マルコの福音書 黙想 【人間イエス】 20240214(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 14:32~4214:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。14:40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。14:41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。14:42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」   異端の中にはイエス·キリストの神性を否定したり、もしくは逆に人性を否定するところがあります。初期のキリスト教の時代にもあったし、今の時代にもあります。教派とかで区分されたりもしますが、ある場合は誤解と無知の中で無分別に混ざっていたりもします。各自が持つ理屈を基準にして聖書を読むと誤りが生じるのです。その中で人性を否定する人々はイエス·キリストは確かに神だったということに対しては認めるが、完全な人間ではなかったと言っています。霊知主義の仮現説(Doceticism)です。彼らは神様と世界を二元論的に理解したため、聖なる神が汚れている人間になることはできないと考えました。イエス様は肉体をもって実在したのではなく、人間世界にしばらく現れた幻の存在であると考えました。したがって、イエス・キリストが十字架に付けられたとしても、苦痛はなかったと信じるのです。   しかし、オーリブ山のゲツセマネで祈っておられるイエス様の姿は、神聖で、力ある神的な威容ではなく、哀れで凄絶な姿です。福音書がイエス様の神性を浮き彫りにしなければならなかったとすれば、おそらく削除されなければならなかったでしょう。なぜなら、今のイエス様の姿は、十字架の恐怖に包まれ、不安に落ちいている、一人の弱い人間だからです。もし、イエス様がご自身のために苦痛を免除し、幻想の中で十字架を背負ったのならば、その十字架は肉体が持っている私たちの恐怖と不安を共感することはできないものです。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ヘブライ4:15」 イエス様は確かに神性に基づいて水の上を歩き、死んだ者を生かしましたが、人性に基づいて人間の苦痛をそのまま全て身に受けました。神の子は人間イエスとなられてこの地に来られました。その方は完全な神様であり、また体を持った間違いない人間です。私たちの信仰は、この人格的土台の上から始まります。   イエス様は十字架という使命を知っていましたが、知ることと体験することは違います。その時間が近づくと、恐怖と不安が増幅します。私たちも同じではありませんか?誰もが死を迎えるべきであるということは知っていますが、死の時間が近づく時に恐ろしくて震えます。さらに、その死に多大な苦痛が伴えば、その不安と恐怖に打ち勝つことができる人は誰もいません。ただ身に受けながら死ぬだけです。イエス様も十字架が近づくと驚き、恐れながら震えました。それでイエス様は弟子たちに頼りました。弟子たちは祈るふりもせずに眠っていましたが、再び行って祈りを求められました。私たちは神様に頼り、人には頼らないと言いますが、人を頼らずに生きることはできないでしょう。人を神のように、偶像のように頼ることはないですが、人と共感して互いに不安と苦痛を分かち合いながら生きなければなりません。   この時点でイエス様の願いは十字架の苦痛が免除されたいということでした。「他の方法があるなら他の方法でしていけませんか」と嘆願しているのです。イエス様は父なる神様に「私が肉体を持ってきた限り、この苦痛を受け入れるのはあまりにも恐ろしいことです」と訴えているのです。ルカはこのように描写しました。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。ルカ福音22:44」しかし、その苦痛の中でイエス様はこのように祈りました。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 これは神的宣言ではなく、一人の人間が血と汗を絞り出すまでついに自分をささげた従順です。イエス様の従順は「神様が私たちのために十字架で死にました」という言葉では足りません。「人間イエスが震えながら十字架の上に上りました」です。そして、痛みは依然として免除されていませんでした。今日から四旬節です。弟子たちは「疲れたから眠い」という言い訳でしたが、私たちの言い訳も「忙しいから」です。苦しみの十字架に背を向けずに深く考えることを勧めます。

마가복음 묵상 【인간 예수】 20240214(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 14:32~4214:32 저희가 겟세마네라 하는 곳에 이르매 예수께서 제자들에게 이르시되 나의 기도할 동안에 너희는 여기 앉았으라 하시고14:33 베드로와 야고보와 요한을 데리고 가실쌔 심히 놀라시며 슬퍼하사14:34 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 깨어 있으라 하시고14:35 조금 나아가사 땅에 엎드리어 될 수 있는대로 이 때가 자기에게서 지나가기를 구하여14:36 가라사대 아바 아버지여 아버지께는 모든…

