Ⅱ列王記 黙想 【何が見えますか】 20240702(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 6:15~236:15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。6:18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。6:20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」6:22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。   エリシャのしもべが朝起きると武装したアラムの軍隊が町を包囲しているのを見ました。エリシャはしもべを安心させ、敵の軍勢よりも味方が多いと言いますが、従者の目には味方が見えません。エリシャの目にだけ何かが見えているようです。エリシャが祈り、しもべの霊の目が開かれると、しもべの目には火の馬と戦車がエリシャを取り囲んでいるのが見えました。アラム軍に集中していると神様の軍勢は見えません。恐怖に焦点を当てていると神様は見えません。ムンクの描いた「叫び」の青ざめた顔を思い出します。しかし、絵の中の主人公が何を見ているかは分かりません。彼の後頭部を想像してみてください。そのためには彼が何を見ているかを想像する必要があります。見る視線を1度ずつ移動させるだけで視点は360個になります。目をどのように開くか、どの視点で見るかによって、あるものが見えないこともあれば、見えなかったものが見えることもあるでしょう。   再びエリシャが祈ると、今度はアラム軍が盲目になります。目があっても見ることができない状態になります。前が見えないので武器は無用の長物で、大軍の戦闘力もゼロです。エリシャは盲目のアラム軍をイスラエルの首都サマリアに連れて行きます。目があっても見えないので、敵陣の中心に歩いて入ります。盲目の人々がすることはそういうことです。サラマーゴの小説『白の闇』では、伝染病で盲目になった人々が作る暴力的な社会で盗み、姦淫を描かれています。見えないから人間性が崩れます。神様が見えなければ人間らしく生きることはできません。サマリアに到着すると、エリシャは再び祈り、アラム軍の目を開けます。アラム軍はムンクの「叫び」よりも激しく叫んだでしょう。しかし、エリシャは彼らを殺さず、むしろ美味しいものを食べさせて送り返します。全滅させるよりも痛快な勝利です。その後、アラムはイスラエルを侵略することはありませんでした。目があるからといってすべてを見ているわけではなく、力があるからといってすべてを勝ち取るわけではありません。信仰の目をしっかり開いて歩みたいと思います。  

열왕기하 묵상 【무엇이 보이는가】 20240702(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 6:15~236:15 하나님의 사람의 수종드는 자가 일찌기 일어나서 나가보니 군사와 말과 병거가 성을 에워쌌는지라 그 사환이 엘리사에게 고하되 아아 내 주여 우리가 어찌하리이까6:16 대답하되 두려워하지 말라 우리와 함께한 자가 저와 함께한 자보다 많으니라 하고6:17 기도하여 가로되 여호와여 원컨대 저의 눈을 열어서 보게 하옵소서 하니 여호와께서 그 사환의 눈을 여시매 저가 보니 불말과 불병거가 산에 가득하여…

Ⅱ列王記 黙想 【フューチャーリテラシー】 20240701(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

Ⅱ列王記 6:1~146:1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、6:2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作りましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。6:3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、6:4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。6:5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」6:6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。6:7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。6:8 さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」6:9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」6:10 イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。6:11 このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」6:12 すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」6:13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。6:14 そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。   預言者の弟子たちは寮の拡張工事のためにヨルダン川へ行き、木を伐採します。その時、一人が作業中に借りた斧を水に落としてしまいます。それは借りたものであり、当時の工具は高価だったため、このことで彼は驚き困惑します。しかし、エリシャが木の枝を折って水に投げると、斧が水面に浮かび上がります。本来なら沈むべき斧が風船のように水面に浮かんだので、これは奇跡を起こす賜物と言わざるを得ません。エリシャだけでなく、すべてのリーダーには予期せぬ危機を管理し、問題を解決する能力が求められます。神様はエリシャにそれを与えました。たとえ水に落ちた斧が浮かび上がることはなくても、困難な状況で問題を解決する知恵と能力がすべての責任を持つリーダーに必要です。神様は、責任を持ち、問題を解決しようとするリーダーに賜物と機会を与えるでしょう。   一方、アラムがイスラエルと戦争をする時に、イスラエルがアラムの作戦を事前に知っていると判断したアラム王は内部にスパイがいると考えましたが、家臣たちはエリシャがすべてを知らせていることを知っていました。これも神様がエリシャに与えた特別な霊的賜物です。リーダーには状況を理解し、流れを見抜き、未来を予測する能力が必要です。これを「フューチャーリテラシー」と言います。状況と時代の流れを読み取ることであって、文脈のない予言ではありません。旧約のすべての預言者は国内外の情勢を知っており、状況を見分けていました。知的なことと霊的なことは別々ではありません。人の心と罪の本性を読み取り、国際情勢を読み取り、次の段階を予測する能力、未来リテラシーはすなわち霊性です。問題を解決し、次のステップを準備するリーダーの能力は個人のものではなく、神様が与える賜物です。それを求めます。  

