詩篇 黙想 【絶対性原理】 20250618(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 77:1~9 77:1 私は神に声をあげて叫ぶ。私が神に声をあげると神は聞いてくださる。 77:2 苦難の日に私は主を求め夜もすがらたゆまず手を差し伸ばした。けれども私のたましいは慰めを拒んだ。 77:3 神を思い起こして私は嘆き悲しむ。思いを潜めて私の霊は衰え果てる。セラ 77:4 あなたは私のまぶたを閉じさせません。私の心は乱れてもの言うこともできません。 77:5 私は昔の日々遠い昔の年月について考えました。 77:6 夜には私の歌を思い起こし自分の心と語り合い私の霊は探り求めます。 77:7 「主はいつまでも拒まれるのか。もう決して受け入れてくださらないのか。 77:8 主の恵みはとこしえに尽き果てたのか。約束のことばは永久に絶えたのか。 77:9 神はいつくしみを忘れられたのか。怒ってあわれみを閉ざされたのか。」セラ     苦難の中、夜通し嘆きながら祈っても、神からの慰めを得ることができず、心はかえって混乱に陥ります。かつて神から受けた恵みを思い出そうとしても、それが現在の状況とあまりにもかけ離れていて、むしろ心はさらに苦しくなります。神はもはや私を愛しておられないのか、交わした約束を忘れてしまわれたのか、今の神は以前のように誠実ではないのか――疑念と混乱だけが深まっていきます。過去の恵みと今の苦しみの対比があまりにも鮮明で、まるで神が変わってしまわれたかのように感じるのです。 しかし、それは現実ではなく、「相対的な知覚」の問題なのかもしれません。観察者の位置や速度によって、時間や空間の経験が変化するというのが相対性理論です。信仰の認識も、立つ場所や視点のスピードによって誤解や歪みが生じることがあります。神が変わられたのではなく、苦難という状況が精神と肉体を圧迫し、神を認識する感覚が変化しただけなのです。暗闇の中にいるかもしれませんが、光が消えたわけではありません。ただ閉ざされた視野の中で、一時的にその光が見えないだけなのです。 新約時代にも、ユダヤ人キリスト者たちは信仰の混乱や迫害、律法への回帰という誘惑に直面し、神の愛を疑う者がいました。そんな彼らに、へブル人への手紙は神の不変性を力強く語ります。「エス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。へブル人への手紙13:8」ヘ信仰の中心と根は、変わらぬ神の性質と契約を疑わないことにあります。感情は主観的で、状況は流動的ですが、神の誠実さは決して変わりません。人の言葉や状況に左右される心をしっかりと保ってこそ、神を信じることができるのです。 状況に揺さぶられる認識の相対性を乗り越える力――それが信仰です。中心も基準も持たない人間は、状況に応じて変わってしまいます。しかし、変わりゆくこの世界の中で、変わらぬ神の御言葉を中心に据えて生きる者の信仰は揺るぎません。観察者の立場によって現実が異なって見える相対性を超えて、神の視点から自分と世界を見直す「認識の転換」が必要なのです。状況も人間も変わります。しかし、信仰とは神のもとへと何度でも立ち返る旅なのです。詩篇77篇の混乱の叫びも、やがて変わらぬ神への賛美と信頼へと帰っていくことでしょう。  

시편 묵상 【절대성 원리】 20250618(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 77:1~9 77:1 내가 내 음성으로 하나님께 부르짖으리니 하나님께 내 음성으로 부르짖으면 내게 귀를 기울이시리로다 77:2 나의 환난날에 내가 주를 찾았으며 밤에는 내 손을 들고 거두지 아니하였으며 내 영혼이 위로 받기를 거절하였도다 77:3 내가 하나님을 생각하고 불안하여 근심하니 내 심령이 상하도다 (셀라) 77:4 주께서 나로 눈을 붙이지 못하게 하시니 내가 괴로워 말할 수 없나이다 77:5…

