【シオンの門、神の都】 20230929 (金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 87:2-3 87:2 主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。 87:3 神の都よあなたについて誉れあることが語られている。 セラ  この世の中には神様の栄光を表しているような美しい自然がある場所があります。そして、人々はそういう場所を‘世界の旅行名所’、‘死ぬ前に必ず行って見たい場所’などの名をつけて誉めています。    相当そういう感性が鈍い人である私も有名な所には行って見たいし、時には遠くまで行かなくても見上げている空がきれいな日には写真を撮って保存して置きながら、この世を創造された神様の偉大さに感服する時もあります。    しかし、驚くべきことは、このように美的な感覚が優れた神様が一番美しいものとする存在は、大自然や美術品などではなく、神様のかたちに造られた人間です。人が言っている’きれいな所で写真を撮るときれいな写真が出る’という話のようなことではなくて、神様の目線はいつも私たちに向かっています。    “主はシオンの門を愛される。ヤコブのどの住まいよりも。” 詩編 87:2     今日の聖書箇所を原語的に釈義すると、神様はイスラエルの他のどのような所でもなく、シオンと呼ばれるエルサレムを選び、そこに臨在するという意味になります。     しかし、旧約聖書時代に神殿の契約の箱におられた神様は今、私たち一人一人をご自分の宮とし、そこにおられます。神様はこの世のどのような美しい場所でもなく、私たちの中に臨在することを望んでおられるお方です。従って、私たち一人一人は神様に選ばれた‘シオンの門’であります。     そして、この神様の臨在がある所には‘誉れあることが語られる’と示されています。    昔、学生たちや、聖書勉強グループの人々に年に1回ぐらいは必ず問われることがありました。それは、お金持ちになって、えらい人になって、いわゆる’成功’して神様に栄光をささげることについてでした。実際、私はそれが悪くはないと思っています。だれかはそういうふうに栄光をささげることもできると思います。しかし、それはそこまでの道を完全に御言葉に従って、自分の欲を一つも残らずに捨てて、ただ神様だけのために最後まで歩んで行けたらです。      神様に栄光を捧げることは。日本語では栄光を帰するともよく使われています。この言葉は本当に正しい言葉だと思います。神様に栄光を捧げるとしたら、自分の能力や、名誉から生み出された栄光を神様に捧げるような感じもしますが、これは完全に間違っています。神様に栄光を捧げるというのは、まさに神様に栄光を帰することです。この世の被造物たちは栄光そのものである神様に捧げられる栄光を自ら生み出すことはできません。ただ、すでにこの世に現れている神様の栄光を、また神様に帰するそのものです。    エルサレムという都に誉れあることが語られる理由は、エルサレムが数ある派手な物で飾っているからも、その大きさが他の都と格が違うからでもありません。ただ、そこに神様がおられるからです。そして、その神様が今、私たちの側におられます。     詩編87篇全体の内容を見ると、シオンの門、神の都の役割はその中に限られていません。周りの民族、国々がシオンに向いて行けるようにする門として、神様の栄光を表し、人々を集める都として、伝道者の役割に努めているのです。そして、神様は必ず私たちをもそのように用いてくださいます。 https://youtu.be/7O4BeAEDuaY?si=2-m4yzIPa1BMSiQ_

【시온의 문, 하나님의 성】 20230929 (금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 87:2-3 87:2 여호와께서 야곱의 모든 거처보다 시온의 문들을 사랑하시는도다 87:3 하나님의 성이여 너를 가리켜 영광스럽다 말하는도다 (셀라)  세상에는 하나님의 영광을 드러내는 듯 한 아름다운 풍경을 자랑하는 지역들이 있다. 그리고 사람들은 그런 곳을 ‘세계 여행 명소’, ‘죽기 전에 꼭 가봐야 할 곳’ 등의 이름을 붙이며 칭송하기도 한다.    감성이 꽤나 메말라있는 나 역시 그런 지역에…

