マタイによる福音書 黙想 【再び五つのパンと二匹の魚】 20260217(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 14:13~21 14:13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。 14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」 14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」 14:17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」 14:18 するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。 14:19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。 14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。 14:21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。   14章は一見するとバプテスマのヨハネの死の物語から始まっているように見えるが、実際にはイエス様についてのうわさを聞いたヘロデが「これはバプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と語るところから始まる、過去の召喚である。14章の時点で、ヘロデがヨハネを殺した出来事はすでにかなり以前のことであった。ヘロデは良心の呵責をまったく感じないままヨハネを殺したのではない。さかのぼれば、ヘロデは兄弟の妻であったヘロディアを奪って結婚し、そのことでヨハネから公然と非難を受けた。それでもヘロデはヨハネを恐れていたため、すぐに彼を害することはできなかったが、ヘロディアの計略によってヨハネの首をはねることになった。ヘロデは優柔不断であり、自分の体面のために最終的にはヨハネを殺してしまったのである。   今日の本文に登場する分封王ヘロデは、昨日のマルコの主日説教で触れたカイサリア・ピリポを建てた分封王ヘロデとは別の人物である。カイサリア・ピリポを建てたのはヘロデ・ピリポ二世であり、バプテスマのヨハネを殺したのはヘロデ・アンティパスである。二人とも、イエス様誕生当時に幼子虐殺を行ったヘロデ大王の息子であり、異母兄弟であった。父ヘロデ大王は権力のためにベツレヘムの幼子たちを殺し、息子アンティパスは体面と権威を守るためにヨハネの首をはねた。自らの権力を守るために誰かを殺す構造、恐れを暴力によって解決しようとするやり方が、父子の間でよく似ている。   抑え込んでいた罪責感は、外からの刺激によって再び活性化される。ヘロデにとってイエス様の存在そのものが裁きであり恐怖であった。姦淫の相手であり、狂気じみた権力欲を持っていた妻ヘロディアがローマに無理な要求をしたことをきっかけに、ヘロデは実権を失い、すべてを失って流刑地で死ぬことになる。おそらくヘロディアは美しい女性であったのだろう。不正な方法でその女を得ようとし、その女のために神様の預言者を殺し、さらにその女のために結局は滅びの道を歩んだ。死後に行く地獄ではなく、生きながらにして地獄を作り、その中で生きたのである。   地獄とは神様のいないところである。真実を拒みながら生きる人の内には神様はおらず、その場所は地獄へと変わっていくしかない。真実を真実として認め、告白して生きることは、思っている以上に大きな勇気と犠牲を必要とする。それが不思議ではないのは、この世が真実ではないからである。これはバプテスマのヨハネが死ぬ物語であるが、私はヨハネを殺したヘロデが滅びていく物語として読んだ。良心と罪責感を必死に押し殺しながら野望を追い続けたとしても、神様のかたちに造られた人間であるならば、道徳的損傷を避けることはできない。地獄から抜け出す道は、自分を手放し、真実を選び取ること以外にない。  

마태복음 묵상 【다시 오병이어】 20260217(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 14:13~21 14:13 예수께서 들으시고 배를 타고 떠나사 따로 빈들에 가시니 무리가 듣고 여러 고을로부터 걸어서 좇아간지라 14:14 예수께서 나오사 큰 무리를 보시고 불쌍히 여기사 그 중에 있는 병인을 고쳐 주시니라 14:15 저녁이 되매 제자들이 나아와 가로되 이곳은 빈들이요 때도 이미 저물었으니 무리를 보내어 마을에 들어가 먹을 것을 사먹게 하소서 14:16 예수께서 가라사대 갈것 없다…

