マタイによる福音書 黙想 【イエス様は変わられたのだろうか】 20260224(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 17:1~13 17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。 17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。 17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。 17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。 17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。 17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」 17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」 17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。 17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」 17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。   イエス様はIncarnationによって私たちのただ中に来られた。御言葉が肉となられた。天が地へと下って来た出来事である。それは神性が変わったということではなく、その栄光が低い所へと降りて来られたということである。イエス・キリストのケノーシス、すなわち自己の空しさは、存在論的な変化ではなく、栄光の隠蔽であった。神であられることが変わったのではない。ただ神様が人間の条件の中へ入って来られたのである。 人間はTransformationを望む。変身したいと願う。もっと強く、もっと輝き、もっと優れた存在になりたいと思う。技術や知識によって自分を変え、アップグレードしようとする。しかしその多くは外面的な調整や状態の改善にすぎない。本質を自ら変え出すことのできる存在ではない。努力もし、前向きな期待も抱くが、人間は自力救済が不可能な存在である。 山の上で起こった出来事はTransfigurationであった。イエス様が変身して、より神的な存在になられたのではなく、隠されていた栄光が現れたのである。イエス様は変わられなかった。ベツレヘムのIncarnationによって栄光は覆われていたが、変貌の山のTransfigurationによって本来の栄光が現れ、神様はそれを弟子たちにお示しになったのである。 人間の罪の姿も、神様があらわされれば天下に露わになるだろう。しかし神様が照らしてくだされば、その人を通して神様のかたちが現れることもある。自らをTransformationによって新しくすることはできないが、Incarnationされたキリストのうちにあるとき、私たちはキリストの栄光にあずかる存在としてTransfigurationされ得る。神様の創造が私の内にあり、その上に光が注がれるなら、私もまた光を放つことができる。

마태복음 묵상 【예수님은 변화하셨을까】 20260224(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 17:1~13 17:1 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 그 형제 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라가셨더니 17:2 저희 앞에서 변형되사 그 얼굴이 해 같이 빛나며 옷이 빛과 같이 희어졌더라 17:3 때에 모세와 엘리야가 예수로 더불어 말씀하는 것이 저희에게 보이거늘 17:4 베드로가 예수께 여짜와 가로되 주여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 주께서 만일 원하시면 내가 여기서…

マタイによる福音書 黙想 【信仰告白の縦糸と横糸】 20260223(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 16:13~28 16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。 16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」 16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。 16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。 16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」 16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。 16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」 16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。 16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」 数週間前の主日礼拝で、マルコの福音書8章を本文として「あなたはわたしをだれだと言うのか」という題で説教しました。今日のマタイの本文も、カイサリア・フィリピでのペテロの信仰告白、再びあの出来事です。書物は違いますが、出来事は同じです。私はマルコとマタイをそれぞれ尊重します。それは単なる繰り返しや重なりではないからです。福音書は一つの出来事をそれぞれ異なる角度から解釈します。視点と意図が異なります。それはそれぞれ異なる共同体に向けた異なるメッセージとして伝えられました。であるならば、今日の私たちの黙想も、事実を歪めない範囲で意味を解釈しなければなりません。黙想とは、他人の解釈にうなずく行為ではなく、出来事の意味を自分が立っている場所から責任をもって思索するための訓練です。 マルコの福音書では、ペテロの告白は最小限に紹介されています。告白はマタイのものより短く、その後に続くイエス様の祝福もなく、その告白からつながる教会への言及もありません。そしてすぐに「サタンよ、わたしの後ろに下がれ」という厳しい叱責だけが続きます。そこから読み取れるマルコの意図は明らかです。イエス様をキリストと呼ぶことと、イエス様の道を理解し従うこととは別の問題だということです。告白の言葉は正しくても、その内容はまだ十字架を通過していません。十字架を通らないメシア理解は未完成です。だからこそマルコの関心は弟子道にあります。自分を否み、十字架を負わない告白は、まだキリストに対する明確な告白ではないということです。 マタイの福音書は、ペテロの告白を個人の信仰表現に閉じ込めません。さらにさかのぼり、その告白が初めから神様によって開かれた霊的認識であったことを示します。マタイが語るペテロの信仰告白の源は人間ではなく神様です。しかしそれは人間の口によって告白されたものであり、その告白は共同体の土台となります。したがって共同体の根源的な出発点もまた神様です。教会は信仰告白、すなわちその源である神様の選びによって建てられます。その意味でマタイの関心は共同体にあります。個人の悟りと告白が集まり教会の基礎となり、その土台の上に共同体が築かれていきます。経験的にもこれを否定することはできません。信徒一人ひとりの人格的な信仰告白が網のように結び合わされて健全な教会が形づくられます。 二つの福音書の結論は異なりません。マルコは十字架のないメシアは存在しないと語り、マタイは十字架のメシアの上に教会が建てられると語りました。告白は十字架を通過しなければなりません。そしてその十字架を通過した告白の上に教会が建てられます。先に主体的に解釈しようと言いましたが、それは恣意的な解釈を意味するのではありません。根拠をもって正当に解釈されたなら、それは再び問いとなって戻ってくるでしょう。正しい解釈は解釈した者をあらためて問い直します。私はイエス様をだれと告白しているのか。私の告白は十字架を通過しているのか。そしてその告白の上に、私は今何を築いているのか。

