욥기 QT42 211119금【하나님이 주시는 지혜】욥기 28장 1~11

욥기 28장 1~1128:1 은은 나는 광이 있고 연단하는 금은 나는 곳이 있으며28:2 철은 흙에서 취하고 동은 돌에서 녹여 얻느니라28:3 사람이 흑암을 파하고 끝까지 궁구하여 음예와 유암 중의 광석을 구하되28:4 사람 사는 곳에서 멀리 떠나 구멍을 깊이 뚫고 발이 땅에 닿지 않게 달려 내리니 멀리 사람과 격절되고 흔들흔들 하느니라28:5 지면은 식물을 내나 지하는 불로 뒤집는 것같고28:6…

ヨブ記 QT40 211116水【目覚めたらいない】ヨブ記 27章 13~23

ヨブ記 27章 13~2327:13 悪しき人間が神から受ける分、横暴な者が全能者から受け継ぐものは次のとおりだ。27:14 たとえ子どもが増えても、剣にかかり、子孫が食べ物に満ち足りることはない。27:15 その生き残りも死んで葬られ、やもめたちは泣きもしない。27:16 彼が金をちりのように積み上げ、衣装を土のように蓄えても、27:17 蓄えたものは、正しい者がこれを着て、金は、潔白な者が分ける。27:18 彼はシミの巣のような家を建てる。番人が作る仮小屋のような家を。27:19 富む者として床につくが、もうそれきりだ。目を開けると、もう何もない。27:20 突然の恐怖が洪水のように襲い、夜にはつむじ風が彼を運び去る。27:21 東風が彼を運ぶと、彼はいなくなり、その居場所から彼を吹き払う。27:22 それは容赦なく襲いかかり、彼はその手から必死に逃れようとする。27:23 それは彼に向かって手をたたき、彼を嘲って、その居場所から追い出す。   悪者も栄えることがあります。ヨブは次のようにその逆説を語ります。悪しき人も繁栄します(14)が、その繁栄のために剣にかかり(14)、それを食べることができず(14)、死んで葬られ(15)、悪しき人は栄えますが(16)、それを楽しみません。悪しき人も富を積むことがあります。 しかし、それはすぐに他人のもの、義人のものとなり(17)、自分のものとはなりません。たとえ、金持ちが死んでも行く所がありません(18)。   地上にある良いもので神様の恵みの程度を測定することはできません。なくても豊かな人がいれば、所有していても不幸な人がいます。使っても減らない人がいれば、たくさんあっても使えない人がいます。条件が悪くても幸せな人がいれば、すべてが揃っていても不安な人がいます。箴言は、「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。28:1」と言いました。不安と恐怖の時代を生きる人々は、なぜ不安なのか、また自分の敵が何であるかを知らないまま、不安に包まれています。   ヨブは彼らが持っていたものが「目を開けると、もう何もない。19」と言います。90年代出版して人気を浴びたキム・ハンギルの『目覚めたらいない』というエッセイ集があります。アメリカの生活を勝ち抜いて成功を遂げますが、その過程を幸せに生きることができず、結局夫婦は別れることになります。妻はアメリカで、キリスト教の信仰を持ち、後に牧師になりますが、癌にかかり、今はいなくなっています。キム・ハンギルの別れた妻は、実は先日引用したイ・オリョン先生の娘です。   彼らの話を悪い例とするつもりらありません。彼自身告白しているように、成功のために生きるものの、「目覚めるといない」という告白に共感するのです。ヨブが言っている悪者も「凶悪な悪党」ではなく「愚かな群像」なのかもしれません。人生は、目を閉じたまま前へ走り続けるようなものですが、ある日、目を開けてみると大切なものが残っていないことがあります。目覚めたら何もいない、気づいたら何もないことに気がつくことがあります。エッセイは、ハッピーエンディングではありませんが、困難な日に互いを配慮した日常の話は幸せな物語として響いてきます。つまり幸せは確かにありましたが、それに気付かず生きてきた、ということです。「義人は今日を味わって生きる人」であり、「悪人は明日の不安に生きる人」ではないでしょうか。