マタイによる福音書 黙想 【ヨハネを殺したヘロデ】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 14:1~12 14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、 14:2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」 14:3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。 14:4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。 14:5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。 14:6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。 14:7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。 14:8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。 14:9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、 14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。 14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。 14章は一見するとバプテスマのヨハネの死の物語から始まっているように見えるが、実際にはイエス様についてのうわさを聞いたヘロデが「これはバプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と語るところから始まる、過去の召喚である。14章の時点で、ヘロデがヨハネを殺した出来事はすでにかなり以前のことであった。ヘロデは良心の呵責をまったく感じないままヨハネを殺したのではない。さかのぼれば、ヘロデは兄弟の妻であったヘロディアを奪って結婚し、そのことでヨハネから公然と非難を受けた。それでもヘロデはヨハネを恐れていたため、すぐに彼を害することはできなかったが、ヘロディアの計略によってヨハネの首をはねることになった。ヘロデは優柔不断であり、自分の体面のために最終的にはヨハネを殺してしまったのである。 今日の本文に登場する分封王ヘロデは、昨日のマルコの主日説教で触れたカイサリア・ピリポを建てた分封王ヘロデとは別の人物である。カイサリア・ピリポを建てたのはヘロデ・ピリポ二世であり、バプテスマのヨハネを殺したのはヘロデ・アンティパスである。二人とも、イエス様誕生当時に幼子虐殺を行ったヘロデ大王の息子であり、異母兄弟であった。父ヘロデ大王は権力のためにベツレヘムの幼子たちを殺し、息子アンティパスは体面と権威を守るためにヨハネの首をはねた。自らの権力を守るために誰かを殺す構造、恐れを暴力によって解決しようとするやり方が、父子の間でよく似ている。 抑え込んでいた罪責感は、外からの刺激によって再び活性化される。ヘロデにとってイエス様の存在そのものが裁きであり恐怖であった。姦淫の相手であり、狂気じみた権力欲を持っていた妻ヘロディアがローマに無理な要求をしたことをきっかけに、ヘロデは実権を失い、すべてを失って流刑地で死ぬことになる。おそらくヘロディアは美しい女性であったのだろう。不正な方法でその女を得ようとし、その女のために神様の預言者を殺し、さらにその女のために結局は滅びの道を歩んだ。死後に行く地獄ではなく、生きながらにして地獄を作り、その中で生きたのである。 地獄とは神様のいないところである。真実を拒みながら生きる人の内には神様はおらず、その場所は地獄へと変わっていくしかない。真実を真実として認め、告白して生きることは、思っている以上に大きな勇気と犠牲を必要とする。それが不思議ではないのは、この世が真実ではないからである。これはバプテスマのヨハネが死ぬ物語であるが、私はヨハネを殺したヘロデが滅びていく物語として読んだ。良心と罪責感を必死に押し殺しながら野望を追い続けたとしても、神様のかたちに造られた人間であるならば、道徳的損傷を避けることはできない。地獄から抜け出す道は、自分を手放し、真実を選び取ること以外にない。

마태복음 묵상 【요한을 죽인 헤롯】 20260216(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 14:1~12 14:1 그 때에 분봉왕 헤롯이 예수의 소문을 듣고 14:2 그 신하들에게 이르되 이는 세례요한이라 저가 죽은 자 가운데서 살아났으니 그러므로 이런 권능이 그 속에서 운동하는도다 하더라 14:3 전에 헤롯이 그 동생 빌립의 아내 헤로디아의 일로 요한을 잡아 결박하여 옥에 가두었으니 14:4 이는 요한이 헤롯에게 말하되 당신이 그 여자를 취한 것이 옳지 않다 하였음이라…

