사순절:자기 십자가를 진다는 것

예수님은 「아무든지 나를 따라 오려거든 자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 좇을 것이니라」라고 하셨다. 「자기 십자가」라는 것은 무엇일까? 무엇을 짊어져야 내 십자가를 지는 것일까. 그것을 생각하려면 우선 예수님이 무엇을 짊어지셨는지를 생각해야 한다. 예수님은 세상 죄, 아니 내 죄를 대신 지셨다. 그것은 아버지 하나님이 먼저 나를 사랑하셨던 동기로 시작된 일이고, 나에 대한 하나님의 사랑을 확증하신 것이…

神を見上げる信仰(姜旲憬 神学生)・하나님을 바라보는 믿음(강대경 신학생)

神を見上げる信仰 創世記4章1〜7節 姜旲憬 神学生   1.前回は創世記2章と3章から人間の堕落についてお話しました。人間に罪が入ってきたのです。その罪には必ず報酬があります。罪の報酬は死です。善悪の知識の木の実を取って食べたアダムとエバは、神様が語られた「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という言葉の意味に気づかぬまま、エデンの園から追放されました。実際に彼らの肉体が滅びることはなかったからです。しかし神様との関係が絶たれた以上、彼らはもはや死んだ者に他なりませんでした。これが堕落です。ちなみに堕落というのは、神様との関係だけでなく、この世界や自然との関係が絶たれ、そして人と人との関係も破壊されること、それが堕落です。さて4章に入ると、初めて人間の肉体の死が登場します。しかもそれは自然死ではなく殺人による死でした。カインがアベルを殺しました。まさに人間と人間の関係に破壊が生じたわけです。創世記4章8節、「カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。」人類の最初の死が殺人だというのは本当に悲しいものです。ただ殺人にも突発的なものと、計画的で意図的なものがあります。このカインの殺人はどちらでしょうか。明らかに後者の意図的な殺人です。なぜならカインは一緒に野に行こうとアベルを誘いだしたからです。さらに「襲いかかって殺した」という言葉からも、どれだけ残酷だったのかがわかります。第一ヨハネの手紙3章12節にはこうあります。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」別の訳ではカインは「悪い者に属している」と言っています。ここで一つお聞きします。カインは殺人をしたから悪い者なのでしょうか?決してそうではありません。カインは悪い者に属していたからアベルを殺害したのです。カインがいつも神様の前に正しい者ではなく、いつも悪い者として生きていた、少なくとも神様の目にはそう映っていたのです。これは今日の本文を考える上で大きな手がかりになることでしょう。   2.それでは今日の本文を見ていきいます。創世記4章1節から2節前半まで。「人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は、主によって一人の男子を得た』と言った。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。」堕落した人間に対しても、誠実な神様は、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」という祝福の約束を忘れることはありませんでした。エバはその主によってカインを得たと告白しています。事実、カインという言葉は、「得る」「獲得する」という意味なのです。そのようにカインを与えられたエバは、次にアベルを産みました。ただアベルという言葉は「空しさ」「儚さ」という意味を持ちます。しかしなぜエバはカインの次に産まれた息子の名前を、このように、アベル、つまり、空しさ、儚さと付けたのでしょうか。聖書はそのことを語ってはいませんが、カインを育てるうちに何かを見たのでしょう。何かを悟ったのでしょう。その何かとは、人間の罪ではないでしょうか。エバは「苦しんでカインを産み」(創3:16)大事に大事に息子カインを育てたのに、またアダムも「顔に汗を流して糧を得て」(創3:19)カインを食べさせたのに、カインの成長を通して、様々な形で、人間とはいかに罪深い存在なのかということを見たはずです。人は虚しく、儚く、土のちりのような存在にすぎないという意味で、次に産まれた息子をアベルと名付けたのでしょう。その名前のように、アベルは兄カインの手によって、あまりにも空しく死んでいくことになったのです。これからその経緯をこれから見ていくことにしましょう。