詩篇 黙想 【高慢の正体】 20250617(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 76:1~12 76:1 神はユダにご自分を示される。イスラエルにその御名の偉大さを。 76:2 その仮庵はサレムにその住まいはシオンにある。 76:3 神はそこで弓の火矢を砕かれる。盾と剣も戦いも。セラ 76:4 あなたは輝かしく獲物で満ちる山々にまさって威厳があります。 76:5 剛胆な者たちは略奪され深い眠りに陥りました。どの勇士たちにも手の施しようがありませんでした。 76:6 ヤコブの神よあなたが叱りつけると戦車も馬も倒れ伏しました。 76:7 あなたは実にあなたは恐ろしい方。お怒りになればだれが御前に立てるでしょう。 76:8 天からあなたの宣告が聞こえると地は恐れて沈黙しました。 76:9 神がさばきのために地のすべての貧しい者たちを救うために立ち上がられたそのときに。セラ 76:10 まことに人の憤りまでもがあなたをたたえあなたはあふれ出た憤りを身に帯びられます。 76:11 あなたがたの神主に誓いを立てそれを果たせ。主の周りにいる者はみな恐るべき方に贈り物を献げよ。 76:12 主は君主たちの霊を刈り取られる。地の王たちにとって恐るべき方。   詩篇76篇において、神はシオンに臨在される栄光の王であり、人間の戦いをやめさせる平和の主権者であり、高慢な者を砕く義の裁き主です。これは救いの神を賛美する詩であると同時に、すべての人が神の御前に立つときの畏れを抱くべきことを告げる、緊張感ある宣言でもあります。ここで私たちは、恐れをもって「誰が高慢な者なのか」「どのような人が高慢なのか」と自らに問いかけなければなりません。 では、高慢な人とはどのような人なのでしょうか?無礼で偉そうに振る舞い、自慢ばかりする人は、もしかするとただ未熟なだけで、本当の意味での「高慢な人」ではないかもしれません。むしろ高慢な人は、礼儀正しく、丁寧で、マナーをわきまえている可能性が高いのです。謙遜に見える言動こそ、高慢な人々が巧みに使うテクニックでもあるからです。謙遜を装った高度な高慢――それは人間が演出する宗教的・道徳的な仮面の中でも、最も精巧なものです。表に現れる態度だけでは、謙遜と高慢を見分けることはできません。 高慢とは、はるかに本質的で根源的なものであり、神を信じていようがいまいが、自分の立場、自分の分、人間の限界や虚しさを理解していない状態、すなわち、自分が被造物であることを忘れ、創造主の主権を侵そうとする内なる愚かさのことです。高慢な者は、自分の存在が依存的であることを知りません。知ろうともしません。こうした人々は、自分より劣っていると見なした他者を見下し、差別します。だからこそ、高慢と愚かさは一体なのです。 高慢な人は、神を知らないゆえに自分自身のことも分かりません。一方で謙遜な人は、神を畏れることにより、自分が何者であるかを知る人です。詩篇に一貫して登場する「悪しき者」、すなわち高慢な人間とは、自分の存在を神の御前に置こうとしない者、神を否定して生きるすべての人のことです。人が自分の最善と思っていた武器を手放し、自慢したかった舌を止め、神を認めるとき、ようやく謙遜が始まるのです。  

시편 묵상 【교만의 정체】 20250617(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 76:1~12 76:1 하나님이 유다에 알린 바 되셨으며 그 이름은 이스라엘에 크시도다 76:2 그 장막이 또한 살렘에 있음이여 그 처소는 시온에 있도다 76:3 거기서 저가 화살과 방패와 칼과 전쟁을 깨치시도다(셀라) 76:4 주는 영화로우시며 약탈한 산에서 존귀하시도다 76:5 마음이 강한 자는 탈취를 당하여 자기 잠을 자고 장사는 자기 손을 놀리지 못하도다 76:6 야곱의 하나님이여 주께서 꾸짖으시매…

詩篇 黙想 【存在しない悪者】 20250616(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 75:1~10 75:1 私たちはあなたに感謝します。神よ私たちは感謝します。あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが語り告げられています。 75:2 「わたしが定めの時を決めわたし自ら公正にさばく。 75:3 地とそこに住むすべての者が揺らぐときわたしが地の柱を堅く立てる。セラ 75:4 わたしは誇る者には『誇るな』と言い悪者どもには『角を上げるな。 75:5 おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな』と言う。」 75:6 高く上げることは東からでもなく西からでもなく荒野からでもない。 75:7 まことに神こそさばき主。ある者を低くしある者を高く上げられる。 75:8 主の御手には杯があり混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると実にすべて地の悪者どもはそれを飲みかすまで飲み干す。 75:9 しかし私はとこしえまでもみわざを告げます。ヤコブの神にほめ歌を歌います。 75:10 私は悪者どもの角をことごとく切り捨てます。正しい者の角は高く上げられます。   詩篇75篇は、神の義と主権を宣言し、神が定めた時に高ぶる者を砕き、正しい者を高くされると語っています。しかし、問題は、多くの読者がこの詩篇を読むとき、自分自身を当然のように「義人」の立場に置いてしまうことです。「誰が悪人なのか?」という問いがありません。この無意識の前提こそが、詩篇の言葉を私たち自身にとって生きた神の言葉にさせない原因なのです。 神の裁きは常に「彼ら」に向けられているかのように読まれ、読者はその裁きとは関係のない安全地帯にいるかのように振る舞います。まるで正義を語っているかのようで、実は怒りと裁きの感情が他者に向けられているだけなのです。「角を誇るな」「傲慢な首を振りかざすな」といった神の言葉さえも、自分が憎む誰かに当てはめてしまい、自分には適用しようとしません。そうやって私たちは、正直に詩篇を読んだことがあるでしょうか。 この詩篇は確かに鋭い武器になり得ますが、それは他人を刺す剣ではなく、自分自身を打ち砕く斧であるべきです。神の裁きは、外にいる誰かへのものではなく、神の前に立つ自分自身の高慢さと自己義に向けられたものなのです。初めから義人と悪人を明確に分ける二元論自体が、そもそも成り立たないのです。すべての人間は、絶対的な義人でも、絶対的な悪人でもありません。悪人は、鏡の中に生きています。 今日の黙想の題を「存在しない悪者」としたのは、悪人がこの世から消えたという意味ではなく、誰もが自分を義人と考えるために、悪人が“見えなくなっている”という霊的な矛盾を皮肉ったものです。詩篇を読むとき、他人を断罪し呪うための言葉ではなく、自らの心を正直に見つめ直す哀歌として読む必要があるのではないでしょうか。もし、自分の立場を転倒させることに少しでも成功したなら、もう一度詩篇75篇を読んでみてください。

