第一ヨハネの手紙 黙想 【信仰のしるし】 20260105(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
第一ヨハネの手紙 3:13~24 3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。 3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。 3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。 3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。 3:21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。 3:22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。 3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。 3:24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。 ヨハネの手紙一における「愛しなさい」という命令は、文脈を無視して突然現れた倫理的要求ではない。ヨハネは初めから意図された流れに従って語りを進め、ついに自分が本当に語りたかった結論、すなわち愛に到達する。その順序は明確である。信仰は抽象的な概念ではなく、実際に見て、聞いて、触れたいのちのことばとの出会いから始まった。そしてその出会いは、個人の内面的体験にとどまらず、初めから関係の中で現れる生き方であった。 この関係を守るために、ヨハネは「光の中を歩みなさい」と語る。しかし、光の中を歩むとは、罪がないという意味ではない。罪は依然として存在するが、それを隠さず認めることによって、私たちは神との関係の中にとどまることができる。問題は罪そのものではなく、罪を否定することによって神との関係を脅かす偽善である。ヨハネが求めているのは道徳的完全さではなく、関係の真実さなのである。 ヨハネは、この関係が生活の中でどのように検証されるのかを、さらに具体的に示さなければならなかった。神を知っているということは、知識にとどまることはできず、必ず生き方の方向や態度として現れなければならない。その最初の試金石が兄弟である。神との交わりは、必然的に信徒同士の交わりへとつながっていく。だからこそ、ヨハネが語る「新しい戒め」とは、兄弟愛にほかならない。ヨハネが初めから語ってきた、いのちと光、そして交わりが実際に存在していることを示す、最も具体的な結果が愛なのである。 真実か偽りか、神に属しているのか、この世に属しているのかは、宗教的な教理論争によって確認できるものではない。それらはすべて言葉に過ぎない。それは、その人がどこにとどまり、何を愛して生きているのかによって、隠しようもなく明らかになる。信仰において、愛は美徳ではない。すでに死からいのちへと移されたという事実を証明する結果である。ヨハネにとって、愛は信仰の目標ではなく、その信仰が真実かどうかを測る基準であった。 ヨハネの手紙一全体では、「愛」という語が原語で約46回繰り返され、本日の本文だけでも7回用いられている。この語を繰り返さずには、彼は語り続けることができなかったのである。ヨハネは愛を語るために、初め(太初)とみことばといのち、そして神から出発し、人間の最も正直な生活の場へと降りてきた。そしてそのすべての歩みを通過した末に、動かすことのできない、疑うことのできない結果としての愛を見いだした。ヨハネの手紙一は、その発見を記した書である。ヨハネ神学の温度は、私の隣にいる兄弟の体温と同じである。










