ホセア黙想 【契りを結ぶ神様】 20241003(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ホセア 2:14~232:14 それゆえ、見よ、わたしは彼女を誘い、荒野に連れて行って優しく彼女に語ろう。2:15 わたしはそこを彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門とする。その場所で彼女は答える。若いころのように、エジプトの地から上って来たときのように。2:16 その日になると──主のことば──あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう『私のバアル』とは呼ばない。2:17 わたしがもろもろのバアルの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。2:18 その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。2:19 わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。2:20 真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。2:21 その日、わたしは応えて言う。──主のことば──わたしは天に応え、天は地に応え、2:22 地は、穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。2:23 わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたはわたしの民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。」 神様はイスラエルに「契りを結ぶ」と表現されます。「契りを結ぶ」と言うと、「結婚する」という意味を持つでしょう。神様とイスラエルの関係は夫婦として描かれていますが、恐縮すべきはイスラエルではなく、神様です。なぜなら、神様は常にイスラエルを変わらず愛しておられるのに、イスラエルはいつも逃げ回っているからです。神様はイスラエルに片思いしているのです。自分の信仰の大きさを誇る人は、神様が自分を愛している大きさをよく知らないからでしょう。実数は無限大を測ることも、それより大きくなることもできません。神様が私を愛しているその大きさは、私が神様を愛しているものよりも常に大きいのです。私を呼び出されたのは神様であり、逃げ出した私を再び探し出されたのも神様です。 昨日の水曜集会で、カルヴァンの「TULIP」について話をしました。Total Depravity(全的堕落)は、自ら救うことができない全的に堕落した人間の存在を指します。Unconditional Election(無条件的選び)は、神様が救われる人をあらかじめ選ばれ、その選ばれた人の行いや条件に関係なく、ただ神様の主権的な御心に従って行われるということです。Limited Atonement(限定的贖罪)というのは、イエス・キリストの贖罪は、神様が選ばれた人々に適用されるということです。人間が神様を選ぶのではありません。Irresistible Grace(抗しがたい恵み)、神様の恩恵は、選ばれた者に拒むことのできない力として働きます。最後のPerseverance of the Saints(聖徒の堅忍)は、一度救われた者はその救いを失うことがないということです。信仰が自分の意志や努力だと思っていましたが、最後の瞬間に、それがすべて神様の恵みであったことを悟り、告白することになるでしょう。 『ホセア』をどの視点で読んでいますか?ホセアを読む方法は、浮気して逃げ出したゴメルの虚しさの心から読むことです。壊れて倒れ、泣いている妻のもとに夫が訪ねてくるでしょう。それは妻に根拠があるのではなく、夫に根拠があるのです。夫は正義と慈悲と誠実さをもって妻を家に連れて帰るでしょう。「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。2:19-20」 神様がイスラエルと結婚されるのは、永遠に生かされるためであり、公義と恵みと慈悲を施すためであり、それは神様の誠実さゆえです。信仰の道には多くの誘惑があり、神様との結んだ夫婦の絆を誠実に守り抜く人を見つけることは難しいです。だからこそ、神様は「憐れみと慈悲をもってあなたに嫁を迎える」と言われ、「わたしの誠実さをもってあなたに嫁を迎える」と言われ、「永遠にあなたを生かせるためにあなたに嫁を迎える」と言われたのです。

호세아 묵상 【장가가는 하나님】 20241003(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

호세아 2:14~232:14 그러므로 내가 저를 개유하여 거친 들로 데리고 가서 말로 위로하고2:15 거기서 비로소 저의 포도원을 저에게 주고 아골 골짜기로 소망의 문을 삼아 주리니 저가 거기서 응대하기를 어렸을 때와 애굽 땅 에서 올라오던 날과 같이 하리라2:16 여호와께서 이르시되 그 날에 네가 나를 내 남편이라 일컫고 다시는 내 바알이라 일컫지 아니하리라2:17 내가 바알들의 이름을 저의 입에서…

