9월 묵상 【인간론과 기독론 사이】 20230928(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

말라기4:6 그가 아비의 마음을 자녀에게로 돌이키게 하고 자녀들의 마음을 그들의 아비에게로 돌이키게 하리라 돌이키지 아니하면 두렵건대 내가 와서 저주로 그 땅을 칠까 하노라 하시니라 마태복음1:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라   구약의 마지막 책은 말라기이고 그 다음은 신약의 마태복음이다. 성경책으로는 한 장 사이이지만 시간적으로는 400년의 공백이 있다. 400년간 선지자는 오지 않았고 하나님의 말씀은 전해지지도…

9月 黙想 【からし種のような思い】 202309227(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイの福音書13:31 イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」   すべての種が小さいが、からしの種は特に小さく、それに比べてからしの木が大きくなるという。現地の人によれば、実は巨木にはならず、ただ繁殖力が良くて周囲の土地をすべて支配してしまうという。神の国は小さなからしの種のように宣教は小さな弟子たちから始まり、世界中に広まった。大きな木でなくても芝生の根のように広がるのを防ぐことはできない。拡散はそのようなものである。誰かが推進したことではない。しかし、誰も止められないものである。したくない宣教を強いることはできなく、したい宣教を止める方法もない。動機がある宣教は土地を支配し,芝生の根のように広がっていく。始まりは一人の中にあるからしの種のようなの「思い」である。その思いが育ち、その人を信仰の人にしていく。その思いの中に信仰の遺伝子が入っている。卵を抱くとひよこが出て、種を植えると芽生えるように、思いを抱くと信仰が芽生える。一粒の思いが一人の中でうごめき、その人を支配する。神の国のためのからしの種のような思いを抱き始める人は、その地と時代を支配していく。  

9월 묵상 【겨자씨만 한 생각】 20230927(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음13:31 또 비유를 베풀어 가라사대 천국은 마치 사람이 자기 밭에 갖다 심은 겨자씨 한 알 같으니13:32 이는 모든 씨보다 작은 것이로되 자란 후에는 나물보다 커서 나무가 되매 공중의 새들이 와서 그 가지에 깃들이느니라   씨는 다 작지만 겨자씨는 유독 작고 그에 비해 겨자 나무가 크게 자란다고 한다. 현지를 잘 아는 어떤 이들은 사실 거목이 되지는…

9月 黙想 【味を失わない塩】 202309226(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書14:34 塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に   スーパーマーケットに行けば塩一袋を百円程度で買えるが、イエス様の時代には塩は貴重なものであった。ローマ時代に労働者の報酬をサラリー(Salary)と言ったが、それは塩(Salt)から由来したものである。当時、塩が財産上の価値を持っていたため、塩で報酬を払った。ということで仕事をして塩をもらってくる人をサラリーマン(Salaryman)と言った。   イスラエルで塩は穀物のささげまの全焼のいけにえに使う聖物でもあり、食べ物の腐敗を防ぐ防腐剤でもあり、医療用にも使われた その中でも塩は何よりも食べ物の味を出す用途に使われる。私たちがおいしいと思うほとんどの食べ物からもし塩が消えたら、その味は感じなくなるだろう。塩は塩味だけを出すのではなく、すべての食材の固有の味を生かしてくれるからである。そのような意味で、塩の溶解というのは、イエス·キリストの十字架の献身と似ている。   塩が塩味を失うというのはどういう意味だろうか?塩化ナトリウム結晶体である塩がしょっぱい味を失うことがあるのだろうか?パレスチナの塩は死海の水を蒸発させて採取した。それには純粋な塩があれば、塩ではないものの結晶体もあった。それが味を失った塩、つまり塩と勘違いされた偽塩である。   イエス様が言われた味を失った塩とは偽物のことである。ルカの福音書14章には、いくつかの異なる話が有効な接続詞なしに並列しているが、ただ、14章全体の共通的なキーワードは、一貫性である。塩は薄くなったり、濃くなったりしない。塩ならば、塩気を持たなければならない。   福音は味を失わない。味を失うのは人である。「あなたがたは塩である」言うと、それを聞く私たちは、もっと敬虔に、影響力を持ち、誠実に、信頼できる社会的キリスト教徒にならなければならないと誓う。しかし、塩の比喩は模範的な人生について語っていることではない。福音を認識して生きる聖徒の人生の一貫性について語る。   親にとって良い子でもなく、子どもにとって良い親でもなく、良い夫でも、良い牧師こともない。いつも自分の塩分濃度が足りないことを感じている。いつも薄い。ただ唯一、私が塩度の高い塩味を持っているのは、赦された罪人であること、赦された罪人としては濃い塩味を持っている。希釈せず、混合せず、いつまでも福音によって生きるのが塩気を失わないことである。