いずれにせよ、カインとアベルは成長し、それぞれの賜物によってアベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者になりました。   3.それでは3節から5節前半までをお読みします。「3しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。4アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。5しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」   4.神様はなぜカインのささげ物には目を留められなかったのか?この解釈については学者たちによって幾つかに分かれます。例えば、動物のささげ物の方が穀物のささげ物より神様に受け入れられるという解釈があります。しかし後にモーセの律法では穀物のささげ物を必要とする規定がたくさんあることから、この解釈は妥当性に欠けると言えます。また、土地を耕す者よりも羊飼いの方を神様は喜んだとする解釈もありますが、創世記2章15節で神様はアダムに地を耕す人になるように言われたこともありますし、そもそも神様は職業を差別される方ではありません。そして三番目の解釈として、重要なのは礼拝であり、この二人の礼拝の差がささげ物の差となって表れたというものです。この解釈がおそらく一般的な立場として受け入れられているものでしょう。ただどれも「ささげ物」に焦点を当てた解釈です。ここで私たちは二つのことを考えなければなりません。第一に、ヘブル人への手紙11章4節の「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。」という御言葉を考えると、二人の差は信仰の差であるということが言える点です。しかもその信仰がささげ物に形となって表れたということです。また第二に、今日の本文の4節と5節を見るとわかるように、神様は「アベルとそのささげ物」に目をとめられ、「カインとそのささげ物」には目を留められませんでした。つまりささげ物の前に、それをささげた人をまず神様はご覧になったということです。この二つの点を合わせてみると、二人の信仰がそれぞれのささげ物に表れたのであり、神様は二人のその信仰に注目されたということが言えるでしょう。因みに韓国語では、この「目を留められる」という言葉が、「喜んで受け取る」という言葉に訳されいますが、正確なのは日本語の聖書で言う、「目を留める」「関心をもって見る」という翻訳です。   5.話を戻して、では二人の信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。本文には信仰という言葉は登場しませんが、「神様が目を留められる」という時に、どういう動機で目を留められたのかを理解する必要があると思います。なので、まずこの「目を留める」という言葉の特徴について見てみましょう。ヘブル語で「シャアー」というこの言葉は、旧約聖書に12回しか登場しない言葉です。そのほとんどが「人が神様を見る」という文脈で使われています。例えば、第二サムエル記22章42節、「彼らが主に目を留めても、救う者はなく、答えもありませんでした。」という時の「目を留める」、また詩篇119篇117節、「私を支えてください。そうすれば私は救われ、絶えずあなたのおきてを見つめることができます。」という時の「見つめる」が本文の「目を留める」という言葉と同じ単語です。他にもたくさんありますが、いずれも神様とその戒めを「見る」という時は、深い関心をもって、信頼をもって見るというニュアンスがあることは明確です。その一方で、「人が人を見る」という時にも使われます。例えば、イザヤ書22章4節、「私から目をそらせ。私は激しく泣きたい。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めるな。」という時の、「目をそらす」もまた「シャアー」という言葉です。「〜から目をそらす」というのは、「そのことだけに関心を持っていた」というニュアンがあるのではないでしょうか。このように「シャアー」という言葉は、人間に対してはそのことだけに目を留める、神様に対しては信頼をもって見る、という意味であることが言えます。では本文の「目を留める」はどうでしょう。主語が人ではなく、神様なのは今日の本文にだけ登場しますが、その言葉のニュアンスは変わりません。なので、神様はアベルとそのささげものには信頼をもって目を留められたのであり、一つのことだけを見るという言葉の特徴から、アベルとカインのささげものを比較することはなかったとも言えるのです。   