マタイによる福音書 黙想 【幼子イエスの苦難の道】 20260115(木」) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 2:13~23 2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。 2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 2:18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。 2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」 2:21 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。 2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。 2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。     「王が生まれた」という知らせは、ヘロデ王にとって喜ばしいものではなかった。いや、それは彼にとって不安そのものだったと言うべきだろう。ヘロデはユダヤの王であったが、ユダヤ人ではなかった。実際には、彼は“給料をもらう王”のような存在だった。彼の王位は、ローマに取り入り、帝国の承認によって与えられたものだったからである。それは、いつ失ってもおかしくない、不安定な地位だった。だからこそヘロデは、自分の立場を証明し、確保するために、最も弱い命を切り捨てた。異邦人である東方の博士たちが去り、王の誕生が特定できなくなると、ヘロデはすべての幼子を殺すという暴挙に出た。ヘロデの暴力は、力の誇示ではなく、不安から生まれた防衛反応である。正当性を持たない権力は、強いから暴力的になるのではない。不安だからこそ暴力的になるのだ。弱く、卑怯な人間ほど、より残酷になりやすい。 イエスは、生まれたその時から、殺される危険の中に置かれていた。宮殿ではなく家畜小屋で生まれ、虐殺の血の嵐を逃れて、エジプトへと逃れた難民となった。受肉とは、神が単に肉体という物質に変わった出来事ではない。それは、弱く貧しい人々の流す血と涙、胸が締めつけられるような痛みや焦燥までも、その身体の中に余すところなく引き受けられた出来事である。神は御子イエスを人として遣わされたが、この世の暴力を取り除かれなかった。むしろ、その暴力のただ中で生きる道を選ばれた。ついには、その暴力によって殺されることさえ許されたではないか。救いは、その場所から始まらなければならないからである。ヨセフとマリア、そして幼子イエスのエジプトへの避難とナザレへの帰還は、かつて救いの旅路であった出エジプトの記憶を呼び覚ます。 ヘロデが死んだ後、イエスの家族はイスラエルの地へ戻る。しかし、彼らはエルサレムには向かわなかった。一貫して、中心を避け続けたのである。イエスが幼少期を過ごしたのは、ガリラヤのナザレ。当時の人々から軽んじられ、嘲られていた田舎町だった。神の国は、中心で承認されて始まる王国ではない。権力や制度や資本が、神の国を築くことはできないからである。人は中央や高い場所に関心を向けるが、神の働きは、辺境の低い場所で、静かに、しかし確かに、神の国の土台を形づくっていく。人生が、休む場所のないベツレヘムのように疲れ果て、エジプトへ追いやられた難民のように不安で、ナザレのようにみすぼらしく感じられる時があっても大丈夫だ。神は、その場所でこそ、さらに多くのことをなさっておられるのだから。

마태복음 묵상 【아기 예수의 고생길】 20260115(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 2:13~23 2:13 저희가 떠난 후에 주의 사자가 요셉에게 현몽하여 가로되 헤롯이 아기를 찾아 죽이려하니 일어나 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 피하여 내가 네게 이르기까지 거기 있으라 하시니 2:14 요셉이 일어나서 밤에 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 떠나가 2:15 헤롯이 죽기까지 거기 있었으니 이는 주께서 선지자로 말씀하신바 애굽에서 내 아들을 불렀다 함을 이루려 하심이니라 2:16…