9월 묵상 【맛을 잃지 않는 소금】 20230926(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음14:34 소금이 좋은 것이나 소금도 만일 그 맛을 잃었으면 무엇으로 짜게 하리요14:35 땅에도 거름에도 쓸데 없어 내어버리느니라 들을 귀가 있는 자는 들을지어다 하시니라   슈퍼마켓에 가면 소금 한 봉지를 백엔 정도의 돈을 주고 살 수 있지만, 예수님 시대에 소금은 귀한 것이었다. 로마 시대에 노동자의 보수를 샐러리 (Salary)라고 했는데, 그것은 소금 (Salt)에서 유래된 것이다. 당시에 소금이…

9月 黙想 【心のきよい者】 202309225(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイの福音書5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。   夕飯を食べて散歩に出かけた。夏の終わりに雨が降ってから急に秋に入り、視界は一層きれいになった。涼しいとことか寒い風が吹き、道端にはコスモスが風に揺れていた。猛暑に疲れた私に秋風はまるで天国から飛んでくる天使のようなものだった。愛らしい野花に笑みを浮かべずにはいられなかった。ヨハネ福音書の3章16節の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」で「世」は宇宙を意味する「コスモス(cosmos)」の語源であるギリシャ語の「コスモス(κοσσμος)」である。だからヨハネの福音書の3章16節は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどにコスモスを愛された。」である。神様は初めに「混沌(カオス, χάος))」で、「宇宙(コスモス, κόσμος)」の秩序を創造されたが、コスモスがどのような理由で秋の花の名前になったのかは分からない。   秋の夕方を歩きながら八つの幸いの中で秋にふさわしい六番目の幸いを思い出した。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:8」この御言葉には空間と響きがある。「きよい」のギリシャ語は「カタロス、καθαρός」で、これから英語のカタルシス「catharsis」になった。アリストテレスを取り上げなくても、私たちはカタルシスが何かを知っている。内在する悲しみと苦しみを涙で洗い流すと、それを通して心をきれいに浄化する。カタルシスの涙を流した瞳はいかに美しいか?カタロス(きよい)の幸いを受ける人は、コスモスの秋にカタルシスの涙を流せる人ではないだろうか。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。5:8」 神様を見たい人、秋空の下で嬉しい涙を流してみよう。

9월 묵상 【마음이 청결한 자】 20230925(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음5:8 마음이 청결한 자는 복이 있나니 저희가 하나님을 볼 것임이요   저녁을 먹고 산책을 나갔다. 여름 끝에 비가 내리더니 성큼 가을이 찾아왔고 세상은 한결 청결해졌다. 시원하다 못해 추운 바람이 불었고 길가에는 코스모스가 바람에 흔들거렸다. 더위에 짓무른 나에게 가을바람은 마치 천국에서 날아오는 천사 같았다. 사랑스러운 들꽃에게 미소를 주지 않을 수 없었다. 요한복음 3장 16절의 「하나님이 세상을…