욥기 QT41 211118목【눈뜨면 없어라】욥기 27장 13~23

욥기 27장 13~2327:13 악인이 하나님께 얻을 분깃, 강포자가 전능자에게 받을 산업은 이것이라27:14 그 자손이 번성하여도 칼을 위함이요 그 후에는 식물에 배부르지 못할 것이며27:15 그 남은 자는 염병으로 묻히리니 그의 과부들이 울지 못할 것이며27:16 그가 비록 은을 티끌같이 쌓고 의복을 진흙같이 예비할지라도27:17 그 예비한 것을 의인이 입을 것이요 그 은은 무죄자가 나눌 것이며27:18 그 지은 집은…

ヨブ記 QT40 211116水【原罪と自犯罪】ヨブ記 27章 1~12

ヨブ記 27章 1~1227:1 ヨブはさらに言い分を続けた。27:2 私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。私のたましいを苦しめた全能者にかけて。27:3 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、27:4 私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない。27:5 あなたがたを正しいとすることなど、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の誠実さをこの身から離さない。27:6 私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。27:7 私の敵は悪しき者のようになれ。向かい立つ者たちは不正を働く者のようになれ。27:8 神を敬わない者に、どのような望みがあるのか。神が彼を断ち切り、いのちを取り去るときには。27:9 苦しみが彼に降りかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。27:10 彼は全能者を自分の喜びとするだろうか。どんなときにも神を呼び求めるだろうか。27:11 私は、神の御手にあることをあなたがたに教え、全能者のもとにあるものを隠さない。27:12 あなたがたは、全員がそれを見たのに、なぜ、全く空しいことを言うのか。   何の希望も残っていないヨブは、崖っぷちに立っていますが、それでも神様に対する信仰を告白し、自分の無実を訴えています。27章から31章までは、ヨブの独白なので、友達の即時の反応はありませんが、友人たちは間違いなくこれに対してヨブが悔い改めていないと非難するはずです。繰り返す弁論でヨブは悔い改めをしなかったし、ヨブ記は始まりの1章1節で、全知的作家時点からヨブを「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている人」と紹介しました。   だから、ヨブ記のヨブの紹介とヨブの無罪の抗弁は一貫していますが、ただ、私たちの人間論とぶつかります。私たちの人間論は、いかなる敬虔な人であっても罪人だからです。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ローマ3:23」 福音の人間論は「全的腐敗」です。ヨブが悔しいことになっていることは分かりますが、それでも罪がないと言えないものではないというのが、ヨブを読んでいる私たちの立場です。   ヨブが神様を信じるということは、その神様は公正で聖なる方であるという存在論的な神様です。神様の何かの行いの前に、聖く存在する方です。ヨブ自身が聖なるもので義なる存在であったなら、神様を信じりことはなく、信じることもできません。聖なるということの程度を持っていない神様について、人間が聖なる神様と呼ぶのは、すなわち「私は罪深い人間です。」という告白のようなことです。ヨブが自分の無罪を嘆願することが、神様の前に「自分は罪がない」と言っていることではないということです。   しかし、友人たちが言っているヨブの苦痛の原因は、いわゆる原罪によるものではありません。原罪によってヨブのように苦しむなら、友人たちもその苦しみを受けなければならないです。友人が悔い改めを求めるのは、すべての人が罪を犯したという人間論ではなく、ヨブが神様と人に隠して犯した故犯罪を自白しろうということです。このように分けてみると、ヨブが自分の無罪を語ることができますす。   罪を区分するとき、「原罪」と「自犯罪または故犯罪」に分けられます。「自犯罪」は、自分で罪を犯すという意味であり、故犯罪は故意に罪を犯すということです。自犯罪とは、原罪の腐敗性を持つ人が、直接に犯罪の行為をすることです。だから、原罪は生まれた時から持っている本性の罪でありますが、自犯罪は、自分の意志的な悪行です。自犯と故犯の所持が多いほど、社会の法廷でも罪質が悪いと言います。律法でも自犯罪の軽重を区分して処罰を異にします。   原罪に対して、社会的な意味としての罪ありと定めることはできないように、意識的に自犯罪をし、それを信仰に持って来て、原罪を告白するように言うのは、高度な偽善です。ヨブは罪を悟って知っていますが、それを犯さないように節制し、管理していた人です。心で罪を深く悟り、手では罪を犯さないように腐心して生きるのが聖徒の姿勢です。  

