詩編 黙想 【定説、逆説】 20241108(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 68:1-1868:0 指揮者のために。ダビデによる。賛歌。歌。 68:1 神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。 68:2 煙が追い払われるように追い払ってください。ろうが火の前で溶け去るように悪しき者が神の御前から滅び失せますように。 68:3 しかし正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。 68:4 神に向かって歌い御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主。その御前で喜び躍れ。 68:5 みなしごの父、やもめのためのさばき人は聖なる住まいにおられる神。 68:6 神は孤独な者を家に住まわせ捕らわれ人を歓喜の歌声とともに導き出される。しかし頑迷な者は焦げつく地に住む。 68:7 神よあなたが御民に先立って出て行き荒れ野を進み行かれたときセラ 68:8 地は揺れ動き天も雨を降らせました。シナイにおられる神の御前で。イスラエルの神である神の御前で。 68:9 神よあなたは豊かな雨を注ぎ疲れたあなたのゆずりの地を堅く立てられました。 68:10 あなたの群れはその地に住みました。神よあなたはいつくしみをもって苦しむ者のために備えをされました。 68:11 主はみことばを与えてくださる。良き知らせを告げる女たちは大きな群れ。 68:12 軍勢の王たちは逃げまた逃げる。家に残った女たちは獲物を分け合う。 68:13 羊の囲いの中に横たわるとしてもあなたがたは翼が銀でおおわれてきらめく黄金で羽がおおわれた鳩のようだ。 68:14 全能者が王たちをその地で散らされたときツァルモンには雪が降っていた。 68:15 神々しい山バシャンの山よ。峰を連ねた山バシャンの山よ。 68:16 峰を連ねた山々よ。なぜおまえたちはねたみ見るのか。神がその住まいとして望まれたあの山を。まことに主はとこしえにそこに住まわれる。 68:17 神の戦車は幾千万と数知れず。主はその中におられる。シナイの神は聖所の中に。 68:18 あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り人々に頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた。神であられる主がそこに住まわれるために。    神様の働きについて語る時に、「逆説」という言葉を良く使います。その理由は、神様の働きが世の中の常識、理屈とは違うように感じられるからでしょう。  今日の箇所もまさにその「逆説」のような内容を語っています。弱い者たちの神様がみなしごの父であり、やもめたちのためのさばき人であり、孤独な者たちを家に住まわせ、捕らわれ人たちを導き出される方、逆説を越えて彼らの人生に逆転を与えておられます。  しかし、神様の働きに逆説はありません。それは人間の目に逆説に見えるだけで、ただ神様の定説であります。それだけでなく、人間の立場から見ても神様の働きは逆説ではないでしょう。それは私たちの考えの中の一つを振り返ってみると簡単に分かることができます。  人間の間では「力」が重要な判断の基準となります。誰かは「力こそが真理」とも言うくらいです。単純な身体的能力を超え、経済力、想像力、権力などの数多くの「力」が人を判断する基準になり、力のある者が良いことを勝ち取り、決定権を持つということがこの社会の通念です。  そういう意味で、神様は社会の定説どおりに働いておられるのです。この世で一番強い方は誰でしょうか。 最も大きな権力を持っている方は誰でしょうか。 当然、この世界を造られた神様です。そのため、その方の働きには誰も文句をつけることができないのです。  その方がみなしごの父になり、やもめたちのためのさばき人になっても、孤独な者たちを家に住まわせても、捕らわれ者たちを導き出したとしても、誰も問題とすることができない御名、その名が主なる神様であります。  世の中はその名を妬み、その名の権威を奪おうとしています。私たちが神様の働きを逆説だと感じることもその一部である、その世の中のガスライティング、世の中の偽りのニュースの影響であるかも知れません。  私たちの判断の基準は世の中の考えにあってはなりません。この世の造り主である神様が決められたことが定説であり、善なる神様がなさることが善い行いであります。https://youtu.be/GgFab1Gj8eE?si=kIdBtgXsyEVN9V8_