ホセア黙想 【当たり前なこと何一つない】 20241002(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ホセア 2:2~132:2 「問いただせ。あなたがたの母を問いただせ。彼女はわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではないから。その顔から淫行を、その乳房の間から姦淫を取り除け。2:3 そうでなければ、わたしは彼女の衣をはぎ取って裸にし、生まれた日のようにして彼女をさらし、荒野のようにし、砂漠の地のようにして、渇きで彼女を死なせる。2:4 彼女の子らを、わたしはあわれまない。彼らは姦淫の子らだから。2:5 彼らの母は姦淫を行い、彼らをはらんで恥をさらした。彼女は言ったものだ。『私の愛人たちの後について行こう。彼らはパンと水、羊毛と麻、油と飲み物をくれる』と。2:6 それゆえ、わたしは茨で彼女の道に垣根を巡らし、彼女が通い路を見つけないように石垣を積む。2:7 彼女は愛人たちの後を追っても、追いつけない。彼らを捜し求めても、見つけられない。彼女は言う。 『私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから』と。2:8 しかし彼女は知らない。このわたしが、穀物と新しいぶどう酒と油を彼女に与えたのを。わたしが銀と金を多く与えると、彼らはそれをバアルに造り上げたのだ。2:9 それゆえ、わたしはその時になれば、わたしの穀物を取り返す。その時期になれば、わたしの新しいぶどう酒を。また、彼女の裸をおおっているわたしの羊毛と麻をはぎ取る。2:10 今、わたしは彼女の恥を、愛人たちの目の前で暴く。彼女をわたしの手から救い出せる者はいない。2:11 わたしは彼女のすべての喜びを、祭り、新月祭、安息日、すべての例祭を終わらせる。2:12 『これは、愛人たちが払ってくれた私への報酬』と彼女が言った、あのぶどうの木といちじくの木を荒れすたらせる。わたしはこれを林に変えて、野の獣が貪り食うようにする。2:13 彼女がバアルの神々に仕えた日々のゆえに、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルの神々に香をたき、耳輪や飾りを付けて愛人たちの後について行き、このわたしを忘れた。──主のことば。 ■神様はイスラエルに対して「妻」と呼び、その妻であるイスラエルが他の男と姦淫を犯したと語られます。神様は深い裏切りと怒りを感じておられます。妻が愛と信義を裏切り、姦淫を犯したのに怒りや嫉妬を感じないのであれば、それは愛がないからでしょう。出エジプト記20章5節と申命記4章24節で神様は「妬む神」として言及されていますが、それは神様とイスラエルが夫婦のように契約を結んだからです。だからこそ、神様はイスラエルの偶像崇拝を厳しく叱責されるのです。私たちは「羨望(envy)」を自己中心的で否定的な感情と考えますが、「嫉妬(jealousy)」は愛の関係において、愛を証明する感情になることもあります。所有に執着した嫉妬とは区別されるべきです。 ■神様は今、彼らを裁こうとしています。神様がイスラエルから奪い取ったり、苦しめたりするのではありません。ただ、これまで神様が与えてきたものを与えないだけで、それが彼らの苦痛と滅亡につながるのです。神様はもはやこれまで与えてきたものを回収し、与えないでしょう。今まで当然のように楽しんできたものが奪われます。着るものも、飲むものも、食べるものも、すべては神様から与えられたものです。イスラエルがバアルを慕い、バアルに捧げた金や銀さえも、神様が彼らに与えたものです。神様は無意味な供給をやめられます。人が恵みを知らなければ、神様を裏切るのではなく、自ら滅びるのです。すべては神様から来たものだからです。 ■時には、神様を人格的に敬うのではなく、単に神様を神的存在として恐れる人に出会うことがあります。日曜礼拝に出ないと罰を受けるのではないか、何か間違ったことをすると悪いことが起こるのではないかと考えるのです。何をするにも自分勝手に行動し、神様を全く意識しない人よりはましかもしれませんが、病気にならないために、事故に遭わないために、損をしないために、もちろんそれは大切であるが、それを目的にして神様を信じるわけではありません。神様は気分が悪いからといって私たちに害を与える方ではありません。それは町の神社や占い師が言う神々です。彼らはその神を信じなければ自分に災いが降りかかるのではないかという恐れから、その神を信じているのです。 ■私たちはそのような理由で礼拝し、奉仕し、献身するのではありません。より多く行えば、より多くの報いを得られるという欲望で行うのでもありません。すべては神様から来ました。今の平和は、神様の供給があるからこそ可能なのです。食べるものも、飲むものも、着るものも、生命を維持するためのすべての供給とその命さえも、すべて神様から与えられ、救いもまた神様から来ました。それを知り、信じ、告白するからこそ、私たちは神様を崇めるのです。バアルに心を奪われた妻は、欠乏と苦痛に見舞われるでしょう。神様が酷いのではなく、その愛を受けていながら裏切った人間が酷いのです。私が受けたすべては、過ごしてきた時すべて、歩んできた日々すべて、すべてが主からの恵み… 当たり前のことなど何もなく、すべてが恵み、主の恵み…

