マタイによる福音書 黙想 【かごを編む神】 20260112(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 1:1~17 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。 1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、 1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、 1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、 1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、 1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、 1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、 1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、 1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、 1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、 1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。 1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、 1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、 1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、 1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、 1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。 1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。 マタイ1章の系図は一見すると退屈に見えるが、実は福音の神学を凝縮した序文である。マタイが想定していた第一の読者が、民族的誇りに満ちたユダヤ人であったことを忘れてはならない。神はダビデに「あなたの王位は永遠に堅く立つ」と約束されたが、歴史の中で政治的意味におけるダビデ王朝はすでに滅びていた。この地点で、イスラエルも、旧約を読む私たちも、深い混乱に直面する。 ユダヤ人たちは、神の約束は破棄されたのではなく、まだ実現していないのだと理解した。だからこそ、イスラエルの歴史を貫く情緒はメシア待望となった。来るべきメシアは、ダビデの王権を歴史の中で回復する者でなければならないと信じられた。そうでなければ、ダビデ契約が崩れてしまうからである。バビロン捕囚の後、ペルシア、ギリシア、ローマの支配を受けながらも、ユダヤ人はその期待を手放さなかった。現代イスラエルの一部は、現在のパレスチナ紛争もその延長線上に置いている。 それゆえ、マタイ福音書1章の系図は衝撃的である。マタイが系図を通して語ろうとしているのは、栄光に満ちたダビデではなく、人間の誇ることのできない歴史であった。義父を誘惑して系譜をつないだタマル、元娼婦であったラハブ、異邦人ルツ、ダビデの人生を横切ったバテシェバ(ダビデとバテシェバの出来事は強姦ではなく姦通であり、バテシェバの誘惑がかなりの部分を占めていたと私は考えている)、そしてエホヤキンの呪いは、ユダヤ人にとって消し去りたい汚点である。しかしマタイはそれらを削除せず、むしろメシアの系譜の中心に据える。 マタイは、ユダヤ人が待ち望んでいたダビデはすでに来たのだと言う。ただし、それは彼らが想像していた政治的ダビデではなかった。イエスがメシアであることを神学的に解釈する根拠が、この1章の系図なのである。この解釈なしには、イスラエルの系譜の正統性を説明することはできない。人々は理解できず、語ることもできないまま、ただ隠してきただけである。しかしマタイの解釈によって、イスラエルの歴史は矛盾なく本来の位置を取り戻した。 籠を編むには、二本、三本の素材を交差させなければならない。布を織るのも同じである。救済史の約束は神の経糸、すなわち縦の緊張として全体を支え、その間を通過する個々の人生が緯糸となって横切りながら編み込まれていく。救済史は人間の純粋さによってではなく、それを織り、編み上げる神によって成し遂げられる。曲がっていても、編組によってまっすぐに組み込まれる。職人は回し、巻き、絡め、固定する。緩めば崩れ、引きすぎれば切れる。大切なのは職人の手である。私の従順も、私の弱さも、一つの糸として神の御手の中で編み込まれていくことを願っている。










