ヨシュア記 黙想【私は離れても】20251227(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨシュア記 23:1-10 23:1 主が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。 23:2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて老人になった。 23:3 あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。 23:4 見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。 23:5 あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。 23:6 また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、 23:7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。 23:8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。 23:9 主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。 23:10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。   モーセの後を継ぎ、イスラエルの指導者としてカナンの征服戦争を導いてきたヨシュアは、年を重ね、死を目前にしています。そのようなヨシュアが、今日の箇所でイスラエルの指導者たちを集め、最後の勧告を語り始めます。    その勧告の冒頭で語られるのは、他の事柄ではなく、これまで彼らが共に経験してきた神様の御業、神様の働きでした。しかしそれは、単なる過去の出来事の振り返りではなく、これからのことに備えた勧告でした。    彼らがこれまでカナンの人々と戦い、勝利し、この地を所有することができたのは、ヨシュアという一人の指導者の力によるのではなく、すべて神様のゆえであったことを、ヨシュアは改めて思い起こさせます。そうすることで、自分が去った後であっても、神様は常にイスラエルのために共に戦ってくださるお方であるという信仰を確かなものとし、その神様がご自分の民に命じられたことを、これからも守り続けるようにと勧めているのです。    クリスマスになると、聞こえてくる名前があります。それは、イエス様を指すもう一つの名、「インマヌエル」です。その意味は、「神様が私たちと共におられる」です。ヨシュアはこのインマヌエルの神様への信仰を持っていたからこそ、彼がイスラエルから離れた後のイスラエルに対して、このような勧告を語ることができたのです。    今年の終わりを迎え、新しく訪れて来る来年に備えるこの時期に、私たちが忘れてはならないことがあります。それは、この世の様々なものが移り変わっても、永遠に変わることのない神様が、今も私たちと共におられる、ということです。この信仰に立つとき、私たちは来年を不安や恐れの中で迎えるのではなく、期待と希望をもって備えることができるでしょう。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=aOlIdsAiTZwH4nSl

여호수아 묵상【내가 떠날지라도】20251227(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

여호수아 23:1-10 23:1 여호와께서 주위의 모든 원수들로부터 이스라엘을 쉬게 하신 지 오랜 후에 여호수아가 나이 많아 늙은지라 23:2 여호수아가 온 이스라엘 곧 그들의 장로들과 수령들과 재판장들과 관리들을 불러다가 그들에게 이르되 나는 나이가 많아 늙었도다 23:3 너희의 하나님 여호와께서 너희를 위하여 이 모든 나라에 행하신 일을 너희가 다 보았거니와 너희의 하나님 여호와 그는 너희를 위하여 싸우신…

