マルコの福音書 黙想 【恐れから感謝へ】 20240127(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 9:38-50 9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」 9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。 9:40 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。 9:41 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。 9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。 9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。 9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。 9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。 9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。 9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。 9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」  イエス・キリストの救いは永遠の命を得るということ、ゲヘナ、つまり地獄の審きではなく神様の御国に入るということです。私たちは救われた者として天国がどのようなものかを想像して期待したりしますが、むしろ地獄がどのようなところかは想像しようとしません。おそらく想像したくもないのかも知れません。    今日の箇所の後半では地獄がどのようなところか、そこがどれほど怖くて恐ろしいところなのかを簡単に、私たちの日常になれているものを取り上げて説明しています。    私たちの日常生活にとても大切な体、手と足と目がないまま神様の国に入ることが、それらを持って地獄に入ることよりも良いと言われています。そのぐらいで神様の御国が良いところであるということでもあり、そのぐらい地獄が恐ろしいところであるということでもあります。    実際にこのを扱いながら、多くの人が、本当に手と足と目を損ねる必要はない、比喩的表現であるだけだと言っていますが、半分は正しくて半分は間違っている話だと思います。    私たちは私たちの手と足と目を犠牲にして、神様の御国に入る必要がありません。なぜなら神様の御国に入るための犠牲はすでに、イエス・キリストが全部に成し遂げているからです。そのため、これ以上の犠牲は必要ありません。しかし、私たちはそのぐらい神様の御国を切実に求めなければなりません。もし単純な比喩的表現ではなく、手と足と目を犠牲にしてこそ、神様の御国に入ることができるとしたら、私たちは当然それらを犠牲にして、それ以上に私たちのこの地での命を犠牲にするまでその御国に入るために力を入れなければならないのです。    しかし、私たちのそのような犠牲が要められていない今、私たちは何をすべきでしょうか。実は、ただ信じるだけでいいのです。私たちが何かの行いを通して神様の御国に入ることではないからです。しかし、その信仰と伴い、私たちの心の中に自然に結ばれる実があります。私たちがよく知っている聖霊の実、ぶどうの木であるイエス様にくっついている枝になって結ぶれる実です。    その実を結んだ人たちはこれ以上自分のために生きていきません。イエス・キリストの向ために、その御名によって生きていきます。彼らの命はイエス・キリストの御名をあがめる人生になって、神様の御国に入ります。しかし、その実を結ばずに自分のために生ていく人は他の人をつまずかせてしまいます。そしてその最後は恐ろしい地獄であるでしょう。    私たちは地獄を恐れなければなりません。そこにある苦しみと痛みはこの世のどんなこととも比べることができないということを覚えるべきです。しかし、私たちはその地獄を必要以上に恐れなくてもいいです。神様はすでにイエス・キリストを通して私たちに神様の御国を与えてくださったからです。私たちが地獄がどのようなものなのか知ることを通して、キリストの愛がどれほど大きな愛なのか、私たちをその裁きから救い出したことが私たちにとってどれだけ大きなことなのかを思い出して、日々感謝をもって生ていけるのです。  https://www.youtube.com/watch?v=jEcFGe-C58Y

마가복음 묵상 【두려움에서 감사로】 20240127(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 9:38-50 9:38 요한이 예수께 여짜오되 선생님 우리를 따르지 않는 어떤 자가 주의 이름으로 귀신을 내쫓는 것을 우리가 보고 우리를 따르지 아니하므로 금하였나이다 9:39 예수께서 이르시되 금하지 말라 내 이름을 의탁하여 능한 일을 행하고 즉시로 나를 비방할 자가 없느니라 9:40 우리를 반대하지 않는 자는 우리를 위하는 자니라 9:41 누구든지 너희가 그리스도에게 속한 자라 하여 물 한 그릇이라도 주면 내가…

