Ⅱペテロ 黙想 【誰が偽教師なのか】 20240613(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱペテロ 2:1~112:1 しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。2:2 また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。2:3 とはありません。彼らは貪欲で、うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは昔から怠りなく行われていて、彼らの滅びが遅くなるこ2:4 神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。2:5 また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。2:7 そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。2:8 この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。2:9 主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。2:10 特に、汚れた欲望のまま肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対して、主はそうされます。この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。2:11 御使いたちは勢いも力も彼らにまさっているのに、主の御前で彼らをそしって訴えたりしません。   初代教会の指導者たちは、新約聖書がまだ形成されていない状態で、旧約聖書、イエス様の教え、使徒たちの伝承、そして初期キリスト教共同体の体験と実践に基づいて、キリストの福音と教会について教えていました。使徒ペテロが使徒職の権威を強調したことも、自分のリーダーシップを擁護するためではなく、教えの根拠を明確にするためでした。   「教える」ということの意味は、単に情報や事実を提供するだけでなく、その知識に基づいた価値観や行動様式を教育することです。知識は大切なことですが、それがどのように人生に影響を与えるかについての方向性を提供することがさらに大切なことです。したがって、教師は情報を伝える際、その情報の文脈と価値観、倫理的基準を共に教える必要があります。   教会の教師の役割は、自分の考えや言葉ではなく、神様の御言葉を教えます。情報の源は聖書でなければならず、教師は聖書を帰納的に理解して教えなければなりません。つまり、教えたいことのために聖書を引用するのではなく、聖書を通して教えられたことを教えなければなりません。これが真の教師と偽の教師を区別する重要な基準となります。聞かずに教える教師が真の教師であるはずがないからです。   ペテロによって断罪されている偽教師は、教えたいことをもうすでに決めておき、利権のために構成員を教える人です。このような偽教師は、対立と貪欲を引き起こし、不正と腐敗を正当化するために、ひたすら間違ったことを教えます。罪を犯しても恥じることのない牧師がいるかと思えば、それを擁護する人々もいます。それは神様の御言葉ではなく、人間の言葉によって教育されたものです。   騙されることの最終的な責任は、嘘をついた人にあるのではなく、自分の魂を管理できなかった人にあります。この時代にも偽物は存在し、偽物は自分の責任を負うでしょうが、その時代の責任は偽物を許容した教会にあります。滅びゆく世の中で欺かれなかった人が救われた聖徒です。偽物に欺かれたからといって、本物ではありません。偽物に欺かれただけです。欺かれないためには、人に従うのではなく、神様の御言葉に従って分別する聖徒になるべきです。神様と私の間に必ずなくてはならないものは牧師ではなく御言葉です。  

베드로후서 묵상 【누가 거짓 선생인가】 20240613(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로후서 2:1~112:1 그러나 민간에 또한 거짓 선지자들이 일어났었나니 이와 같이 너희 중에도 거짓 선생들이 있으리라 저희는 멸망케 할 이단을 가만히 끌어들여 자기들을 사신 주를 부인하고 임박한 멸망을 스스로 취하는 자들이라2:2 여럿이 저희 호색하는 것을 좇으리니 이로 인하여 진리의 도가 훼방을 받을 것이요2:3 저희가 탐심을 인하여 지은 말을 가지고 너희로 이를 삼으니 저희 심판은 옛적부터 지체하지…