시편 묵상 【정설, 역설】 20241108(금) 최종석 전도사

시편 68:1-18 68:1 하나님이 일어나시니 원수들은 흩어지며 주를 미워하는 자들은 주 앞에서 도망하리이다 68:2 연기가 불려 가듯이 그들을 몰아내소서 불 앞에서 밀이 녹음 같이 악인이 하나님 앞에서 망하게 하소서 68:3 의인은 기뻐하여 하나님 앞에서 뛰놀며 기뻐하고 즐거워할지어다 68:4 하나님께 노래하며 그의 이름을 찬양하라 하늘을 타고 광야에 행하시던 이를 위하여 대로를 수축하라 그의 이름은 여호와이시니 그의…

ガラテヤ人への手紙 黙想 【主にするよう、主がなさったよう】 20241026(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ガラテヤ人への手紙 4:12-20 4:12 兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。 4:13 あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。 4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。 4:15 それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。 4:16 それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。 4:17 あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。 4:18 善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。 4:19 私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。 4:20 私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。   今日箇所に登場する使徒パウロに対するガラテヤ教会の献身は、驚くほどのものです。神様の御使いであるように、またはキリスト・イエスであるように受け入れ、彼らはできることなら、パウロのために自分の目をえぐり出して与えると思われるほど、パウロは彼らから受けた愛の献身について証ししています。  しかし、このすべてのことは、教会を建て、教えた使徒パウロだけに授けられてはいけないのです。 聖書は明らかに「何をするにも、主に対してするように」と語っているからです。  彼らが使徒パウロにこのようにすることができたのは、彼らが使徒パウロを通してイエス·キリストがなさったことを教わったためです。私たちはイエス様が私たちになさったように、私たちもイエス様にそうし、すべての人々に対してイエス様に対してするようにしなければならないのです。  それを考えれば少し過激な表現だと思われるような「自分の目をえぐり出して私に与えようとさえ」というガラテヤ教会の献身は、むしろまだまだこれからのようです。イエス様はご自分の目くらいではなく、私たちのためにすべての血潮を流し、十字架で死なれるまで私たちのために献身された方であるからです。  しかし、そのために使徒パウロは、そして私たちは、愛する者たちに対して真理を、御言葉に基づいて厳しく指摘しなければならない時もあります。そして、そのことは他の物ではなく、愛に基づいてしなければなりません。イエス様が愛するご自分の民に対して御言葉を通してそのように教えられたからです。  そのため、私たちが人間関係の中で、他人にどのように接したらいいか悩み、迷う時は、聖書を開いてみれば良いでしょう。その中でイエス様が人々にどのように接したのかを見て、今目の前にいるこの人にイエス様ならどのようにされたのかを御言葉に基づいて考え、実践していくためです。https://youtu.be/_uwf5_bibcM?si=ORrQa2-AH0NvPsXO

갈라디아서 묵상 【예수님께 하듯, 예수님이 하셨듯】 20241026(토) 최종석 전도사

갈라디아서 4:12-20 4:12 형제들아 내가 너희와 같이 되었은즉 너희도 나와 같이 되기를 구하노라 너희가 내게 해롭게 하지 아니하였느니라 4:13 내가 처음에 육체의 약함으로 말미암아 너희에게 복음을 전한 것을 너희가 아는 바라 4:14 너희를 시험하는 것이 내 육체에 있으되 이것을 너희가 업신여기지도 아니하며 버리지도 아니하고 오직 나를 하나님의 천사와 같이 또는 그리스도 예수와 같이 영접하였도다 4:15…