マルコの福音書 黙想 【小さい者の代名詞】 20240126(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 9:30-37 9:30 さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。 9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。 9:32 しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」 9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。 9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」 9:36 それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。 9:37 「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」  本来、私たちを造られた神様であるイエス様は、ご自分が造った人たち、その子供たちを生かすためにこの地に同じ人間の体を持って来られました。さらに、人々の手に引き渡され、十字架の上で苦しみを受けることさえありました。イエス様のこのような公は、その方がどれほど謙遜なお方であるかをよく見せています。    弟子たちはすでにイエス様がどんなことと出会うようになるのかイエス様にすでに教えられました。しかし、今日の箇所では彼らが「このことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」と言われています。それにとどまらず、自分たちの中で誰が一番偉い者なのか、イエス様が権力を持った時に誰がその次になるのかで争っていました。    弟子たちはイエス様が教えられた十字架を単純に理解できなかったのではなかったようです。理解できなかったことのために尋ねることさえも恐れていたからです。いつも理解できなかったことがあれば、再びイエス様に聞いてみてきた弟子たちの姿とは違う姿です。ただ彼らはイエス様のその言葉を理解したくなかったのです。    だからこそ、今も誰が一番偉い者なのか論じ合うのです。 少なくとも、その論争が他人を高めるための論争ではなかったでしょう。自分を一番偉い者とし、自分を高めるための論争であったでしょう。そのため、彼らはイエス様にその論争したことをばれてしまった時、何も言えませんでした。    イエス様は再びその弟子たちに謙遜を教えられます。 言葉だけの教えではなく、小さい子供を連れてきて、例を挙げてくれます。 おそらく、小さい子供を受け入れるということは、文字通りに子供を受け入れるということではないと思います。明らかなことは、イエス様は弱い者たち、小さい者たちを受け入れることが自分を受け入れることであり、神様を受け入れることであると教えているということです。    このように今日の箇所では一人の子という存在が小さい者の代名詞になっていました。これは現実的に子供は誰かの助けなしには生きていけない、力のない存在だからです。しかし、イエス様は自ら小さい者の代名詞になりました。現実的に弱いからではなく、この世を造られたお方、全能なお方が自ら小さくなったのです。 そして私たちにもあなたたちが小さい者の代名詞になれと言われているのです。    今の私たちも同様に、イエス様の御言葉を文字通り理解できないのではないでしょう。 知らなくて実践できないのではないでしょう。私たちはそれを理解することを、実践することを恐れているのです。イエス様が背負った十字架を背負うのを怖がっているのです。    確かにその道は恐ろしい道です。目の前に苦難が見える道です。しかし、その道はすでにイエス様が開けておいた道です。しかも、いつも私たちのそばでその道を教えてくださっています。 だからこそ、私たちはその道を歩んでいくことができます。イエス様のように自ら小さい者となり、小さい者の代名詞になれるのです。  https://www.youtube.com/watch?v=jEcFGe-C58Y

마가복음 묵상 【낮은 자의 대명사】 20240126(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 9:30-37 9:30 그 곳을 떠나 갈릴리 가운데로 지날새 예수께서 아무에게도 알리고자 아니하시니 9:31 이는 제자들을 가르치시며 또 인자가 사람들의 손에 넘겨져 죽임을 당하고 죽은 지 삼 일만에 살아나리라는 것을 말씀하셨기 때문이더라 9:32 그러나 제자들은 이 말씀을 깨닫지 못하고 묻기도 두려워하더라 9:33 가버나움에 이르러 집에 계실새 제자들에게 물으시되 너희가 길에서 서로 토론한 것이 무엇이냐 하시되 9:34 그들이 잠잠하니 이는 길에서…

マルコの福音書 黙想 【できるなら、と言うのですか】 20240125(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

マルコの福音書 9:14~299:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」   ルカによる福音書9章によると、イエスは弟子たちに病気を治し、悪霊を追い払う力を与え、伝道の現場に送ったと言われていました。「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。9:1、2」ところがイエス様が来てみると、弟子たちがすべきことをまともにできず、律法学者たちには嘲られていて、病人の保護者にも無視されていました。その時のイエス様の反応は「「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか19」であり、マタイの福音書では「不信仰な曲がった時代17:17」と言われました。   イエス様が悪霊霊に取り憑かれた者を直した後に弟子たちが「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」と尋ねるとイエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。29」と言われました。 マタイの福音書では「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。17:20」とありました。イエス様は悪霊に取り憑かれた子の親にも信仰を強調されました。「「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。23」   イエス様の感情状態は少し怒っている状態です。弟子たちが病気を治し、悪霊を制御する能力を持ってうぬぼれていたり、人間的な考えで疑ったはずです。ルカによる福音書10章にイエス様はこう言われました。「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。20」神様は神様の働きのために人に賜物を与えます。神様の必要に応じて実力と能力と権威も付与されます。神様から与えられた力ということを忘れないなら、その力を疑ったり、自分のために使ったりすることはありません。神様の働きは、その賜物と信仰によって進まれます。

마가복음 묵상 【할 수 있거든이 무슨 말이냐】 20240125(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 9:14~299:14 저희가 이에 제자들에게 와서 보니 큰 무리가 둘렀고 서기관들이 더불어 변론하더니9:15 온 무리가 곧 예수를 보고 심히 놀라며 달려와 문안하거늘9:16 예수께서 물으시되 너희가 무엇을 저희와 변론하느냐9:17 무리 중에 하나가 대답하되 선생님 벙어리 귀신 들린 내 아들을 선생님께 데려 왔나이다9:18 귀신이 어디서든지 저를 잡으면 거꾸러져 거품을 흘리며 이를 갈며 그리고 파리하여 가는지라 내가 선생의…