Ⅱペテロ 黙想 【思い起こさせ、奮い立たせる】 20240611(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱペテロ 1:12~211:12 ですから、あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです。1:13 それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。1:14 私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。1:15 ですから、ぜひとも、私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。1:16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。1:17 この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」1:18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。1:19 また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。1:20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。1:21 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。   誰でも自分が持っているものをもって他の人に伝えることができます。自分が知らないことを教えようとしてもそれには力がありません。伝道しなければならないとわかっていても、福音を知らなければ伝道することはできないでしょう。伝道は宗教活動ではなく、自分の人生と信仰の理由を語る機会です。ペテロも自分が持っているものがあるからこそ教えることができます。そしてペテロは自分が知っていることを伝えずにはいられません。   ペテロはマタイの福音書17章の変貌山でイエス様の栄光を見たことがあります。その時、ペテロはその栄光に心を奪われ、モーセとエリヤとイエス様のために幕屋を建てて自分もそこに住みたいと願いました。しかし後に、地上に家を建てて生きることが人生の目的ではないことに気づかされます。変貌山で幕屋を建てて住むのではなく、体という幕屋を脱ぎ、その後に来るものを望み、期待しながら生きることを悟ります。   ペテロは聖霊が降臨した後にこれを理解しました。聖霊は目的と本質を理解させてくださる方です。地上に執着させる力ではなく、人生の意味を省察させる力です。神様の聖霊が降臨して自分が思い出し、理解したように、聖徒らにも思い出させ、理解させたいのです。信仰の目的が肉体の生活にあるわけではないことを思い起こし、理解するようにしなければなりません。   「預言は勝手に解釈するものではないこと」と言ったのは、聖書の言葉を解釈してはならないという意味ではなく、偽教師たちが自分たちの利益のために、肉体のための機会として恣意的に解釈することに騙されてはならないということです。それが地上のことだからです。地に心を置いている人は、地上の生活のために偽教師のことがより大きく聞こえてきます。   利益を追い求める宗教は歪んだ解釈をするでしょうし、人を崇拝する宗教はそれに簡単に騙されるでしょう。しかし、言葉を通してイエス・キリストに従う人々は、聖霊による解釈をします。目を上げて霊を見なければ、神の霊の言葉を解釈することはできません。そのような人々は地上のものに騙されません。聖霊が御言葉を教え、思い出させ、導いてくださって、その言葉によって解釈され、理解され、実践を行うことを願います。  

베드로후서 묵상 【일깨워 생각하게 함】 20240612(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로후서 1:12~211:12 이러므로 너희가 이것을 알고 이미 있는 진리에 섰으나 내가 항상 너희로 생각하게 하려 하노라1:13 내가 이 장막에 있을 동안에 너희를 일깨워 생각하게 함이 옳은줄로 여기노니1:14 이는 우리 주 예수 그리스도께서 내게 지시하신 것같이 나도 이 장막을 벗어날 것이 임박한 줄을 앎이라1:15 내가 힘써 너희로 하여금 나의 떠난 후에라도 필요할 때는 이런 것을 생각나게…

