ルカの福音書 黙想 【パラダイスに入った泥棒】 20240328(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書 23:33~43 23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。 23:35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」 23:36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、 23:37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。 23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。 23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」 23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 福音書はイエス様の苦痛と凄惨さの描写より周辺で起きることをより重点的に扱っています。二人の犯罪人の話も周辺の状況を描写しようとする目的ではなく、それ自体でメッセージを持って十字架を説明しているのです。イエス様の苦難についてはドライに記述されていますが、イエス様はすでに十字架にかけられました。イエス様と一緒に二人が十字架刑を受けました。そのうちの一人は最後までイエス様のことを非難し、侮辱しましたが、もう一人はイエス様を擁護してイエス様に救いを要請しました。二人の犯罪人の会話を見ると、救いと滅亡の違いが分かります。救われた罪人は自分の罪に気づいたので、イエス様に救いを求めることができました。他の罪人は自分のことが知らないので、イエス様を認められませんでした。人々がイエス様に対する説明が足りないから信じないのではありません。自分が誰なのかわからないので、信じられないのです。自分が誰であるかを知っているなら、信じずにはいられません。イエス様は悔い改めた罪人に「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束されました。   旧約の礼拝では供え物が必要でした。心で悔い改めたと言っても、礼拝することはできません。贖いのささげもの血を流さなければなりませんでした。「心が重要であって、形式が重要ではない」という言葉はいつもありますが、心というのはそれを丁寧に遂行することを通じて証明されるものです。罪人は自身の罪を供え物に転嫁しなければならず、その供え物が苦痛に遭い、血を流してこそ神様の前に出ることができます。慈悲深い神様の前に進む時も、罪はすなわち死という原則は一度も変わったことはありません。イエス様は過越しの子羊です。十字架にかかって血を流しています。この血流しによって神様に出られた救いの1号が右の罪人です。イエス様の手を握ってその川を初めて渡った人は死刑にされた罪人です。 彼は過越しの災いを乗り越えた救いの最初の人です。イエス様の血が最も熱い時、その血で救われました。大祭司は年に一度だけ至聖所に入ることができます。イエス様が十字架の上で息を引き取り、聖所の幕が破れた時、私たちの大祭司長であり、唯一の贖いのささげものであるイエス·キリストの血潮に頼って右の罪人はその中に入ることができたのです。 そこがイエス様が約束され、成就されたにパラダイスです。   イエス様はバプテスト・ヨハネが女性が産んだ者の中で最も偉大な人であると絶賛されましたが、天国では最も小さな人であると言われました。天国に優秀な人材が多くてバプテスト・ヨハネの序列が押されるわけではありません。天国というところはイエス様の血によって救われた聖徒たちの国であり、罪人は十字架の血に支えられ、救われた人だからであって、バプテスト・ヨハネはそれを準備するために来た人だからです。罪人に功労はありません。むしろ罪の責任しかないです。ところが、イエス様が背負った十字架に乗って天国に行きまし。だから功労はただイエス様の十字架にあります。救いは敬虔から始まるのではなく、自分の罪を認めることから始まります。敬虔な人、情熱的な人だから救われるのではありません。罪人だから救われることであります。唯一の贖いのささげものであるイエス·キリストの十字架の血のこぼれがあるからこそ救われるのです。苦難週に覚えるべき苦しみは、自分の罪を認めて吐き出す苦しみです。それがパラダイスに行く資格です。

ルカの福音書 黙想 【十字架を促す】 20240327(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書 23:13~25 23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、 23:14 こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。 23:15 ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。 