 느낄 수 있다. 여름이 열정의 계절이라면 가을은 성숙의 계절이다. 성숙(成熟)과 뒤집어서 쓰는 숙성(熟成)이라는 말이 있다. 숙성은 안달하지 않고 가만히 묵히는 것이다. 숙성하는 동안에 안에 있는 것이 익어가고 깊은 맛이 들어간다.   화학적으로는 자연 상태에서 음식의 분자가 분해되어 변형되는…

9月 黙想 【食膳】 20230912 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

  料理というほどではないが、食べ物を作るのが好きだ。食べ物を作るのが好きということは、私が作った食べ物を誰かに食べさせるのが好きだということでもある。だから料理の最初の動機は誰かに食べさせることだ。良い飲食店とは、たくさん売ってお金を稼ごうとするところではない、お腹が空いたお客さんがおいしく食べられる食べ物を提供するところである。その結果、お金を稼げば、それが本当の祝福になるわけだ。家族においしいものを作ってあげたくて料理を作り始めた。母親たちがいつも台所で苦労し、犠牲していると思っていたが、食べ物を作って家族に食べさせてみたら、そこに本当の幸せと恵みがあることに気づいた。   子どもの頃、客をもてなす母親は言った。一晩中準備してお客さんをもてなした時、「食べ物は本当においしい!」と言われると、すべての疲れが消えると。私はそれを不思議に思った。その一言言われるためにそんな苦労をしたというのか?ところが、私が食べ物を作って誰かに食べさせてみたら、その気持ちがやっと分かった。お礼でおいしいと言ってくれただけなのに、それでも気持ちが良くなった。人の心がそうなのだ。だから、食べ物を作る2つ目の動機、絶対に諦められない目的は「おいしい」と言われたいからだ。料理を作るすべての人は、それが聞きたくて料理を作り続ける。   おいしいと言う時、料理を作った人の愛、おいしく食べた人の満足、感謝する気持ちが家族の幸せという一つの作品に仕上がる。私たちはよく言う。 神様にために奉仕をしたから人々に表さない、人々に報いを望まないでと···その通りだ。神様を意識する聖徒たちが思わなければならない、言わなければならないことである。しかし、私たちを意識する神様は私たちにこのように言われると思う。行ってお疲れ様と言いなさい、ありがとうと言いなさい、おいしかったです。ごちそうさまでしたと言いなさい···家族と教会で仕えるすべての方々に、当然に感謝と尊敬の意を伝えなければならない。

9월 묵상 【밥상】 20230912(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  요리라고 할 정도는 아니지만 음식 만드는 것을 좋아한다. 음식을 만드는 것을 좋아한다는 말은 내가 만든 음식을 누군가에게 먹이는 것을 좋아한다는 말이기도 하다. 그래서 요리의 첫 번째 동기는 누군가에게 먹이기 위한 것이다. 좋은 음식점이란 음식을 많이 팔아 더 많은 돈을 벌려는 곳이 아니라, 배고픈 손님이 맛있게 먹을 수 있는 음식을 제공하는 곳이다. 그 결과로 돈을…

9月 黙想 【情緒と人格】 20230911 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

  故郷の釜山には行く用がなくなった。釜山に残っている友人や親戚はいるが、わざわざ時間を作ることは難しい。釜山が故郷だと思ってきたわけですが、釜山という故郷は地域ではなく、釜山に住んでいた親が故郷だったわけだ。親がいなくなってからは行く用がない。親に会うという人格的な関係のないただ物理的な空間としての釜山はそれほど懐かしいところでもない。親が孤独と苦痛に死んでいった町に戻るのはかえって悲しいことであり、幼い私を育てていた若い親を思い出さたら、歳月が無常で心は虚しかった。 幼い頃の跡も残っていない韓国の都市で育った世代に故郷なんかはない。故郷の情緒と家族の人格という関係には確かに共通集合があるはずだが、必ずしも一致するようでもない。   教会はどんなところだろうか?故郷で感じる情緒のようなものなのか、それとも父なる神と言葉をもって交わる人格があるところなのか。二つを区分して線を引くのは難しそうだが、それでも気になるところがある。教会に行くと、気が楽という人がいる。韓国の教会が数十年間作り出した教会の文化と情緒に長い間に慣れてきた人は教会の雰囲気が好きになる。しかし、それは相対的なものである。初めて教会に入った時、私は教会の情緒に安定感を感じなかった。悪いとは思わなかったが、慣れてない教会の雰囲気は自分のものではなかったからなじまなかった。   神様との人格的な関係がなくても故郷のような見慣れた情緒があり、それを親しく感じることができれば、それは人格ではなく、情緒であるかも知れない。もし、親と話し合いができるなら、その空間は釜山の家でなくてもいい。もちろん実家ならもっといいけど、話し合いができなければ空間の意味は大切ではない。神様の御言葉と交わるという人格がなく、時代と人が作り上げた情緒ならその有効期間はいつまで続くだろうか?たとえ、教会が故郷の実家のようだとしても、親と向かい合って話し合いができなければ、そこに訪れることはなくなっていくだろう。