マルコの福音書 黙想 【聖餐の記憶】 20240213(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 14:22~3114:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。14:24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。14:25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」14:26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。   KOSTAという集会でイエス·キリストを信じましたが、数年後、信仰と献身の現在が分からず混乱していた時、再びKOSTAに参加しました。最終日に集会を導いた講師は宣教のために献身する青年たちを引き起こし、その日に恵まれた青年たちはあたかも全体起立を命じられた軍人のようにたくましく立ち上がりました。起きずにすっぽりと座っていたのは私だけのようでした。献身したくなうからではありませんでした。何度か経験があり、そういうような集団的な感性に流された対応はしたくなかったからです。もちろん個人的なこだわりにすぎません。皆が立ち上がる集会で、私も皆について立ち上がるのはそれほど難しくありませんが、一人で歩いていく道でその約束を覚えて生きることは、確かに恐いことでした。   そのあとの聖餐式を覚えています。先生方は大きなパンを持って立っており、青年たちは各自の分を裂き、ボウルに入ったぶどうジュースに濡らして食べる聖餐でした。まさに野戦聖餐でした。私はパンのかさが減るほど大きく裂いて、ぶどうジュースをたっぷり濡らして食べました。しばらく噛んで食べるほどの量でした。お腹が空いていたからではありません。何かに渇いていたからです。口の中にはまだ主のからだと血があり、それが少しずつ私の喉に移るのを感じました。聖餐は一対一です。説教の時間には居眠りすることがあるかもしれませんが、聖餐は自分の手で受け取らなければならず、それを口に入れて嚙み砕かなければなりません。自分の六腑で消化しなければなりません。とりわけ聖餐を大切にしているルーテル教会が「私たちのためのキリスト(Christus pro nobis)」といった時は神様の御言葉、すなわち説教のことを言いますが、「私のためのキリスト(Christus pro me)」といった時は聖餐のことを言います。だから、聖餐はイエス様の視線を避けられない個別的かつ直接的なものです。あの日は私がイエス様に献身したことではなく、イエス様が私のために裂かれ、血を流したことを聖餐を通して確認する日でした。   これは断食祈祷会にあったことです。断食が終わると、朝には白粥と大根を入れた味噌汁とみかんを一つが食べられます。人々はおいしい店を探して海外旅行にまで行きますが、世の中で一番おいしいものはお腹が空いた時に食べるもので、喉が渇いた時に飲む水です。だから、ご飯の匂いと味噌汁の匂いが天国の匂いのように思っています。断食が終わった朝、奉仕があったかた食事しうることができませんでした。奉仕を終えて食べようと思いましたが、すぐに礼拝が始まったので食事はできませんでした。人々はお粥を食べて血色が戻ってきて大きくなった声で賛美していましたが、依然としてお腹が空いていた私は一隅に座って礼拝しました。礼拝には聖餐式がありました。私にだけ特別に与えられたその日の朝食のメニューは、お粥と味噌汁ではなく、イエス様のからだと血でした。一口にもならない飲み物が空腹の体の中に入り、まもなくイエス様の血が毛細血管の隅々まで染み込んでいるようなその日の気分を忘れることができません。キリストの血潮が私の中に流れていることを疑えなかった経験です。   今日の本文には最初の聖餐、すなわちイエス様が執り行った聖餐があります。聖餐がある前にイスカリオテ·ユダはイエス様を売るために出て行き、最後の晩餐の後にペトロと弟子たちはイエス様に対して忠誠を誓いました。しかし、彼らはその誓いを守ることができませんでした。ある人はイエス様を売り、ある人は裏切って逃げました。結果的にイエス様を売ったユダには聖餐がなかったから戻る道を見つけられませんでしたが、イエス様を否定して呪った弟子ペトロには聖餐があったから再び始めることができました。だから信仰をリセット(Reset、初期化)ができたのです。象徴的な解釈ではありますが、福音書の著者も象徴的な記述意図があったのではないでしょうか。間違って、落ち込んで、躓くことは特別な状況ではなく、日常です。イエス様はそのすべてを知っておられるので、ご自身で制定してくださったのが聖餐という聖礼典です。高慢は謙遜に、二つに分かれた心は一つで、無責任は献身に、初期化されなければなりません。私たちの教会は毎月初めの週に大人と子ども区分なしにすべての神様の子どもたちが一堂に会して祝祭(ジャンチ)のような聖餐をします。子どもたちは親たちの聖餐式を見ながら信仰を学びます。聖餐を大切にして、主の聖餐の日に集まりましょう。