23:16 だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」 23:18 しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」 23:19 バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。 23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。 23:21 しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。 23:22 ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」 23:23 けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。 23:24 それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。 23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。 ピラトはイエス様を取り調べた後、イエス様に罪がないと判断しました。しかし、祭司長とユダヤ宗教に動かされる人々は、頑としてイエスを殺さなければならないとし、ピラトに政治的な圧力をかけました。私たちはダヤ人がイエス様を政治的英雄として期待していたこと、そして政治の世界では裏切りというのは不思議なことではないということを知っています。それゆえ、人々はイエス様を十字架につけろと叫んでいます。ピラトは無罪と有罪を知らないわけではありませんが、彼は政治的な影響を重要視せざるを得ません。そのためか、彼の態度は一貫して優柔不断です。ピラトは一歩譲って過越しの祭りに囚人1人を特別釈放する慣例でイエス様を釈放しようとしましたが、怒った群衆はイエス様を十字架につけて殺し、バラバを釈放するようにと一層大声で叫んでいます。   ここでも私たちの黙想のテーマは、ピラトの無責任や群衆の狂気に対する非難ではありません。もちろん社会的で道徳的な意味でピラトを擁護することができず、罪のないイエス様を殺せと叫んでいる群衆を理解することもできません。しかし、これにも霊的な意味を重ねて解釈する必要があります。もしピラトがユダヤ社会の騒擾という政治的リスクを冒してまでイエス様の無罪に貫徹するならば十字架の道は阻まれてしまうでしょう。ピラトがイエス様の行為に罪がないと判断したのは真実ですが、霊的な意味では十字架につけられる人間イエスの存在の中にはすべての罪人によって転嫁された罪があります。したがって十字架の前に立った人間イエスの肉体は罪に染まっています。十字架につけろと大声を叫んでいる人たちは姦悪で愚かな人々であることが真実ですが、ここにも霊的な意味を重ねてみると、彼らは今声を限りに神様のみこころである十字架の完成を促しているのです。   十字架は父なる神様のみこころです。神様はすべてを用いてイエス様を十字架の前に引きずっておられます。逆説的ですが、十字架は、善良な人々が集まって行われるものではありません。道徳的判断の中で行われることでもありません。卑怯で暴悪なものの偽善と貪欲と偽りの動機がそれぞれのパズルになって十字架を引っ張っています。十字架は敬虔な人によってなされるべきではありませんか?いいえ、違います。本来、十字架の目的が偽りで、悪人を救うためです。神様が十字架を通して救おうとされる対象は善良な人々ではありません。イエス様は罪人を呼ぶために来られました。十字架から遠く離れて歩いたヨハネの心に共感しました。イエス様の受難はクライマックスに向かってもう一歩近づきました。ヨハネは遠いところでただイエス様の苦しみが早く終わることを眺めているだけです。苦難週に十字架の苦しみを黙想すると言いますが、苦しみは私のものではありません。キリストが私の代わりに苦しまれました。私が受けたのは苦しみではなく救いです。苦しみではなく救いの恵みをさらに覚えます。

누가복음 묵상 【저희가 큰 소리로 재촉하여】 20240327(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 23:13~25 23:13 빌라도가 대제사장들과 관원들과 백성을 불러 모으고 23:14 이르되 너희가 이 사람을 백성을 미혹하는자라 하여 내게 끌어 왔도다 보라 내가 너희 앞에서 사실하였으되 너희의 고소하는일에 대하여 이 사람에게서 죄를 찾지 못하였고 23:15 헤롯이 또한 그렇게 하여 저를 우리에게 도로 보내었도다 보라 저의 행한 것은 죽일 일이 없느니라 23:16 그러므로 때려서 놓겠노라 23:17 (없…

