マタイによる福音書 黙想 【あなたがたの間で信じたいと思う者は】 20260305(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 20:17~28 20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。 20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、 20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。 20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」 20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。 20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」 20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。 20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。 20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」 イエス様はエルサレムへ上って行く途中、これから起こる出来事について語られた。大祭司や律法学者たちはイエス様を殺すことを決め、総督に引き渡し、やがて苦しみと辱めを受けて十字架にかけられることになる。しかし三日後に再びよみがえるという内容であった。けれども弟子たちはその意味を理解することができなかった。 ゼベダイの子たち、すなわちヨハネとヤコブの母がイエス様のもとに来て、一人を右に、もう一人を左に座らせてほしいと願い出る。彼らはイエス様のエルサレム入城を政治的な権力の獲得として理解していたのである。イエス様は十字架の苦しみと受難を語っておられるのに、弟子たちは席次をめぐって争っている。十字架を語りながら、それを利用して地位や利益に執着する人は、今の時代にも決して少なくない。 同じ道を歩きながらも違う夢を見ている弟子たちに、イエス様はご自分が飲まなければならない杯を飲むことができるのか、すなわち十字架を担うことができるのかと問われる。期待に満ちたゼベダイの家族は、どんなことでもできると答える。他の弟子たちはヤコブとヨハネに腹を立てるが、その欲望は彼らと大きく変わらない。弟子たちは十字架の背景として立つには十分な姿を見せている。 イエス様は、世では権力を持つ者が人々を支配するが、神様の国ではそうではないと語られる。世では高くなるために人の上に立とうとするが、神様の国では自ら低くなり、人に仕える者こそ大きいのである。野心を持つ人間にとって、これほど魅力のない道はないだろう。 イエス様がこの地に来られたのは、仕えられるためではなく仕えるためであり、ご自分のいのちを多くの人の身代金として与えるためであると語られる。キリスト教はこれを信じ、実践し、伝える信仰である。しかし倒錯した宗教は、これとはまったく反対の方向へ走ってしまう。この矛盾から抜け出すことができるのだろうか。

마태복음 묵상 【누구든지 믿으려는 자는】 20260305(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 20:17~28 20:17 예수께서 예루살렘으로 올라가려 하실 때에 열 두 제자를 따로 데리시고 길에서 이르시되 20:18 보라 우리가 예루살렘으로 올라가노니 인자가 대제사장들과 서기관들에게 넘기우매 저희가 죽이기로 결안하고 20:19 이방인들에게 넘겨주어 그를 능욕하며 채찍질하며 십자가에 못 박게 하리니 제 삼일에 살아 나리라 20:20 그 때에 세베대의 아들의 어미가 그 아들들을 데리고 예수께 와서 절하며 무엇을 구하니…

マタイによる福音書 黙想 【後にならないためには】 20260303(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 20:1~16 20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。 20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。 20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。 20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』 20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。 20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』 20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』 20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』 20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。 20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。 20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。 20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』 20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。 20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。 20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』 20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」 ぶどう園の労働者のたとえは、マタイ19章から続く物語である。金持ちの青年が「何をすれば永遠のいのちを得られますか」と尋ねたのは、救いを行為と報いの構造で考えていたからであり、ペテロが「私たちはすべてを捨てて従いました。それでは何をいただけるのでしょうか」と尋ねたのも、献身に対する報酬を期待する計算であった。イエス様は弟子たちに報いを約束されたが、「先の者が後になり、後の者が先になる」と語られた。そしてその言葉を具体的に説明する過程で、ぶどう園のたとえを語られたのである。 ぶどう園の主人は、朝早くから夕方直前まで、時間ごとに順に労働者を雇った。最初に来た人々には一デナリを約束し、その約束を正確に守った。後から来た人々にも同じ一デナリを支払った。約束違反も賃金の減額もなかった。不正は存在しなかったが、早く来て長く働いた者たちは、少ししか働かなかった者と同じ賃金を受けたことに怒った。彼らが少なく受け取ったのではないが、他の者が同じだけ受け取ることに耐えられなかったのである。 近代以降の社会は、労働時間と賃金が比例すべきだという成果中心の秩序に慣れてきた。多く働けば多く受け取り、長く働けばさらに多く受け取り、能力が高ければより大きな報酬を得ることは当然と考えられてきた。しかし、ぶどう園の主人の計算は労働の比例でも成果による差別でもなかった。一デナリは一日を生きるための最低単位であり、主人はすべての人が一日を生きられるようにしたのである。労働と賃金にたとえて語られているが、単なる労働と賃金の話ではない。労働において努力や成果が報酬に反映されるべき側面はあるが、その外にいる人々にも生きる権利が与えられているということである。 この物語は、神様が与えられる「生きる権利」、そして救われる恵みに関する御言葉である。その権利は分け与える方の主権に属している。いのちが与えられ、必要が満たされているからこそ、今ここに生きているという告白は誰にとっても同じである。このたとえの結論は、「自分のものを自分の思いどおりにしてはいけないのか」という主人の主権宣言にある。その主権のもとで、平等に与えられる権利の広がりに共に立つ者は、自らの救いの恵みも保たれる。しかし、ねたみ、怒り、欲にとらわれる者は離れていき、やがて自分に与えられた権利さえ失うことになる。それが先の者が後になる悲劇である。先にされた者が後にされた者の権利を認め、支えるとき、その人もまた後になることなく、先にされた者としての恵みを喜ぶことができるのである。