マタイによる福音書 黙想 【マタイが語る東方の博士】 20260114(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 2:1~12 2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。 2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」 2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。 2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。 2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。 2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。     クリスマスにサンタクロースの情緒を楽しむように、東方の博士たちの物語も、ただクリスマスの飾りとして消費されているのではないだろうか。サンタクロースは作られた物語だが、東方の博士たちの物語は、聖書が語る神の啓示である。星、らくだ、黄金、乳香、没薬――これらは確かにクリスマスに親しみ深く、温かい情緒を生み出す。しかしその温かさこそが、東方の博士の物語が持つ鋭いメッセージを覆い隠しているのかもしれない。マタイがこの物語を福音書の冒頭に置いたのは、親しみやすさのためではなく、むしろ慣れた信仰を揺さぶる不快さのためであっただろう。 東方の博士の物語は、四つの福音書の中でマタイにしか記されていない。マタイはユダヤ人の読者に問いかけている。いったい誰が神の来臨を見抜いたのか。ヘロデは政治権力を持ち、祭司長たちと律法学者たちは宗教的権威と聖書の知識を持っていたが、神が来られたとき、彼らはどこにも行かなかった。東方の博士たちがエルサレムに来たとき、聖書を開いて「ベツレヘムだ」と答えたのはユダヤの宗教エリートたちだった。しかし彼らは文字としての情報を提供しただけで、その御言葉に従って動こうとはしなかった。メシアがベツレヘムに生まれることは皆が知っていたが、それを現実の信仰として受け取った者はいなかった。 その情報を信じて道を歩いたのは、異邦人である東方の博士たちだけだった。彼らには律法もなく、神殿もなく、宗教的な誇りもなかった。神の約束を学んだこともなかった。御言葉を持つ者たちはその場にとどまり、御言葉を信じた異邦人たちだけが動いたのである。マタイはこの対比を通して、ユダヤ人の歪められた信仰を正面から批判している。マタイ福音書において最初に礼拝したのはユダヤ人ではなく異邦人であり、神の恵みは民族や宗教の境界を越えていく。イエスは御言葉を語る人よりも、その御言葉を聞いて、それを求めて旅立つ人にご自身を現される。 イエスは誕生日の贈り物をもらうためにこの地に来られたのではない。高価で立派なものをささげることが、この物語の主題なのだろうか。イエスが受け取られたのは黄金や乳香や没薬ではなく、神を求めて歩いてきた彼らの人生の物語であった。クリスマスに、温かい教会の中で子どもたちの東方の博士の劇を眺めている私たちは、果たして山を越え水を渡って主を求めている者なのか、御言葉に従って巡礼の道を歩いている者なのか、それともエルサレムにとどまり情報を知って満足している者なのかを、問われているのである。

마태복음 묵상 【마태의 동방박사】 20260114(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 2:1~12 2:1 헤롯왕 때에 예수께서 유대 베들레헴에서 나시매 동방으로부터 박사들이 예루살렘에 이르러 말하되 2:2 유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시뇨 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라 하니 2:3 헤롯왕과 온 예루살렘이 듣고 소동한지라 2:4 왕이 모든 대제사장과 백성의 서기관들을 모아 그리스도가 어디서 나겠느뇨 물으니 2:5 가로되 유대 베들레헴이오니 이는 선지자로 이렇게 기록된바…

マタイによる福音書 黙想 【かごを編む神】 20260112(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 1:1~17 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。 1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、 1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、 1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、 1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、 1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、 1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、 1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、 1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、 1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、 1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。 1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、 1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、 1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、 1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、 1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。 1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。   マタイ1章の系図は一見すると退屈に見えるが、実は福音の神学を凝縮した序文である。マタイが想定していた第一の読者が、民族的誇りに満ちたユダヤ人であったことを忘れてはならない。神はダビデに「あなたの王位は永遠に堅く立つ」と約束されたが、歴史の中で政治的意味におけるダビデ王朝はすでに滅びていた。この地点で、イスラエルも、旧約を読む私たちも、深い混乱に直面する。 ユダヤ人たちは、神の約束は破棄されたのではなく、まだ実現していないのだと理解した。だからこそ、イスラエルの歴史を貫く情緒はメシア待望となった。来るべきメシアは、ダビデの王権を歴史の中で回復する者でなければならないと信じられた。そうでなければ、ダビデ契約が崩れてしまうからである。バビロン捕囚の後、ペルシア、ギリシア、ローマの支配を受けながらも、ユダヤ人はその期待を手放さなかった。現代イスラエルの一部は、現在のパレスチナ紛争もその延長線上に置いている。 それゆえ、マタイ福音書1章の系図は衝撃的である。マタイが系図を通して語ろうとしているのは、栄光に満ちたダビデではなく、人間の誇ることのできない歴史であった。義父を誘惑して系譜をつないだタマル、元娼婦であったラハブ、異邦人ルツ、ダビデの人生を横切ったバテシェバ(ダビデとバテシェバの出来事は強姦ではなく姦通であり、バテシェバの誘惑がかなりの部分を占めていたと私は考えている)、そしてエホヤキンの呪いは、ユダヤ人にとって消し去りたい汚点である。しかしマタイはそれらを削除せず、むしろメシアの系譜の中心に据える。 マタイは、ユダヤ人が待ち望んでいたダビデはすでに来たのだと言う。ただし、それは彼らが想像していた政治的ダビデではなかった。イエスがメシアであることを神学的に解釈する根拠が、この1章の系図なのである。この解釈なしには、イスラエルの系譜の正統性を説明することはできない。人々は理解できず、語ることもできないまま、ただ隠してきただけである。しかしマタイの解釈によって、イスラエルの歴史は矛盾なく本来の位置を取り戻した。 籠を編むには、二本、三本の素材を交差させなければならない。布を織るのも同じである。救済史の約束は神の経糸、すなわち縦の緊張として全体を支え、その間を通過する個々の人生が緯糸となって横切りながら編み込まれていく。救済史は人間の純粋さによってではなく、それを織り、編み上げる神によって成し遂げられる。曲がっていても、編組によってまっすぐに組み込まれる。職人は回し、巻き、絡め、固定する。緩めば崩れ、引きすぎれば切れる。大切なのは職人の手である。私の従順も、私の弱さも、一つの糸として神の御手の中で編み込まれていくことを願っている。