ルカの福音書 黙想 【父の願い】 20240326(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書 22:39~53 22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。 22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。 22:41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。 22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」 22:43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕 22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 22:46 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」 22:47 イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。 22:48 しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」 22:49 イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 22:50 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。 22:51 するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。 22:52 それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。 22:53 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」 十字架の陰が垂れ下がる時、イエス様はオリーブ山の暗いゲッセマネで祈りました。極度の恐怖と不安の中でささげられた切なる祈りでした。弟子たちにとりなしの祈りを頼み、油を搾るように祈り、汗が血になって落ちるようにまで祈りました。必死の祈りです。近づいている十字架の恐怖に耐えられなかったので、助けを求める祈りでした。そこでイエス様は「この杯をわたしから取り去ってください」と祈りました。しかし、条件がついています。祈りは請願することで終わらず、神様のみこころを尋ね、探り、それに従うことで完成するからです。イエス様は避けられることなら避けたいと祈りを始めましたが、ついに「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈りを終えました。神様はこの祈りを聞き、神様のみこころ通りにされました。恐怖に怯えて助けを哀願する息子の願いを聞き入れられない父の願いというのは何でしょうか?一人息子を屠殺場の牛のように屠って成し遂げなければならない父の願いというのは一体何ということでしょうか? 人間は、自分の意志によって神様への愛を増やせることはできません。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10」 信仰の大きさは神様の愛に気づく大きさです。息子を死に追いやってのは、私を救うためです。その愛でなければ何ことを持っても説明できません。母が子どものために献身できるのは、犠牲の大きさよりも愛の大きさが大きいからです。 なので犠牲はできます。何かに犠牲することができれば、それには犠牲するような価値、目的があるからです。神の御子が十字架で苦痛を受け、死ななければならなかった犠牲は、父なる神様の願いを叶えなければならない目的があるからです。その目的というのは私を愛すること、父の願いというのは私を救うことです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。Ⅰヨハネ4:9」苦難週に私たちが黙想しなければならないことは「どれほど痛かっただろうか」ではないでしょう。その苦痛はどんなに努力しても共感できるものではありません。まことに考えなければならないのは「どれだけ愛したのか」です。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。ヨハネ13:1」十字架は死ぬまで愛し、最後まで愛した証しです。

누가복음 묵상 【아버지의 소원】 20240326(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 22:39~53 22:39 예수께서 나가사 습관을 좇아 감람산에 가시매 제자들도 좇았더니 22:40 그곳에 이르러 저희에게 이르시되 시험에 들지 않기를 기도하라 하시고 22:41 저희를 떠나 돌 던질만큼 가서 무릎을 꿇고 기도하여 22:42 가라사대 아버지여 만일 아버지의 뜻이어든 이 잔을 내게서 옮기시옵소서 그러나 내 원대로 마옵시고 아버지의 원대로 되기를 원하나이다 하시니 22:43 사자가 하늘로부터 예수께 나타나 힘을…