시편 묵상 【존재하지 않는 악인】 20250616(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 75:1~10 75:1 하나님이여 우리가 주께 감사하고 감사함은 주의 이름이 가까움이라 사람들이 주의 기사를 전파하나이다 75:2 주의 말씀이 내가 정한 기약을 당하면 정의로 판단하리니 75:3 땅의 기둥은 내가 세웠거니와 땅과 그 모든 거민이 소멸되리라 하시도다(셀라) 75:4 내가 오만한 자더러 오만히 행치말라 하며 행악자더러 뿔을 들지말라 하였노니 75:5 너희 뿔을 높이 들지 말며 교만한 목으로 말하지…

시편 묵상 【존재하지 않는 악인】 20250616(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

詩篇73:1—14 73:1 하나님이 참으로 이스라엘 중 마음이 정결한 자에게 선을 행하시나 73:2 나는 거의 실족할뻔 하였고 내 걸음이 미끄러질뻔 하였으니 73:3 이는 내가 악인의 형통함을 보고 오만한 자를 질시 하였음이로다 73:4 저희는 죽는 때에도 고통이 없고 그 힘이 건강하며 73:5 타인과 같은 고난이 없고 타인과 같은 재앙도 없나니 73:6 그러므로 교만이 저희 목걸이요 강포가 저희의…

詩編 黙想【万が一の話】20250614(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 74:1-11 74:0 アサフのマスキール。 74:1 神よなぜいつまでも拒み御怒りをあなたの牧場の羊に燃やされるのですか。 74:2 どうか思い起こしてください。昔あなたが買い取られゆずりの民として贖われたあなたの会衆を。あなたの住まいであるシオンの山を。 74:3 あなたの足を永遠の廃墟に踏み入れてください。敵は聖所であらゆる害を加えています。 74:4 あなたに敵対する者どもはあなたの聖なる所でほえたけり自分たちのしるしをそこに掲げています。 74:5 あたかも木の茂みの中で斧を高く振り上げる者のようです。 74:6 今や彼らは手斧と槌で聖所の彫り物をことごとく打ち砕き 74:7 あなたの聖所に火を放ちあなたの御名の住まいをその地まで汚しました。 74:8 彼らは心の中で「彼らをことごとく征服しよう」と言い国中の神の聖所をみな焼き払いました。 74:9 もう私たちのしるしは見られません。もはや預言者もいません。いつまでそうなのかを知っている者も私たちの間にはいません。 74:10 神よいつまではむかう者はそしるのですか。敵は永久に御名を侮るのですか。 74:11 なぜあなたは御手を右の御手を引いておられるのですか。その手を懐から出して彼らを滅ぼし尽くしてください。    詩篇74篇は、詩編の中でも「アサフのマスキール(教訓の詩)」という独特なジャンルの詩篇です。この「マスキール」とは、ある種の教訓や悟りを意味すると知られています。では、今日の箇所においてアサフは、どのような教訓や悟りを私たちに伝えているのでしょうか。  現代に生きる私たちにとって、今日の箇所の内容は、受け入れがたく、不快にまで感じられるかもしれません。神様がご自身の民をいつまでも拒み、彼らに向かって怒りを注がれ、神様の聖所は敵によって汚され、破壊され、侮られるという姿は、私たちにとって想像したくもない、到底考えられない姿です。  しかし、このような姿は決してありえないものではありません。むしろ本来であれば、当然起こるはずのものでした。神様の民の罪、この世のすべての人々の罪によって引き起こされるべき裁きの姿であり、罪が私たちに対して勝利する姿なのです。  ではなぜ、私たちはこのようなことが想像すらできなくなってしまったのでしょうか。それは、神様がこのすべての出来事が起こらないようにするため、イエス・キリストをこの地に送ってくださったからです。  イエス様はこの地に来られ、私たちの罪の代価を払ってくださいました。言い換えれば、今日の箇所に描かれているすべてのことを、イエス様が代わりに担ってくださったと言えます。私たちが想像することすらできず、想像したくもないようなことを、イエス様は実際に、ご自分の身に受けられたのです。  万が一の話、この地にイエス様が来られなかったとしたら、神様がその民を罪に応じて裁くと決められたならば、この詩篇に描かれていることは、私たち自身が受けなければならなかったことでしょう。アサフが伝えている教訓は、空想の物語ではなく、本来私たちに起こるはずだったことへの警告だったのです。  だからこそ、私たちもこの詩を通して、自分たちに与えられた恵みがどれほど尊いものか、そしてその尊いものを惜しまなく与えてくださった神様の恵みがどれほど大きなものかを知り、そのことを通して私たちの感謝がますます深まっていくのです。 https://youtu.be/0ta5dCwn3ZE?si=yPgshll1JG_BVMJu