열왕기하 묵상 【미래문해력】 20240701(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 6:1~146:1 선지자의 생도가 엘리사에게 이르되 보소서 우리가 당신과 함께 거한 곳이 우리에게는 좁으니6:2 우리가 요단으로 가서 거기서 각각 한 재목을 취하여 그곳에 우리의 거할 처소를 세우사이다 엘리사가 가로되 가라6:3 그 하나가 가로되 청컨대 당신도 종들과 함께 하소서 엘리사가 가로되 내가 가리라 하고6:4 드디어 저희와 함께 가니라 무리가 요단에 이르러 나무를 베더니6:5 한 사람이 나무를…

列王記第二 黙想 【等価交換】 20240629(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 5:1-14 5:1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。 5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。 5:3 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」 5:4 そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。 5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。 5:6 彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」 5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」 5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」 5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。 5:10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 5:11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。 5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。 5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。    ハイリスク・ハイリターン、大きなことには大きな対価が伴うなど、私たちの常識には等価交換の原則が当たり前なことにされています。むしろ、片方が一方的な利益を得る取り引きは、とりあえず疑ってみるのが賢い行動とされています。  しかし、今日の箇所のナマアンになされた奇跡は、あまりにも単純なことの結果として与えられた奇跡です。そのため、ナマアンは最初その要求を聞いたときに、疑い始めました。奇跡ではなく、ただ川で体を洗うことでツァラアトが治るなら、あえてヨルダン川で洗う必要はあるのか、自分の故郷のもっときれいな川の水で洗った方が良いのではないかという疑いでした。  彼はヨルダン川で体を洗うだけで奇跡が起こるということを信じませんでした。彼にとって、これは単なる治療法に思われたのです。しかし、彼が預言者の言うとおりにヨルダン川で体を洗ったときに、その奇跡は起こりました。これはヨルダン川の特別な能力、温泉の効果のようなものでなく、神様の奇跡なのです。  当時のツァラアトは、単に致命的で危険な感染症と思われる以上に差別的な意味を持っていました。それを理由に現代の医学界でも差別的な意味が含まれているツァラアトという名前ではなく、ハンセン病という名称を使っています。治癒することが不可能な、永遠に社会から隔離されて生きていかなければならない呪いのような病気、そしてその呪いを他人に移す人とされるのがツァラアト病者たちが体験する人生でした。  そのような人生から抜け出すためにナマアンに要求されたのが、このヨルダン川で体を7回浸すこと、彼の常識では理解できないことでした。多くの金を要求されることでも、しもべたちが言ったように難しいことをしなければならないわけでもありませんでした。少なくともヨルダン川ではなく、より良い川の水で体を洗ってこそ良くなるだろうと、彼の常識の中でこのことは等価交換に合わないことでした。しかし、その通りヨルダン川に浸したとき、彼に癒しが与えられたのです。  私たちは聖書の御言葉を通して、また説教を通して私たちがどれほど大きな罪人であるかを聞き、教えられました。そして、その罪の結果がどれほど重いものか、よくわかっています。だからこそ、その罪の結果から逃れるために、許されるために自分で何か代価を払わなければならないという圧迫感に苦しむかもしれません。聖書の御言葉のように信じれば救われるということは、私たちの等価交換の常識に合わないことであるからです。  しかし、神様は私たちに同等交換を求めておられません。私たちはただ信仰によって救われるということが神様の御言葉であり、真理であります。厳密に言うと、その対価を私たちから求めておられません。既に神様から私たちのためにイエス·キリストという代価を払っておられるためです。  御言葉はいつも神様の創造の秩序を強調しているということを今まで数回の黙想の中で強調しました。そして、代価を払わなければならないということが神様の秩序であるということも強調しました。私たちがその福音を信じるだけで救いを得るということは、その秩序にふさわしくない代価のように思われるでしょう。他の側面から見て、私たちを生かすためにイエス·キリストという代価を払うこともふさわしくない代価なのでしょう。  しかし、このような一方的に見える方法を通して神様は、私たちに向けているご自分の愛がどれほど大きいかを見せてくださっています。神様にとって私たちはイエス·キリストという代価を払うほどの尊い存在、愛する存在であったのです。だからこそ、私たちは神様が私たちのためにその代価を先にお払いになったという事実を信じることだけで救われるのです。https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=Vhh3DDP54bFbI6RC