9月 黙想 【人間論と基督論の間】 202309228(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マラキ 4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。 マタイの福音書 1:1アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。   旧約の最後の本はマラキで、その次は新約聖書のマタイの福音書である。聖書では1枚の間であるが、時間的には400年の空白がある。400年間預言者は来なかったし、神様の御言葉は伝えられても、記録されてもいなかった。これを新旧約中間時代という。聖書に言及されないこの長い時代にも、人間は一生懸命に生きてきた。日常の慌ただしい生活を送り、国々は奪って奪われることを繰り返した。旧約の最後のマラキの時代的背景は、第3次バビロニア帰還である。バビロニア帰還といっても、時代はペルシャ帝国の時代である。イスラエルを滅ぼしたバビロニア帝国は、ペルシャ帝国によって滅び、覇権を握ったペルシャはイスラエルの民を本土のパレスチナに帰した。ありがたいことだったが、永遠の帝国はない。ペルシャ帝国はギリシャ帝国のアレクサンダーに敗れた。30歳で空前の帝国を成し、世界を支配したアレクサンダー大王は33歳で死んだ。アレクサンダーの遺言は、遺体の腕を棺の外に取り出し、人々に見せることだった。帝国の帝王も結局手ぶらで行くということ。切符一枚も持って行けない。アレクサンダーは裸で生まれ、裸で死んだ。アレクサンダーのいないギリシャ帝国はローマによって滅びた。食うか食われるかの世界史の車輪の下で、イスラエルはその長い400年間ンい植民支配を受けた。新約時代は政治的にローマの支配期だった。A.D.70年にローマは、抵抗するイスラエルを完全に滅ぼし解体させた。イスラエルという国は地球上から消えた。世界史にイスラエルがこれだけの絶望を語っていることは、人間の絶望を語るためであると思う。   日曜の午後の洗礼クラスの学びは3週間に渡って聖書論、神論、人間論を勉強した。人間論の結論は決して明るくなかった。 私たちはむしろで覆われていた罪を暴かず、その中に腐っていることを否定しては人間を理解することができなかった。人間の理解は罪の理解である。旧約の絶望が終わって新約が開かれると、マタイの福音書1章には系図が出てくる。その系図に従って誰かが生まれる。イエス·キリストが受肉して来られる。人間の絶望の果てにキリストが来る。世界史的に教会が始まる頃、イスラエルという国は完全に滅びて消えてしまう。イエス·キリストはいつ、どこに、なぜ来られるのか?イエス·キリストは人間の敬虔な報償として来ることではない。人間の熱心な報いでもない。イエス·キリストは真っ暗の絶望の夜に来る。自ら救えないものを救うために来られる。望みのない人間の叫びの上に来る。救われるためには一つの例外なく、絶望を乗り越えなければならない。70年に滅び、1948年に再建されたイスラエルは、明日から1週間、仮庵の祭りを行う。絶望の中で救われたその救いの記憶を記念する。私たちの教会の洗礼クラスは今週は基督論について学ぶ。人間の絶望で終わらず、救いのキリストが来られるからだ。私たちの小さな勉強会の中でキリストから来る希望を見つかる人がいることを祈リ求める。

9월 묵상 【인간론과 기독론 사이】 20230928(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

말라기4:6 그가 아비의 마음을 자녀에게로 돌이키게 하고 자녀들의 마음을 그들의 아비에게로 돌이키게 하리라 돌이키지 아니하면 두렵건대 내가 와서 저주로 그 땅을 칠까 하노라 하시니라 마태복음1:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라   구약의 마지막 책은 말라기이고 그 다음은 신약의 마태복음이다. 성경책으로는 한 장 사이이지만 시간적으로는 400년의 공백이 있다. 400년간 선지자는 오지 않았고 하나님의 말씀은 전해지지도…

9月 黙想 【からし種のような思い】 202309227(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイの福音書13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」   すべての種が小さいが、からしの種は特に小さく、それに比べてからしの木が大きくなるという。現地の人によれば、実は巨木にはならず、ただ繁殖力が良くて周囲の土地をすべて支配してしまうという。神の国は小さなからしの種のように宣教は小さな弟子たちから始まり、世界中に広まった。大きな木でなくても芝生の根のように広がるのを防ぐことはできない。拡散はそのようなものである。誰かが推進したことではない。しかし、誰も止められないものである。したくない宣教を強いることはできなく、したい宣教を止める方法もない。動機がある宣教は土地を支配し,芝生の根のように広がっていく。始まりは一人の中にあるからしの種のようなの「思い」である。その思いが育ち、その人を信仰の人にしていく。その思いの中に信仰の遺伝子が入っている。卵を抱くとひよこが出て、種を植えると芽生えるように、思いを抱くと信仰が芽生える。一粒の思いが一人の中でうごめき、その人を支配する。神の国のためのからしの種のような思いを抱き始める人は、その地と時代を支配していく。  

9월 묵상 【겨자씨만 한 생각】 20230927(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음13:31 또 비유를 베풀어 가라사대 천국은 마치 사람이 자기 밭에 갖다 심은 겨자씨 한 알 같으니13:32 이는 모든 씨보다 작은 것이로되 자란 후에는 나물보다 커서 나무가 되매 공중의 새들이 와서 그 가지에 깃들이느니라   씨는 다 작지만 겨자씨는 유독 작고 그에 비해 겨자 나무가 크게 자란다고 한다. 현지를 잘 아는 어떤 이들은 사실 거목이 되지는…