ヨシュア記 黙想【皆のためのクリスマス】20251226(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨシュア記 22:21-34 22:21 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。 22:22 「神の神、主よ、神の神、主はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、主に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。 22:23 私たちが祭壇を築いたことが、主に従うのをやめることであるなら、あるいは、その上で全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げるため、あるいはその上で交わりのいけにえを献げるためであるなら、主ご自身が私たちを責めてくださいますように。 22:24 しかし、私たちがこのことをしたのは次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが、私たちの子らに次のように言うかもしれません。『あなたがたとイスラエルの神、主との間に何の関係があるのか。 22:25 主はヨルダン川を、私たちと、あなたがたルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主のうちに取り分がない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。 22:26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。 22:27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で主への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは主のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。 22:28 私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫がそう言われたとしても、私たちはこう言うことができる。『私たちの父祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のささげ物のためでもなく、いけにえのためでもなく、私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ』と。 22:29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のささげ物や穀物のささげ物や、いけにえを献げる祭壇を築いて、今日、主に反逆して主に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。」 22:30 祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。 22:31 エルアザルの子、祭司ピネハスはルベン族、ガド族、マナセ族に言った。「今日、私たちは、主が私たちの中におられることを知った。あなたがたが主の信頼を裏切らなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの子らを主の手から救い出した。」 22:32 エルアザルの子、祭司ピネハスと族長たちは、ルベン族およびガド族と別れ、ギルアデの地からカナンの地のイスラエルの子らのところに帰り、このことを報告した。 22:33 イスラエルの子らはこれに満足した。彼らは神をほめたたえた。そしてもはや、ルベン族とガド族が住んでいる地を滅ぼすために戦をしよう、とは言わなかった。 22:34 ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、主が神であることの証しだ」と言って名をつけた。   クリスマスが過ぎ、その喜びの余韻がまだ残っているこの時に戻って来たヨシュア記の御言葉は、私たちにとって大切なクリスマスの意味について教えています。それは、「イエス様は何のためにこの地に来られたのか」という問いへの答えです。    歴史の出来事や現代の社会・文化的背景の影響によって、聖書が語る「救い」についての理解と強調点は、現代に至って「個人」の救いへと、より強く焦点が当てられるようになりました。そのような私たちにとって、クリスマスは「私のためのクリスマス」となりがちです。そこから一歩進んだとしても、「あなたのためのクリスマス」、そして最後にやっと両者を合わせて「皆のためのクリスマス」という結論になるのが一般的でしょう。    イエス様が私のためにこの地に来られた、という信仰は、確かに私たちの信仰において欠かすことのできない重要な要素であり、私たちが与えられた救いの確信を、より強く支える大切な信仰です。しかしその信仰は、ともすれば「皆」の大切さを忘れさせてしまう「壁」となってしまう危険もはらんでいます。    このような「壁」は、「皆」のために祈ることを失わせ、「私」のために「皆」を犠牲にする選択を生み、「皆」の中で築かれる交わりを断ち切ってしまいます。しかしイエス様は、そのような壁を打ち壊すために、この地に来られたのです。そのイエス様を信じると言いながら、自ら再び壁を築いてしまうことは、イエス様がこの地に来られた理由を忘れて生きることと同じです。    今日の箇所で、イスラエルの民がルベン族とガド族と戦おうとした理由は、神様のためでした。彼らは「私の信仰」の下に、ルベン族とガド族を殺そうとしたのです。しかし、彼らは「皆」の声に耳を傾けることなく、お互いに話し合うこともなかったため、誤解が生じ、大きな罪を犯してしまうところでした。    イエス様がこの地に来られたクリスマスは、私だけのための日ではありません。イエス様を信じる皆が救われるため、彼らが「私」としてではなく、「皆」として共に救われるために、ご自身の血潮で隔ての壁を打ち壊すために来られた日、「皆のためのクリスマス」なのです。 https://youtu.be/_uwf5_bibcM?si=SV5t3943zVxfy0uW

여호수아 묵상【모두를 위한 크리스마스】20251226(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

여호수아 22:21-34 22:21 르우벤 자손과 갓 자손과 므낫세 반 지파가 이스라엘 천천의 수령들에게 대답하여 이르되 22:22 전능하신 자 하나님 여호와, 전능하신 자 하나님 여호와께서 아시나니 이스라엘도 장차 알리라 이 일이 만일 여호와를 거역함이거나 범죄함이거든 주께서는 오늘 우리를 구원하지 마시옵소서 22:23 우리가 제단을 쌓은 것이 돌이켜 여호와를 따르지 아니하려 함이거나 또는 그 위에 번제나 소제를 드리려…