Ⅱペテロ 黙想 【神と、私たちの主イエスを知ることによって】 20240611(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱペテロ 1:1~111:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。1:2 神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。1:3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。1:4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。1:5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。1:9 これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。1:10 ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。1:11 このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。   ペテロの第二の手紙は、第一の手紙から数年後に送られた手紙です。第一の手紙がネロの迫害の危機の中で送られた手紙であるなら、第二の手紙はその迫害が深刻化し、ペテロの殉教が近づいている時点で書かれました。ペテロもパウロもネロの時代に命を落としました。教会は政治的な危機だけでなく、偽教師による宗教的な混乱が増しており、内部的にはすぐに来ると信じて待っていたキリストが来ないために動揺する人々がいました。こうした様々な心配がペテロに再び手紙を書かせる動機となりました。そのためか、ペテロは手紙の冒頭から「知識」について繰り返し強調しています。3節では「神を私たちが知ったことにより」、5節では「信仰には徳を、徳には知識を」、8節では「私たちの主イエス・キリストを知る」と述べ、9節では「知らないなら盲目で近視眼である」と言っています。これは小さなことは見えるが、広く見ることができない無知を警戒しているのです。このような人は断片的な論理に簡単に騙されます。   騙される人は、まず騙そうとする人から何らかの知識を得たのでしょう。話が通じなければ信じなかったでしょう。聞くに値し、信じるに値したのでしょう。説得力があったから受け入れたのです。何事も、それだけを取り上げればそれなりに一理があります。しかし、それが必ずしも真実であるとは限りません。一つの知識はあっても全体を見渡せないので、一つに囚われてすべてに騙されるのです。構造がしっかりしている人は部分的な話に全体が振り回されることはありません。前後の事情と全体の構造を通じて本質と実体が何であるかを知っているからです。   最近、AI時代という緊張感の中で、それを少しでも理解しようと勉強しています。まだ理解が浅いですが、AIの時代に人間に求められる最も重要な能力は「洞察する力」であると思います。もちろんAIに洞察を求めることはできますが、洞察力のある質問なしに洞察力のある答えを得ることはできません。人が事柄について知っていなければ、そもそも有効な質問をすることができず、有効な答えを得ることもできません。そのため、質問する人間の重要性から「ホモ・プロンプト」という言葉も生まれました。指示されたことだけをしていた人の仕事はAIに取って代わられるでしょう。質問することで成長できる時代です。検索とは異なります。質問するためには「遠視」である必要があります。近視眼的な質問は限界があるからです。これからは、画面を理解する技術ではなく、世界を理解する洞察力と、事柄の位置づけを把握するリテラシー、文解力がさらに重要になるでしょう。従来、人間がコンピュータ言語を使っていましたが、今やAIが人間の言葉でコミュニケーションを取るようになっています。新しい時代を拒むことのできない人間にとって、読み書きと聞き話す訓練は何よりも重要です。信仰においてもそれは大切です。聖書を読み、聞き、書き、話さなければなりません。ペテロの言うように「遠視」でなければなりません。本質に基づいて広く見ることができるようにしなければなりません。殉教の恐れと偽教師の脅威、急変する世界とAIの時代の脅威にもかかわらず、遠視であればそれはチャンスです。信仰は常に毅然としています。  

베드로후서 묵상 【하나님과 우리 주 예수를 앎으로】 20240611(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로후서 1:1~111:1 예수 그리스도의 종과 사도인 시몬 베드로는 우리 하나님과 구주 예수 그리스도의 의를 힘입어 동일하게 보배로운 믿음을 우리와 같이 받은 자들에게 편지하노니1:2 하나님과 우리 주 예수를 앎으로 은혜와 평강이 너희에게 더욱 많을찌어다1:3 그의 신기한 능력으로 생명과 경건에 속한 모든 것을 우리에게 주셨으니 이는 자기의 영광과 덕으로써 우리를 부르신 자를 앎으로 말미암음이라1:4 이로써 그 보배롭고…

Ⅰペテロ 黙想 【この恵みの中にしっかりと立つ】 20240610(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰペテロ 5:8~145:8 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。5:11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。5:12 忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。5:13 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会と、私の子マルコが、あなたがたによろしくと言っています。5:14 愛の口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。   12節の「この恵みの中にしっかりと立っていなさい」の「この恵み」が何であるかをさかのぼってみると、12節の「神のまことの恵み」であることが分かり、「神のまことの恵み」が何であるかをさかのぼってみると、10節の「キリストのために苦難を受ける人への恵み」であります。彼らは8節の吼えたける獅子のように食い尽くそうと探し回っている悪魔に狙われる人です。「悪魔のターゲット」になるのは「神のまことの恵み」を持っているからです。Ⅰペテロの手紙の面々には危機と苦難のシグナルが流れています。教会が苦難を受けるのは敬虔でないからでもなく、何かを間違ってもありません。 彼らが「この恵み」、すなわち「ただイエス·キリストの福音」を信じている理由です。   「この恵み」とは実体なしに乱発する言葉ではなく、「私の代わりに死なれたイエス·キリストの恵み」であり、「ここの恵みの中にしっかりと立つ」ということはその信仰を何ことにも変えられないという誓いです。十字架でなくてもいいと言えば、苦難に遭わなくてもいいです。キリストでなくてもいいと言えば危機は消えます。しかしペテロはそれだけが「神のまことの恵み」であると言います。その苦難に屈しないことのできる原動力が「この恵み」であると言います。「あの恵み」ではなく、「その恵み」でもありません。「あの人」のものでもなく、「その人」のものでもなく、ただ「私のもの」でなければなりません。私の中にある恵みを「あの恵み」と言わず、「その恵み」とは言いません。「この恵み」と言えなければなりません。私がいただいている恵みをもって苦難と戦うことができます。「私の恵み」でなければならず、「私の信仰」でなければなりません。「あの恵み」、「その恵み」にうろうろしないで「この恵み」に固く立ちたいと思います。  

