エゼキエル 黙想 【悔い改め、その恥の告発】 20250813水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:53~63 16:53 わたしは彼女たちを元どおりにする。ソドムとその娘たち、サマリアとその娘たち、また彼女たちの中にいるあなたを元どおりにする。 16:54 こうして、あなたは自分自身の恥辱を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべてのことによって、辱めを受ける。 16:55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは元のところに帰り、サマリアとその娘たちも元のところに帰り、あなたとあなたの娘たちも元のところに帰って来る。 16:56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。 16:57 しかしそれは、あなたの悪がさらけ出される前のことであって、今はアラムの娘たちや、その周りのすべての者、およびペリシテ人の娘たちのそしりの的となっている。彼女たちはあなたを四方から侮っている。 16:58 あなたは、自分の淫らな行いと忌み嫌うべきわざの報いを受けている──主のことば。 16:59 まことに、神である主はこう言われる。わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破ったのだ。 16:60 だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。 16:61 わたしがあなたの姉と妹を選び取って、あなたとの契約には含まれていないものの、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の生き方を思い出し、恥じることになる。 16:62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。 16:63 こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──神である主のことば。』」   エゼキエル書16章は、神がエルサレムを契約の妻として選ばれたにもかかわらず、その妻が淫行と裏切りを犯したことを告発している。神は裁かれるが、その裁きの後には回復も約束された。ただし、回復はすぐには訪れない。まずエルサレムは自分の恥を覚え、その恥に向き合わなければならない。恥を認め、責任を受け入れる場所でこそ、恵みが真実に経験されるからである。恥を知ってこそ、それを覆ってくださる感謝を知り、絶望を知ってこそ、救いの喜びが何であるかを知ることができる。 人は本能的に恥ずかしいことを隠したくなる。だから私たちは回避する。言い訳をしたり、状況や他人のせいにしたりする。そして自分自身をも欺く。しかし、だからといって恥の根が消えるわけではない。それは手のひらで空を覆い、目隠しして「見えていないふり」をしているに過ぎない。 信仰は、恥に向き合う勇気を必要とする。だから常に痛みが伴う。自分自身を認めることは苦しいことだからである。しかし、人が神の前で恥をさらけ出す瞬間、ただ神のご性質にだけ頼ることになる。自分の恥を神に告げることのできる勇気ある人の欠点を、神が覆ってくださるのだ。神の前で自分の恥を隠したままで保てるものは何もない。ゆえに、魂が正直でない者は悔い改めることができない。 「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び…」(ヘブル12:2)イエス様も恥を受けられた。十字架は侮辱的で恥ずかしい刑罰であった。イエス様は人類の罪を背負われただけではなく、私が認め、告白する私自身の恥を代わりに背負われたのである。そのためにキリストは恥を避けられなかった。それを告白できないなら、十字架はまだ私のものではない。 しかし、私たちは十字架の前でさえ、自分の恥を告白する勇気を持たない。悔い改めの祈りと言っても、多くの場合「聖なる言葉」で飾られている。口では罪人だと告白しながらも、その告白がかえって敬虔な人だという拍手を受けることになる。安全に見えるが、真実ではない。それは恥に向き合うのではなく、巧みに隠すことだ。だから、恥をさらして祈ることは非常に難しく、真の悔い改めの祈りは稀である。必要なのは自己憐憫ではなく、悔い改めである。悔い改めは、人前で言葉にするものではなく、静かな時の中で深い内面において行うものである。

에스겔 묵상 【회개, 그 수치의 고발】 20250813(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:53~63 16:53 내가 그들의 사로잡힘 곧 소돔과 그 딸들의 사로잡힘과 사마리아와 그 딸들의 사로잡힘과 그들 중에 너의 사로잡힌 자의 사로잡힘을 돌이켜서 16:54 너로 네 수욕을 담당하고 너의 행한 모든 일을 인하여 부끄럽게 하리니 이는 네가 그들에게 위로가 됨이라 16:55 네 아우 소돔과 그 딸들이 옛 지위를 회복할 것이요 사마리아와 그 딸들도 그 옛 지위를…