마태복음 묵상 【바구니를 짜는 하나님】 20260112(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 1:1~17 1:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라 1:2 아브라함이 이삭을 낳고 이삭은 야곱을 낳고 야곱은 유다와 그의 형제를 낳고 1:3 유다는 다말에게서 베레스와 세라를 낳고 베레스는 헤스론을 낳고 헤스론은 람을 낳고 1:4 람은 아미나답을 낳고 아미나답은 나손을 낳고 나손은 살몬을 낳고 1:5 살몬은 라합에게서 보아스를 낳고 보아스는 룻에게서 오벳을 낳고 오벳은 이새를 낳고…

ヨハネの手紙第二 黙想【惑わされない真理】20260110(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの手紙第二 1:1-13 1:1 長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。 1:2 真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。 1:3 父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。 1:4 御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。 1:5 そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。 1:6 私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。 1:7 こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。 1:8 気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。 1:9 だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。 1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。 1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。 1:12 あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。 1:13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。  ヨハネの第二の手紙は、一章、十三節で構成されている短い手紙です。しかし、その短さのゆえに、この手紙の目的と内容は、力強く、またはっきりと伝わってきます。    「愛の使徒」と呼ばれるヨハネは、今日の御言葉の中で、ヨハネらしく愛を強調すると同時に、反キリストたち、すなわち異端に対して、断固とした態度を取るように勧めています。しかし、その異端への対処は、決して愛を捨てることではなく、むしろ真の愛を守るためであることが、ここで示されています。    異端への対処の問題は、長い間、教会の中で議論されてきて、どの方法が正しいと言うことも難しい問題であります。単に彼らに対して厳しく対処することだけが正しいと言い切れないのは、敵を愛し、その相手にまでも真理を伝えることが、キリスト者の使命であるとも言えるからです。    聖書の中で反キリストと呼ばれる者たちには、いくつかの特徴があります。それは、真理を歪め、その歪められた真理に人々を惑わす、という点です。ヨハネは、彼らに惑わされないため、また、私たちが受ける豊かな報いを失わないために、自ら注意しなさいと勧めているのです。    私たちは、彼らに惑わされないため、また、彼らが歪めた真理に欺かれて真の真理を失わないために、私たちの中にある真理を、さらに確かなものとして築き上げていかなければなりません。そして、彼らがもはや私たちにとって危険とならなくなり、私たちの中に根づいた真の真理が、彼らの歪んだ真理を正し、彼らもまた、完全な報いにあずかることができるようになる、それこそが、最も望ましい道でしょう。    このような務めを一人で担うことは危険なことです。私たちはいつでも、「自分は惑わされない」という思い込みに陥る可能性もあり、実際に惑わされてしまうこともあるでしょう。だからこそ、この働きは、真の真理のうちに互いに愛し合う共同体とともに、その共同体を導いておられる聖霊様を通して、成し遂げられなければならないのです。 https://youtu.be/6-1NgGkmLC4?si=ysH7XbM-b2neW06S