ガラテヤ人への手紙 黙想 【息子としての身分】 20241025(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ガラテヤ人への手紙 4:1-11 4:1 つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、 4:2 父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。 4:3 同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。 4:4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。 4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 4:8 あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。 4:9 しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。 4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。 4:11 私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。    今週の御言葉を通して、私たちはイエス·キリストが神の子であることを証しするヨハネによる福音書について教わりました。そして、今日のガラテヤ人への手紙では、息子の身分を受けた者たちに与えられる相続、特権について語っています。  私たちはイエス·キリストが神の子であることを信じています。また、イエス·キリストを通して私たちも、神の子どもになったことを信じています。それなら、私たちが神の子どもの身分を持つことで何が与えられたのでしょうか。  一番最初に考えられるのは、今日の箇所で語られたように神様をお父と呼べるようになったことです。私たちの身分が罪の相続人から、神の相続人に変わったのです。そのような私たちに与えられるのが永遠の命、救いなのです。  しかし、今日の箇所では、その子どもたちに与えられるもの、相続する物がそれだけではないことを述べているようです。以前は後見人や管理人の下で保護される存在であったのですが、今はそこから抜け出し、自ら与えられたものを管理しなければなりません。  そのために私たちに与えられた命令を最もよく現れたのが、まさにイエス様の最後の至上命令です。イエスはその始まりに「天においても、地においても、すべての権威が与えられています。」とおっしゃいました。それがまさにイエス様に、そして同じように神様の相続人たちに与えられる権威です。そのため、私たちはその次の言葉、「ですから、あなたがたは行って」という命令に従うことができます。  使徒パウロが律法主義を警戒する理由は、行いによる救いではなく、信仰によって救われるということを強調するためにもありますが、律法主義はそれ自体で閉鎖的な性格を持っているためです。 律法主義者たち相続した物を持って「ですから、あなたがたは行って」という命令に従わないからです。  私たちに与えられたものを管理すること、正しく用いる方法は、私たちの中にだけそれが留まらないようにすることです。イエス様はこの地に来られ、救いの福音を伝えました。そして、そのイエス様を通して、今は私たちに天においても、地においても、すべての権威が与えられています。従って、私たちは「ですから、行って」、まだイエス・キリストの福音を知らない人々に、この福音を大胆に宣べ伝えなければなりません。https://youtu.be/1zt_jiZA-mk?si=2FcWT60pE2U27KNi

갈라디아서 묵상 【아들의 명분】 20241025(금) 최종석 전도사

갈라디아서 4:1-11 4:1 내가 또 말하노니 유업을 이을 자가 모든 것의 주인이나 어렸을 동안에는 종과 다름이 없어서 4:2 그 아버지가 정한 때까지 후견인과 청지기 아래에 있나니 4:3 이와 같이 우리도 어렸을 때에 이 세상의 초등학문 아래에 있어서 종 노릇 하였더니 4:4 때가 차매 하나님이 그 아들을 보내사 여자에게서 나게 하시고 율법 아래에 나게 하신 것은…

ガラテヤ人への手紙黙想【法では解決できないこと】 20241024(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ガラテヤ人への手紙 3:19~293:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 人間には、自分の存在の限界を前にして膝をつかざるを得ない瞬間があります。そして、神様との出会いという希望のところは、自らの絶望と隣り合わせです。律法が与えられた理由は、人を完璧な存在にするためではなく、努力してもそうなれない人間の本質を明らかにするためです。敬虔さを求めたことがある人であれば、その道の厳しさを知り、自分がそれを達成できない存在であることを痛感し、その上で福音の意味を理解したはずです。しかし、多くの人にとって「律法」という言葉は抽象的で、自分には関係のない昔の話だと思われがちです。 法律の規制がなければ、人間は自らの欲望に打ち勝つことができません。そのため、法律は悪事を防ごうとしますが、それが悪を消し去るわけではありません。法律は人が罪を犯せないように罰を与えることで制約をかけるものにすぎません。つまり、法律は消極的で最低限のものであり、根本的な解決策ではありません。パウロはこれを「養育係」と呼びました。養育係は子どもに「嘘をついてはいけない」「盗んではいけない」と教えますが、なぜそうしてしまうのか、その根本的な理由を教えることはできません。それは、法律は人の行動を制限するだけで、人間そのものを理解するものではないからです。 律法は人の心や思いにまで罪を定めます。法律を守ることは社会的には称賛されるべきことですが、それで罪が消えるわけではありません。どれほど法律を守っても、それはあくまで受動的な行いにすぎません。法律では人を義とすることも、人を愛することを強制することもできないからです。これに対して、信仰は確かに積極的です。信じるためには自ら一歩踏み出し、愛するためには前に進んで相手を抱きしめ、受け入れなければならないからです。パウロは26節以降で、それを具体的に実践し、実現できることが、約束と救い、洗礼と礼拝を共有する信仰の共同体であると力強く語っています。