エゼキエル 黙想 【無責任が負う責任】 20250812 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:35~52 16:35 それゆえ、遊女よ、主のことばを聞け。 16:36 神である主はこう言われる。あなたは愛人たちや忌み嫌うべき偶像と姦淫をして、自分の恥ずかしいところを見せ、自分の裸をあらわにし、それらに自分の子を献げて血を流したのだ。 16:37 それゆえ、見よ。わたしは今、あなたが戯れたすべての愛人たちや、あなたが恋した者や、憎んだ者をすべて寄せ集め、彼らを四方から集めて、あなたの裸を彼らにさらけ出す。彼らは丸裸のあなたを見る。 16:38 わたしは、姦通した女と殺人を犯した女に下す罰によってあなたをさばき、ねたみと憤りをもってあなたの血に報いる。 16:39 わたしはあなたを彼らの手に委ねる。彼らはあなたの祭儀台を壊し、高台を打ち壊し、あなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたを丸裸にしておく。 16:40 彼らは集団をあおってあなたを襲わせ、石であなたを打ち殺し、剣であなたを八つ裂きにする。 16:41 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの目の前であなたにさばきを下す。こうして、わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう報酬を支払わなくなる。 16:42 わたしはあなたに対する憤りを収めるので、わたしのねたみはあなたから離れる。わたしは安んじて、二度と怒ることはない。 16:43 あなたが、自分の若かった日々を思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行いを返す──神である主のことば──。あなたはすべての忌み嫌うべきわざに、淫らな行いを加えなかったか。 16:44 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いる。「あの母にして、この娘あり」と。 16:45 あなたは、自分の夫と子どもを嫌った母の娘。自分たちの夫や子どもを嫌った姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヒッタイト人、あなたがたの父はアモリ人であった。 16:46 あなたの姉は、その娘たちと一緒にあなたの北に住んでいるサマリアであり、あなたの妹は、その娘たちと一緒にあなたの南に住んでいるソドムである。 16:47 あなたは彼女たちの道に歩み、彼女たちのした忌み嫌うべきわざをまねなかっただろうか。ほんのわずかの間に、あなたはすべての道において彼女たちよりも堕落してしまった。 16:48 わたしは生きている──神である主のことば──。あなたの妹ソドムとその娘たちさえ、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことを決してしなかった。 16:49 だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。 16:50 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌み嫌うべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼女たちを取り除いた。 16:51 サマリアも、あなたの罪の半分ほども罪深くはなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌み嫌うべきことをしたので、あなたのしたすべての忌み嫌うべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。 16:52 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥辱を負え。あなたが彼女たちよりも忌み嫌うべきことをして、罪が重かったため、彼女たちはあなたよりも正しいとされた。あなたも恥じて、あなたの姉妹たちを正しいとした恥辱を負え。   エルサレムは神の愛と恵みの頂点にあったが、その栄光は長く続かなかった。それは神が気まぐれだったからではなく、エルサレム自身が招いた結果である。恵みは神から受けながら、あらゆる真心と情熱は偶像に注ぎ込んだ。偶像とは単なる宗教的なオブジェではない。今、心と情熱を注いでいるその対象こそが偶像である。神は、堕落の象徴であったソドムやサマリアよりも、エルサレムがさらに悪く堕落した状態にあると評価された。 クリスチャンが世よりも悪くなり得るのは、神の啓示と恵みが生活の中に内面化されず、かえって宗教的特権意識だけが強調され、信仰が自己の不条理を正当化する道具へと変質してしまうからである。それは自己反省を遮断し、仮想の敵を作り、その敵を非難することで「自分はよく信じている」という自己欺瞞の構造を生み出す。信仰とは内面の価値によって証明されるものであり、誰かを憎むことで証明できるものではない。 その結果、対話は断絶し、互換性を失い、孤立が深まる。神の絶対性、イエス・キリストによる救いの唯一性と、宗教的独断や閉鎖性とは別のものである。批判されるべき行動ゆえに非難されながら、それを「義のために苦難を受けている」という自己憐憫に置き換えることは証しではない。外面的な敬虔さや祭儀がますます大きく華やかになることは、むしろ内面の腐敗を裏付けている。良心と理性は次第に麻痺し、いつの間にか世よりも破廉恥で非倫理的な集団へと転落するという逆説が生じる。 その無責任さに対して責任を取らなければならない。神は堕落したエルサレムに向かって裁きを宣告される。人間の視点からすれば、それは滅亡のように見えるが、実際は刷新のための神の最後の手段である。苦しむ人間は「なぜ」と訴えるが、神が語られるときには耳を傾けず、身体が苦しくなると「なぜ」と声を荒らげる。しかし停止は破壊ではなく、方向を再設定するための過程である。持続的な疾走は慣性によって可能だが、止まるときには大きなエネルギーが必要であり、停止後に再び加速するにはさらに大きなエネルギーが必要である。だからこそ、残っている力があるなら、無意味な慣性の疾走を止めるために用いるべきである。走り続ければ続けるほど感覚は鈍くなり、熱心さよりも停止の中でこそ道が見えてくるかもしれない。