열왕기하 묵상 【등가교환】 20240629(토) 최종석 전도사

열왕기하 5:1-14 5:1 아람 왕의 군대 장관 나아만은 그의 주인 앞에서 크고 존귀한 자니 이는 여호와께서 전에 그에게 아람을 구원하게 하셨음이라 그는 큰 용사이나 나병환자더라   5:2 전에 아람 사람이 떼를 지어 나가서 이스라엘 땅에서 어린 소녀 하나를 사로잡으매 그가 나아만의 아내에게 수종들더니 5:3 그의 여주인에게 이르되 우리 주인이 사마리아에 계신 선지자 앞에 계셨으면 좋겠나이다 그가…

列王記第二 黙想 【命の糧】 20240628(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 4:38-44 4:38 エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」 4:39 彼らの一人が食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生の瓜を前掛けにいっぱい取って帰って来た。そして、彼はそれを煮物の釜の中に刻んで入れた。彼らはそれが何であるかを知らなかった。 4:40 彼らは皆に食べさせようとして、これをよそった。皆はその煮物を口にするやいなや、こう叫んだ。「神の人よ、釜の中に毒が入っています。」彼らは食べることができなかった。 4:41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれを釜に投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」そのときにはもう、釜の中には悪い物はなくなっていた。 4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。 4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」 4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。     宣教学で話題になった問題の一つが救済活動と宣教の関係でした。彼らに救済のための物品だけが渡されても、福音だけを伝えて彼らが福音を聞くことができないようにしてもいけないということです。  救済のために渡される物品、特に食糧難に苦しんでいる地域に送られる食糧は、単に彼らの欲求を満たすための物品以上の意味を持つということは私たちもよく理解しています。食べ物というのは人間にとって単純な満足感と楽しさを与えること以上の意味、生死を分ける重要なものであるからです。  今日の箇所のエリシャと預言者の仲間たち、人たちに向かって行われた神様の御業と恵みは、このような食糧、特に激しい飢饉に苦しんでいた民に与えられる命の恵みです。私たちはこのような似ている内容の有名な他の箇所を知っています。それはイエス様の五つのパンと二匹の魚、七つのパンと二匹魚の奇跡です。  私たちはこのような奇跡を通してご自分の民を食べさせる神の恵みを見ることができます。しかし、その中に含められているものは、単純に肉の飢えを解決すること以上のものです。それは魂の飢えを解決し、魂の生死を分ける糧、神の御言葉という魂の糧です。  これはただ救済のために送られる食糧、貧しい者たちに与えられる糧だけに含まれているものではありません。私たちの日々の日常の中に与えられる食事、日々の日用の糧を通しても与えられている恵みです。カトリックの形式的なお祈りを拒否したプロテスタントが食事のお祈りだけは熱心に守っている理由がここにあるのではないかと私は思います。  ペトロの信仰告白は、五つのパンと二匹の魚、七つのパンと二匹魚の奇跡の後に行われました。そしてイエス様はその捕まる前日、最後の夜に弟子たちとパンを裂き、ぶどう酒を飲みながら晩餐の時を持ちました。そして今はペトロの信仰告白の上に建て上げられた教会が、最後の晩餐の時に与えられたイエス様の体と血を振り返りながら聖餐式を行っています。  私たちが日々受けている食糧、また主の教会が食糧を支援するところどころにその御言葉は伝えられています。そして、その食糧を通してどこかではペトロのような信仰告白をする者たちが表れているかもしれません。そしてその時に、私たちは単純にこの地で生きるための食事を越えて、主の御名によって一つに集まって魂の飢え渇きを解決する食卓に共にに座って、食卓の交わりに与ることになるでしょう。https://youtu.be/yITZ4lPLfGk?si=k31Akx-nTvYS2MjR