욥기 QT40 211117수【원죄와 자범죄】욥기 27장 1~12

욥기 27장 1~1227:1 욥이 또 비사를 들어 가로되27:2 나의 의를 빼앗으신 하나님 나의 영혼을 괴롭게 하신 전능자의 사심을 가리켜 맹세하노니27:3 (나의 생명이 아직 내 속에 완전히 있고 하나님의 기운이 오히려 내 코에 있느니라)27:4 결코 내 입술이 불의를 말하지 아니하며 내 혀가 궤휼을 발하지 아니하리라27:5 나는 단정코 너희를 옳다 하지 아니하겠고 죽기 전에는 나의 순전함을 버리지…

ヨブ記 QT39 211116火【知らない知識】ヨブ記 26章 1~14

ヨブ記 26章 1~1426:1 ヨブは答えた。26:2 あなたは無力な者をどのように助けたのか。力のない腕をどのように救ったのか。26:3 知恵のない者にどのように助言し、知性を豊かに示したのか。26:4 だれに対してことばを告げたのか。だれの息があなたから出たのか。26:5 死者の霊たち、水に住む者たちはその底で、もだえ苦しむ。26:6 よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない。26:7 神は北を、茫漠としたところに張り広げ、地を、何もないところに掛けられる。26:8 神は水を濃い雲の中に包まれるが、雲はその下で裂けることはない。26:9 神は満月の面をおおい、その上に雲を広げ、26:10 水の面に円を描いて、光と闇との境とされた。26:11 天の柱は揺らぎ、神の叱責に驚愕する。26:12 神は御力によって海を鎮め、ご自分の英知をもってラハブを打ち砕かれる。26:13 その息によって天は晴れ渡り、御手は逃げる蛇を刺し殺す。26:14 見よ、これらは神のみわざの外側にすぎない。私たちは神についてささやきしか聞いていない。御力を示す雷を、だれが理解できるだろうか。   人の考えや言葉が合うことも、間違うこともありますが、聞いたことを自分のものとして噛み砕かずにそのまま伝えることは、知らずに言ったことなので、力がなく、説得力もありません。結局、間違ったことになります。自分のものとして消化するというのは、それを理解し、自分の言語と論理で編集できるようになるということです。   私たちはあふれる情報の中で生きています。ということで毎日多くの情報を検索します。しかし、情報を収集する能力より大切なのは、情報を処理する能力です。情報を入手した後、それを整理し、編集して自分の論理を持って自分の論旨を言えるなら、それはもはや他のものではなく、自分のものになったのです。   ビルダデには、自分の知性と人格の中に噛み砕き、自分の言語と論理で編集された神様はいません。友達の論争ムードに同乗して聞いた言葉を機械的に繰り返しただけです。ビルダデは考えることには怠けますが、しゃべることは好きな人です。こういう人々によって信仰というものが、狐を馬に乗せたような話にになってしまいます。   ビルダデの無駄な言葉について,ヨブはビルダデを辛辣に批判します。ビルダデは、神様は天から平和を作ると言いましたが、ヨブは「よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれることはない。6」と言います。ヨブは、ビルダデの人生に適用もできない矛盾、見たいものだけ見、言いたいことだけ言う偏りについて笑います。ビルダデが分からないと言ったなら正解を言ったことになります。知らないことについては神様に対する質問にし、知ることについては自分の知識として噛み砕き、自分の言語で告白する信仰になりたいと願います。

욥기 QT39 211116화【모르는 지식】욥기 26장 1~14

욥기 26장 1~1426:1 욥이 대답하여 가로되26:2 네가 힘 없는 자를 참 잘 도왔구나 기력 없는 팔을 참 잘 구원하였구나26:3 지혜 없는 자를 참 잘 가르쳤구나 큰 지식을 참 잘 나타내었구나26:4 네가 누구를 향하여 말을 내었느냐 뉘 신이 네게서 나왔느냐26:5 음령들이 큰 물과 수족 밑에서 떠나니26:6 하나님 앞에는 음부도 드러나며 멸망의 웅덩이도 가리움이 없음 이니라26:7 그는…