에스겔 묵상 【무책임이 져야 할 책임】 20250812(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:35~52 16:35 그러므로 너 음부야 여호와의 말을 들을지어다 16:36 나 주 여호와가 말하노라 네가 네 누추한 것을 쏟으며 네 정든 자와 행음함으로 벗은 몸을 드러내며 또 가증한 우상을 위하여 네 자녀의 피를 그 우상에게 드렸은즉 16:37 내가 저의 즐거워하는 정든 자와 사랑하던 모든 자와 미워하던 모든 자를 모으되 사방에서 모아 너를 대적하게 할 것이요…

에스겔 묵상 【사랑할 수 있을 때까지】 20250811(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 16:15~34 16:15 그러나 네가 네 화려함을 믿고 네 명성을 인하여 행음하되 무릇 지나가는 자면 더불어 음란을 많이 행하므로 네 몸이 그들의 것이 되도다 16:16 네가 네 의복을 취하여 색스러운 산당을 너를 위하여 만들고 거기서 행음하였나니 이런 일은 전무후무하니라 16:17 네가 또 나의 준 금 은 장식품으로 너를 위하여 남자 우상을 만들어 행음하며 16:18 또…

エゼキエル 黙想 【愛せる時まで】 20250811 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:15~34 16:15 ところが、あなたは自分の美しさに拠り頼み、自分の名声に乗じて姦淫を行い、通りかかる人がいれば、だれにでも身を任せて姦淫をした。 16:16 あなたはまた、自分の衣服を取り出して、自分のために、斑に色どった高き所を造り、その上で淫行を行った。このようなことはかつてなく、あってはならないことだ。 16:17 あなたは、わたしが与えた金や銀の美しい品々を取って、自分のために男の像を造り、それらと姦淫を行った。 16:18 あなたはまた、あや織りの衣を取って、それらの像をおおい、わたしの油と、わたしの香をその前に供えた。 16:19 あなたは、わたしが与えたわたしのパンや、あなたに食べさせた上等の小麦粉や、油や蜜までも、その前に供えて芳ばしい香りとした。そうではなかったか──神である主のことば──。 16:20 あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、それらの像にいけにえとして献げて食べさせた。これでもまだ、あなたは姦淫が十分ではないかのように、 16:21 わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。 16:22 あらゆる忌み嫌うべきことや姦淫をしているとき、あなたは、かつて自分が丸裸のまま、血の中でもがいていた若いころのことを思い出さなかった。 16:23 あなたはこのすべての悪行の後で──ああ、何ということか。神である主のことば── 16:24 どの広場にも自分のために祭儀台を設け、高台を造り、 16:25 道のどの分かれ目にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて、自分の美しさを汚した。 16:26 あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねて、わたしの怒りを引き起こした。 16:27 見よ、わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎み、あなたの淫らな行いによって辱めを受けたペリシテ人の娘たちの欲望にあなたを委ねた。 16:28 あなたは飽き足りず、アッシリア人と姦通した。彼らと姦通しても、まだ飽き足りず、 16:29 商業の地カルデアとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足りなかった。 16:30 あなたの心は、なんと燃え盛っていることか──神である主のことば──。厚かましい遊女のするようなこれらのことを、ことごとく行うとき。 16:31 あなたはどの通りの角にも自分の祭儀台を設け、どの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬を嘲ったので、遊女のようではなかった。 16:32 姦婦は自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。 16:33 すべて遊女には代価が支払われるのに、あなたは自分のほうから愛人たちすべてに持参金を与え、贈り物もして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。 16:34 だから、あなたの姦淫はほかの女の場合と反対だ。だれも、あなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、あなたには、だれも報酬を支払わなかった。あなたは反対のことをしたのだ。   神は捨てられた孤児のようなイスラエルを選び、洗い、着せ、立たせてくださった。神の愛は崇高であったが、人々はその愛を当然のように受けて享受した。愛を受ける者は、愛を与える者の真心をよく理解しない。「好意が繰り返されれば権利だと思う」という皮肉は、人間の本性をよく突いている。神から愛を受けても、神を愛する生き方をしなければ、その受けた愛を覚えていることはできない。彼らは神から多くのものを受けたのに、何ひとつ返さなかった。 自分にないものは神に求めたが、すでに受けたものは神ではなく偶像に捧げた。愛を当然と思う人間は、簡単に別の主人を探す。すでに受けた愛と恵みを世の欲望と引き換えにし、神にはさらに多く、さらに良いものを求める。それは、愛情深い配偶者に、自分の不倫のためにさらに多くを要求するようなものだ。 片想いの悲劇がどれほど切なくても、愛し合うという完全さには到達できない。愛が完成する瞬間は、一方が与えた愛に対して、もう一方が愛で応える時である。受けた愛を愛で返すとき、初めて「愛の関係」が形づくられる。神が望まれる愛は、片想いの孤独な純愛物語ではない。神が計画された愛は、互いを尊び合う契約のラブストーリーだ。 神の愛は大きく、親の愛も献身的である。しかし真実の愛は、その一方通行にとどまらず、関係の中で完成される。信徒が神を愛し、子が親を愛するところまで行って、愛の実践と教育は完成する。愛を受けるだけで返さない風潮が蔓延する現実の中でも、愛の関係という目的と理想を捨ててはならない。 子どもたちは母の日に何も準備していなかった。私は子どもたちを家から追い出し、プレゼントを買ってくるように言った。受けることが当然ではないことを知らせたかったからだ。母の日であったが、そのおかげで私もついでにプレゼントをもらった。子どもたちを家から追い出す時、プレゼント代は私が渡した。「自分で仕掛けて自分で感謝される」ようなものだったが、良いことをしたと思っている。愛にも緊張感が必要だ。子どもたちが愛を表し、その思いを差し出すべき時になれば、もう少し緊張して準備するのではないだろうか。 神の愛を最後まで悟らず、最後までその愛への告白と実践をしなかった人は、神の愛が何であるかを知らない人である。告白せず、表さず、実践しなかった愛は、まだ未完成のまま残っている。神の愛について抽象的に語るだけで、神との愛の関係が何であるかを知らない。そのような人が、神の愛の結論である救いを正しく理解しているだろうか。信じれば救われるというが(ローマの信徒への手紙 10章9〜10節)、愛は信仰よりも大きいともいう(コリントの信徒への手紙一 13章13節)…信仰という馴染み深い言葉の中で、愛とは何かを考えるべき時である。