마가복음 묵상 【성찬의 기억】 20240213(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 14:22~3114:22 저희가 먹을 때에 예수께서 떡을 가지사 축복하시고 떼어 제자들에게 주시며 가라사대 받으라 이것이 내 몸이니라 하시고14:23 또 잔을 가지사 사례하시고 저희에게 주시니 다 이를 마시매14:24 가라사대 이것은 많은 사람을 위하여 흘리는바 나의 피 곧 언약의 피니라14:25 진실로 너희에게 이르노니 내가 포도나무에서 난 것을 하나님 나라에서 새것으로 마시는 날까지 다시 마시지 아니하리라 하시니라14:26 이에…

マルコの福音書 黙想 【その日に備えなさい】 20240210(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 13:28-37 13:28 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。 13:29 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。 13:30 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。 13:31 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。 13:32 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。 13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。 13:34 それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。 13:35 ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。 13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。 13:37 わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」  キリスト教は全世界に数多くの聖徒がいて、その分世界中に大きな影響力を及ぼしています。それはただ聖書一冊だけを信じるキリスト教だけではなく、数多くのキリスト教系の異端も同様です。 それはキリスト教人口0.7%の日本でもキリスト教系異端が政治にまで影響を及んでいた事件から見てもわかるでしょう。    このような異端が一番好きなテーマがこの「終末」だと思います。実際、今まで数多くの異端が何度も具体的な日時を取り上げて終末を預言し、自分たちに従う者の財産や心を奪ってきました。    時には私たちの周りの人々、そこに私たちまでも異端の囁きに釣られてしまうような危機に会うことがあります。異端の布教活動をする人々は、口上手で、印象も良く、効果的な手段を用いるなど、非常に効率的な方法を利用するだけではなく、自分たちの教理で徹底的に準備され、聖書に慣れていないキリスト者に近づいてくるからです。    彼らの誘惑に陥らないためには、私たちが聖書を知る必要があります。御言葉の中に込められている神様の御心を知る必要があります。キリストが再び来る日が近づいてくるほど、キリストに対抗する者と偽りの預言者がさらに多くなることが預言されているからです。    御言葉は明らかに、その終末の時がいつになるのか、父以外には誰も分からないと証しています。 そのため、常に目を覚まして、その日に備えなければならないのです。しかし、その日に備えるということも、誤解しやすいところがあります。どう備えればいいのかという問題です。    このような問題で混乱を経験した例を、私たちは聖書から見つけることができます。それは使徒パウロがテサロニケに送った手紙、テサロニケ人々への手紙第一です。彼らは間違った終末思想を持ち、来る終末に備えていました。一方では望ましく見えるかも知れない世の中のものをすべて捨てて、主だけを待つ望む者も多くいました。    そんな彼らに使徒パウロはちゃんと生きなさいと、再臨の時は父以外には誰も分からないと教えています。パウロのこのような教えは単純に「いつ来られるか分からないから、この世で生きて行きながら、その日を待ちなさい」ということではありません。 「この世で任された責務を忠実に務めながら来る日に備えなさい」ということです。    イエス様は公の期間中、数多くの比喩を用いて人々を教えられました。 その中にはこの世のことを疎かにしてはならないということ、この世に送られ、任せられたことを忠実に務めなさいという教えも何度もありました。私たちが神様が再び来られる日に備えるということは、今私たちに任された責務に忠実にしていくことです。    私たちからは期約のない約束のように見えるこの約束が、時には厳しく感じられるかもしれません。 いつまでこれらの責務に努めなければならないのか、疲れて大変な時は確かにあります。 しかし、この約束は明らかに私たちのための約束であることを覚えておくことは大切です。この世の中での時間があるからこそ、私たちは御国をもっと望むようになり、私たちがその時を知らないからこそ、日々神様に忠実な日常を通して神様が私たちのために準備してくださる賞が日々溜まっていくでしょう。  https://youtu.be/g6e8Ga8sjps?si=o7znDZ7UDVLgPfMP

마가복음 묵상 【그 날을 대비하라】 20240210(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 13:28-37 13:28 무화과나무의 비유를 배우라 그 가지가 연하여지고 잎사귀를 내면 여름이 가까운 줄 아나니 13:29 이와 같이 너희가 이런 일이 일어나는 것을 보거든 인자가 가까이 곧 문 앞에 이른 줄 알라 13:30 내가 진실로 너희에게 말하노니 이 세대가 지나가기 전에 이 일이 다 일어나리라 13:31 천지는 없어지겠으나 내 말은 없어지지 아니하리라 13:32 그러나 그 날과 그 때는 아무도 모르나니…