ヨブ記 QT38 211115月【うじ虫にたとえられた人生】ヨブ記 25章 1~6

ヨブ記 25章 1~625:1 シュアハ人ビルダデが答えた。25:2 主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。25:3 その軍勢の数には限りがあるだろうか。その光に照らされない者がいるだろうか。25:4 人はどうして神の前に正しくあり得るだろうか。女から生まれた者が、どうして清くあり得るだろうか。25:5 ああ、神の目には月さえ輝きがなく、星も清くない。25:6 まして、うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子はなおさらだ。   イザヤ41章で、神様はヤコブを「虫けら」と言いました。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。41:14」ヤコブはイスラエルのことであり、イスラエルは人間のことです。   詩編22編ではダビデが自らを虫であると言いました。「しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。 22:6」 今日、本文のビルダデの表現にも「うじ虫でしかない人間、虫けらでしかない人の子」という言葉が出てきます。聖なる神様の前に立った罪深い人間が、自分の存在を悟るとき、うじ虫、虫けらなどの表現をすることはあり得るかと思います。ところが、それが他人に対するものであれば、事実かどうかを問わずに、引き下げるべきことであり、蔑むことです。   ビルダデも他の友人のように美辞麗句を立て板に水のように語っていますが、脳を通さず、心を通さずに口で言っている言葉です。ヨブの罪を指摘するために使われている表現は、ヨブの人格(6)と、ヨブの両親(4)と神様の創造された被造世界(5)までも罪悪に満ちたものとしています。2節では「神様は主権と恐れをもって高い所で平和をつくられる」と言いますが、ルカの福音書では、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。2:14」とあります。お腹が空いた人がご飯を食べることと、孤独な人が慰められることと、病気の人が癒されることが、すなわち平和です。   人間がうじ虫、虫けらであるというのは、聖なる神様の前では人間は腐敗したという知識が前提としてありませ。だとすれば、もう一つの知識も必要なります。それは、神様がそんな人間を愛され、貴い存在として思われる、ということです。たとえ虫けらと表現される悲惨な状態の人間ですが、神様はそのような人を尊重しているということです。私たちね無視と蔑視に代わって和平を成してくださった十字架の愛がそれを証明します。   イザヤ書で、神様が虫けらのようなイスラエルと言われたのと、詩篇で虫けらのようなダビデが神様に訴えているのは、虐待や自虐ではなく、助けを求めているのであって、またそれに対する神様の約束の場面です。神様に赦された人が、人を赦すことができます。神様に愛された人が、人を愛することができます。ビルダデは、果たして自分の個人的な祈りでこのような告白をしたのでしょうか。自分が虫けらだったら、虫けらを憐れむべきです。ビルダデは自分の信仰という名の刀を握り、神様の愛を突き刺し、蔑んでいるのです。

욥기 QT38 211115월【구더기에 비교된 인생】욥기 25장 1~6

욥기 25장 1~625:1 수아 사람 빌닷이 대답하여 가로되25:2 하나님은 권능과 위엄을 가지셨고 지극히 높은 곳에서 화평을 베푸시느니라25:3 그 군대를 어찌 계수할 수 있으랴 그 광명의 비췸을 입지 않은 자가 누구냐25:4 그런즉 하나님 앞에서 사람이 어찌 의롭다 하며 부녀에게서 난 자가 어찌 깨끗하다 하랴25:5 하나님의 눈에는 달이라도 명랑치 못하고 별도 깨끗지 못하거든25:6 하물며 벌레인 사람, 구더기인…