호세아 묵상 【당연한 건 하나도 없었던 것을】 20241002(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

호세아 2:2~132:2 너희 어미와 쟁론하고 쟁론하라 저는 내 아내가 아니요 나는 저의 남편이 아니라 저로 그 얼굴에서 음란을 제하게 하고 그 유방사이에서 음행을 제하게 하라2:3 그렇지 아니하면 내가 저를 벌거벗겨서 그 나던 날과 같게 할 것이요 저로 광야 같이 되게 하며 마른 땅같이 되게 하여 목말라 죽게 할 것이며2:4 내가 그 자녀를 긍휼히 여기지 아니하리니…

ホセア黙想 【ゴメルに行きなさい】 20241001(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ホセア 1:1~2:11:1 ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアにあった主のことば。1:2 主がホセアに語られたことのはじめ。主はホセアに言われた。「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ。この国は主に背を向け、淫行にふけっているからだ。」1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルを妻とした。彼女は身ごもって、彼に男の子を産んだ。1:4 主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名づけよ。しばらくすれば、わたしがイズレエルでの流血のゆえにエフーの家を罰し、イスラエルの家の王国を終わらせるからだ。1:5 その日、わたしはイズレエルの平原で、イスラエルの弓を折る。」1:6 ゴメルはまた身ごもって、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子をロ・ルハマと名づけよ。わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さないからだ。1:7 しかし、わたしはユダの家をあわれみ、彼らの神、主として、彼らを救う。ただし、弓、剣、戦い、あるいは馬、騎兵によって救うのではない。」1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、身ごもって男の子を産んだ。1:9 主は言われた。「その子をロ・アンミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。」1:10 イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。1:11 ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。2:1 言え。あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者」と。 ■今日の本文の時代は、前回の黙想で読んだ第二列王記14章から20章に該当します。この時期は、北イスラエルのアハブ王朝が滅び、エフー王朝のヤロブアムが王であった時代です。そして、この時にホセア預言・者の物語が登場します。ホセアは、言葉や論理でメッセージを伝えた預言者ではなく、苦痛に満ちた感情を抱え、自身の人生の物語を通してメッセージを伝えた預言者です。そのため、ホセア書を読むと、預言書や説教のようには感じられず、まるで小説やドラマのように感じられます。長くないので、ホセア全体を読んだ後に、日々の黙想に入ることをお勧めします。 ■神様はホセアに、淫らな女ゴメルと結婚し、淫らな子供たちをもうけるようにと言われます。奇妙な命令です。