마태복음 묵상 【신앙고백의 세로줄과 가로줄】 20260223(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 16:13~28 16:13 예수께서 가이사랴 빌립보 지방에 이르러 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 인자를 누구라 하느냐 16:14 가로되 더러는 세례 요한, 더러는 엘리야, 어떤이는 예레미야나 선지자 중의 하나라 하나이다 16:15 가라사대 너희는 나를 누구라 하느냐 16:16 시몬 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시요 살아계신 하나님의 아들이시니이다 16:17 예수께서 대답하여 가라사대 바요나 시몬아 네가 복이 있도다 이를 네게…

マタイの福音書 黙想【人を知っている人イエス】20260221(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 15:29-39 15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。 15:30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。 15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。 15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」 15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」 15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」 15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。 15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。 15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。 15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。    イエス様の公生涯におけるすべての働きには、人に向けられた神様の憐みが表されています。神様の御言葉を教え、宣べ伝えられたのも、人々を癒やされたのも、彼らをその悲惨の中から救い出すためでした。そして、その神様の憐みは、いつも具体的な実践をもって現れました。    今日の箇所に記されているイエス様の御業は、人々を癒やされたこと、そして群衆を食べさせられたことです。これまでのすべての働きと同様に、その中心には「憐み」がありました。しかし、彼らをあわれみ、癒やし、食べさせられたのは、それがイエス様の義務であったからではありません。彼らの苦しみを深く理解し、共に痛み、悩む、彼らと同じ「人」としてこの地に来られたからです。    以前の箇所で、イエス様は「盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちる」とのたとえをもって弟子たちを教えられました。確かに、目の見えない者が目の見えない者を導けば、共に転んでしまうのは当然です。では、目の見える者が盲人を導けば安全でしょうか。ある程度はそうかもしれません。しかし、目の見える者は盲人の立場を完全には理解できません。その道が目の見えない人にとってどのように感じられるのか、何が妨げになるのかを、すべて知ることはできないからです。そこにも危険は残ります。    しかし、もしその盲人の立場を完全に理解し、なおかつ道も知っている者が導くとするならばどうでしょうか。あらゆる危険から守られながら、目的地に安全に着くことができるでしょう。それが、イエス様と私たちの関係です。完全な人として来られたイエス様は、同時に人を創られたお方でもあります。だからこそ、人のあらゆる弱さや限界を知っておられます。どのような状況に置かれた人であっても、イエス様はその痛みや悩み、すべての感情を完全に共有することができる方なのです。    イエス様は、口のきけない者、目の見えない者、歩くことのできない者、そのような者たちが抱えている苦しみや痛みを、誰よりも深く理解しておられました。そのため、イエス様のあわれみは、助ける側と助けられる側という上下の関係、上から目線のような憐みではありません。共に痛み、共に泣く水平的なあわれみです。イエス様は、空腹の人々と同じ場に立ち、その切実さをご存じであったからこそ、「かわいそうに」と言われ、彼らを満たされたのです。      このような出来事を超えて、今の私たちのあらゆる状況もまた、イエス様は完全に理解してくださっています。単なる「共感」ではありません。さらに深い「同感」する方です。そのすべてを知っておられる主が私たちを導いてくださるので、私たちは疑うことも、恐れることもなく、安心してイエス様に従ってともに歩むことができるのです。 https://youtu.be/Yx_JuC1FWLc?si=gkt2IDyD7i84WyOthttps://youtu.be/ZWktcXSPVCY?si=xmlpXGE8SmqOP7Sd

마태복음 묵상【인간을 아시는 인간 예수】20260221(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 15:29-39 15:29 예수께서 거기서 떠나사 갈릴리 호숫가에 이르러 산에 올라가 거기 앉으시니 15:30 큰 무리가 다리 저는 사람과 장애인과 맹인과 말 못하는 사람과 기타 여럿을 데리고와서 예수의 발 앞에 앉히매 고쳐 주시니 15:31 말 못하는 사람이 말하고 장애인이 온전하게 되고 다리 저는 사람이 걸으며 맹인이 보는 것을 무리가 보고 놀랍게 여겨 이스라엘의 하나님께 영광을…