열왕기하 묵상 【생명의 양식】 20240628(금) 최종석 전도사

열왕기하 4:38-44 4:38 엘리사가 다시 길갈에 이르니 그 땅에 흉년이 들었는데 선지자의 제자들이 엘리사의 앞에 앉은지라 엘리사가 자기 사환에게 이르되 큰 솥을 걸고 선지자의 제자들을 위하여 국을 끓이라 하매 4:39 한 사람이 채소를 캐러 들에 나가 들포도넝굴을 만나 그것에서 들호박을 따서 옷자락에 채워가지고 돌아와 썰어 국 끓이는 솥에 넣되 그들은 무엇인지 알지 못한지라 4:40 이에…

Ⅱ列王記 黙想 【一緒に作る奇跡】 20240627(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 4:18~374:18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、4:19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。4:20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。4:21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。4:22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」4:23 すると彼は、「どうして、今日あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は「かまいません」と答えた。4:24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」4:25 こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。4:26 さあ、走って行って彼女を迎え、言いなさい。『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と。」彼女はそれにこう答えた。「無事です。」4:27 それから彼女は山の上にいる神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠し、まだ私に知らせておられないのだ。」4:28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」4:29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」4:30 その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。4:31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。4:32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。4:33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。4:35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。4:36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。4:37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。   シュネムの女の奉仕とエリシャの配慮で生まれた子どもが、ある日頭痛を訴えて急に死んでしまいます。シュネムの女は死んだ子どもをエリシャのために作った部屋に入れ、エリシャに会いにカルメル山へ出発します。悲しみや不安、動揺を示す形容詞は全くありません。シュネムの女は何にも振り回されず、ただエリシャに会い、エリシャを連れてくることにのみ集中します。シュネムの女はゲハジを相手にしませんが、それはゲハジを無視しているのではなく、エリシャにだけ集中しているからです。どんな助言者や協力者がいても、私を救う方はただイエス・キリストお一人であるように、シュネムの女にとってはエリシャお一人だけです。夫にエリシャに集中できるように頼み、死んだ子どもをエリシャの部屋に入れておきました。ゲハジを送ろうとするエリシャに対しても、断固として直接行かなければならないと言いました。   この件に関してはエリシャの状況判断が遅れています。むしろシュネムの女がエリシャをリードしています。子どもを生かす力は確かにエリシャにあります。しかし、生かしたいという切なる思いについては誰もシュネムの女には及びません。預言者ですが、神様はエリシャにこの出来事について知らせていませんでした。その理由をエリシャ自身も知らないと告白しましたが、それはシュネムの女の信仰の領域のためであるのでしょう。シュネムの女の子どもを失った母の切なる思いが息子を生かし、エリシャの使命を完成させました。エリシャに臨んだ神様の力はシュネムの女の息子を生かし、シュネムの女に臨んだ信仰と愛はエリシャに子を生かす力を与えました。真の同労者です。  

열왕기하 묵상 【함께 만드는 기적】 20240627(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 4:18~374:18 그 아이가 저으기 자라매 하루는 곡식 베는 자에게 나가서 그 아비에게 이르렀더니4:19 그 아비에게 이르되 내 머리야 내 머리야 하는지라 그 아비가 사환에게 명하여 그 어미에게로 데려가라 하매4:20 곧 어미에게로 데려갔더니 낮까지 어미의 무릎에 앉았다가 죽은지라4:21 그 어미가 올라가서 아들을 하나님의 사람의 침상 위에 두고 문을 닫고 나와서4:22 그 남편을 불러 이르되 청컨대…