マルコの福音書 黙想 【モーセとエリヤ】 20240124(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 9:2~139:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。9:5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。9:7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。9:9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。9:10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。9:11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」9:12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。9:13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」   変貌の山でモーセとエリヤが登場します。モーセとエリヤの生と死には似たところがあります。誰も真似できない神様の御力が彼らを通じて現れたこと、彼らの死が神秘的に隠されているということが特徴的に似ています。モーセの死を目撃した人がおらず、エリヤもまた死を通らずに昇天しました。ユダヤ社会は今もマラキ4章を根拠にしていつかエリヤがまた来ると信じています。モーセは荒野で生き、一人で荒野で死に、エリヤもロデムの木の下で一人で死ぬことを求めた孤独な預言者でした。イエス様の当時から1400年前の人であるモーセはその名前だけでも律法で通じ、800年前の人であるエリヤは預言者の代名詞として通じます。   ペトロは彼らのために家を建てると言いましたが、彼らは留まっている人々ではありません。イエス様も家を建てて住んだ方ではありません。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われました。イエス様はモーセとエリヤが消えたところで死と復活を話されました。モーセとエリヤが家に留まらないように、聖徒は肉体に留まって生きる存在ではありません。イエス·キリストの中にいる聖徒は、律法と預言にとどまりません。イエス·キリストの福音の中にあります。モーセとエリヤ、つまり律法と預言は消え、サポートライトはただイエス様に集中されます。そしてイエス様は十字架の死と復活を予告します。それが完成だからです。モーセとエリアの間に立っていたイエス様は、二つの強盗の間に立って死にました。

마가복음 묵상 【모세와 엘리야】 20240124(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 9:2~139:2 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라 가셨더니 저희 앞에서 변형되사9:3 그 옷이 광채가 나며 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을만큼 심히 희어졌더라9:4 이에 엘리야가 모세와 함께 저희에게 나타나 예수로 더불어 말씀하거늘9:5 베드로가 예수께 고하되 랍비여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 우리가 초막 셋을 짓되 하나는 주를…

마가복음 묵상 【너는 나를 누구라 하느냐】 20240123(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 8:27~9:18:27 예수와 제자들이 가이사랴 빌립보 여러 마을로 나가실쌔 노중에서 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 나를 누구라고 하느냐8:28 여짜와 가로되 세례 요한이라 하고 더러는 엘리야, 더러는 선지자 중의 하나라 하나이다8:29 또 물으시되 너희는 나를 누구라 하느냐 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시니이다 하매8:30 이에 자기의 일을 아무에게도 말하지 말라 경계하시고8:31 인자가 많은 고난을 받고 장로들과 대제사장들과 서기관들에게…

マルコの福音書 黙想 【あなたは、わたしをだれだと言いますか】 20240123(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 8:27~9:1 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」   何かを証明するためには証拠が必要です。情況上、心証があっても物的証拠を提示できなければ疑惑を立証できず、潔白も立証できません。すべての裁判は証拠を通じて行われ、法はそれ自体で義なるものではないので、証拠がある時だけ判断します。そのため、証拠がなければ、被疑と被害、正義と不義が入れ替わることもあります。キリスト教信仰では弁証という言葉を使います。弁護して証明するということです。反対者と懐疑論者に彼らの言語と方法論で弁護する科学です。そのため、積極的でも攻撃的でもありません。   真実には不変の真理があり、キリスト教信仰にも不変の救いの真理があります。問題は、それを完璧な方法で証明することができないことです。信じないと決心しておる人には、どんなことを使ってもそれを説得することはできません。神様は証明の方法ではなく、信仰の方法で選ばれた者を呼びます。私は神様がいないという人に対して自分なりの弁証をしてみることはできますが、神様を証明することはできません。それはお互いに同じです。無神論者は、私に神様がいないということを証明することはできません。神様はそれほど簡単に人間に証明される方ではありません。ですから、この問題について実は有効な方法論は存在しません。   ここでただ一つが残ります。それが告白です。不完全な理性のみに頼って神様を証明することではありません。世の前で自分の知性と感情と意志の人格をもって告白するのです。キリスト教を弁護するのではなく、自分が持っている願望を堂々と先制的に告白するのです。イエス様は華麗な皇帝の都で弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ね、ペトロは告白しました。その上に教会が建てられ始め、今もその告白があるところには教会が建てられるでしょう。世に向かって説明しません。だからといって沈黙することもありません。告白するだけです。神様に向かって、世に向かって叫ぶだけです。 ためらってはならず、恐れてはならず、恥じることなく告白します。 「主はキリストであり、神の子です。 主は私の救い主です。」