ヨハネの手紙第一 黙想【真理を知っている者たちへ】20260103(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの手紙第一 2:12-27 2:12 子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。 2:13 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 2:14 幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。 2:15 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。 2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。 2:17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。 2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。 2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。 2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。 2:21 私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。 2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。 2:23 だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。 2:24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。 2:25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。 2:26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。 2:27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。      使徒ヨハネの手紙が書かれた時代は、他の福音書や使徒たちの手紙よりも後の時期であったと考えられています。これはすでに、イエス・キリストの「福音」が多くの人々に伝えられていたという事実と、その福音を利用しようとする者、あるいは歪めようとする者、すなわち反キリストたちが現れ始めた時代であったことを意味しています。    そのような背景をもつこの手紙の中で、使徒ヨハネは、この手紙を書いた目的を明確に語っています。それは、この手紙を受け取る人々が「真理を知らないから」ではなく、「すでに真理を知っているから」でした。では、すでにその真理を知っている者たちに、なぜあらためて手紙を書く必要があったのでしょうか。その理由こそ、この時代に現れた反キリストたちの存在にありました。    反キリストたちは、もともとは教会共同体の中にいた者たちでした。しかし彼らは、その共同体から出て行った者たちです。彼らが具体的にどのような教えによって人々を惑わしたのか、その詳細は記されていません。しかし、イエスがキリストであることを否定し、御父と御子との関係を否定していたことは、この手紙の内容から明らかです。    人々は、このような反キリストたちによって、おそらく自分たちが最初に聞いた福音――すなわち、神様の御子であるイエス・キリストが成し遂げられた御業そのものから、次第に目をそらしていったのでしょう。しかし使徒ヨハネは、彼らに対して、最初に聞いたその福音、その原点に立ち返るようにと勧めています。そしてその福音は、人が自らの力で理解したものではなく、彼らの内に与えられた注ぎの油、すなわち聖霊様が悟らせてくださったものであることを教えています。    人が教える福音には、不完全さも、限界も、誤りもあります。しかし、福音の当事者であられる御父と御子、そしてその御霊の教えには、限界も不足も誤りもありません。その教えは本質的に完全です。にもかかわらず、人はしばしば本質ではないものに心を奪われてしまいます。そこには真理はありません。    それゆえ、本質ではないものを追い求める者は、真の自由を得ることができません。常に何かに縛られたまま生きることになります。しかし、福音の本質、その真理に従って生きる者には自由があります。イエス様ご自身が、その真理が私たちを自由にすると語られたからです。    私たちは、真理を知っている者として、自由を持って生きているでしょうか。もし、そうでないとするなら、今、私たちは何に縛られて生きているのでしょうか。反キリストは、遠くにいる存在ではありません。私たちのすぐそばにいる存在、あるいは私たち自身の内側にいるかも知れません。福音の本質から離れ、本質ではないものにこだわり、それを追い求めるその姿が、反キリスト的な姿なのです。私たちはその姿から、真理によって、再び自由に戻らなければならないでしょう。 https://youtu.be/2KqgSaLNAcE?si=jD-ekD2IU5085lsj

요한일서 묵상【진리를 아는 자들에게】20260103(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한일서 2:12-27 2:12 자녀들아 내가 너희에게 쓰는 것은 너희 죄가 그의 이름으로 말미암아 사함을 받았음이요 2:13 아비들아 내가 너희에게 쓰는 것은 너희가 태초부터 계신 이를 알았음이요 청년들아 내가 너희에게 쓰는 것은 너희가 악한 자를 이기었음이라 2:14 아이들아 내가 너희에게 쓴 것은 너희가 아버지를 알았음이요 아비들아 내가 너희에게 쓴 것은 너희가 태초부터 계신 이를 알았음이요 청년들아…

