エゼキエル 黙想 【悔い改め、その恥の告発】 20250813水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
エゼキエル 16:53~63 16:53 わたしは彼女たちを元どおりにする。ソドムとその娘たち、サマリアとその娘たち、また彼女たちの中にいるあなたを元どおりにする。 16:54 こうして、あなたは自分自身の恥辱を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべてのことによって、辱めを受ける。 16:55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは元のところに帰り、サマリアとその娘たちも元のところに帰り、あなたとあなたの娘たちも元のところに帰って来る。 16:56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。 16:57 しかしそれは、あなたの悪がさらけ出される前のことであって、今はアラムの娘たちや、その周りのすべての者、およびペリシテ人の娘たちのそしりの的となっている。彼女たちはあなたを四方から侮っている。 16:58 あなたは、自分の淫らな行いと忌み嫌うべきわざの報いを受けている──主のことば。 16:59 まことに、神である主はこう言われる。わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破ったのだ。 16:60 だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。 16:61 わたしがあなたの姉と妹を選び取って、あなたとの契約には含まれていないものの、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の生き方を思い出し、恥じることになる。 16:62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。 16:63 こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──神である主のことば。』」 エゼキエル書16章は、神がエルサレムを契約の妻として選ばれたにもかかわらず、その妻が淫行と裏切りを犯したことを告発している。神は裁かれるが、その裁きの後には回復も約束された。ただし、回復はすぐには訪れない。まずエルサレムは自分の恥を覚え、その恥に向き合わなければならない。恥を認め、責任を受け入れる場所でこそ、恵みが真実に経験されるからである。恥を知ってこそ、それを覆ってくださる感謝を知り、絶望を知ってこそ、救いの喜びが何であるかを知ることができる。 人は本能的に恥ずかしいことを隠したくなる。だから私たちは回避する。言い訳をしたり、状況や他人のせいにしたりする。そして自分自身をも欺く。しかし、だからといって恥の根が消えるわけではない。それは手のひらで空を覆い、目隠しして「見えていないふり」をしているに過ぎない。 信仰は、恥に向き合う勇気を必要とする。だから常に痛みが伴う。自分自身を認めることは苦しいことだからである。しかし、人が神の前で恥をさらけ出す瞬間、ただ神のご性質にだけ頼ることになる。自分の恥を神に告げることのできる勇気ある人の欠点を、神が覆ってくださるのだ。神の前で自分の恥を隠したままで保てるものは何もない。ゆえに、魂が正直でない者は悔い改めることができない。 「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び…」(ヘブル12:2)イエス様も恥を受けられた。十字架は侮辱的で恥ずかしい刑罰であった。イエス様は人類の罪を背負われただけではなく、私が認め、告白する私自身の恥を代わりに背負われたのである。そのためにキリストは恥を避けられなかった。それを告白できないなら、十字架はまだ私のものではない。 しかし、私たちは十字架の前でさえ、自分の恥を告白する勇気を持たない。悔い改めの祈りと言っても、多くの場合「聖なる言葉」で飾られている。口では罪人だと告白しながらも、その告白がかえって敬虔な人だという拍手を受けることになる。安全に見えるが、真実ではない。それは恥に向き合うのではなく、巧みに隠すことだ。だから、恥をさらして祈ることは非常に難しく、真の悔い改めの祈りは稀である。必要なのは自己憐憫ではなく、悔い改めである。悔い改めは、人前で言葉にするものではなく、静かな時の中で深い内面において行うものである。