베드로전서 묵상 【이 은혜에 굳게 서라】 20240610(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로전서 5:8~145:8 근신하라 깨어라 너희 대적 마귀가 우는 사자같이 두루 다니며 삼킬 자를 찾나니5:9 너희는 믿음을 굳게 하여 저를 대적하라 이는 세상에 있는 너희 형제들도 동일한 고난을 당하는 줄을 앎이니라5:10 모든 은혜의 하나님 곧 그리스도 안에서 너희를 부르사 자기의 영원한 영광에 들어가게 하신 이가 잠간 고난을 받은 너희를 친히 온전케 하시며 굳게 하시며 강하게 하시며…

ペテロの手紙第一 黙想 【喜ぶべきこと】 20240608(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ペテロの手紙第一 4:12-19 4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。 4:13 むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。 4:14 もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。 4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。 4:17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。 4:18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」 4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。    キリスト者の道は狭い道、十字架の道、苦難の道だと聖書はいつも私たちに語っています。しかし、その同時に、その道は栄光の道、命の道、救いの道であることをも明らかにしています。  だとすると、キリスト者の道は苦難と出会い、その時を耐え忍びながら生き、終わりの日に喜びを得る、栄光と命と救いを得る道なのでしょうか。そのように苦難と喜びが共存する道なのでしょうか。  その道を歩いていく私たちにとってはそうかもしれません。日々の瞬間に苦難があり、喜びがあり、温湯と水風呂を行ったり来たりするように感じるかもしれません。 しかし、私たちの神様にとっては、そのすべての道がただ喜びの道であり、完全な道であります。  神様の喜ばしい思い通りに計画された私たちの道のすべての歩みは、神様が喜び、私たちの喜びになる道です。しかし、それでも私たちの弱さによって、その瞬間の向こう側におられる神様を見つめず、目の前にある苦難を見つめてしまいます。だからこそ私たちはその瞬間を越えてからこそ喜びと感謝を見つけたりするのでしょう。  昨日の箇所では私たちの人生で後悔すべきこと、振り返ってみるべきことについて黙想しました。続いて今日の箇所では、私たちが喜ぶべきこと、感謝すべきことについてもう一度振り返ってみたいと思います。  私たちの人生に与えられている苦難の時に踏み出す一歩一歩を神様は喜ばれ、その歩みを通して栄光をお受けております。イエス·キリストがそうであったように、自らの罪によって苦難の道、十字架の道を歩んでいくのではなく、主の御名、キリストの御名によってその道を喜んで歩んでいく者たち、それが私たち、キリスト者です。https://youtu.be/tty1zpKGyyk?si=UB2AhuUtiqbykg-S

베드로전서 묵상 【기뻐해야 할 것】 20240608(토) 최종석 전도사

베드로전서 4:12-19 4:12 사랑하는 자들아 너희를 연단하려고 오는 불 시험을 이상한 일 당하는 것 같이 이상히 여기지 말고 4:13 오히려 너희가 그리스도의 고난에 참여하는 것으로 즐거워하라 이는 그의 영광을 나타내실 때에 너희로 즐거워하고 기뻐하게 하려 함이라  4:14 너희가 그리스도의 이름으로 치욕을 당하면 복 있는 자로다 영광의 영 곧 하나님의 영이 너희 위에 계심이라 4:15 너희…