第一ヨハネの手紙 黙想 【物理的な神】 20260101(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一ヨハネの手紙 1:1~10 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。 1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。 1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。 1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。 1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。 1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。 1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。 1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。 1:10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。 ヨハネが語る「初めからあったいのちの言葉」とは、聞くことができ、見ることができ、触れることのできる現実である。みことばは観念ではなく、歴史の中で経験可能な実在である。それは神秘的でありながら抽象的ではなく、具体的な実体を持っている。神を経験するということは、みことばを経験するということである。神は、私たちが探し回らなければならない秘密の場所にご自身を隠されたのではない。天上のものではなく、地上の言語によって、すでにご自身を人間に啓示されたからである。このみことばを信仰の現実として生きる者は、みことばそのものが現実となる真の神秘に出会う。 言語が天上的な神秘ではなく地上的なものであるように、神は地上の人間が認識することのできる光である。物理的に言えば、「闇」というものは存在しない。光がなければ、それが闇である。闇とは実体ではなく、欠如にすぎない。光の欠如、それが闇である。それゆえ、光の中におられる神と交わりがあると言いながら、なお闇の中を歩んでいるということは、物理的にも霊的にも不可能である。光の中を歩むとき、共同体の中に交わりが生まれ、その交わりは聖徒同士の交わりを超えて、神と共にある交わりとなる。 みことばは、紙とインク、物理的に配置された文字として存在している。それは空気の振動によって音声情報として伝えられ、また光に変換されて画面に現れることもある。みことばを読み、聞き、書き、語り、分かち合うとき、みことばは共同体の中で現され、啓示される。神であるみことばは、人の言語によって人の内に入力され、また人の外へと出力される。そのとき教会は、神のことばが生きて動く身体となる。そして交わりもまた、目で見ることができ、耳で聞くことができ、手で触れることのできるものとなる。人はそのとき、喜びに満たされる。みことばと交わりが光として現れるところに、神はおられる。それは、神が物理の中に存在するという意味ではない。神が物理の世界の中にご自身を啓示されるのは、私との交わりを求めておられるからである。

요한일서 묵상 【물리적 하나님】 20260101(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한일서 1:1~10 1:1 태초부터 있는 생명의 말씀에 관하여는 우리가 들은 바요 눈으로 본 바요 주목하고 우리 손으로 만진 바라 1:2 이 생명이 나타내신바 된지라 이 영원한 생명을 우리가 보았고 증거하여 너희에게 전하노니 이는 아버지와 함께 계시다가 우리에게 나타내신바 된 자니라 1:3 우리가 보고 들은 바를 너희에게도 전함은 너희로 우리와 사귐이 있게 하려 함이니 우리의 사귐은…