ルカの福音書 黙想 【過ぎ越しの子羊】 20240324(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカの福音書 22:1~13 22:1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。 22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。 22:3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。 22:4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。 22:5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。 22:6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。 22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。 22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。 22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、 22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。 22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。 22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」 22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。 イエス様と弟子たちは過越しの祭りを迎えました。過越しの祭りには必ず子羊が必要です。出エジプトの時からそれを屠って礼拝し、皆でそれに分けて食べなければなりません。当時まで誰も気づきませんでしたが、その羊というのはイエス様ご自身です。まるでモリヤ山でアブラハムが礼拝する時、イサクが贖いの羊が必要にならなければならなかったように、2千年前のエルサレムの過越しの子羊はイエス·キリストご自身です。ただ、イサクとイエス様が違うのは、アブラハムの時にはイサクの代わりに神様のご用意されました羊にささげ物を変えることができましたが、イエス様はイサクのようには救わることはでできないということです。イエス様自身が血を流すささげものにならなければならないからです。   イエス様が十字架にかかった時、人々はイエス様を嘲笑いました。「祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。他人は救ったが、自分は救えない。マルコ15:31」十字架の物語の中には人間の悪い意図の言葉が神様のご計画を表わす重意的表現になることがあります。ヨハネ福音書11章にある「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。50」は大祭司がイエス様を殺すために言った言葉ですが、結果的に多くの人を救うためにイエス様が死ななければならないという神様のご計画について話したことにもなります。そこで「他人は救ったが、自分は救えないということも重意的表現であってある意味では事実です。十字架は多くの人々を救うことになりますが、それを成就するためにイエス様は十字架の苦しみから救われることはできないからです。   イエス様の十字架は、罪からくる結果であり、呪いであり、懲罰であることは確かです。イエス様ご自身の罪ではありませんが、イエス様が十字架の使命に聞き従った時からはもうすでに贖いのささげものになるからです。十字架の死の恐怖と苦痛が始まったということは、イエス様の体にすでにすべての罪が入ったということです。罪の報酬は死です。血を流さなければ、罪ゆるしはありません。ですから、その罪のかたまりは必ず死ななければなりません。イエス様が贖いのためのささげものになった以上、その責任を負わなければなりません。礼拝者は贖いのささげものに自分の罪を転嫁することができますが、ささげものはこれ以上転嫁する対象がありません。死ななければありません。人間が自分の血を流さないためには、もっぱらイエス·キリストの血潮の中にとどまらなければなりません。苦難週にこれが告白できなければイースターを迎えることはできないでしょう。   イエス様は過越しの祭りをを過ごすために弟子たちと一緒に居所を準備しておられました。それと同時に祭司長、律法学者たちはイエス様を殺す準備をしていました。そしてイスカリオテ・ユダは彼らと内通してイエス様を売る準備をしていました。それぞれ自分のことを準備をしており、それは十字架を推進している神様の準備に統合的に結ばれます。ここで誤解一つを正さなければなりません。この本文を読む私たちの感情というのは、イエス様を殺そうとする人々の陰謀に対する驚愕や、イエス様を売ろうとするイスカリオテ・ユダの裏切りに対する怒りではありません。彼らを非難することと、自分は彼らのようにしないと誓う教訓的適用が、十字架の黙想の結果になってはいけません。十字架を考える私たちは「人間がどのように行動するのか」という教訓ではなく、「神様がどのようにされたのか」という福音を捜し出さなければなりません。   救われたものが考えるイエス様の十字架の理由というのは、自分の罪でなければなりません。神様の救いの物語は、このように厳粛で断固として悠々と流れています。十字架の背景に登場する人間は少しも特別なことはありません。常に憎み、常に謀略し、絶えず裏切り、お互いを殺し合い、自分の利益を求めて騙し合う、今の私たちと少しも変わりません。ただ子羊イエス·キリストが黙々とそのような人間の贖いのために屠り場に連れられているだけです。私の目にはこの十字架の話しの中でイエス様を売るイスカリオテ・ユダとイエス様を殺そうとする大祭司と律法学者たちは見えません。ただ私を救うための神様の救いの御心と、それに従い、十字架に上る子羊イエス・キリスト以外は何も見えません。  