ヨブ記 QT37 211113土【ヨブ記23章10節の理解】ヨブ記 23章 1~17

ヨブ記 23章 1~1723:1 ヨブは答えた。23:2 今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。23:3 ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座にまで行きたいものだ。23:4 私は神の御前に自分の言い分を並べて、ことばを尽くして訴えたい。23:5 神が私に答えることばを知り、神が私に言われることをわきまえ知りたい。23:6 神は強い力で私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださるだろう。23:7 そこでは正直な人が神と論じ合うことができ、私は、とこしえにさばきを免れるだろう。23:8 だが見よ。私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。23:9 左に向かって行っても、神を見ることはなく、右に向きを変えても、会うことができない。23:10 しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。23:11 私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それたことがない。23:12 私は神の唇の命令から離れず、自分の定めよりも神の口のことばを蓄えた。23:13 しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。神はご自分が欲するところを行われる。23:14 神は、私について定めたことを成し遂げられる。神にはそのような多くの定めがあるからだ。23:15 それで私は、神の御前でおびえ、思いを巡らして、神を恐れているのだ。23:16 神は私の心を弱くされた。全能者が私をおびえさせられたのだ。23:17 しかし、闇によって私が黙らされることはない。私の顔が暗黒におおわれていても。   23章は、エリファズに対するヨブの抗弁ですが、私たちに親しみのある御言葉があります。 23章10節です。「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。」23章10節は、この間の8章7節「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。」の場合のように背景や文脈を考えると、解釈に誤解を招きやすい箇所です。ヨブ23章10節の韓国語の他の翻訳(私の重訳)を参照にすると、次のとおりになります。   「神様は、私が足を一度運ぶのを知っておられる方です。私を試してみると、私に傷がないことがわかります!標準新訳」 「それでも神様はわたしの運んでおく歩みを知っておられる方。私がどんな人間なのかを見てみようとされますが、私はきれいな人間であることを知るようになります。現代語聖書」 「しかし、神様は私の歩みをことごとく知っておられるから、はたいて、またはたいても私は純金のようにきれいです。共同訳」   もともと私たちの解釈は「神様が火のような試験を与えても、この試練が終われば私は純金になって神様の前に立ちます」と、ヨブが状況を受け入れる意志であると理解しますが、文の意味は「神様が私をどんなに試しても、私は今、現在の純金のように純粋です」ということです。そう言った後、ヨブは自分は偏らずに神様に従い、命令に背かず、食べ物よりも神様のみことばを慕ったと言います。そこに不純な意図が混ざっていないため自分は純金だということです。   これほど自らの潔白を強調するヨブを見ると、疑いの目を向けてしまうものです。友人たちの断罪は、ますます鋭い刀になり、ヨブの無実の訴えは、ますます自己陶酔と過大妄想になっているようにも見えます。もちろんヨブは完全ではありません。ヨブに罪が全くないということも認められません。ただし、ヨブは自分がしなかった悪行を疑われていて、友人たちはそれを確信的に問題視している中、そのような自分の行為がなかったという事実を証明しなければならない状況です。   読み進めていくと、15節でヨブは神を恐れています。10節と同じように重要なのが15節です。「それで私は、神の御前でおびえ、思いを巡らして、神を恐れているのだ。」10節が自分の信仰の真実を友人に訴えた箇所であれば、15節はヨブが神様の前で恐れ震えている姿を映し出しています。   8章7節の「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる。」は、神様がヨブに言われた御言葉ではありません。ビルダデがヨブに言ったことと同じように、23章10節の「しかし神は、私の行く道を知っておられる。私は試されると、金のようになって出て来る。」もヨブは神様に告白した言葉ではなく、友達に弁論した言葉です。つまりヨブは妄想しているのではない。人には無実を証しし、神様の前では恐れなければならないからです。 23章10節の御言葉を愛したいなら、まず人の前に恥じのないように生きなければなりません。   金というものは、混ぜるとより強くなり、使いやすくなります。だから、純金で生きるということは、合金より美しくない、派手でもなく、弱くて不便な事になるかもしれません。ヨブが純金であるというのは、優れているという意味ではなく、純粋であるという意味です。ヨブは苦しみに置かれていますが、人の前で恥ずべきことはありません。ですから、より多くのものを混ぜて合金になろうとする人々にとって、神を恐れるヨブは羨ましい人だと言えるでしょう。