ヨシュア記 黙想 【ポスト・ヨシュア】 20251231(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 24:25~33 24:25 ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。 24:26 ヨシュアはこれらのことばを神のみおしえの書に記し、大きな石を取り、主の聖所にある樫の木の下に立てた。 24:27 ヨシュアは民全体に言った。「見よ、この石は私たちに対して証しとなる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、これはあなたがたに対して証しとなる。」 24:28 ヨシュアは民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。 24:29 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。 24:30 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・セラフに葬った。 24:31 ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた。 24:32 イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。 24:33 アロンの子エルアザルは死んだ。彼は、自分の子ピネハスに与えられた、エフライムの山地にあるギブアに葬られた。 ヨシュアの時代は、彼の死とともに終わった。モーセもヨシュアも、自分の時代を越えて、その次の時代までを作ることはできない。次の時代は、必ず次の世代によるものでなければならない。伝統も体制も無力である。その時代の中で、自分たちの信仰を築いていこうとする、その世代の信仰だけが主体となりうる。だからヨシュアは、記録し、記念し、記憶せよと語り終えたあと、退いた。この最後の場面には、どこかヨシュアの悲しみが滲んでいるように思える。約束し、誓ってはいるが、ヨシュアが見つめている方向と、イスラエルが見ている方向が、どこか違っているように感じられるからだ。 ヨシュアの死を読みながら、ひとつの問いが生まれる。なぜ神は、ヨシュアの後に信頼できる次の指導者を立てなかったのだろうか。神は、より強力な指導者や組織を築けとは命じられなかった。それは、神がリーダーに期待されたのではなく、イスラエルそのものに期待されたからではないだろうか。イスラエルは、統制されるべき集団ではなく、自ら判断し、選び取る主体的な人格的存在だったからである。結果を先に言えば、イスラエルはヨシュアとの約束を守ることができず、右往左往した末に、神に王を求めるようになる。捨てよと言われていた奴隷根性を、彼らは最後まで捨てきれなかったのだ。 私は、特別な推進力とカリスマ性をもつ牧師と、まるで軍隊の隊列のように統制の取れた組織性をもつ教会の中で、信仰を学び、育てられてきた。集中力は非常に高く、成果も大きかった。順機能が強ければ強いほど、逆機能は恐ろしい。そのカリスマと組織が失われると、信仰だと思っていたもの、献身だと思っていたものが、自分の足で立つことができず、崩れ始めた。同じ経験をした後輩が訪ねてきて、信仰の混乱を訴えながら、私に自分の信仰を支えてほしいと頼んだことがある。支配されていた構造が失われた途端、今度は別の何かに自分を支配してほしいと懇願しているようなものだった。それこそが、イスラエルが捨てられなかった奴隷根性であり、イスラエルが持ち得なかった信仰であり、享受できなかった自由だった。 神が求められたイスラエルは、強力なリーダーが率いる中央集権的な組織ではなかった。各部族、各家庭、そして一人ひとりが、神の言葉の前に直接立つことだった。信仰は外注できない。誰かを通して神のもとへ行くとは、どういうことなのか。人は宗教に寄りかかろうとするが、一人の人格が、自分に与えられた神の言葉を持たないなら、それは時が来れば必ず崩れる。神を信じる主体として立たない限り、人は道を見失い、再び誰かに支配されることになる。自分の信仰が、神ではない何かに依存しなければ成り立たないということ、それは悔しくはないだろうか。 イスラエルは、ヨシュアを越えて、次の時代へと進まなければならなかった。主体的にポスト・ヨシュアを生きることができなければ、ヨシュア以後の世代は、世が作り出した時代に従属するしかなくなる。真似ること、なぞることでは、何も生み出せない。しかしイスラエルは、誓ったことを守ることができなかった。では、神はイスラエルに欺かれたのだろうか。そうではない。神は今もなお、多くの人々に、そのような信仰の機会を与えておられる。その召しは、人格的であり、一貫している。神は、私の名を呼び、直接語りかけてくださる。 ヨシュア記を閉じると、微妙な悲しみの余韻が残る。それは、続いて起こる士師記の混乱を、あらかじめ告げる伏線なのかもしれない。モーセはモーセの時代を生き、ヨシュアはヨシュアの時代を生きた。その次の時代が士師記であるというのは、ただの順序にすぎない。聖書的に言えば、ヨシュアの時代の次に来るべき、最も聖書的な時代とは、神を体験した私自身の証しを持つ、私の時代であるはずだ。

여호수아 묵상 【포스트 여호수아】 20251231(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 24:25~33 24:25 그 날에 여호수아가 세겜에서 백성으로 더불어 언약을 세우고 그들을 위하여 율례와 법도를 베풀었더라 24:26 여호수아가 이 모든 말씀을 하나님의 율법책에 기록하고 큰 돌을 취하여 거기 여호와의 성소 곁에 있는 상수리나무 아래 세우고 24:27 모든 백성에게 이르되 보라 이 돌이 우리에게 증거가 되리니 이는 여호와께서 우리에게 하신 모든 말씀을 이 돌이 들었음이라 그런즉…