6.しかしなぜ神様はアベルとそのささげものを信頼してご覧になったのでしょうか。それはアベルが神様を信頼して見ていたからです。神様は個々の人間の行為に対して、それと同じように報われるお方です。それは旧約聖書全体で一貫して語られています。イスラエルの民の不従順な行為の度に、神様はそれに応じた裁きを与えられたのは、私たちもよく知っている事実です。他にも、例えば、第一サムエル記2章30節、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」と語られているし、第一サムエル記15章23節ではサウルに対して、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と語られました。このような神様のご性質はアベルとカインにも同じだったはずです。アベルが神様を見たので、神様もアベルをご覧になった。カインは神様を見なかったので、神様もカインをご覧にならなかった。そう言えるのではないでしょうか。そして何よりもこの二人の「ささげ物」に、それぞれの心がよく表れていることは言うまでもありません。3節ではカインが「大地の実り」を主にささげたと記しているのに対し、4節ではアベルが「自分の羊の初子の中から肥えたもの」をささげたと言っているからです。この「初子の中から肥えた物」というのは最も良いものを意味します。それをアベルは神様に献げたのです。しかし皆さん考えてみてください。羊飼いだったアベルがある日突然神様に一番良い羊を献げるためには、どうすればいいでしょうか。もちろん羊たちの数にもよりますが、私が思うに、彼が普段の生活から多くの羊を飼う中で、神様を見ていたと思うのです。つまり、この羊の中から神様に何をささげれば神様は喜ばれるだろうかと、神様のことを考え、あの羊がいいと予め区別していたと思うのです。そのようにいつも神様に自らの目と心を向けていたはずなのです。でなければ、3節の「しばらく時が過ぎた」その日に、最も良いものを献げることが難しかったことでしょう。神様を見続けていたアベルだからこそ可能だったのでしょう。神様に対するアベルの信頼と感謝がその羊に込められていました。アブラハムがイサクを神様に献げた時、イサクが全焼のいけにえであったと聖書は語っています。それが意味するのは、イサクを献げるアブラハムの従順と神様に対する信頼が、全焼のいけにえとして表れたことを言っているのです。自分を献げるほどの従順がそこにはあったのです。このように、ささげる人とそのささげ物は一つとなります、いわば一体化です。このように、神様はそのささげものに込められる人間の心を喜ばれるお方です。主はホセア書で「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」と言われました(6:6)。ささげものよりも、それをささげる人の心、真実の愛を喜ばれるのです。アベルとそのささげものが、まさにこのようなものだったのではないでしょうか。   7.一方のカインはどうでしょうか。5節では神様が拒まれたことを見て、「激しく怒り、顔を伏せた」と言っています。なぜ神様は拒まれたのか?を考え、自分とささげものに何か間違いがあったのではないかと反省しなかったカインは、この後弟アベルを殺すことになります。しかしここでもう既にカインの心は、殺人へのプロセスを踏んでいたのです。怒って顔を伏せた事実がそれを物語っています。神様から目を背けることが罪に直結します。正しい人はアベルのように神様を見続けています。カインは神様を見ませんでした。だから神様は7節でこのように言います。「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。」受け入れられるとは、別訳にもあるように、カインが神様に対して「顔を上げられる」ということです。つまり神様と顔を合わせることができるということです。しかし、そうできなかったカインの心には、もう既に神様を見ることのできない状態、罪があったのです。旧約聖書では「良いこと行う」という言葉は全て、文法的に未完了形で登場します。まだ完了していない、今も続いているということです。神様の前に正しいこと、それはどんな時でも神様を信頼して、見続けるということ、決して一瞬たりとも神様から目をそらさないということではないでしょうか。カインに対して神様は言われます。「しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せしている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」結局罪を治めることができなかったカインはとうとうアベルを殺してしまうのです。   