ホセアの物語は、純潔な妻が堕落していく話ではなく、すでに堕落して淫らであることを知りながら結婚する内容です。もちろん、これは家庭の倫理を語っているのではありません。ホセアを模倣して、不道徳な相手と結婚するべきだということではありません。神様は淫らな女ゴメルを通して堕落したイスラエルを表し、ホセアの愛を通して神様の救いの真理を語ろうとしているのです。 ■ホセアと結婚したゴメルは、息子イズレエルを産み、次に娘ロ・ルハマを産み、再び息子ロ・アミを産みます。イズレエルは「神が散らす」という意味です。つまり、神様がイスラエルを裁かれることを示しています。二番目の娘ロ・ルハマは「憐れまれない」という意味であり、これはイスラエルに対する神様の憐れみが終わったことを意味します。末の息子ロ・アミは「私の民ではない」という意味です。つまり、契約が破棄されたことを意味しています。神様の怒りは明らかで、すでに罰を与えることが決定されており、その罰は一時的な覚醒のためではなく、滅びを決定するものです。 ■しかし、9節と10節の間に何が起こったのでしょうか?突然、何の条件も理由の説明もなく、「しかし」という接続詞で文が転換し、再び憐れみと回復を語られます。全く論理的な展開ではありませんが、それは神様の感情によるものです。罰を与え、心配する心と、癒しを与える心が、もともと愛という一つの心であるためです。まるで神様が激しい感情をそのまま表し、裁きと回復を繰り返し語っているかのようです。神様の正義と憐れみが激しく入り混じったその感情状態を、どのように定義すべきかわかりません。しかし、愛の中ではしばしば起こることです。 ■今日の本文は2章1節までです。「言え。あなたがたの兄弟には、「わたしの民」と。あなたがたの姉妹には、「あわれまれる者」と。」意訳される前の訳はこうです。「あなたたちの兄弟には『アミ』と言いなさい。あなたたちの姉妹には『ルハマ』と言いなさい。」1章9節で神様はロ・アミと名付けられ、「私の民ではない」という意味でしたが、2章1節の「アミ」は「私の民」という意味です。1章6節でロ・ルハマという名前は「憐れまれない」という意味でしたが、2章1節の「ルハマ」は「憐れまれた者」という意味です。これは、神様が再びイスラエルに憐れみと慈しみを与え、イスラエルと神様の契約関係が回復されることを語っているのです。愛することができないと思われる淫らな妻ゴメルに対するホセアの愛の物語、感受性が豊かになる10月には、ホセアの愛の物語に耳を傾けてみましょう。

호세아 묵상 【고멜에게로 가라】 20241001(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

호세아 1:1~2:11:1 웃시야와 요담과 아하스와 히스기야가 이어 유다 왕이 된 시대 곧 요아스의 아들 여로보암이 이스라엘 왕이 된 시대에 브에리의 아들 호세아에게 임한 여호와의 말씀이라1:2 여호와께서 비로소 호세아로 말씀하시니라 여호와께서 호세아에게 이르시되 너는 가서 음란한 아내를 취하여 음란한 자식들을 낳으라 이 나라가 여호와를 떠나 크게 행음함이니라1:3 이에 저가 가서 디블라임의 딸 고멜을 취하였더니 저가 잉태하여…

느헤미야 묵상 【머리털 뽑히기 전에】 20240930(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

느헤미야 13:23~3113:23 그 때에 내가 또 본즉 유다 사람이 아스돗과 암몬과 모압 여인을 취하여 아내를 삼았는데13:24 그 자녀가 아스돗 방언을 절반쯤은 하여도 유다 방언은 못하니 그 하는 말이 각 족속의 방언이므로13:25 내가 책망하고 저주하며 두어 사람을 때리고 그 머리털을 뽑고 이르되 너희는 너희 딸들로 저희 아들들에게 주지 말고 너희 아들들이나 너희를 위하여 저희 딸을 데려오지…