9월 묵상 【정서와 인격】 20230911(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  고향인 부산에는 갈 일이 없어졌다. 부산에는 남아있는 친구와 친지들이 있지만, 일부러 시간을 내기는 어려웠다. 부산이 고향인 줄 알고 살았는데 부산이라는 지역이 아니라 부산에 살던 부모가 고향이었나 보다. 부모가 없으니 갈 일이 없다. 부모를 만난다는 인격적 관계가 없는 물리적 공간으로서의 부산은 그다지 그리운 곳도 아니다. 부모가 외롭고 고통스럽게 죽어갔던 동네로 돌아가는 것은 오히려 슬픈 일이었고,…

【今を生きていくこと】 20230908 (金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 25:21 25:21 主人は彼に言った『よくやった。良い忠実なしもべだ。おもえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』  日本宣教という召しをもって日本に来た。日本宣教は今まで多くの宣教師の献身にもかかわらず、福音化ができていない国、全世界の宣教師たちの間では“宣教師の墓場”と呼ばれる国であることも知っていたが、ただ神様の召し、その一つを捕まえて献身を決心した。    このように大変なところに召されたからこそ、さらに頑張って備えなければならないと思った。日本人も違和感を感じないほどに日本語をうまく話さなければならないと思って、いつも日本語を口にした。日本語で聖書を読み、日本語でお祈りをしながら日本のための奉仕に備えていった。しかし、突然、頭の中に一つの問いが浮かんで、頭の中から離れなかった。    “今、自分は枝川愛の教会のためになにをしているか。”     そして、すぐ今まで自分が間違っていたと気づいた。このままではいけないと思った。ここまで思いついてからこそ久々に韓国語聖書を開いて、自分に一番馴染んでいる言い方、言葉で神様に祈ることができた。悔い改めることができた。将来の日本教会のためではなく、今の枝川愛の教会のために心を尽くして祈ることができた。    日本宣教ということは、自分にとって非常に大きく、大事なことであり、きっと、それは神様にとっても同じだと思う。しかし、今遣わされているところを忠実に生きていない自分が、将来に遣わされるところで忠実に生きていけるか、今、この場所は自分にとって、そして、神様にとって大事なことではないと言うのか。    将来を考え、備えることは実に大事なことだ。しかし、その将来を迎えるためには今を生きていかなければならない。将来の夢とは違う今の状況を見て、まだまだだと、その日のために待つ時にしか思わないのは、今を生きていかないと来ない将来を眺めるだけの話だ。    ユダヤ人たちにとって、イエス様は彼らが想像してきたメシアとはずいぶん違った。だからこそ彼らは、すでに来ておられるメシアに背けて、今もなお自分たちのメシアを待ちながら生きている。いつか自分にも、日本語を必要とする神様から任せられた魂たちが来るかも知れない。しかし、その日だけを見つめ、今任せられた一人一人の魂に向けて怠りにするのは、イエス様に背け、まだ自分たちのメシアを待っているユダヤ人と違わないだろう。 https://youtu.be/hIYNZMpQF1U?si=N-t3ieliYLsWLCDR

【지금을 살아 간다는 것】 20230908 (금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 25:21 25:21 그 주인이 이르되 잘하였도다 착하고 충성된 종아 네가 적은 일에 충성하였으매 내가 많은 것을 네게 맡기리니 네 주인의 즐거움에 참여할지어다 하고  일본 선교라는 소명을 가지고 일본에 오게 되었다. 일본 선교는 지금까지 수많은 선교사들의 헌신에도 불구하고 복음화가 이루어지지 않은 지역, 전 세계의 선교사들 사이에서 ‘선교사의 무덤’ 이라고 불리는 곳이라는 것을 알면서도, 그저 부르심…