マルコの福音書 黙想 【最大の苦難の日】 20240209(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 13:14-27 13:14 『荒らす忌まわしいもの』が、立ってはならない所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。 13:15 屋上にいる人は、家から何かを持ち出そうと、下に降りたり、中に入ったりしてはいけません。 13:16 畑にいる人は、上着を取りに戻ってはいけません。 13:17 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。 13:18 このことが冬に起こらないように祈りなさい。 13:19 それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。 13:20 もし主が、その日数を少なくしてくださらなかったら、一人も救われないでしょう。しかし、主は、ご自分が選んだ人たちのために、その日数を少なくしてくださいました。 13:21 そのときに、だれかが、『ご覧なさい。ここにキリストがいる』とか、『あそこにいる』とか言っても、信じてはいけません。 13:22 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。 13:23 あなたがたは、気をつけていなさい。わたしは、すべてのことを前もって話しました。 13:24 しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、 13:25 星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。 13:26 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。 13:27 そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。  世の中には様々な事件が絶えず起きています。 最近起きている戦争、疫病、災難など多くの苦難が人々を苦しめ、命を奪っていることはニュースやインターネットの常連客になっています。    テレビや携帯の画面の向こうから伝わるそのような苦難のニュースは、その苦みと恐れがどれほど大きいかを私たちに少しでも伝われています。画面の向こう側から伝わる少しの感情でも、私たちは恐れを感じたり、彼らを同情したりします。時には私たちの事ではないため、少しは安心してしまうこともあるでしょう。    今の苦難たちは、私たちにとってはあまり心に響かないかもしれません。一部の地域で、一部の人々だけがその苦みの時を過ごしているからです。しかし、今日の箇所では、世界中のすべての人々に至る最大の苦難の時について預言しています。    この苦難の時はなんと、イエス·キリストの再臨です。私たちはよく「私たちの主よ、来てください。」という意味を持っている「マラナタ」という言葉を持って私たちの信仰を告白したりしています。私たちは自らその苦難の時を求めているのです。    もしかしたら私たちは画面の向こう側にいる人々の苦みには同情し、彼らを助けたいと思いながらも、実際に私たちの隣にいる人々に至る苦みは見ないふりをしているのかもしれません。私たちの「マラナタ」という祈り、その告白が隣にいる人にとってはどのような意味を持つのか忘れているのかも知れません。    去年のクリスマスには、貧しい状況に置かれているベトナムの子供たちにプレゼントを送りました。また、来週からは能登半島の地震被害支援も始めます。当然に、私たちが送るものは単なる物質だけではありません。彼らがこのような苦難の中で助けてくださるイエス様を知ることを願い、今の苦難での救いと共に近づいてくる最大の苦難の中でも救われるように私たちの心と物質を共に送る、非常に意味深い活動です。しかし、私たちの周りの人々を忘れてはいませんか?    クリスチャンは今を生きていきながらも、これからのことを考える人です。世の中で言われる人生計画、計画的な人ではなく、「すでに、しかし、まだ」という言葉のように神様の計画がそのままなされるという確信を持って今を生きていく人々です。だからこそ、私たちは目の前に見える現実だけを見てはいけません。    今、苦難の中にいる人々の苦しみ、その苦みとは比べにもならない苦しみを私たちの周りの人々に至るかもしれません。そして、彼らを呼び集め、守るためにイエス様が私たちを今ここに呼んだのです。彼らを主の懐に導くこと、来るべき苦難の中でイエスという唯一の救いとなる道を知らせることが私たちの役割です。    私たちは、今苦しんでいる者たちに目を閉じてはいけません。私たちは彼らに完全な慰めを与える方を知っていて、伝えることができるからです。同じく、これから苦みを受ける者たちから目を閉じてもいけません。彼らをその苦難の中から救い出せる唯一の方を私たちが知っていて、伝えることができるからです。  https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=tsSlg7qZlJJqRr1O

마가복음 묵상 【가장 큰 환난】 20240209(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 13:14-27 13:14 멸망의 가증한 것이 서지 못할 곳에 선 것을 보거든 (읽는 자는 깨달을진저) 그 때에 유대에 있는 자들은 산으로 도망할지어다 13:15 지붕 위에 있는 자는 내려가지도 말고 집에 있는 무엇을 가지러 들어가지도 말며 13:16 밭에 있는 자는 겉옷을 가지러 뒤로 돌이키지 말지어다 13:17 그 날에는 아이 밴 자들과 젖먹이는 자들에게 화가 있으리로다 13:18 이 일이 겨울에 일어나지 않도록…