마태복음 묵상 【나중되지 않으려면】 20260304(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 20:1~16 20:1 천국은 마치 품군을 얻어 포도원에 들여 보내려고 이른 아침에 나간 집 주인과 같으니 20:2 저가 하루 한 데나리온씩 품군들과 약속하여 포도원에 들여 보내고 20:3 또 제 삼시에 나가 보니 장터에 놀고 섰는 사람들이 또 있는지라 20:4 저희에게 이르되 너희도 포도원에 들어가라 내가 너희에게 상당하게 주리라 하니 저희가 가고 20:5 제 육시와 제…

マタイによる福音書 黙想 【誰が天の御国にはいるのか】 20260303(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 19:23~30 19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。 19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」 19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」 19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。 富は自分をコントロールできる力を与える。お金が多ければ選択できる権利は広がり、危険や困難に対して安全装置を整えることができる。その意味で、金持ちの青年は自分の人生を予測可能に統制できる人であった。しかし経済的に生活をコントロールする能力は、彼が口で求めた永遠のいのち、すなわち救いの能力とはまったく別の問題である。救いは人間が確保したり設計したりできる領域ではない。神様にしかできないことである。それを信じる信仰の根源的な出所もまた神様である。 不正な富者であれば、この地でもあの天の御国でも良い評価を受けることはないだろう。しかし貧しいことが必ずしも善であるわけでもない。善い富者もあり得るし、怠惰で悪い貧者もあり得る。貧しさは謙遜への通路となり得るが、貧しさがもたらす歪みも小さくはない。欠乏は怒りと絶望を生み、生存中心の信仰は視野を狭めざるを得ない。危険であることに変わりはない。富者は天の御国に入りにくいと語られたイエス様の御言葉は、経済的地位がそのまま救いの条件であるという意味ではない。問題は経済的位置ではなく、人間存在の依存構造にある。 「人にはできないが、神様にはできる」という宣言は、全的堕落と全的恩寵を思い起こさせる。人間は自ら救いを作り出すことはできず、神様だけがそれを成し遂げられる。しかし救いの主権が神様にあること、そしてその全的恩寵による救いという真理は、時に極端な予定論や運命論へと誤解されることがある。偏れば、誰がいつどこで何をどのように、なぜ行うべきかという緊張が麻痺する。無脊椎動物のように力なく揺れ動き、やがて信仰から消えていく。だからこそイエス様は、「先の者が後になり、後の者が先になる」とも語られた。何が神様に属し、何が自分に与えられた使命なのかを考えなければならない。 ペテロがまたもや前に出る。「私たちはあの青年と違ってすべてを捨てて従いました。それで何が得られるのでしょうか。」ペテロの道は金持ちの青年とは異なるが、思考の構造はまだ同じである。青年もペテロも、投資対回収、献身対報酬という計算をやめない。献身を叫んできた人間たちは、この地上で既に報いを受け取っている。完全燃焼する献身を見たことがない。私たちも同じである。蒸留水のような純粋な人間は存在しない。 それにもかかわらず、イエス様は彼らを叱責せず、豊かに報いると約束された。ただしイエス様の要求と報いの約束は、金持ちの青年にもペテロにも一貫している。イエス様は彼らを責任の位置へと召しておられる。幾倍もの報いと永遠のいのちの約束は、単なる繁栄の保証ではなく、新しい秩序の中で委ねられる役割と使命である。神様は救いを主権的に成し遂げられるが、その救いを歴史の中で人を通して実現していかれるからである。権限を委ねられれば責任も伴う。非難や反対もついてくるだろう。しかし責任を担うことこそが、この箇所の主題である。 AIという驚異と混乱の時代にあって、資本は移動し、権力も移動するだろう。ある富は危機に直面し、ある貧しさは機会をつかみ、別の資本や権力はさらに固定化する危険もある。私たちは知らない。データと技術は拡張しているが、人間には全体を統制する力はまだない。私たちが批判してきた金持ちの青年の統制欲求は、不確実な時代に不安を抱く私たち自身の姿としてそのまま現れている。 私たちは、人がしようとしていることと神様がなさることとの間の緊張を見つめ、その間で自分がなすべきことを探さなければならない。職を失わないことが目標なのではなく、それをどのように制御し、運用するかに関心を向けるべきである。金持ちの青年は宗教的形態や資本の運用には関心があったかもしれないが、時代の責任には関心がなかった。信仰とは、富の側に立って貪欲を正当化することでもなく、貧しさを善やロマンとして装うことでもない。労働の価値を尊びつつ資本の役割も認め、より多くの人に神様の賜物が行き渡るよう責任を担う位置へと進むことである。