8.アベルとカインの差は、神様をいつも見ていたのかということです。神を見るということが信仰の表れでもあります。今日の説教題、神を見上げる信仰というのは、実は「神を見る=(イコール)信仰」でもあるのです。この二人の差は大きな違いとして私たちに語られていますが、その一方で二人にはある共通点があります。それは3節にあるように、「しばらく時が過ぎて」ささげ物をささげる日が二人に訪れたということです。このしばらく過ぎてというのは、「収穫の日」という意味になります。この収穫の日にアベルとカインは神様にささげ物を捧げました。私たちにもいずれ収穫の日がやってきます。ある意味でさばきの日が訪れるのです。その時に神様が私たちと私たちのささげものに目を留めてくださるためには、どうすればいいでしょうか。しかしその前に私たちのささげものとは何でしょうか。毎週日曜日にささげる礼拝でしょうか。アベルは神様に最高のささげものを献げました。ただ神様はそれよりもアベルの信仰をもっと喜ばれたはずです。それはいつも神様を信頼し続け、神様だけを見続けた信仰、つまり彼の人生そのものです。ささげものよりも人間が大事なのです。神様は私たちにもそのようなささげものを求めておられるのではないでしょうか。私たちが神様にささげるべきささげ物とは、私たちの人生、私たちの日常です。それが礼拝となり、それを通して私たちの信仰を表していくのです。   9.このように私たちの信仰というのは、点ではなく、線なのです。1日ではなく、毎日なのです。点の信仰ではなく、線の信仰を持つためには、私たちが私たちの信仰をしっかりと考えなければならないでしょう。カインのように、何かあった時、ただ怒り顔を伏せるのではなく、自分の信仰に間違いがあるのではないか、点検し続けることが大事なのです。信仰は抽象的な言葉ですが、しかし本物の信仰とは具体的で実際的なもの、目に見える形として表れるのです。イエス様を信じたザアカイは「財産の半分を貧しい人たちに施します。脅し取った物があれば4倍にして返します」という具体的な決断をしました。また百人隊長の信仰を見てイエス様は「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と言われました。このように信仰は見えるものなのです。いや、むしろ見えなければなりません。信仰は告白を通しても表れれますが、最も美しいのは、私たちの礼拝、つまり私たちの日常を通して、表される時ではないでしょうか。   10.今は四旬節です。私たちがカインのように悪い者に属する者ではなく、アベルのように神様の目にとまる者として生きていくためには、キリストから目を離してはいけません。かつてカインの側にいた私たちは、キリストの義によってアベルのように神様に受け入れられる者となったからです。民数記21章には、イスラエルの民が神様とモーセに逆らって、「なぜわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」と不満を爆発させました。そこで主は燃える蛇を送り、噛みつかれた民たちは死んでいった記事が記されています。しかし主は一つの青銅の蛇をモーセに作らせ、それを仰ぎ見る者は「生きる」と約束されました。こうしてその青銅の蛇を見た者たちは生きたのです。皆さん、私たちにとってのこの青銅の蛇とは何ですか。ヨハネの福音書3章14〜15節をお読みします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」私たちのために上げられたお方、イエス・キリストを、私たちは見上げなければなりません。イエス・キリストから目を離さず、見続けましょう。そして私たちに与えられた信仰を通して、信仰の創始者であり完成者である、イエス・キリストに最高の礼拝を、最高の人生をささげましょう。それが私たちの生きる道であり、それが私たちの生きる目的だからです。神様と以心伝心ができる、神様の御心、キリストの想いを私たちが汲み取ることができる、それは本当に素晴らしいことではないでしょうか。幸せな以心伝心を果たすためには、まず相手を見なければなりません。これからもイエス様とアイコンタクトを取り続け、イエス様から決して目をそらさない、そのような枝川愛の教会の礼拝共同体、信仰共同体となることを心からお祈りします。     하나님을 바라보는 믿음 창세기4장1~7절 강대경 신학생  지난 번 설교 때는 창세기 2장과 3장에서 인간의 타락에 대한 말씀을 드렸습니다. 인간에게 죄가 들어온 것입니다. 죄의 삯은 사망입니다. 그럼에도 선악과를 따먹은 아담과…