시편 묵상【만약에】20250614(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 74:1-11 74:1 하나님이여 주께서 어찌하여 우리를 영원히 버리시나이까 어찌하여 주께서 기르시는 양을 향하여 진노의 연기를 뿜으시나이까 74:2 옛적부터 얻으시고 속량하사 주의 기업의 지파로 삼으신 주의 회중을 기억하시며 주께서 계시던 시온 산도 생각하소서 74:3 영구히 파멸된 곳을 향하여 주의 발을 옳겨 놓으소서 원수가 성소에서 모든 악을 행하였나이다 74:4 주의 대적이 주의 회중 가운데에서 떠들며 자기들의…

詩編 黙想【正しい嫉妬】20250613(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 73:15-28 73:15 もしも私が「このままを語ろう」と言っていたならきっと私はあなたの子らの世代を裏切っていたことだろう。 73:16 私はこのことを理解しようとしたがそれは私の目には苦役であった。 73:17 ついに私は神の聖所に入って彼らの最期を悟った。 73:18 まことにあなたは彼らを滑りやすい所に置き彼らを滅びに突き落とされます。 73:19 ああ彼らは瞬く間に滅ぼされ突然の恐怖で滅ぼし尽くされます。 73:20 目覚めの夢のように主よあなたが目を覚ますとき彼らの姿を蔑まれます。 73:21 私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき 73:22 私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした。 73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。 73:24 あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。 73:25 あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。 73:26 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。 73:27 見よあなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。 73:28 しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。     詩人は、悪人たちが栄えている姿を見て羨ましく思い、妬んでいた自分自身の姿を振り返り、そのような自分がどれほど愚かであったか、また神様がその悪人たちをどのように取り扱われるのかを、神様の前で悟るようになります。      自分こそがいつも滑りやすい場所に置かれているように思えましたが、実は神様は悪人たちを常に滑りやすいところに置かれており、自分が貧しく滅びていくかのように見えていたものの、実際には悪人たちが荒廃していく――そのような神様の裁きの姿が、昨日の本文で詩人が羨ましく思っていたものが、実は神様の裁きに向かって進んでいた悪人たちの姿だったということを対比しながら示しています。      私たちが何かを羨ましく思ったり妬んだりするのは、それが自分の目に良いものに見えたからです。望んでもいない、良くも思えないものを持っている人を私たちは羨んだり妬んだりはしません。しかし、自分の目に良く見えるものが、神様の目にも良いものなのかどうか、私たちは常に御言葉を通して確かめなければなりません。人々がこの事実を忘れ、自分の目に良いと思えるままに生きていた時代――その時こそが、イスラエルが最も堕落していた時代と呼ばれる「士師記の時代」の姿であることを、聖書は士師記の最後の部分を通して語っています。      私たちが何かを妬むということは、それをそれだけ強く望んでいるということでもあります。言葉の響きはあまり良くないかもしれませんが、御言葉が示している通り、妬みという感情は私たちにとって自然な感情であり、妬まれる神様から受けた感情でもあります。けれども、その妬みの向かう方向がどこなのかが重要です。      神様は、偶像を拝む民に向かって「わたしは、ねたみの神。」と語られ、その民が偶像を拝まないことを願われました。私たちもそのような神様の妬みに応えるかたちで、自分よりも熱心に神様を愛する人の信仰に妬みを感じ、私もそのように神様を愛したいと願うこと――それこそが、私たちの妬みが向かうべき方向であり、それが神様に近づくことであり、自分にとって良いことであり、そのことを通して神様を証しすることになるのです。 https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=shTs_jWwrw7rtCI4