마태복음 묵상 【누가 천국에 들어갈까】 20260303(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 19:23~30 19:23 예수께서 제자들에게 이르시되 내가 진실로 너희에게 이르노니 부자는 천국에 들어가기가  어려우니라 19:24 다시 너희에게 말하노니 약대가 바늘귀로 들어가는 것이 부자가 하나님의 나라에 들어가는 것보다 쉬우니라 하신대 19:25 제자들이 듣고 심히 놀라 가로되 그런즉 누가 구원을 얻을 수 있으리이까 19:26 예수께서 저희를 보시며 가라사대 사람으로는 할 수 없으되 하나님으로서는 다 할 수 있느니라…

マタイによる福音書 黙想 【マタイがまた連れて来た金持ちの青年】 20260302(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 19:13~22 19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」 19:15 そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。 19:16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」 19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」 19:18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」 19:20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」 19:21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」 19:22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。 昨日の主日礼拝で、マルコの福音書10章に出てくる金持ちの青年について説教した。財産を手放すことができなかったその青年は、結局、家へ帰って行った。ところが今朝、マタイがその青年をもう一度連れて来た。昨日、私はこの青年について語るべきことはすべて語ったと思っていたのに、今朝また何を語ればよいのだろうか。静かに読み直してみると、マタイはマルコとは少し異なる叙述構造によって、この青年を再び呼び出していることに気づいた。 昨日読んだマルコの福音書には、イエス様が十戒を引用される中で「欺き取るな」という表現があった。それは十戒そのものの一つではないが、他の戒めを総合した表現であろうと思っていた。しかし、もしかするとこの青年の財産形成の過程が、たとえ合法であったとしても、不正な取得や搾取を含んでいた可能性もあるのではないかと考えた。青年はそれらすべてを守ってきたと言ったが、私は彼に対して合理的な疑いを抱かざるを得なかった。 マルコが「欺き取るな」と記した箇所に、マタイは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉を書き加えている。ユダヤの伝統において、この言葉は律法全体を包括する戒めである。イエス様もマタイの福音書22章で、これこそ律法の核心であると語られた。しかしこれは十戒ではない。レビ記19章18節に記されている律法である。ではなぜマタイは、十戒を列挙する文脈の中にレビ記を挿入したのだろうか。 十戒は、安息日と父母を敬う戒めを除けば、基本的に禁止規定である。しかしレビ記の律法は、禁止の倫理ではなく、積極的に行うべき愛の次元である。青年は自分の口で禁止規定を守ったと言ったが、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは次元が異なる。それは他者の人生を自分の人生の重さとして引き受ける生き方でなければ実現できない。もしそれを本当に守った人がいるとすれば、その人はむしろ自分はまだ守れていないと言うだろう。それは謙遜だからではなく、それが愛の本質だからである。 マタイの福音書において、この青年は禁止規定の遵守を超えて、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めについてもためらうことなく、「私はすでにすべて守ってきました。まだ何が足りないのですか」と言う。これが彼の自己評価を信頼できない理由である。「青年は言った。これらすべてを私は守ってきました。まだ何が足りないのでしょうか」(19:20)。その瞬間、私はこの人間が恐ろしくなった。 結局、イエス様は青年に財産を分け与えるよう求められたが、彼はそこで立ち止まる。隣人を自分のように愛していると自信を持って言ったが、金は嘘をつかない。金の問題が持ち上がった瞬間、彼の自己矛盾はそのまま露わになった。イエス様が貧しい人々に財産を分け与えるよう命じられたのは、私有財産の否定ではなく、抽象的な愛を具体的な行為へと移し替えよという要求であった。弟子道を強調しているマタイは、青年が自ら家へ帰ったのではなく、イエス様が彼を家へ帰されたのだということを語っているのである。

