マルコの福音書 黙想 【聖餐の記憶】 20240213(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マルコの福音書 14:22~3114:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。14:24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。14:25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」14:26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。 KOSTAという集会でイエス·キリストを信じましたが、数年後、信仰と献身の現在が分からず混乱していた時、再びKOSTAに参加しました。最終日に集会を導いた講師は宣教のために献身する青年たちを引き起こし、その日に恵まれた青年たちはあたかも全体起立を命じられた軍人のようにたくましく立ち上がりました。起きずにすっぽりと座っていたのは私だけのようでした。献身したくなうからではありませんでした。何度か経験があり、そういうような集団的な感性に流された対応はしたくなかったからです。もちろん個人的なこだわりにすぎません。皆が立ち上がる集会で、私も皆について立ち上がるのはそれほど難しくありませんが、一人で歩いていく道でその約束を覚えて生きることは、確かに恐いことでした。 そのあとの聖餐式を覚えています。先生方は大きなパンを持って立っており、青年たちは各自の分を裂き、ボウルに入ったぶどうジュースに濡らして食べる聖餐でした。まさに野戦聖餐でした。私はパンのかさが減るほど大きく裂いて、ぶどうジュースをたっぷり濡らして食べました。しばらく噛んで食べるほどの量でした。お腹が空いていたからではありません。何かに渇いていたからです。口の中にはまだ主のからだと血があり、それが少しずつ私の喉に移るのを感じました。聖餐は一対一です。説教の時間には居眠りすることがあるかもしれませんが、聖餐は自分の手で受け取らなければならず、それを口に入れて嚙み砕かなければなりません。自分の六腑で消化しなければなりません。とりわけ聖餐を大切にしているルーテル教会が「私たちのためのキリスト(Christus pro nobis)」といった時は神様の御言葉、すなわち説教のことを言いますが、「私のためのキリスト(Christus pro me)」といった時は聖餐のことを言います。だから、聖餐はイエス様の視線を避けられない個別的かつ直接的なものです。あの日は私がイエス様に献身したことではなく、イエス様が私のために裂かれ、血を流したことを聖餐を通して確認する日でした。 これは断食祈祷会にあったことです。断食が終わると、朝には白粥と大根を入れた味噌汁とみかんを一つが食べられます。人々はおいしい店を探して海外旅行にまで行きますが、世の中で一番おいしいものはお腹が空いた時に食べるもので、喉が渇いた時に飲む水です。だから、ご飯の匂いと味噌汁の匂いが天国の匂いのように思っています。断食が終わった朝、奉仕があったかた食事しうることができませんでした。奉仕を終えて食べようと思いましたが、すぐに礼拝が始まったので食事はできませんでした。人々はお粥を食べて血色が戻ってきて大きくなった声で賛美していましたが、依然としてお腹が空いていた私は一隅に座って礼拝しました。礼拝には聖餐式がありました。私にだけ特別に与えられたその日の朝食のメニューは、お粥と味噌汁ではなく、イエス様のからだと血でした。一口にもならない飲み物が空腹の体の中に入り、まもなくイエス様の血が毛細血管の隅々まで染み込んでいるようなその日の気分を忘れることができません。キリストの血潮が私の中に流れていることを疑えなかった経験です。 今日の本文には最初の聖餐、すなわちイエス様が執り行った聖餐があります。聖餐がある前にイスカリオテ·ユダはイエス様を売るために出て行き、最後の晩餐の後にペトロと弟子たちはイエス様に対して忠誠を誓いました。しかし、彼らはその誓いを守ることができませんでした。ある人はイエス様を売り、ある人は裏切って逃げました。結果的にイエス様を売ったユダには聖餐がなかったから戻る道を見つけられませんでしたが、イエス様を否定して呪った弟子ペトロには聖餐があったから再び始めることができました。だから信仰をリセット(Reset、初期化)ができたのです。象徴的な解釈ではありますが、福音書の著者も象徴的な記述意図があったのではないでしょうか。間違って、落ち込んで、躓くことは特別な状況ではなく、日常です。イエス様はそのすべてを知っておられるので、ご自身で制定してくださったのが聖餐という聖礼典です。高慢は謙遜に、二つに分かれた心は一つで、無責任は献身に、初期化されなければなりません。私たちの教会は毎月初めの週に大人と子ども区分なしにすべての神様の子どもたちが一堂に会して祝祭(ジャンチ)のような聖餐をします。子どもたちは親たちの聖餐式を見ながら信仰を学びます。聖餐を大切にして、主の聖餐の日に集まりましょう。