ネヘミヤ 黙想 【毛が引き抜かれる前に】 20240926(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ネヘミヤ 13:23~3113:23 そのころまた私は、アシュドデ人、アンモン人、モアブ人の女を妻にしているユダヤ人たちに気がついた。13:24 彼らの子どもの半分は、アシュドデのことばか、あるいはそれぞれほかのことばを話して、ユダヤのことばが分からなかった。13:25 そこで私は彼らを詰問してののしり、そのうちの数人を打って毛を引き抜き、神にかけて誓わせて言った。「あなたがたの娘を彼らの息子に嫁がせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子、あるいはあなたがた自身の妻としてはならない。13:26 イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。13:27 あなたがたについても、異国人の女を妻とし、私たちの神の信頼を裏切るという、この大きな悪が行われていることを聞かなければならないのか。」13:28 大祭司エルヤシブの子エホヤダの子の一人は、ホロン人サンバラテの婿であった。それで、私は彼を私のところから追い出した。13:29 私の神よ、どうか彼らのことを覚えていてください。彼らは祭司職を汚し、祭司職とレビ人たちの契約を汚したのです。13:30 私は異教的なもの一切から彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めにしたがって職務に就かせ、13:31 定められた時に行う薪のささげ物と、初物についても規定を定めた。私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。 ■イスラエルの民が異邦人と結婚し、その子どもたちがヘブライ語を話せないことに怒りを感じたネヘミヤは、アイデンティティを守るために懲罰を始めました。異邦人との結婚を禁じ、再び同じ問題が起こらないようにしました。エズラにも同様の出来事がありますが、エズラはすでに子どものいる家族をも離婚させ、異邦人の妻を追放しました。ネヘミヤとエズラは同時代の人物ですが、同じ事件ではありません。 ■両者を比較すると、エズラは祭司であり学者として妥協せず、断固として厳格な態度を取りましたが、彼の方法は過激ではありませんでした。一方、総督であるネヘミヤは、制度的かつ行政的な措置を取っただけでなく、激怒し、人々を殴り、髪の毛を引き抜くといった暴力的な手段も用いました。ネヘミヤの城壁再建プロジェクトにおけるリーダーシップは卓越しており、彼の強力なリーダーシップには目標達成のための集中力があったものの、時に強圧的になりかねないという二面性も見られました。 ■しかし、改革者というものは本来、涙を飲み、批判を耐えなければならない存在です。改革を行うためには、普段よりも強い力が必要で、時には過剰に見える行動が求められることもあります。運動していない物体は、外力を受けない限りその状態を維持しようとし、動いている物体はそのまま動き続けようとする、これはニュートンの第一法則、いわゆる慣性の法則です。社会や制度、人々の心も同様で、その慣性を変えるためには強力な外的衝撃が必要です。改革とは、慣性を変える力なのです。 ■私たちは宗教社会ではなく、憲法で信教の自由が保証されている現代に生きているため、エズラやネヘミヤの事例を文字通りに適用することはできません。しかし、その時代に彼らが苦心して改革を推進した精神を見つけ出し、それを現代にどう適用するかを考える必要があります。パウロも非キリスト教徒との結婚を一概に否定せず、信仰を通じてその配偶者が救われる可能性についても言及しています。 ■結婚は人生において非常に重要な選択です。人生において信仰が最も重要な価値だと考える人は、当然ながら信仰を共有できるパートナーを求めるでしょう。最も大切なのは自分自身の意志です。誰と結婚するかの問題は、根本的には自分がどんな人間であるかという問題に直結します。結婚相手を選ぶとき、自分がまず神様の前で自分が誰なのか、どんな信仰を持つ人間なのかを確認しなければなりません。そうすれば、誰と結婚すべきかが自然と見えてくるでしょう。