クリスマス黙想 【魂の慰め】 20251225(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカ 2:25~35 2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。 2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。 2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。 2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。 2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。 2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。 2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。 2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。 2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの   ― 12月20日 枝川愛の教会・「故郷の家・東京」 高齢者合同キャンドルサービス説教 「神に出会う時間」より ― 人生は出会いによって形づくられます。数えきれない人々の中で、私たちは自分の両親と出会い、配偶者と出会い、そして子どもと出会いました。偶然のように見えますが、奇跡と言わずにはいられません。喜びに満ちた出会いもあれば、心を痛める出会いもありました。しかし、そのすべての出会いが、今の私をここまで導いてきた人生のかけらです。人生を形づくってきた出会いは、思っているほど多くはありません。けれども、その少ない出会いが、私たちの人生全体を作り上げてきたのです。誰と出会うかということは、それほどまでに大切なことなのです。 ルカによる福音書のイエスの誕生物語には、前後の説明もなく、シメオンという一人の老人が登場します。聖書は彼について多くを語りません。ただ彼が「イスラエルの慰めを待ち望んでいた人」であったと記しています。ルカは、彼が死ぬ前にメシアを見るという啓示を受けていたと伝えます。彼の人生にも多くの出会いがあったことでしょう。しかし彼は、最後に残された一つの出会いを待っていました。必ず出会わなければならないお方を、待ち続けていたのです。 シメオンは聖霊の導きによって神殿に入り、ちょうど両親の腕に抱かれた幼子イエスと出会います。彼はその瞬間、幼子を見てすぐに悟りました。シメオンは幼子を抱き、神を賛美して言います。「主よ、今こそ、あなたのお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」それは、この出会いによって何かが完成したという宣言でした。同時に、避けることのできない人生の苦労の果てに神の慰めに出会った彼には、もはや執着すべきものは何も残っていなかったのです。 クリスマスは今年も変わらず巡ってきました。そして今もなお、その出会いを待ち続けている人々がいます。あまりに遅くなる前に、死ぬ前に、必ず出会わなければならないお方。まだ出会っていないけれど、必ず出会うべき出会いです。シメオンが待ち望んだ慰めは、人生と死の間に境界のない慰めでした。その慰めに出会ってこそ、苦労の多かった人生をも安らかに手放すことができるのです。過ぎ去ってしまう季節の高揚ではなく、永遠に終わることのない魂の慰めを受け取るクリスマスとなることを、心から願っています。

크리스마스 묵상 【영혼의 위로】 20251225(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:25~35 2:25 예루살렘에 시므온이라 하는 사람이 있으니 이 사람이 의롭고 경건하여 이스라엘의 위로를 기다리는 자라 성령이 그 위에 계시더라 2:26 저가 주의 그리스도를 보기 전에 죽지 아니하리라 하는 성령의 지시를 받았더니 2:27 성령의 감동으로 성전에 들어가매 마침 부모가 율법의 전례대로 행하고자 하여 그 아기 예수를 데리고 오는지라 2:28 시므온이 아기를 안고 하나님을 찬송하여 가로되…

クリスマス黙想 【クリスマスの聖餐器】 20251224(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ルカ 2:8~20 2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」 2:15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」 2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。 2:17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。 2:18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。 2:19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。   ―12月21日 ETC礼拝説教「飼い葉桶の平和」より― 厩(うまや)にある飼い葉桶とは、馬が餌を食べるための器である。それは馬の生存のために、毎日使われる生活の道具だ。イエスが生まれて最初に横たえられた場所は、その飼い葉桶であった。食べて生きるための器、その中にはあらゆる汚れが共存している。排泄物が跳ね入り、馬が舐めた唾液や残った飼料、飼い葉の屑が混ざり合い、腐敗を引き起こす細菌の塊となる。衛生的に言えば、厩の糞溜めも飼い葉桶も大差はない。生まれたばかりのイエスは、そこに横たえられたのである。 人として来られた神は、その劣悪な環境に困惑したり驚いたりはされなかった。なぜなら、その事実を知らずに来られたのではないからだ。そこに来られること自体が、神の目的であったからである。クリスマスに、人々が良い宿を提供せず、安全な病院で迎えなかったことに対して、私たちは罪悪感を覚える必要はない。その日、ベツレヘムの人々がイエスを拒んだことは、人間の無情さを非難するためではなく、神に対する人間の神学的状態を語っているに過ぎないからである。 人間もまた、欲に駆られて食べ、飲み、悪臭を放ち、汚れを排泄しながら生きている。人間の飼い葉桶の中にも、欲望と羞恥が細菌のように蠢いている。したがって、飼い葉桶とは牧歌的な場所ではなく、イエスの誕生における貧しさや欠乏を象徴するものでもない。それは、欺くことも、美化することもできない「生存の現実」を語る場所なのである。幼子イエスが横たえられた飼い葉桶は、その日の夕方、馬が餌を食べていた桶だったかもしれない。まだ湿り気を帯びたその飼い葉桶は、人間と世界の現実を、そのまま露わにする場所であった。 神が人間を救うために来られたとき、最初に横たえられたのは「食べて生きるための器」であった。神はその上に、受肉(インカネーション)を打ち立てられた。餌を入れる飼い葉桶、私の飯碗――生存のために冷酷になり、欲望のために露骨になるその場所に、神は横たえられたのである。幼子イエスが飼い葉桶に置かれたことの意味は、神の受肉が、人間の条件を全面的に、そしてありのままに引き受けられたということだ。 イエスはご自身を「いのちのパン」と呼ばれ、ついには十字架において、その身体をご自身で差し出された。飼い葉桶を満たす餌は、馬に食べられるためのものであり、飼い葉桶に横たえられた、天から来た「いのちのパン」は、人間に食べられるためのものであった。受肉とは、神がご自身を糧として差し出される出来事である。クリスマスの悲劇とは、これを受け取らず、なおもより多くの飼い葉桶の餌だけを求め続ける人間の現実にある。クリスマスとは、私の貪欲で欲深い飯碗の中を、イエス・キリストの身体によって満たしてくださった、聖なる聖餐なのである。