マルコの福音書 黙想 【エルサレム、エルサレム】 20240208(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 13:1~1313:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。13:4 「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。」13:5 それで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。13:7 また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。13:9 あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです。13:10 まず福音が、すべての民族に宣べ伝えられなければなりません。13:11 人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。13:12 また、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。   イエス様の時代にヘロデ王の神殿は、ユダヤ人ではなかったユダヤの領主、すなわちローマが遣わしたロデが、ユダヤ統治のために建てた神殿です。この神殿はイエス様が生まれる20年前に着工され、イエス様の時にも建て続けられ、イエス様の以後にもさらに30年間を工事してAD63年に完工された神殿です。ところが、完成してから7年が経ったAD70年にローマによって完全に破壊されてしまいます。ユダヤが独立戦争を起こしたからであります。ユダヤはローマの支配に抵抗して独立戦争を起こし、ローマの将軍ティトゥスは5つの軍団、8万の兵力を率いてきてユダヤを囲み、エルサレムと神殿を焦土化させてしまいました。当時は戦争がなかった、いわゆるローマによる平和の時代、パックス·ロマーナ(Pax Romana、ローマの平和)と呼ばれていた時代でした。しかし、それは支配者の平和であり、抵抗せずに素直に支配されるものに何事も起こらない意味の平和であって、抵抗したユダヤ人にとっては、ローマの暴力によって110万人が死に、10万人は奴隷になりました。これによってユダヤという国は空中分解され、地球上から消え去ります。   今日の本文3節では「イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、」となっていますが、オリーブ山は、約30年後にエルサレムを破壊していたローマ軍団の駐屯基地となるのです。イエス様はその場でエルサレムの滅亡を予言していました。そういえば656年前、バビロニアがゼデキヤ王の前で王子たちを殺し、王の両目をえぐり出して連れていた時を思い起こします。共通点は、ちゃんと信じていると勘違いながら、まったく聞こうとしなかった絶望のことです。大切なポイントは、信じないのではなく、信じると勘違いしたというところです。それを生み出すのは信仰ではなく、宗教です。人間は82年間建てた立派で雄大で神殿を誇りと思いましたが、いざ神様は人間の誇りである神殿を7年ぶりに壊されました。それ以来、今まで世界に神殿というものは存在しません。イエス様が建てられたのは、教会と礼拝堂です。当代の歴史家フィロストラトスによると、エルサレムを灰にしたティトゥスはローマに戻って勝利の花冠を受けなかったそうです。自分はただ神の怒りの道具だったと言ったとのことです。AD70年に滅び、第二次世界大戦後、AD1948年に再建されたイスラエルは今も戦争中です。彼らにはイエス·キリストがいないので、3400年前のカナン征服時代に戻ろうとしているのです。信仰があればあるほど、多くの隣人がなくなります。その地にパックス·クリスティ(Pax Christi イエスの平和)があることを祈ります。   ソロモンが建てた神殿ではなく、ゼルバベルが建てた神殿でもなく、異邦人エドム族のヘロデが政略的に建てた神殿を偶像のように仕えていたユダヤは、自分たちの宗教が崩れて粉々になることを目撃しました。バビロニアに滅ぼされた時代もそうでした。ソロモンの神殿が奪われ、壊されることを目撃しました。終末、最後の時というのはイエス様が初めて来られた時(初臨)から再び来られる時(再臨)の間です。私たちは今、最後の時、終末の時代を生きているのです。ということで、イエス様はこの時だ、あの時だ、こっちだ、あっちだということにだまされて群がってはならないと言われました。与えられた人生を感謝しなければならず、神様の御言葉を聞かなければなりません。それだけが生きる道です。信じたいことを信じるのではなく、自分を徹底に壊すことによって、信じるべきことが何なのか見えてきます。さばきを恐れ、イエス·キリストの福音にたより、救いを求めなければなりません。それが終末の時代を生きる聖徒の安全です。最後にマタイの福音書が語るイエス様の訴えを読みたいと思います。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。23:37、38」

마가복음 묵상 【예루살렘아 예루살렘아】 20240208(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 13:1~1313:1 예수께서 성전에서 나가실 때에 제자 중 하나가 가로되 선생님이여 보소서 이 돌들이 어떠하며 이 건물들이 어떠하니이까13:2 예수께서 이르시되 네가 이 큰 건물들을 보느냐 돌 하나도 돌 위에 남지 않고 다 무너뜨려지리라 하시니라13:3 예수께서 감람산에서 성전을 마주 대하여 앉으셨을 때에 베드로와 야고보와 요한과 안드레가 종용히 묻자오되13:4 우리에게 이르소서 어느 때에 이런 일이 있겠사오며 이…