사육제와 사순절의 싸움

봄이 다가왔습니다. 그리고 사순절입니다. 사순절은 렌트 (Lent) 라고 하는데 렌트는 라틴어로 봄이라는 뜻입니다. 우리는 지금 사순절과 봄 안으로 들어와 있습니다. 오늘은 사순절에 맞추어서 사도행전 강해를 잠깐 쉬고 사순절에 관한 설교를 준비했습니다. 우선 사순절이 무엇인지에 대해서 모르시는 분도 계실 것 같습니다. 올해는 내달 4월 21일이 부활절입니다. 잘 알듯이 부활절은 기독교 전통의 최고의 명절입니다. 사순절이라는 것은 부활절로부터…

桜が咲く前に・벚꽃이 피기 전에

詩篇 32:3,5 私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。私の背きを主に告白しよう」と。すると あなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました。 春を促す雨がそぼ降ってました。もうすぐでさわやかな春の天気がやってくるでしょう。私は最近、春を迎えるということでよく散歩に出かけています。歩いてみると梅の花はたくさん咲いていました。もうすぐ桜も咲き始めるでしょう。今年、東京は3月21日に開花で、29日に満開だそうです。花が咲く美しい季節ですが、私は一週間ずっと苦しかったです。泣いていました。なぜなら昨年から花粉症が始まったからです。私は日本に来て20年目になります。今まではよく耐えたですが、昨年から花粉症が症状が始まりました。花粉が鼻に入るとくしゃみを出たりしますね。一度たら連続で何度も出てきます。つらいです。 くしゃみが出てくるというのは、体の中に入ってきた不純な異物を押し出すために体が動いているからでしょう。鼻からも同じ理由で、鼻水が流れます。鼻に入ってきた花粉を出すために鼻は鼻水を流して洗います。くしゃみをしたり、ティッシュで鼻水をかんだりした後は”ああ苦しい”とか ”大変だ”とか言いますが、実はくしゃみをしたり、鼻水をかんだりしたその瞬間はすっきりします。汚れたものを吐き出し、引き出したからです。最近、目も非常にがゆいのですが、目の中に何かが入ると、目は自らの涙を出して、それを洗い流します。これも浄化のための体の活動です。生きていることの証拠ですね。 涙というのは、目を洗うために流れることもありますが、心を洗うために流れることもあります。 悲しくなったら泣きます。泣いた分、その悲しみから、喪失感から、悔しい気持ちから少しは回復します。私の父がなくなったとき、母は枕元で泣いていました。何人かの介護者が母親を慰めながら、ベッドから離して”お父さんは天国に行ったから、もう泣かないで”と言いながら母を慰めていました。私はその介護者を退けて、母親が枕元でもっと泣けるようにしました。天国には父が行ったものであり、母はこの地で夫を失ったわけです。死者に対する生き残った者の当然な感情は悲しみです。母はもっと泣かなければならなかったのです。 心と体の状態が素直に涙というもので出てくることです。泣かないと悲しみは詰まってしまうかもしれません。 涙を流すように鼻水を解放ネドゥトイくしゃみをするように心の汚染されたことを吐き出した後、それが私たちの魂のカタルシスことでしょう。また、信仰が生きているという証拠です。カタルシスの原型が「カタロス」という形容詞です。イエス様が教え山上の垂訓、マタイ5章8節には、形容詞がなりました。「心の清い者は幸いである。私たちは神を見るからです。」の「清潔」が「カタロス」です。心がきれいになると、神を見るとしました。「見る」は目で見るの意味ではなく、体験するという意味です。桜の花が咲きまで2週間程度残っているようだ。トソルと涙は悔い改めとしましょう。そのカタルシスが過ぎ去って、そしてこの春の雨にも過ぎ去った後桜が必要頃にはきれいな心で神を見ることです 心の中にある嫌な思いのようなものがあれば、イエスさまの前に吐き出して下さい。涙のように、鼻水のように、くしゃみのように、神さまの前に吐き出してください。 きっと気持ちがきれいになります。それが私たちの魂の「カタルシス」です。この言葉は元々ギリシャ語です。カタルシス」はギリシャ語の「カタロス」から出た言葉ですが、マタイによる福音書5章にはイエスさまが山の上で教えた説教がありますが、そこにはイエスさまがこの言葉を用いて語られました。‐5:8 心の清い者は幸いである。私たちは神を見るからです。の「清い」 が「カタロス」です。‐ 心が清くなった人は、神に出会うのです。神の前に泣けば、心がきれいになります。「見る」は目で見るの意味ではなく、体験するという意味です。桜が咲くまでは2週間ほど残っていますね。吐き出すとことと涙を流すことは悔い改めとしましょう。カタルシスとこの春の雨が終わり、桜が咲く頃にはきれいな心で神を体験します。   2019年3月10日、故郷の家・東京 エル・シオンチャペル礼拝 説教の中で   시편 32:3,5 내가 토설치 아니할 때에 종일 신음하므로 내 뼈가 쇠하였도다…내가 이르기를 내 허물을 여호와께 자복하리라 하고 주께 내 죄를 아뢰고 내 죄악을 숨기지 아니하였더니 곧 주께서 내 죄의 악을 사하셨나이다…