마태복음 묵상 【마태가 다시 데려온 부자 청년】 20260302(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 19:13~22 19:13 때에 사람들이 예수의 안수하고 기도하심을 바라고 어린 아이들을 데리고 오매 제자들이 꾸짖거늘 마19:14 예수께서 가라사대 어린 아이들을 용납하고 내게 오는 것을 금하지 말라 천국이 이런 자의 것이니라 하시고 마19:15 저희 위에 안수하시고 거기서 떠나시니라 마19:16 어떤 사람이 주께 와서 가로되 선생님이여 내가 무슨 선한 일을 하여야 영생을 얻으리이까 마19:17 예수께서 가라사대 어찌하여…

マタイの福音書 黙想【赦しの価値】20260228(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 18:21-35 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」 18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。 18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。 18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。 18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。 18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。 18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。 18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。 18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。 18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。 18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。 18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』 18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。 18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」  かつてネットで流行っていた言葉があります。「許可をもらうことより、赦されるのが簡単」という言葉です。その由来はある夫婦の話からです。夫が買いたい何かを手に入れるためには、妻の許可を得て物を買うのではなく、先に物を買って、その後に妻から赦されるほうがより簡単、という話です。  しかし、より現実的に許可と赦しを見るなら、赦しはそのように簡単なものではないということに気づかされます。もしかすると、この世のすべての人が最も難しいと感じていることが、この赦しではないかと思えるほどです。もしお互いにこのような赦しが簡単に成されるものであったなら、この世の争いのほとんどは起こらなかったでしょう。結局、赦すことのできない私たちの姿が、今この世の数多くの争いの原因となっているのです。  このような赦しは、たいてい私たちの「利益」と深く関係しています。今日の箇所の内容のような金銭的、物理的な利益とともに、私たちのプライドどを守ったり、顔を立てたりするなどの精神的な利益、そのようなものを守ろうとする欲望が、私たちの中で赦しを難しいものとする原因となるのです。私たちが誰かを赦すということは、それらを手放すことと同じだからです。  赦すということは、すべてを我慢しながら生きるという意味ではありません。問題があるなら、それに応じてふさわしい解決策を探さなければなりません。しかし、その解決策に至るまで、赦しの心を持って解決策を探すことと、そのような心もないまま問題の解決だけを求めることには、その過程においても結果においても大きい違いがあります。赦しは単なる結果にだけ影響を与えるのではありません。過程から結果に至るまで、すべての瞬間に影響を与えるのです。  この世を生きていくために、私たちが当然必要とし、守りたいものがあります。しかし私たちは、そのようなものを赦しと引き換えることで、最も良いものを受けることができます。それは、私たちが誰かを赦したように、ほかの何かでも赦されることのできない私たちの罪が赦されること、私たちが天の御国の一員となること、そしてその天の御国の一員として今この世を生きていくことです。 https://youtu.be/exRy7FEMd4s?si=RPjobdmTJp-fK8Un

마태복음 묵상【용서의 가치】20260228(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 18:21-35 18:21 그 때에 베드로가 나아와 이르되 주여 형제가 내게 죄를 범하면 몇 번이나 용서하여 주리이까 일곱 번까지 하오리이까 18:22 예수께서 이르시되 네게 이르노니 일곱 번뿐 아니라 일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라 18:23 그러므로 천국은 그 종들과 결산하려 하던 어떤 임금과 같으니 18:24 결산할 때에 만 달란트 빚진 자 하나를 데려오매 18:25 갚을 것이…