9月 黙想 【味を失わない塩】 202309226(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に   スーパーマーケットに行けば塩一袋を百円程度で買えるが、イエス様の時代には塩は貴重なものであった。ローマ時代に労働者の報酬をサラリー(Salary)と言ったが、それは塩(Salt)から由来したものである。当時、塩が財産上の価値を持っていたため、塩で報酬を払った。ということで仕事をして塩をもらってくる人をサラリーマン(Salaryman)と言った。   イスラエルで塩は穀物のささげまの全焼のいけにえに使う聖物でもあり、食べ物の腐敗を防ぐ防腐剤でもあり、医療用にも使われた その中でも塩は何よりも食べ物の味を出す用途に使われる。私たちがおいしいと思うほとんどの食べ物からもし塩が消えたら、その味は感じなくなるだろう。塩は塩味だけを出すのではなく、すべての食材の固有の味を生かしてくれるからである。そのような意味で、塩の溶解というのは、イエス·キリストの十字架の献身と似ている。   塩が塩味を失うというのはどういう意味だろうか?塩化ナトリウム結晶体である塩がしょっぱい味を失うことがあるのだろうか?パレスチナの塩は死海の水を蒸発させて採取した。それには純粋な塩があれば、塩ではないものの結晶体もあった。それが味を失った塩、つまり塩と勘違いされた偽塩である。   イエス様が言われた味を失った塩とは偽物のことである。ルカの福音書14章には、いくつかの異なる話が有効な接続詞なしに並列しているが、ただ、14章全体の共通的なキーワードは、一貫性である。塩は薄くなったり、濃くなったりしない。塩ならば、塩気を持たなければならない。   福音は味を失わない。味を失うのは人である。「あなたがたは塩である」言うと、それを聞く私たちは、もっと敬虔に、影響力を持ち、誠実に、信頼できる社会的キリスト教徒にならなければならないと誓う。しかし、塩の比喩は模範的な人生について語っていることではない。福音を認識して生きる聖徒の人生の一貫性について語る。   親にとって良い子でもなく、子どもにとって良い親でもなく、良い夫でも、良い牧師こともない。いつも自分の塩分濃度が足りないことを感じている。いつも薄い。ただ唯一、私が塩度の高い塩味を持っているのは、赦された罪人であること、赦された罪人としては濃い塩味を持っている。希釈せず、混合せず、いつまでも福音によって生きるのが塩気を失わないことである。

9월 묵상 【맛을 잃지 않는 소금】 20230926(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음14:34 소금이 좋은 것이나 소금도 만일 그 맛을 잃었으면 무엇으로 짜게 하리요14:35 땅에도 거름에도 쓸데 없어 내어버리느니라 들을 귀가 있는 자는 들을지어다 하시니라   슈퍼마켓에 가면 소금 한 봉지를 백엔 정도의 돈을 주고 살 수 있지만, 예수님 시대에 소금은 귀한 것이었다. 로마 시대에 노동자의 보수를 샐러리 (Salary)라고 했는데, 그것은 소금 (Salt)에서 유래된 것이다. 당시에 소금이…

9月 黙想 【心のきよい者】 202309225(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイの福音書5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。   夕飯を食べて散歩に出かけた。夏の終わりに雨が降ってから急に秋に入り、視界は一層きれいになった。涼しいとことか寒い風が吹き、道端にはコスモスが風に揺れていた。猛暑に疲れた私に秋風はまるで天国から飛んでくる天使のようなものだった。愛らしい野花に笑みを浮かべずにはいられなかった。ヨハネ福音書の3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」で「世」は宇宙を意味する「コスモス(cosmos)」の語源であるギリシャ語の「コスモス(κοσσμος)」である。だからヨハネの福音書の3章16節は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどにコスモスを愛された。」である。神様は初めに「混沌(カオス, χάος))」で、「宇宙(コスモス, κόσμος)」の秩序を創造されたが、コスモスがどのような理由で秋の花の名前になったのかは分からない。   秋の夕方を歩きながら八つの幸いの中で秋にふさわしい六番目の幸いを思い出した。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:8」この御言葉には空間と響きがある。「きよい」のギリシャ語は「カタロス、καθαρός」で、これから英語のカタルシス「catharsis」になった。アリストテレスを取り上げなくても、私たちはカタルシスが何かを知っている。内在する悲しみと苦しみを涙で洗い流すと、それを通して心をきれいに浄化する。カタルシスの涙を流した瞳はいかに美しいか?カタロス(きよい)の幸いを受ける人は、コスモスの秋にカタルシスの涙を流せる人ではないだろうか。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:8」 神様を見たい人、秋空の下で嬉しい涙を流してみよう。

9월 묵상 【마음이 청결한 자】 20230925(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음5:8 마음이 청결한 자는 복이 있나니 저희가 하나님을 볼 것임이요   저녁을 먹고 산책을 나갔다. 여름 끝에 비가 내리더니 성큼 가을이 찾아왔고 세상은 한결 청결해졌다. 시원하다 못해 추운 바람이 불었고 길가에는 코스모스가 바람에 흔들거렸다. 더위에 짓무른 나에게 가을바람은 마치 천국에서 날아오는 천사 같았다. 사랑스러운 들꽃에게 미소를 주지 않을 수 없었다. 요한복음 3장 16절의 「하나님이 세상을…