マタイによる福音書 黙想 【誰が天の御国にはいるのか】 20260303(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 19:23~30 19:23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。 19:24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 19:25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」 19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」 19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。 富は自分をコントロールできる力を与える。お金が多ければ選択できる権利は広がり、危険や困難に対して安全装置を整えることができる。その意味で、金持ちの青年は自分の人生を予測可能に統制できる人であった。しかし経済的に生活をコントロールする能力は、彼が口で求めた永遠のいのち、すなわち救いの能力とはまったく別の問題である。救いは人間が確保したり設計したりできる領域ではない。神様にしかできないことである。それを信じる信仰の根源的な出所もまた神様である。 不正な富者であれば、この地でもあの天の御国でも良い評価を受けることはないだろう。しかし貧しいことが必ずしも善であるわけでもない。善い富者もあり得るし、怠惰で悪い貧者もあり得る。貧しさは謙遜への通路となり得るが、貧しさがもたらす歪みも小さくはない。欠乏は怒りと絶望を生み、生存中心の信仰は視野を狭めざるを得ない。危険であることに変わりはない。富者は天の御国に入りにくいと語られたイエス様の御言葉は、経済的地位がそのまま救いの条件であるという意味ではない。問題は経済的位置ではなく、人間存在の依存構造にある。 「人にはできないが、神様にはできる」という宣言は、全的堕落と全的恩寵を思い起こさせる。人間は自ら救いを作り出すことはできず、神様だけがそれを成し遂げられる。しかし救いの主権が神様にあること、そしてその全的恩寵による救いという真理は、時に極端な予定論や運命論へと誤解されることがある。偏れば、誰がいつどこで何をどのように、なぜ行うべきかという緊張が麻痺する。無脊椎動物のように力なく揺れ動き、やがて信仰から消えていく。だからこそイエス様は、「先の者が後になり、後の者が先になる」とも語られた。何が神様に属し、何が自分に与えられた使命なのかを考えなければならない。 ペテロがまたもや前に出る。「私たちはあの青年と違ってすべてを捨てて従いました。それで何が得られるのでしょうか。」ペテロの道は金持ちの青年とは異なるが、思考の構造はまだ同じである。青年もペテロも、投資対回収、献身対報酬という計算をやめない。献身を叫んできた人間たちは、この地上で既に報いを受け取っている。完全燃焼する献身を見たことがない。私たちも同じである。蒸留水のような純粋な人間は存在しない。 それにもかかわらず、イエス様は彼らを叱責せず、豊かに報いると約束された。ただしイエス様の要求と報いの約束は、金持ちの青年にもペテロにも一貫している。イエス様は彼らを責任の位置へと召しておられる。幾倍もの報いと永遠のいのちの約束は、単なる繁栄の保証ではなく、新しい秩序の中で委ねられる役割と使命である。神様は救いを主権的に成し遂げられるが、その救いを歴史の中で人を通して実現していかれるからである。権限を委ねられれば責任も伴う。非難や反対もついてくるだろう。しかし責任を担うことこそが、この箇所の主題である。 AIという驚異と混乱の時代にあって、資本は移動し、権力も移動するだろう。ある富は危機に直面し、ある貧しさは機会をつかみ、別の資本や権力はさらに固定化する危険もある。私たちは知らない。データと技術は拡張しているが、人間には全体を統制する力はまだない。私たちが批判してきた金持ちの青年の統制欲求は、不確実な時代に不安を抱く私たち自身の姿としてそのまま現れている。 私たちは、人がしようとしていることと神様がなさることとの間の緊張を見つめ、その間で自分がなすべきことを探さなければならない。職を失わないことが目標なのではなく、それをどのように制御し、運用するかに関心を向けるべきである。金持ちの青年は宗教的形態や資本の運用には関心があったかもしれないが、時代の責任には関心がなかった。信仰とは、富の側に立って貪欲を正当化することでもなく、貧しさを善やロマンとして装うことでもない。労働の価値を尊びつつ資本の役割も認め、より多くの人に神様の賜物が行き渡るよう責任を担う位置へと進むことである。