크리스마스 묵상 【크리스마스의 성찬기】 20251224(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:8~20 2:8 그 지경에 목자들이 밖에서 밤에 자기 양떼를 지키더니 2:9 주의 사자가 곁에 서고 주의 영광이 저희를 두루 비취매 크게 무서워하는지라 2:10 천사가 이르되 무서워 말라 보라 내가 온 백성에게 미칠 큰 기쁨의 좋은 소식을 너희에게 전하노라 2:11 오늘날 다윗의 동네에 너희를 위하여 구주가 나셨으니 곧 그리스도 주시니라 2:12 너희가 가서 강보에 싸여…

クリスマス黙想 【戦場の幼子】 20251223(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

イザヤ 9:1~7 9:1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。 9:2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。 9:3 あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。 9:4 あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、ミディアンの日になされたように打ち砕かれるからだ。 9:5 まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。 9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。   イザヤが語る「闇」は、一見すると政治的なもののように見える。しかし実際には、政治的敗北や植民地的被支配状態そのものを指しているのではない。戦場のような背景とは、破壊され、支配されてしまった人間の内的状態を意味しているのである。「死の陰の地」とは、死の論理が人生全体を支配している現実である。闇とは政治的現実ではなく、人間の現実に対する認識が、もはや希望を持つことのできない状態を指す。それは自分自身についての、歓迎したくもなく、できれば避けたい知である。しかし、絶望という自己認識を前提としない救いは存在しない。 これと対照的に現れる「大いなる光」もまた、体制改革や政治的解決策ではない。そのように言えるのは、続いて語られる出来事のゆえである。「ひとりの幼子が、わたしたちのために生まれた。」幼子という存在は、その始まりからして、武力や暴力を拒否している。光は闇を打ち砕くのではなく、その本質において闇を光へと変えていく。光は闇と戦わない。ただ光として存在するだけである。この光は、自己認識を欠いたまま抱く根拠なき楽観主義ではない。人間の絶望という部屋を、外側から照らし出す、具体的で現実的な救いの光である。 メシアの統治は、権力の秩序の上に成り立つものではない。その誤解は、すでにイエスが自ら払拭し、結論づけて行かれた。イザヤもまた、政治的解法を提示しようとしたのではない。 「不思議な助言者」であり「助言者」ではあるが、帝国のための戦争戦略家ではなく、神でありながら幼子の姿を取っている。「平和の君」は、暴力によって平和を作り出すことはない。戦場のような、人間が自壊していく現実のただ中へ、神は幼子として入り込まれたのである。もはや、クリスマスを「知っている」とは言えないだろう。毎年、変化し、より深められていく自己認識こそが、クリスマスとは何であるかを証しするのである。

크리스마스 묵상 【전쟁터의 아기】 20251223(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

이사야 9:1~7 9:1 전에 고통하던 자에게는 흑암이 없으리로다 옛적에는 여호와께서 스불론 땅과 납달리 땅으로 멸시를 당케 하셨더니 후에는 해변길과 요단 저편 이방의 갈릴리를 영화롭게 하셨느니라 9:2 흑암에 행하던 백성이 큰 빛을 보고 사망의 그늘진 땅에 거하던 자에게 빛이 비취도다 9:3 주께서 이 나라를 창성케 하시며 그 즐거움을 더하게 하셨으므로 추수하는 즐거움과 탈취물을 나누는 때의 즐거움…