ヨシュア記 黙想 【主に仕えることが不満なら】 20251230(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 24:14~24 24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。 24:15 主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」 24:16 民は答えた。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。 24:17 私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。 24:18 主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」 24:19 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。 24:20 あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」 24:21 民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」 24:22 ヨシュアは民に言った。「主を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。 24:23 「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」 24:24 民はヨシュアに言った。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」   これはヨシュアの最後の説教である。ヨシュアは自分の考えを語るのではなく、神の声をそのまま伝える形で、厳粛かつ断固として語る。彼はアブラハムにまで遡り、イスラエルの歴史全体を網羅しながら、神がイスラエルに対して何をしてこられたのかを思い起こさせる。振り返り、記憶し、解釈しなければ、全体を見渡すことも、真の洞察に至ることもできない。イスラエルは寄留者であったアブラハムから始まり、奴隷となり、荒野をさまよい、そして今、勝利した民としてカナンに定住するに至ったのである。   しかし神は、それが彼らの実力によるものではないことを、はっきりと指摘される。アブラハムをメソポタミアから呼び出されたのも、奴隷の地エジプトから導き出されたのも、荒野で養われたのも、カナンを征服させたのも神ご自身であった。イスラエルの歴史全体は、人間の努力の物語ではなく、神の積極的かつ主権的な介入によって貫かれた歴史である。だからこそ神はヨシュアを通して、「あなたがたが労苦しなかった地、建てなかった町、植えなかったぶどう畑とオリーブの木を与えた」と語られるのである。   もちろん、イスラエルにまったく労苦がなかったわけではない。何もせずに座って土地を得たのではない。身をもって危険をくぐり抜け、実際に戦いも経験してきた。奴隷と難民の歴史を経てきたイスラエルは、今、勝利の喜びに満たされ、初めて味わう所有の可能性に胸を躍らせている。土地は分配され、彼らは家を建て、町を整え、ぶどう畑とオリーブの木を植え、その実りによって生きていく希望に満ちている。   しかし神は、彼らの労苦をまず称賛されるのではなく、その成功の理由が神ご自身であることを先に明らかにされる。神は彼らの労苦を否定しているのではない。問題は、従順と労苦が功績意識へと変質してしまうことにある。功績意識が毒キノコのように芽を出し始めると、人は容易に順序を逆転させる。恵みは背景に退き、人間の選択と意志が物語の主役になっていく。過去は歪められ、歴史の主語はすり替えられてしまう。   だからこそ、証しを語る者は注意しなければならない。証しが次第に膨らむにつれて、文の主語が神から自分自身へと変わっていくからである。神と歴史の前における謙遜な文法とは、恵みが主語となり、功績が目的語となることである。「恵みでした」と謙遜を装って言うことではなく、恵みなしには何一つ成し得なかったという致命的な自己認識を、記憶し、認め、告白することによってこそ、勝利の人生の次の段階へと進むことができる。神はイスラエルの労苦を否定しているのではない。彼らが登ったその段でつまずかないように、固く結び留めておられるのである。  

ヨシュア記 黙想 【功績意識と恵み意識】 20251229(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師  (복제)

ヨシュア 24:1~13 24:1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、 24:2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。 24:3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。 24:4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。 24:5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。 24:6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。 24:7 彼らは主に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。 24:8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。 24:9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。 24:10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、 24:12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。 24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』 これはヨシュアの最後の説教である。ヨシュアは自分の考えを語るのではなく、神の声をそのまま伝える形で、厳粛かつ断固として語る。彼はアブラハムにまで遡り、イスラエルの歴史全体を網羅しながら、神がイスラエルに対して何をしてこられたのかを思い起こさせる。振り返り、記憶し、解釈しなければ、全体を見渡すことも、真の洞察に至ることもできない。イスラエルは寄留者であったアブラハムから始まり、奴隷となり、荒野をさまよい、そして今、勝利した民としてカナンに定住するに至ったのである。 しかし神は、それが彼らの実力によるものではないことを、はっきりと指摘される。アブラハムをメソポタミアから呼び出されたのも、奴隷の地エジプトから導き出されたのも、荒野で養われたのも、カナンを征服させたのも神ご自身であった。イスラエルの歴史全体は、人間の努力の物語ではなく、神の積極的かつ主権的な介入によって貫かれた歴史である。だからこそ神はヨシュアを通して、「あなたがたが労苦しなかった地、建てなかった町、植えなかったぶどう畑とオリーブの木を与えた」と語られるのである。 もちろん、イスラエルにまったく労苦がなかったわけではない。何もせずに座って土地を得たのではない。身をもって危険をくぐり抜け、実際に戦いも経験してきた。奴隷と難民の歴史を経てきたイスラエルは、今、勝利の喜びに満たされ、初めて味わう所有の可能性に胸を躍らせている。土地は分配され、彼らは家を建て、町を整え、ぶどう畑とオリーブの木を植え、その実りによって生きていく希望に満ちている。 しかし神は、彼らの労苦をまず称賛されるのではなく、その成功の理由が神ご自身であることを先に明らかにされる。神は彼らの労苦を否定しているのではない。問題は、従順と労苦が功績意識へと変質してしまうことにある。功績意識が毒キノコのように芽を出し始めると、人は容易に順序を逆転させる。恵みは背景に退き、人間の選択と意志が物語の主役になっていく。過去は歪められ、歴史の主語はすり替えられてしまう。 だからこそ、証しを語る者は注意しなければならない。証しが次第に膨らむにつれて、文の主語が神から自分自身へと変わっていくからである。神と歴史の前における謙遜な文法とは、恵みが主語となり、功績が目的語となることである。「恵みでした」と謙遜を装って言うことではなく、恵みなしには何一つ成し得なかったという致命的な自己認識を、記憶し、認め、告白することによってこそ、勝利の人生の次の段階へと進むことができる。神はイスラエルの労苦を否定しているのではない。彼らが登ったその段でつまずかないように、固く結び留めておられるのである。