エゼキエル 黙想 【任意の数】 20250807 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

エゼキエル 14:1~11 14:1 イスラエルの長老たちの何人かが来て、私の前に座った。 14:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。 14:3 「人の子よ。これらの者たちは自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らに応じられるだろうか。 14:4 それゆえ、彼らに告げて、こう言え。『神である主はこう言われる。心の中に偶像を秘めて、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、その偶像の多さに応じて、主であるわたしが答える。 14:5 こうして、偶像のゆえにみなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心を、わたしがとらえる。』 14:6 それゆえ、イスラエルの家に言え。『神である主はこう言われる。立ち返れ。あなたがたのすべての偶像から身を翻せ。すべての忌み嫌うべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。 14:7 イスラエルの家の者でも、イスラエルに寄留している者でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘めて、自分を不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ねようと預言者のところに来る者には、主であるわたし自身が答える。 14:8 わたしはそのような者に敵対してわたしの顔を向け、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民の間から絶ち滅ぼす。そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る。 14:9 もし預言者が惑わされてことばを語るなら、主であるわたしがその預言者を惑わしたのである。わたしはその者に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから根絶やしにする。 14:10 このような者たちは自分の咎を負う。その預言者の咎と、尋ね求めた者の咎は同じである。 14:11 こうしてイスラエルの家は、もうわたしから迷い出ることはなく、重ねて自分たちの背きによって自分自身を汚すことはなくなる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる──神である主のことば。』」   神を信じる者だけが、自分自身を見ることができる。なぜなら、創造主である神は、被造物である人間存在の鏡であり、基準であるからだ。心に神を持たない者は、自分の内面を歪め、自分自身を欺く。自分を欺き、また、自分に欺かれる。ただ神の御前に立つことができるとき、人はようやく自分の実体を見ることができる。 数学では「任意の数」を設定し、それをてこにして問題を解き、隠されていた答えを見つけ出す。神を信じない人も、ときに神の存在を任意の数として仮定することができる。パスカルは「神が存在すると仮定して生きるほうが、存在しないと仮定するよりもはるかに合理的である」と語った。信仰がなくても信仰を前提にするとき、人生の解釈は真理を発見する道を開くという意味である。 イスラエルの長老たちは神の御心を求めて預言者のもとを訪ねたが、彼らの内には逆に偶像という前提があった。 神をてことして仮定するなら、不信仰の中でも神に出会えることがある。しかし、偶像をすでに固定された値として持っている者は、神を見聞きしても何も信じようとしない。偶像は宗教的信念となり、敬虔の自負となって、神を拒む堅固な要塞になっている。 神が戦っておられるのは、石や木で作られた工芸品ではない。神は、自らの欲望によって作られたオブジェに欺かれた人間の内面と戦っておられるのである。神は御手で偶像を打ち砕かれるのではなく、私たちの思いと心を取り、それと戦われる。偶像と戦うべきなのは、私たち自身である。自らの内にある偶像と戦い、それを打ち砕いてこそ、自分自身と出会うことができ、そして、ついには神と出会うことができるのだ。