ネヘミヤ記 黙想 【差別と区別】 20240928(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ネヘミヤ記 13:1-9 13:1 その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。 13:2 それは、かつて彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからであった。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた。 13:3 民はこの律法を聞くとすぐに、混血の者をみなイスラエルから切り離した。 13:4 これより以前、祭司エルヤシブは、私たちの神の宮の部屋を任されていて、トビヤと親しい関係にあったので、 13:5 トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた。以前その部屋は、穀物のささげ物、乳香、器、またレビ人や歌い手や門衛たちのために定められていた、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、さらに祭司のための奉納物を保管するところであった。 13:6 この間ずっと、私はエルサレムにいなかった。私が、バビロンの王アルタクセルクセスの三十二年に王のところに行き、その後しばらくして王にいとまを乞い、 13:7 エルサレムに帰って来たからである。そのとき私は、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。 13:8 私は大いに気分を害し、トビヤ家の家財をすべてその部屋から外へ放り出し、 13:9 命じて、その部屋をきよめさせた。そして私は、神の宮の器を、穀物のささげ物や乳香と一緒に再びそこに納めた。     礼拝共同体が形成されたイスラエル民は、神様の御言葉を聞き、その通りに行うことに力を注ぎました。そしてその中には、もしかしたら私たちの心を不快にさせるかも知れない姿が記録されています。それは今まで一緒に過ごしていた者たちを容赦なく切り離す様子です。  以前の黙想で、イスラエルは捕虜期を終え、彼らの選民思想を捨てることになったという内容を扱ったことがありますが、今日のイスラエル民の様子は、まるでその選民思想が再びできたしまったように見えるかもしれません。  今日の箇所でイスラエルの民が聞いただモーゼの書は、私たちがよく知っているモーゼ五書、創世記から申命記までの律法書です。彼らはそこからアンモンの人とモアブの人についての御言葉、特に民数記に出てくるするモアブの人たちと、彼らがバラムを通してイスラエル民に罪を犯させたことを発見しました。そして、御言葉に従って、自分たちの中でアンモン人とモアブ人、混血たちを切り離しました。  しかし、彼らが律法書から見た通り、アンモン人とモアブ人の中には神の集会、礼拝共同体に加えられた人がなかったのでしょうか。そうではありませんでした。申命記までの律法書を通り過ぎ、士師の時代に登場する人物、ルツはモアブの人でした。しかし、ルツは明らかにイスラエル共同体に加わって、イエス様の家系図にその名が残されるまでになりました。  このことから、イスラエルの民が自分たちか切り離したアンモン人とモアブ人、混血の人とは、民族や血統だけを意味するのではなく、彼らのアイデンティティ、彼らの信仰を意味するとも考えられるでしょう。そして、それは、イスラエルの民のアイデンティティと信仰が神様によって回復されたように、彼らもなお、いつでも神様によってアンモン人、モアブ人という存在からイスラエルの礼拝共同体の一員になれるということだとも言えるでしょう。そう考えると、今日イスラエルの民が行ったことは、世俗的な差別ではなく、信仰による区別だと言えると思います。  真理の御言葉と争う現代の数多くの問題、そしてその人々に向かって、教会が行うべきことは世俗的な差別ではなく、信仰による区別です。彼らを排除するのではなく、再び神様に立ち返られるように、イエス·キリストの十字架によって罪を赦され、神様に向かう心を回復し、再び一つの礼拝共同体を成し遂げられていくように助け、祈り、備えることが、この時代を生きていく教会の使命であるでしょう。https://youtu.be/1_tnPcDoOzc?si=sGEhrNHryqYwjilQ

느헤미야 묵상 【차별과 구별】 20240928(토) 최종석 전도사

느헤미야 13:1-9 13:1 그 날 모세의 책을 낭독하여 백성에게 들렸는데 그 책에 기록하기를 암몬 사람과 모압 사람은 영원히 하나님의 총회에 들어오지 못하리니 13:2 이는 그들이 양식과 물로 이스라엘 자손을 영접하지 아니하고 도리어 발람에게 뇌물을 주어 저주하게 하였음이라 그러나 우리 하나님이 그 저주를 돌이켜 복이 되게 하셨다 하였는지라 13:3 백성이 이 율법을 듣고 곧 섞인 무리를…