マタイの福音書 黙想【恵みの大きさ】20260220(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 15:21-28 15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。 15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。 15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」 15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」 15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」 15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。   今日の箇所に記されている出来事は、色々な意味で、有名な箇所です。ある人は、イエス様がカナン人の女に語られた言葉を見て、イエス様が人を差別されたのかと言い、ある人は、それは彼女の信仰を試すためであったのだと解釈します。実際のところ、どちらが正しいか知っておられるのは、その言葉を語られたイエス様ご自身だけでしょう。    しかし、イエス様の言葉に対する彼女の応答を見るとき、なぜこの出来事が私たちの聖書に記されたのか、その理由ははっきりと見えてきます。カナン人の女の姿と、その言葉は、直前の箇所でイエス様と対立していたパリサイ人や律法学者たちの姿と、はっきりと対照されています。    彼らは、自分たちと、自分たちが守ってきた伝統が尊重されることを求めました。それが神様のみことばに反するものであったにもかかわらずです。イエス様が「口から出るものは心から出る」と語られたとおり、彼らの内側には、神様のみことばよりも自分自身を高く位置付ける傲慢さがあったのです。    しかし、今日の箇所のカナン人の女の口から出た言葉は、まったく異なるものでした。彼女は、自分が尊重されることを少しも求めていませんでした。異邦人として軽視され、犬のように扱われたとしても、それでもなおイエス様の恵みにあずかりたいという、堅い決意がそこにはありました。彼女にとって、自分が高められることや尊重されることは、神様の御前では何の意味もなかったのです。    イエス様なら、パン屑のような恵みでも娘を癒やすことができると信じた彼女の信仰を「立派だ」と言われたことは、確かに重要です。しかし同時に、その恵みをいただくためなら、自分がどのように扱われるとしても構わないという、へりくだった姿勢、パリサイ人や律法学者とは正反対の姿勢を、イエス様が尊いものとされたことを忘れてはいけません。    カナン人の女にとって、神様の恵みはそれほどまでに大きなものでした。自分のすべてをかけてでも、何をしてでも得なければならないものであったのです。しかし、パリサイ人や律法学者にとっては、自分たちの守ってきた伝統とその尊重こそが、神様の恵みと引き換えにしてでも守るべきものになっていたのです。    私たちにおいて、神様の恵みはどのようなものでしょうか。カナン人の女の信仰のように、他の何ものとも引き換えられない、すべてを失ってでも得なければならないものであることを、私たちは忘れてはいないでしょうか。今一度、自らの心を省みましょう。 https://youtu.be/_q8QUYxphWs?si=lkpAHDoRMqI20fhU

마태복음 묵상【은혜의 크기】20260220(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 15:21-28 15:21 예수께서 거기서 나가사 두로와 시돈 지방으로 들어가시니 15:22 가나안 여자 하나가 그 지경에서 나와서 소리 질러 이르되 주 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서 내 딸이 흉악하게 귀신 들렸나이다 하되 15:23 예수는 한 말씀도 대답하지 아니하시니 제자들이 와서 청하여 말하되 그 여자가 우리 뒤에서 소리를 지르오니 그를 보내소서 15:24 예수께서 대답하여 이르시되 나는…

マタイによる福音書 黙想 【自由からの逃避】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 15:1~20 15:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。 15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」 15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。 15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。 15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、 15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。 15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。 15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」 15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。 15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」 15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」 15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。 15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」 15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」 15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。 15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。 15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」 パリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちが手を洗わずに食事をしていることを非難した。それは衛生の問題ではなく、長老たちの言い伝えに背いたという理由からであった。その言い伝えとは、本来は祭司に求められていた清めの規定を、日常生活のすべての人にまで拡大したものであった。 イエス様は、その形式的な枠組みこそが、かえって神様の戒めに逆らっていることを指摘された。その代表的な例が「コルバン」である。神様にささげたという口実によって、両親を敬う責任を回避する人々の姿である。形式が親孝行という本質を転倒させ、子が親を飲み込むという倫理的な逆転を生み出したのである。 心理学では、これを「モラル・ライセンシング(道徳的免許効果)」と呼ぶ。守るべきことを守ったのだから問題ない、という自己正当化の構造である。しかし、なぜそれを守ると決めたのか、それを守ろうとした本来の目的や精神が何であったのかは問われない。その結果、主客は転倒し、へそが腹より大きくなる。 これは明らかに警戒すべき弊害であるが、同時に人間にとって極めて自然な傾向でもある。人は自由を恐れる。実存は選択を要求し、選択は責任を伴うからである。そのため人は、自ら体制や規範に身を合わせ、思考を停止した自動的存在になろうとする。勇気のない者は自由を求めず、自由が与えられてもそれを生きることができない。形式は維持されるが、人間性は縮小されていく。これが自由からの逃避である。 キルケゴールは、キリスト教が制度化されると、「キリストに従う生き方」が「キリスト教文化に属すること」へと変質すると指摘した。これは極めて鋭い洞察である。手段が目的のように機能することは、単なる誤作動ではなく、堕落である。清い水は器に汲まれなければならない。ゆえに器は重要である。しかし、器を水に沈めてしまってはならない。

마태복음 묵상 【자유로부터의 도피】 20260219(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 15:1~20 15:1 그 때에 바리새인과 서기관들이 예루살렘으로부터 예수께 나아와 가로되 15:2 당신의 제자들이 어찌하여 장로들의 유전을 범하나이까 떡 먹을 때에 손을 씻지 아니하나이다 15:3 대답하여 가라사대 너희는 어찌하여 너희 유전으로 하나님의 계명을 범하느뇨 15:4 하나님이 이르셨으되 네 부모를 공경하라 하시고 또 아비나 어미를 훼방하는 자는 반드시  죽으리라 하셨거늘 15:5 너희는 가로되 누구든지 아비에게나 어미에게…