【道】 20230922 (金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 37:23-24 37:23 主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 37:24 その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。  私たちが生きているこの世界は将来のことを悩み続ける世界です。    10代と20代の時は将来の進路について悩み、30代と40代になると家庭と子供のたちの養育について悩み、50代以上なると引退後の老年のことを悩むようになり、一生を悩み続けて、先に備えて置かなければならないとこの世は言っているようです。    このような現実的な問題の中で、‘自分はいったいとこに行っているだろう’と多くの人々が悩みを持っていても、その答えを見つけられる人は多分いないでしょう。    このように悩み続き、日々を生きていく私たちに聖書はこのように言われています。    “主によって人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。”    すでに私たちが歩んでいく道は主によって確かにされていると、そして、主はその道を喜ばれると。しかし、私たちはなぜ私にこのような困難なことが起き、まるで確かにされている道を最後まで歩んでいくことができなさそうに試みに合わせるのだろうと疑い、恨む時もあるでしょう。    私たち人間という弱い存在は、よみがえられたイエス様と会っても信じれずに、イエス様の手を触ってからこそ信じたトマスのように、目に見えない将来のことについて語られた御言葉を信じられなくて、簡単に揺られ、転んでしまいます。そして、神様はこういう人間の弱さをだれよりもよく存じておられる方です。   “その人は転んでも倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。” 詩編 37:24      確かに私たちに与えられている道は平坦な道ではありません。だからこそ、ときには疲れて立ち止まり、ときには突然転んでしまう時があるのも当然です。しかし、神様は私たちの道を確かにし、一人で歩んでいくように手放す方ではありません。    私たちの側でその道を共に歩んでくださり、側で慰め、励ましながら、危険な時は私たちの腕を支えてくださる最高の同行者になってくださる方です。今日そのお方と共に歩んでいき、私たちの道を喜ばれるお方と共に喜ばれる日になりますように。 https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=8-suSiRkGuaVq4MQ

【길】 20230922 (금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 37:23-24 37:23 여호와께서 사람의 걸음을 정하시고 그의 길을 기뻐하시나니 37:24 그는 넘어지나 아주 엎드러지지 아니함은 여호와께서 그의 손으로 붙드심이로다  지금 우리가 사는 세상은 미래에 대한 걱정이 끊이지 않는 세상이다.    10대와 20대 즈음에는 미래의 진로에 대한 걱정, 30대 40대는 가정과 자녀 양육에 대한 걱정, 50대 이후로는 노후의 생활을 위한 걱정 등, 계속해서 자신의 미래를…

9月 黙想 【絶対的な希望】 202309221(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一コリントの手紙15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。   水曜読書会をが終わって帰ってきた。今日は母が亡くなって2年目になる日、家族で追悼礼拝をささげた。子どもたちに第1コリントの手紙の15章の復活について話した。コリントの手紙はイエス·キリストの復活の目的が、私たちに復活があるということを知らせるためであると語っている。誰も復活を見たことがないから信じられない。エバがカインを出産する前は、身ごもりと出産の神秘が信じられなかっただろうし、アダムが子のアベルの死体を見る前には死を信じようとしなかっただろう。彼らはカインの手についた血を見るまでは罪を認めようとしなかっただろう。今も同じである。人々は命が誕生する神秘を当然にするが、死にはわざと背を向け、自分の罪に対しては無感覚である。だからキリストの復活を見る前には、復活を信じる者はいなかった。   イエス·キリストは、体をもって復活を証明した。しかし、2000年前の復活の目撃と証言は、今日の法的、科学的証拠として効用ではない。復活は依然として信仰を通過してこそ実在する。復活が証明されたから復活が信じられるようになったのではなく、復活を信じる望みがあるからこそ復活は実在する。なので復活のない人は、無神論者ではなく、無信論者である。神様がいないのではなく、信仰がないことである。 否、信仰はある。神がいないと信じる信仰であり、復活がないと信じる信仰である悲しい信仰である。無知と虚無の向こうにあるものはないと信じる。「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。19」私は復活を信じる。苦しみがなく、死もなく、罪のない世界で再び始まるその日の朝の栄光を望まざるを得ないからだ。