マタイによる福音書 黙想 【解釈の上に落ちた種】 20260212(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 13:1~17 13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。 13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。 13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。 13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。 13:9 耳のある者は聞きなさい。」 13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。 13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。 13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。 13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。 13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。 13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』 13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。 種まきのたとえは、同じ種が異なる土に落ち、異なる結果を生む物語である。道ばたに落ちた種は消えてしまい、石地に落ちた種はしばらく芽を出すがやがて枯れ、いばらの中に落ちた種は育つように見えても実を結ばない。しかし、良い地に落ちた種は実を結ぶ。このたとえでは、種は神様の御言葉であり、土はそれを聞き受け入れる人の状態である。御言葉は同じでも、結果は異なる。問題は種ではなく、土、すなわちそれを聞く人の側にある。 それぞれの土がどのように違っていたかを詳しく説明する必要はないだろう。今日注目したいのは、このたとえを聞いた弟子たちが「なぜたとえでお語りになるのですか」と尋ねたことと、それに対するイエス様の答えである。これは種まきのたとえが終わり、教え方の話題に切り替わったのではない。土の状態によって種の結果が変わるように、聞く人の状態によってたとえの意味も変わるからである。種まきのたとえこそ、なぜ“たとえ”という方法が必要なのかを証明している。 神様の国は公開された秘密である。隠されてはいないが、すべての人が自動的に理解するものでもない。すべての人に同じ方法で与えられる情報ではなく、聞く態度と状態によって現れたり隠れたりする。見る者は見、聞く者は聞くが、見ようとしない者は見えず、聞こうとしない者は聞けない。だからこそ、弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、種まきのたとえの解説でもあるのである。 イエス様は整理された教理や完成された結論を注入しようとはなさらなかった。物語を通して、聞く者が自ら解釈することを望まれた。説明できなかったからたとえで語られたのではなく、解釈の余地を残されたのである。聞く人は自分の人生と信仰の責任をもってそれを解釈し、応答しなければならない。何も考えず、誰かの解説だけに頼るなら、そのたとえは結ばれたまま解かれない。同じ御言葉を聞いても、何も見えない人もいれば、その中に神様の御心と自分の人生との関係を読み取る人もいる。 神様の御言葉であっても、それが耳に入った瞬間に自動的に意味になるわけではない。それぞれの条件と経験を通して解釈されるとき、はじめて生きて動き始める。ドイツの哲学者ガダマーは『真理と方法』で、意味はテキストの中に固定されているのではなく、読者との出会いの中で生まれると語った。テキストはそれ自体で完結して語るのではない。テキストは問いを投げかけるだけであり、解釈者がそれに応答するときに意味が生まれる。種まきのたとえも同じである。それはイエス様の完成された説明ではなく、それを読む者が解釈し、応答するときに意味が起こる出来事である。これは御言葉が可変的だという意味ではない。イエス様が各人に解釈の過程を求めておられるからこそ、たとえで語られたのである。 だから種まきのたとえは、御言葉をどれほど多く聞いたかを問うているのではない。その御言葉を解釈する人間として生きているかを問うているのである。良い地とは、情報を正確に理解する人のことではない。御言葉を自分の人生の中に持ち込み、解釈し、自分の物語として語り直し、待ち、葛藤し、耐え抜く人のことである。種はそのときに芽を出す。信仰とは正解を所有することではなく、解釈の責任を引き受けることである。

마태복음 묵상 【해석 위에 떨어진 씨】 20260212(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 13:1~17 13:1 그 날에 예수께서 집에서 나가사 바닷가에 앉으시매 13:2 큰 무리가 그에게로 모여 들거늘 예수께서 배에 올라가 앉으시고 온 무리는 해변에 섰더니 13:3 예수께서 비유로 여러가지를 저희에게 말씀하여 가라사대 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서 13:4 뿌릴쌔 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고 13:5 더러는 흙이 얇은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧…

マタイによる福音書 黙想 【私の所属】 20260211(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:38~50 12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。 12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。 12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。 12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、 12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。 12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。 12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。 12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。 12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」 本文には、三つの出来事が語られているように見える。第一に、律法学者とファリサイ人たちがイエス様にさらなるしるしを求めたことに対し、イエス様がヨナのしるし以外には与えられないと答えられた場面である。第二に、悪霊が出て行った後、その空いたところを神様のもので満たさなければ、以前よりも悪い状態になるという警告である。第三に、イエス様の母と兄弟たちが訪ねて来たとき、血縁の家族ではなく、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られた場面である。 一見すると別々の話のようだが、これら三つの出来事は共通して「どこに属しているのか」という所属の問題を語っている。マルコはこの共通点を意識して本文を編集したのだろう。しるしを求める人々は、しるしがもっと明確に現れたなら信じてもよいと言う。しかし、聖書的にも、歴史的にも、また経験的にも、確認が信仰になった例は一度もない。今後もないだろう。確認できないから信仰なのであり、確認された瞬間、それはすでに信仰ではなくなる。奇跡を見たり体験したりすること自体が信仰になるわけではない。人は確認し、量り、判断しようとするが、その所属はすでに神様の内にはない。 続く空になった家のたとえは、信仰において「所属のない中立」というものが存在しないことを語っている。信じるか、信じないかであり、いわゆる合理的な信仰というものは存在しない。中立であること自体が、すでに神様の所属ではない。悪霊の支配は断ち切られたが、その内側を神様で満たさなければ、かえってより危険な状態になるという警告は、神様への所属を曖昧にすればするほど、神様ではないものへの所属が明確になっていくという意味である。最後にイエス様は、血縁を超えて、神様のみこころを行う者こそが真の家族であると語られる。神様への所属は、どのような所属よりも優先される。 自分の所属を語らず、隠して生きる人々は、何をそれほど恐れているのだろうか。何がそんなに恥ずかしいのだろうか。本文が求めている所属は、証明書として発行できるものではない。教会籍謄本や洗礼証明書でも示すことはできない。語る言葉と、取る行動と、選び取る生き方、その現実によってのみ示される所属である。