이중성의 반작용

영적 게으름 지난 주에 바울에게 의와 절제와 심판에 대한 설교를 들었던 벨릭스는 잠시 두려움을 느꼈지만 바울을 돌려보내고 그 감정을 스스로 속여버렸습니다. 구원에 있어서 가장 먼 미래는 내일입니다. 구원과 회개의 기회를 내일로 미루어 버리는 영적 나태에 대해서 지난 주에는 「구원에 이르지 못하는 습관」이라는 제목으로 설교했습니다.   오히려 뇌물을 요구하는 벨릭스 ‘불러서 이야기를 들어놓고 이제는 가도 된다.…

구원에 이르지 못하는 습관

지난 강해 시간에 바울은 자신을 고소하던 유대인들이 더 이상 반론할 수 없도록 자신의 무죄를 완벽하게 변호하는 것을 보았습니다. 산헤드린 공회에서는 율법의 교리로 유대인들을 이겼고, 로마법정에서는 로마법의 법리로 통쾌하게 이겼습니다. 그래서 지난 번에는「진실을 말하는 이성」이라는 제목으로 설교했습니다. 바울의 시대에 비해 2000년이 지난 현대의 일본과 한국에서는 교육이 국민의 의무가 되어 있습니다. 모든 사람이 교육을 받고 그 교육을…

백 년의 나그네

한국에 가면 내 나라가 있고 내 집이 있습니다. 그래서 기쁘게 한국에 돌아가보지만 이제 20년 전, 30년 전의 우리 집은 아니더군요. 이제 우리 집은 아내와 아이들이 있는 동경의 집입니다. 그래서 언제부터인가 한국에 가도 여전히 나그네라는 것을 알게 되었습니다. 좀 서러웠습니다. 내 나라에 가면 내 집이 없고 내 집으로 돌아오면 내 나라가 없는 것이지요. 나그네이고 이방인입니다. 외국에서…

복음 바이러스

사도행전 24:1-9  유대인과 산헤드린이 함께 작당하여 바울을 암살할 계획을 세웠던 것을 지난주에 함께 읽었습니다. 야간에 천부장이 이 첩보를 들었고 그대로 두면 아침에 살인 테러가 일어날 것입니다. 천부장이 야간에 대대적인 군사를 동원하여 바울을 총독 벨릭스에게로 이송하게 됩니다.   바울은 원래 핏줄은 유대인이지만 다소라고 하는 로마령의 대도시에서 시민권자로 태어났습니다. 바울은 헬라 학문과 히브리 율법을 다 공부했고 젊어서부터…

생명있는 동안에

사도행전 23:12-35 지난주 설교에서 천부장은 바울의 혐의를 조사하기 위해서 아침부터 유대인의 산헤드린 공회를 소집했습니다. 산헤드린 공회에서 바울이 변론하는 중에 바리새인과 사두개인의 전통적이며 종교적 신념을 자극하면서 공회에 내부분란이 일어났고 결국 공회는 난장판이 되어 버립니다. 재판이라고는 볼 수 없는 난폭하고 과격한 것이었습니다. 천부장은 바울이 그들에게 찢겨 죽지 않을까를 염려하여서 바울을 영문 안으로 피신시켰다고 했을 정도입니다. 바울은 군대의…

변화와 확장을 추구하며

사도행전 23:1-11   오랜만에 사도행전 강해로 돌아왔습니다. 지난 11월까지의 설교를 기억해 보시기 바랍니다. 유대인들이 성전에서 난동을 일으켜 바울을 죽이려고 했습니다. 다행히 바울은 로마 군대의 도움을 받아 겨우 죽임을 면하게 되지요. 유대인들은 대단히 흥분한 상태였습니다. 천부장 입장에서는 민심을 다스리지 못하고 폭동이라도 일어나면 문책을 당할 것입니다. 동시에 로마 천부장은 바울이 로마시민권자인이 것을 알았습니다. 그래서 바울을 함부로 다를…