갈라디아서 묵상 【법으로 안 되는 것】 20241024(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 3:19~293:19 그런즉 율법은 무엇이냐 범법함을 인하여 더한 것이라 천사들로 말미암아 중보의 손을 빌어 베푸신 것인데 약속하신 자손이 오시기까지 있을 것이라3:20 중보는 한편만 위한 자가 아니니 오직 하나님은 하나이시니라3:21 그러면 율법이 하나님의 약속들을 거스리느냐 결코 그럴 수 없느니라 만일 능히 살게 하는 율법을 주셨더면 의가 반드시 율법으로 말미암았으리라3:22 그러나 성경이 모든 것을 죄 아래 가두었으니…

ガラテヤ人への手紙黙想【信仰によって生きる】 20241023(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ガラテヤ人への手紙 3:10~183:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。3:14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。 パウロは、律法と信仰の関係について話を続けます。10節で「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります」と語ったのは、誰も律法を完全に守ることができないため、もし誰かが律法を守ることで救われると言うならば、その人は自らを呪いで縛っているという意味です。これは申命記27章26節の言葉を引用したものです。「申命記27:26 このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」 このため、パウロは11節で「義人は信仰によって生きる」と語ります。この言葉も、ハバクク書からの引用です。「ハバクク2:4…しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)。ハバククは、南ユダの堕落と不従順を理解できず、さらに神様が悪しきバビロンを通じてユダを懲らしめることに納得できませんでした。その文脈の中で「それでもなお、神様の善と真実を信じる」という意味で「義人は信仰によって生きる」と言ったのです。 パウロはローマ書1章17節でも、ハバククの言葉を引用しています。「ローマ書1:17 神の義は、福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ハバククが言った「義人」と「信仰」は、神様の救いの計画を信じることを意味します。しかし、ローマ書におけるパウロの信仰は、すでに成し遂げられた救いの原則について語るものであり、ガラテヤ書では、当時の最も敏感な関心事であった律法との対比を通じて信仰のみを強調しているのです。 宗教改革者マルティン・ルターは、ローマ書とガラテヤ書を読む中で、神の義は人間の行いによって得られるのではなく、信仰によって与えられることに気付きました。この理解が、宗教改革運動の基礎となりました。ハバククはパウロより600年も前の人物であり、ルターはパウロより1500年後の人物です。教会と歴史は、信仰とは何かを絶えず模索し続けてきました。そして、私たちもまた、ここでその問いを続けていかなければなりません。「信仰のみ」(Sola Fide)とは、信仰の対立物を排除するのではなく、信仰に似て見えるものを分離することなのです。 ハバククの「信仰のみ」とは、ユダの滅亡を通しても神様が救いを成し遂げられることを信じる信仰であり、その信仰はユダがユダを手放してから得られるものでした。パウロが言う「信仰」とは、彼らが誇り、支配されていた律法を捨てなければ得られないものでした。ルターが言う「信仰」とは、ローマ・カトリックの権威を捨てることでした。「ユダ」という選民意識、「律法」という自負、「宗教」という中心軸――これらは義や信仰に似ていますが、それらに抵抗(プロテスト、Protest)することが求められます。そして、それを成し遂げるのが「信仰のみ」(Sola Fide)なのです。

갈라디아서 묵상 【믿음으로 살리라】 20241023(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 3:10~183:10 무릇 율법 행위에 속한 자들은 저주 아래 있나니 기록된바 누구든지 율법 책에 기록된대로 온갖 일을 항상 행하지 아니하는자는 저주 아래 있는 자라 하였음이라3:11 또 하나님 앞에서 아무나 율법으로 말미암아 의롭게 되지 못할 것이 분명하니 이는 의인이 믿음으로 살리라 하였음이니라3:12 율법은 믿음에서 난 것이 아니라 이를 행하는 자는 그 가운데서 살리라 하였느니라3:13 그리스도께서 우리를…