마태복음 묵상 【내가 속한 곳】 20260211(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:38~50 12:38 그 때에 서기관과 바리새인 중 몇 사람이 말하되 선생님이여 우리에게 표적 보여주시기를  원하나이다 마12:39 예수께서 대답하여 가라사대 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 선지자 요나의 표적 밖에는 보일 표적이 없느니라 마12:40 요나가 밤낮 사흘을 큰 물고기 뱃속에 있었던것같이 인자도 밤낮 사흘을 땅 속에 있으리라 마12:41 심판 때에 니느웨 사람들이 일어나 이 세대 사람을…

マタイによる福音書 黙想 【御霊に対する冒瀆】 20260210(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 12:22–37 12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。 12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」 12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」 12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。 12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。 12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。 12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。 12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。 12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。 12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。 12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。 12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。 12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。 12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」 悪霊に取りつかれ、目が見えず口もきけなかった人をイエス様が癒やされると、パリサイ人たちはその力をバアル・ゼブルの力を借りたものだと非難した。人の内にいた悪霊が追い出されたにもかかわらず、その出来事を悪霊の力によるものだと説明しようとする論理には説得力がない。悪霊が悪霊を追い出したという主張は、論理的にも成立しない。それは事実を説明しようとする試みではなく、すでに自分の内に定められた結論を守るための、痛々しいほどのこじつけにすぎない。 このような歪みは、私たちの周囲にありふれている。特別な狂気の姿をしているわけではない。社会的地位や宗教的権威を持つ人々であっても、事実を事実として見ず、真実を真実として語らないことがある。彼らは自分の利益や立場に合うものだけを事実として認める。自らの権威や既得権が揺らがないように、事実を否定し、無理な理屈を押し通す。その論理の中には、もはや真実も事実も残っていない。これは認知の歪みである。そこに残るのは、どんな手段を使ってでも自分の立場を守ろうとする頑なさだけである。 先にイエス様が癒やされた悪霊憑きの人の症状は、見えないこと、そして語れないことであった。つまり、その悪霊は人をして真実を見えなくし、事実を語れなくする状態を象徴しているとも言える。その意味で、実際に見えなくされ、語れなくされているのはパリサイ人たちである。彼らは肉体的に目が見えず、口がきけなかった人よりも、さらに深刻なかたちで悪霊に支配されている。目の前に明白な事実が示されているにもかかわらず、ためらいなく歪んだ解釈を下しているからである。 イエス様は、目が見えず語れなかった人に対しては、憐れみをもって癒やしと回復を与えられた。しかし、心を悪意と意図をもって歪める人々の前では、常に例外なく厳しい態度を取られる。悪霊が悪霊を追い出すことはない以上、悪霊が出て行ったのは聖霊の働きによるものである。にもかかわらず、その出来事を最後まで否定し、言い争いを続ける態度は、聖霊の働きを意図的に妨げる行為となる。したがって、イエス様が警告された「聖霊を冒瀆する罪」とは、「自分の利益と自分の頑なさのために、真実を否定し続ける態度」である。それこそが、最も執拗で恐ろしい悪霊の正体である。

마태복음 묵상 【성령을 훼방하는 죄】 20260210(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 12:22–37 12:22 그 때에 귀신들려 눈 멀고 벙어리 된 자를 데리고 왔거늘 예수께서 고쳐 주시매 그 벙어리가 말하며 보게 된지라 12:23 무리가 다 놀라 가로되 이는 다윗의 자손이 아니냐 하니 12:24 바리새인들은 듣고 가로되 이가 귀신의 왕 바알세불을 힘입지 않고는 귀신을 쫓아 내지 못하느니라 하거늘 12:25 예수께서 저희 생각을 아시고 가라사대 스스로 분쟁하는 나라마다…