누가복음 묵상 【유월절 어린양】 20240325(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 22:1~13 22:1 유월절이라 하는 무교절이 가까우매 22:2 대제사장들과 서기관들이 예수를 무슨 방책으로 죽일꼬 연구하니 이는 저희가 백성을 두려워함이더라 22:3 열 둘 중에 하나인 가룟인이라 부르는 유다에게 사단이 들어가니 22:4 이에 유다가 대제사장들과 군관들에게 가서 예수를 넘겨 줄 방책을 의논하매 22:5 저희가 기뻐하여 돈을 주기로 언약하는지라 22:6 유다가 허락하고 예수를 무리가 없을 때에 넘겨 줄…

詩篇 黙想 【耳の聞こえないコブラ】 20240321(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 58:1~11 58:1 力ある者たちよおまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。 58:2 実におまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。 58:3 悪しき者どもは母の胎を出たときから踏み迷い偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。 58:4 彼らには蛇の毒のような毒がある。耳の聞こえないコブラのように耳を閉ざし 58:5 蛇使いの声も聞こうとしない。巧みに呪文を唱える者の声も。 58:6 神よ彼らの歯をその口の中で折ってください。主よ若獅子たちの牙を打ち砕いてください。 58:7 彼らが流れ行く水のように消え去り神が矢を放たれるとき干上がりますように。 58:8 彼らが溶けて消え行くなめくじのように日の目を見ない死産の子のようになりますように。 58:9 おまえたちの釜が茨の火を感じる前に神はそれが緑のままでも燃えていても等しく吹き払われる。 58:10 正しい人は復讐を見て喜びその足を悪しき者の血で洗う。 58:11 こうして人は言う。「まことに正しい人には報いがある。まことにさばく神が地におられる。」 ダビデの詩的修辞が面白いです。悪人に対して「若若獅子たちの牙」と言い、それは打ち砕かれます。悪人は「流れ行く水のように消え去り」と、「矢を放たれるとき干上がります」と義憤をあらわにしました。続いてダビデの修辞は「溶けて消え行くなめくじ」とも言いました。また「蛇の毒」と言い、それさえも人の言うことを聞かないので「耳の聞こえないコブラ」と言いました。耳の聞こえないコブラは、蛇使いが笛を吹いても踊りません。聴けないですから。耳を閉じて壺の中に閉じ込められている人々がいます。しばらくはかわいそうと思いますがが、すぐに離れなければなりません。そこからは必ず怖いものが飛び出してくるだからです。長い間開けていない箱の中に入っているもの、水たまりの下に沈んでいるものはすべて悪臭がして恐ろしいものです。閉じ込められ、溜まった場所から出てくるのはいつもそうです。   イエス様がバプテスマ・ヨハネの弟子たちと話された時「この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』マタイ11:16、17」とのことでした。これを話をされた経緯は、人々がバプテスマ・ヨハネが伝えることばも聞かず、イエス様の教えも聞こうとしなかったという話です。「踊らないこと」と「胸をたたいて悲しまないこと」について言われたのではなく「どうしても聞こうとしないこと」について言われたのです。笛を吹けば蛇が出て踊らなければならないだろうし、人が悲しくて泣いていると共感をしようが慰めようがしなければならないのに、当時の宗教は聴覚だけでなくすべての知覚が乾いてねじれていたからです。まさに耳の聞こえないコブラでした。 それでイエス様の訴えは常に「耳ある者は聞きなさい」でした。   宗教が閉鎖的に流れる理由は、本来の目的を失い、伝統という名で慣習化されるからであって、制度宗教が階級化され、いわゆる既得権が生まれるからです。韓国教会には量的拡張の機会だけでなく、成熟して成長できる神学的で社会的な機会がありました。しかし、多様性を受け入れるよりも、人々が押し寄せる集中力の誘惑の方が大きかったでしょう。自分が受け入れたものと違うからといって、必ずしも間違っているわけではありません。他のことに対して間違っているからといって、必ずしも自分のことが正当化されるわけでもありません。神学をしても教会に入ると、教会が設定したある時点にタイムスリップをしなければなりませんでした。その結果が、今日の偏狭な教会の頑固な非知性主義です。知ろうとせずに信じればいいと叫んでいる間に、知的分別のある人々と若者たちは教会を去りました。閉鎖的な宗教の壺の中には、あらゆる不正や腐敗が蔓延しました。   信者たちは主体的に知っていくことについて学ぶことができず、訓練と養育という名前で動員され、集団利己的で、非知性で、社会から信頼を受けない宗教を作ってきました。「力ある者たちよおまえたちは本当に義を語り人の子らを公正にさばくことができるのか。実におまえたちは心で不正を働き地で手の暴虐をはびこらせている。58:1、2」 ダビデは真理を言わなければならない時に沈黙し、良心と正直を裏切る悪者を耳の聞こえないコブラだと規定しました。自分で耳をふさいで耳が聞こえなくなってしまったコブラは、蛇使いが笛を吹いても踊りません。イエス様が訴えても聞きません。かえって十字架に釘つけて殺しました。壺の中にとぐろを巻いて座った耳の聞こえないコブラ、溶けて消え行くなめくじにならないためには自分の論理から抜け出し、力を尽くして耳を開き、聞かなければならず、その誤解と欺瞞を破って出てこなければなりません。  