에스겔 묵상 【임의의 수】 20250807(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 14:1~11 14:1 이스라엘 장로 두어 사람이 나아와 내 앞에 앉으니 14:2 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 14:3 인자야 이 사람들이 자기 우상을 마음에 들이며 죄악의 거치는 것을 자기 앞에 두었으니 그들이 내게 묻기를 내가 조금인들 용납하랴 14:4 그런즉 너는 그들에게 말하여 이르라 나 주 여호와가 말하노라 이스라엘 족속 중에 무릇 그 우상을 마음에 들이며…

エゼキエル 黙想 【騙す者は騙される者】 20250805 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 13:17~23 13:17 人の子よ。あなたは、自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに顔を向け、彼女たちに預言せよ。 13:18 『神である主はこう言われる。わざわいだ。どの人の手首にも呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭にも合うようにベールを作って、人々のたましいを罠にかける女たち。あなたがたは、わたしの民のたましいを罠にかけ、自分たちのたましいのために人々を生かしているのだ。 13:19 あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行い、死んではならないたましいを死なせ、生きていてはならないたましいを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。 13:20 それゆえ、神である主はこう言われる。見よ。あなたがたが、鳥を捕るように人々のたましいを罠にかけた、呪いのひもにわたしは敵対する。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を捕るように罠にかけたたましいを、わたしは解き放つ。 13:21 わたしはあなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。罠にかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにはいなくなる。そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る。 13:22 あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませた。悪しき者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きることがないようにした。 13:23 それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻を見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。そのときあなたがたは、わたしが主であることを知る。』」   神には経済的な困難や悩みがない。バビロンを差し出してでも、一つの魂を救われる方である。しかし、経済的価値に支配された地の人々はわずかな利益のためにその尊厳を踏みにじり、魂を狩る。「あなたがたは、わずかばかりの大麦と一切れのパンのために、わたしの民の中でわたしを汚し、死んではならないいのちを殺し、生かしてはならないいのちを生かそうとして、うそをついてわたしの民を惑わしている。」(エゼキエル13:19)人気と称賛を得るために、または献金や経済的献身を引き出すために、神のことばではなく意図された自分の言葉を語る。 神は問われる。「だれがわたしの民を狩っているのか?だれがわたしの名によって偽りを語り、だれがわずかなパンのためにわたしを汚しているのか?」私は知っている。どう語れば人々が感動し涙を流すのか。いつどのように叫べば「アーメン」という掛け声が起こるのか。どう話せば組織が一糸乱れず動き、牧師を丁重にもてなし、より多く献金を捧げるのかも知っている。どうすれば有名な牧師になれるのかも知っている。 知っているからといって何でもできるわけではないが、少なくとも私はそうしないことを選んだだけだ。牧師は食べていくために選んだ職業ではなく、食べていくことがすべてではないと考えたから選んだ道だ。 神のことばを誰かに期待する人々、彼らはすでに半分騙されて始まっている。耳に心地よい言葉を求める人々、感動は求めても悔い改めはしない人々、悔い改めすらも自己満足に変えてしまう人々、彼らこそ、その偽りの共犯者たちである。神が偽りの宗教の中からご自分の民を救い出すと語られたとき、それは神が偽物たちを一掃することによって可能となるのだろうか?神の民が目覚め、悟ることによってその約束は実現するのではないだろうか。欺く者たちは裁かれる。しかし、欺かれている者たちもまた不信仰な者である。信じるべき方を見分けることのできない根深い不信仰。

에스겔 묵상 【속이는 자와 속는 자】 20250806(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 13:17~23 13:17 너 인자야 너의 백성 중 자기 마음에서 나는대로 예언하는 부녀들을 대면하여 쳐서 예언하여 13:18 이르기를 주 여호와의 말씀에 사람의 영혼을 사냥하고자 하여 방석을 모든 팔뚝에 꿰어 매고 수건을 키가 큰 자나 작은 자의 머리를 위하여 만드는 부녀들에게 화있을진저 너희가 어찌하여 내 백성의 영혼을 사냥하면서 자기를 위하여 영혼을 살리려 하느냐 13:19 너희가 두어…