詩編 黙想 【神様を探し求めること】 20240301(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 42:1-11 42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。 42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。 42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。 42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 42:6 私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。 42:7 あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。 42:8 昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。 42:9 私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」 42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。 42:11 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。   私たちがこの世を生きていく間、私たちの隣に共にいるすべての人々が神様を知ることを求め、私たちもそのために頑張らなければなりませんが、必ずしも私たちの願い通りにはなりません。そのため、今も私たちのそばには神様を知らない人々が共にしています。  そのような人々と暮らし、一度は言われるかもしれない言葉、「神はどこにいるのか、神などいない」 神様を知らないから言える言葉です。しかし、その言葉が神様を知らないその人たちだけの言葉ではないでしょう。  今日の詩編記者の告白のように、神様は私たちが暮らしているすべての日に、すべての場所に共にしておられます。しかし、私たちがその時に神様が共におられると自覚することは簡単ではありません。  私たちの日々の中に神様がおられることを忘れて生きていくからこそ、私たちは寂しがり、恐れ、うなだれてしまうのです。神様を忘れいるため訪れてくるその苦難の中で、私たちは「神はどこにいるのか」と言いながら神様を探してしまうのです。  神様を知らない者たちが言う「神はどこにいるのか」とは少し違うかもしれませんが、私たちも結局、神様を正しく知っていないため、神様は今どこにおられるのかと言い、神様を誤解してしまうのです。  神様を探し求めるということ、それは過去の私たちに起こった神様の恵みを再確認することではありません。今この瞬間に、私たちと共におられる神様を見つめること、その神様に目を向けることが神様を探し求めることです。  神様が特別な時だけ訪れてくるお方であるなら、私たちが目を向けても神様は見えない時もあるかみ知れません。しかし、神様はいつもその場におられます。いつも私たちと共におられるので、私たちが直面している世の中のことから目をそらして神様を見つめるなら、私たちはいつも神様を見ることができます。そのようにいつも神様と共に生きて行くことができるでしょう。 https://youtu.be/ikdWPBdaqd0?si=sB-1Kp4QptVULbdd

시편 묵상 【하나님을 찾는다는 것】 20240301(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 42:1-11 42:1 하나님이여 사슴이 시냇물을 찾기에 갈급함 같이 내 영혼이 주를 찾기에 갈급하니이다 42:2 내 영혼이 하나님 곧 살아 계시는 하나님을 갈망하나니 내가 어느 때에 나아가서 하나님의 얼굴을 뵈올까 42:3 사람들이 종일 내게 하는 말이 네 하나님이 어디 있느뇨 하오니 내 눈물이 주야로 내 음식이 되었도다 42:4 내가 전에 성일을 지키는 무리와 동행하여 기쁨과…