詩篇 黙想 【神を知る喜び】 20250701(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
詩篇 85:1~13 85:1 主よあなたはご自分の地に恵みを施しヤコブを元どおりにされます。 85:2 あなたは御民の咎を担いすべての罪をおおってくださいます。セラ 85:3 あなたは激しい怒りをすべて収め燃える御怒りから身を引かれます。 85:4 帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。私たちへの御怒りをやめてください。 85:5 あなたはとこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。 85:6 あなたは帰って来て私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。 85:7 主よ私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。 85:8 聞かせてください。主である神の仰せを。主は御民に主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。 85:9 確かに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは栄光が私たちの地にとどまるためです。 85:10 恵みとまことはともに会い義と平和は口づけします。 85:11 まことは地から生え出で義は天から見下ろします。 85:12 主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出します。 85:13 義は主の御前に先立って行き主の足跡を道とします。 信仰の失敗は彼らを苦しめたが、その時を経て、新たな回復が始まった。状況から見て、バビロン捕囚が終わり、エルサレムを再建するために帰還する民の歌のようである。回復に向けた彼らの意志と願いは特別であり、神に対する理解もより広く深くなっていた。 バビロンから戻ったイスラエルの民がエルサレムを再建するというのは、過去への原状回復を意味するのだろうか?そんなはずはない。戻ってはならない。記憶し、反省し、新たにされて前進しなければならない。神は愛する子どもの考えをひとつ変えるために、帝国を立てては崩すこともされる。考えが変わらなければ、人はその渦の中で苦しむしかない。 この出来事を通して、イスラエルは神に対する考えが変わり、神をより深く知るようになった。彼らは神が自分たちの味方だと思っていた。それはある意味当然かもしれない。しかし、堕落し腐敗した状態にあっても、なお神が味方だと固執し、ついには滅びてしまった。神は確かにイスラエルの味方となりうるが、神は決して腐敗、堕落、偶像崇拝と手を組むことはなさらない。 したがって、この問題に対する唯一の解決策は、自らの現実を冷静に直視し、根本的に変えて、神の側に立つことであった。しかし彼らは、繰り返される訴えと警告にも耳を傾けなかった。神に対する認識が歪んだ者は、結局その人生も歪んでしまう。「神よ、私の味方となってください」ではなく、「神よ、私はあなたの側に立ちます」と祈るべきだったのだ。 その苦しみの時を経て、ようやく神に対する考えが変わり始めた。「恵みとまことは互いに出会い、義と平和は口づけをする」(詩篇85:10)。「恵みとまことが出会う」と書かれている。まこと(真理)は変わらず、常に柱のように立っている。そして同時に、神は恵みも持っておられる。「義と平和が口づけをする」とある。正義を語る者は、不義を断ち切る剣を持っている。だから血が流れる。人間のやり方はそうである。 しかし神のやり方は、その義と平和が口づけを交わすというのである。神は義なるお方であるが、同時に平和を与える方でもある。ただ真理の神ではなく、ただ慈しみの神でもない。ただ義の神ではなく、ただ平和の神でもない。 偏りやすい人間の理性や感情では理解しがたいが、霊の人はそれを学び、人生に適用する。イスラエルは言葉ではなく、経験を通して明確な答えを得た。彼らは不義を犯し、苦しんだが、憐れみ深い神は再び彼らに平和を与えた。神は愛しておられるが、打たれることもあり、打たれてもその憐れみを決して手放されなかった。 最も愚かなのは、このサイクルを繰り返すことである。神を知り、神の御言葉の前にへりくだるならば、苦しみの車輪に巻き込まれずに済む。彼らは今、回復の場に立ち、より偉大なる神を礼拝し、神の側に立って生きていくことになるのだ。