시편 묵상 【귀머거리 독사】 202403121(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 58:1~1158:1 인자들아 너희가 당연히 공의를 말하겠거늘 어찌 잠잠하느뇨 너희가 정직히 판단하느뇨58:2 오히려 너희가 중심에 악을 행하며 땅에서 너희 손의 강포를 달아주는도다58:3 악인은 모태에서부터 멀어졌음이여 나면서부터 곁길로 나아가 거짓을 말하는도다58:4 저희의 독은 뱀의 독 같으며 저희는 귀를 막은 귀머거리 독사같으니58:5 곧 술사가 아무리 공교한 방술을 행할지라도 그 소리를 듣지 아니하는 독사로다58:6 하나님이여 저희 입에서 이를…

詩篇 黙想 【私は国々の民の間で】 20240320(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 57:1~11 57:1 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。私は滅びが過ぎ去るまで御翼の陰に身を避けます。 57:2 私はいと高き方神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。 57:3 神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。セラ神は恵みとまことを送ってくださいます。 57:4 私のたましいは獅子たちの間で人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢彼らの舌は鋭い剣です。 57:5 神よあなたが天であなたの栄光が全世界であがめられますように。 57:6 彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。私のたましいはうなだれています。彼らは私の前に穴を掘り自分でその中に落ちました。セラ 57:7 神よ私の心は揺るぎません。私の心は揺るぎません。私は歌いほめ歌います。 57:8 私のたましいよ目を覚ませ。琴よ竪琴よ目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。 57:9 主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。 57:10 あなたの恵みは大きく天にまで及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。 57:11 神よあなたが天であなたの栄光が全地であがめられますように。 57編は人間が置かれた悲惨さを嘆くことから始まり、神様の栄光を称えることで終わります。この詩はダビデがサウルを避けて敵国であるペリシテに逃げ、ペリシテ王の前でよだれを垂らしながら狂ったふりをして生き返った後に書いた詩です。ダビデは生きるということが何なのか悩んだはずです。底をつき自尊感など残っていない時、ダビデは神様の栄光を歌いました。つらい状況にもかかわらず神様の栄光を賛美したのではなく、底で悲惨を経験する時に、見つかる神様の栄光が真の慰めになるからです。神様が人間ではなく神様であるということ、それが慰めであり喜びになるのです。   カルバンは、人間が喪失と回復の過程、自分自身と世の中の関係を通じて神様を知っていくことができると言いました。人間が自分の限界と存在の悲惨さに気付くとき、神様の懐の大きさを知ることができます。それで人間の自己認識は神様の存在と属性に対する知識を拡張させます。カルバンはキリスト教綱要を始めながらこれを一番最初に書きました。神様を知る知識と人間を知る知識は互いに深く関連していて、自分の認識と神様の認識は相互補完的なもので、互いに影響を及ぼし合います。自分自身を理解する時、神様を知ることができ、御言葉を通じて神様を知っていく時、自分が誰なのか分かります。   7節の「心は揺るぎません」は、自分の卑下を避けて通れない一人の悲惨な人間が、生と信仰の意志をもう一度固めているもので、8節の「私は暁を呼び覚まそう」は、夜明けがダビデを起こすのではなく、ダビデが闇の中で夜明けを起こすという先駆者的意志です。すべての人間のすべての苦難と逆境は、栄光の神様の中で揺るがない、呼び覚ますことができます。自分を知る知識では不可能ですが、神様を知る知識の中では可能です。「主よ私は国々の民の間であなたに感謝しもろもろの国民の間であなたをほめ歌います。9」国々の民が世に集中していても、私は主の栄光を賛美しますということでしょう。ダビデは悲惨な時間に神様の栄光の前で賛美と安息を楽しんでいます。