요한이서 묵상【미혹을 이기는 진리】20260110(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한이서 1:1-13 1:1 장로인 나는 택하심을 받은 부녀와 그의 자녀들에게 편지하노니 내가 참으로 사랑하는 자요 나뿐 아니라 진리를 아는 모든 자도 그리하는 것은 1:2 우리 안에 거하여 영원히 우리와 함께 할 진리로 말미암음이로다 1:3 은혜와 긍휼과 평강이 하나님 아버지와 아버지의 아들 예수 그리스도께로부터 진리와 사랑 가운데서 우리와 함께 있으리라 1:4 너의 자녀들 중에 우리가 아버지께…

ヨハネの手紙第一 黙想【知識は力なり】20260109(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの手紙第一 5:13-21 5:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。 5:14 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。 5:15 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。 5:16 だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。 5:17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。 5:18 神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。 5:19 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。 5:20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 5:21 子どもたち、偶像から自分を守りなさい。  私たちはさまざまな分野において、「知識は力なり」という言葉を用いています。そのため、学ぶことを大切にし、その力を養うことに力を注いできました。これは、私たちの信仰においても同じです。しかし、それは世の中が語る「知識」とは、少し異なるのかもしれません。     私たちの信仰における「知識」には、二種類の知識があります。それは、「概念的知識」と、「体験的知識」です。単に論理的に理解することにとどまらず、私たちの全人格を通して体験することによって知る、ということです。私たちは、この概念的に知ることと、経験的に知ること、その両方を大切にしながら、「力となる知識」を育んでいく必要があります。  まず私たちは、「概念的知識」として神様を知る必要があります。御言葉を通して、また、その御言葉を確かな土台とする教えたちを通して、神様がどのようなお方であるか、私たちにどのようなことをなさってくださったのか、私たちはどのような存在であり、どのように生きるべきなのかを、論理的にも理解しなければなりません。この「知識」が、健全な信仰の土台となり、また、私たちが神様を伝えていくための土台となるでしょう。  同時に、私たちは経験的に神様を知る必要があります。私たちの信仰は、概念だけで成り立つものではありません。また、この世の知識だけでは、神様を正しく知ることもできません。私たちは、一人ひとりに与えられた聖霊の働きと、導きを通して神様を経験し、そのお方を見、出会うことで神様を知ることができるでしょう。  この二つの「知識」には、決められた順番はありません。概念を持っている者にだけ体験が与えられるのでもなく、体験をした者だけが概念として神様を知ることができるわけでもありません。しかし、確かなことは、この二つの「知識」が、必ず共に行かなければならないということです。私たちの中で、「知性」と「霊性」の出会いが起こる必要があるのです。  私たちが救われた神様の民であることを概念として知ることは、救いの確信をもたらしてくれるでしょう。しかし、その事実を体験しなければ、その救いはどこか曖昧で、ぼんやりしているものになってしまうかもしれません。一方、救われた神様の民であることを体験することは、私たちが受けた救いがどのようなものであるかを、より鮮明にしてくれるでしょう。しかし、その事実を概念的に知らないと、その救いは一時的な体験に過ぎないもの、あるいは、いつか失われてしまうのではないかという恐れと不安の中で生きることになるでしょう。  このように私たちは、神様を概念的に、また経験的に知ることによって与えられる力をもって、救われた神様の民としてこの世の中で生き、伝えていくことができます。 https://youtu.be/7O4BeAEDuaY?si=T4vN_Q4k3RcAHNeR

요한일서 묵상【아는 것이 힘이다】20260109(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한일서 5:13-21 5:13 내가 하나님의 아들의 이름을 믿는 너희에게 이것을 쓰는 것은 너희로 하여금 너희에게 영생이 있음을 알게 하려 함이라 5:14 그를 향하여 우리가 가진 바 담대함이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라 5:15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻은 줄을 또한 아느니라 5:16 누구든지 형제가 사망에 이르지 아니하는…