여호수아 묵상 【여호와를 섬기는 것이 너희에게 좋지 않게 보이거든】 20251230(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

여호수아 24:14~24 24:14 그러므로 이제는 여호와를 경외하며 성실과 진정으로 그를 섬길 것이라 너희의 열조가 강 저편과 애굽에서 섬기던 신들을 제하여 버리고 여호와만 섬기라 24:15 만일 여호와를 섬기는 것이 너희에게 좋지 않게 보이거든 너희 열조가 강 저편에서 섬기던 신이든지 혹 너희의 거하는 땅 아모리 사람의 신이든지 너희 섬길 자를 오늘날 택하라 오직 나와 내 집은 여호와를…

ヨシュア記 黙想 【功績意識と恵み意識】 20251229(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨシュア 24:1~13 24:1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、 24:2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。 24:3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。 24:4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。 24:5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。 24:6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。 24:7 彼らは主に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。 24:8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。 24:9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。 24:10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。 24:11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、 24:12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。 24:13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』 これはヨシュアの最後の説教である。ヨシュアは自分の考えを語るのではなく、神の声をそのまま伝える形で、厳粛かつ断固として語る。彼はアブラハムにまで遡り、イスラエルの歴史全体を網羅しながら、神がイスラエルに対して何をしてこられたのかを思い起こさせる。振り返り、記憶し、解釈しなければ、全体を見渡すことも、真の洞察に至ることもできない。イスラエルは寄留者であったアブラハムから始まり、奴隷となり、荒野をさまよい、そして今、勝利した民としてカナンに定住するに至ったのである。 しかし神は、それが彼らの実力によるものではないことを、はっきりと指摘される。アブラハムをメソポタミアから呼び出されたのも、奴隷の地エジプトから導き出されたのも、荒野で養われたのも、カナンを征服させたのも神ご自身であった。イスラエルの歴史全体は、人間の努力の物語ではなく、神の積極的かつ主権的な介入によって貫かれた歴史である。だからこそ神はヨシュアを通して、「あなたがたが労苦しなかった地、建てなかった町、植えなかったぶどう畑とオリーブの木を与えた」と語られるのである。 もちろん、イスラエルにまったく労苦がなかったわけではない。何もせずに座って土地を得たのではない。身をもって危険をくぐり抜け、実際に戦いも経験してきた。奴隷と難民の歴史を経てきたイスラエルは、今、勝利の喜びに満たされ、初めて味わう所有の可能性に胸を躍らせている。土地は分配され、彼らは家を建て、町を整え、ぶどう畑とオリーブの木を植え、その実りによって生きていく希望に満ちている。 しかし神は、彼らの労苦をまず称賛されるのではなく、その成功の理由が神ご自身であることを先に明らかにされる。神は彼らの労苦を否定しているのではない。問題は、従順と労苦が功績意識へと変質してしまうことにある。功績意識が毒キノコのように芽を出し始めると、人は容易に順序を逆転させる。恵みは背景に退き、人間の選択と意志が物語の主役になっていく。過去は歪められ、歴史の主語はすり替えられてしまう。 だからこそ、証しを語る者は注意しなければならない。証しが次第に膨らむにつれて、文の主語が神から自分自身へと変わっていくからである。神と歴史の前における謙遜な文法とは、恵みが主語となり、功績が目的語となることである。「恵みでした」と謙遜を装って言うことではなく、恵みなしには何一つ成し得なかったという致命的な自己認識を、記憶し、認め、告白することによってこそ、勝利の人生の次の段階へと進むことができる。神はイスラエルの労苦を否定しているのではない。彼らが登ったその段でつまずかないように、固く結び留めておられるのである。