マタイによる福音書 黙想 【逆説がつくり出した空間】 20260120(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 5:1~16 5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。 5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。 5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。 5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。 世の中は「強い者、持っている者、勝った者」を、幸せな人、祝福された人だと言う。しかし、イエスの八福は最初から最後まで逆説である。貧しい者、嘆く者、欠けた者にこそ福があると言われる。難しい話ではない。自分に正直であるなら、経験的にも分かることだ。もちろん不思議に思えるが、誰も否定できない逆説的真理である。救いと恵みが滅びと絶望の逆説であるように、人生の一次的な絶望を抱え、それを「福」と呼ばれるのは、人間の一次的な絶望を通過せずに福を語ることはできないからである。八福を読む者は、その福を現実へと連れ戻さなければならない。 イエスは「心の貧しい者は幸いである」と言われた。世の中では貧しさは欠乏であり失敗だと考えられる。しかし、欠乏がなければ満足も成長も実在しない。伝道の書は、すべてのことに時があると言った。本質的には、富と貧しさは同じものなのかもしれない。生まれる時があり、死ぬ時がある。ただその時が違うだけで、それを人生と呼ぶのである。心の貧しさとは、貧困を自覚することだ。富んだ者は貧しい者に向かって、貧しさから這い上がれと言う。しかし、あまりにも深い貧しさは、誰かが引き上げてくれなければ抜け出せないこともある。心の貧しい人は、自分自身ではなく、救いを望むことができる。 「嘆く者は幸いである」という言葉もまた逆説である。嘆きというのは、憤りや悔しさの感情とは少し違うのではないだろうか。それらを通過した後に残る感情なのだろう。越えられない限界に直面した人間の、悲しい現実認識である。罪と死という壁の前で、人は嘆くほかない。しかし、まさにその嘆きがあるゆえに、人は自己克服の道へ進むのではなく、神の慰めを待つ場所へと向かうことができる。「貧しい者は天の御国を受け、嘆く者は慰めを受ける」という約束があるが、その約束をつかむためには、まず自分自身への絶望、すなわち人間存在の貧しさと嘆きを正直に直視しなければならない。 イエスは「柔和な者は地を受け継ぐ」と言われた。地とは不動産のことだろうか。そうではあるまい。影響力や支配力として読むべきだろう。世の中は強い者が地を奪い取ると信じている。しかしイエスは、柔和な者の境界がさらに広げられると言われたのである。支配力は支配しようとする心から生まれるのではなく、柔和な心から生まれる。柔和な心から生じる影響力は、抑圧的な支配ではなく、人々の同意と信頼の上に築かれる統治力である。地は誰かに支配されたことなどない。強い者が地を手に入れるのではなく、地がその強い者を飲み込み、その上に墓をつくるだけである。 心の貧しい者、嘆く者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和をつくる者、義のために迫害された者――この八人が別々にいるのではない。実はそれは一人の人間である。その人は自己確信に満ちた者ではなく、自分の限界を正直に見つめている者である。自分の中から答えが出てこないことを知り、世の中のやり方では結局救いをつくり出せないことを知っている者である。八福とは、成功した人々の秘訣ではない。神が入って来られる空間を持った一人が受ける福なのである。

마태복음 묵상 【역설이 만든 공간】 2026020(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 5:1~16 5:1 예수께서 무리를 보시고 산에 올라가 앉으시니 제자들이 나아온지라 5:2 입을 열어 가르쳐 가라사대 5:3 심령이 가난한 자는 복이 있나니 천국이 저희 것임이요 5:4 애통하는 자는 복이 있나니 저희가 위로를 받을 것임이요 5:5 온유한 자는 복이 있나니 저희가 땅을 기업으로 받을 것임이요 5:6 의에 주리고 목마른 자는 복이 있나니 저희가 배부를 것임이요 5:7…

マタイによる福音書 黙想 【献身の正体】 20260119(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 4:12~25 4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。 4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。 4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。 4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」 4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。 4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。 4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。 4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。 4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。 4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。 4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。 弟子たちがイエスの召しに即座に反応し、従っていく姿は、どこか腑に落ちない。まるで何かに取りつかれたかのように、ためらうことなく網と舟を捨て、さらには親さえも後にしてイエスに従っていく。マタイは彼らの内面心理をまったく説明しない。マタイはなぜこの場面をこのように描いたのだろうか。おそらく弟子たちの決断や献身に焦点を当てたくなかったのではないか。むしろ、イエスの召しがもつ主導権と権威を強調するための、マタイが意図した神学的な“錯覚”だったのかもしれない。核心は弟子たちの献身ではなく、イエスの召しである。 釘は磁石のそばに来ると素早く引き寄せられてくっつく。釘が自分から能動的に動いているように見えても、実際には目に見えない磁力がそれを引き寄せているのだ。弟子たちが大きな献身を自分の意志で選んだかのように見えたとしても、この本文が示す本当の原動力は彼らの決意ではなく、イエスの召しである。「イエスが言われた」「イエスが呼ばれた」――その後に弟子たちが即座に従っていく。召しが臨むと、人間の計算は一瞬で無力になる。彼らは勇壮な英雄ではない。ただ召しに捕らえられ、召命に従って動かされた人々に過ぎない。 私たちはこれを献身と呼ぶ。しかし私が知っている日本と韓国の教会の中で「献身」という言葉は、神学校に行く決断を意味することもある。もちろんそれは意味があり、尊い選択だ。だがそれが必ずしも、聖書が語る「捨てて従うこと」と同じだとは限らない。神学校に行くことは、召しがなくても自分の意志だけで決めることができる。世俗化した宗教の中では、その「献身」という名のもとに、捨てて従うのではなく、むしろより多くのものを手に入れようとする自己欺瞞が起こることもある。より多くの承認、より良い立場、より大きな影響力、より高い霊的優越感、さらにはより多くのお金――自分の人生により多くの意味を得るために、「献身」という言葉が使われることさえある。 だからいつからか、「献身」という言葉が居心地悪くなった。最初は、それを言うことが信仰の証明だと思い、私も同じように口にしていた。しかし、その言葉の中で神がだんだん小さくなり、人間がだんだん大きくなっていくのを見た。「私はこれだけしました」「私はあれだけ捨てました」。だが弟子道は自己PRではなく、自己否定である。キリスト者の人生は「私が何を捧げたか」を誇る構造ではなく、「イエスが私をどのように召されたか」を告白する構造だ。私たちは主人を感動させる者ではない。主人の召しにくっついて歩む者である。誰が誰を感動させ、動かすというのか。無益な僕が、主人の声を聞いて動くだけだ。それがすべてである。 「献身」という言葉は、聖書のある一つの単語をそのまま翻訳したものではない。聖書が語るギリシア語のいくつかの動詞、すなわち「従う」「捨てる」「仕える」「自分を否む」「捧げる」「従順する」などを、漢字文化圏の教会が表現の便宜上ひとまとめにして作った言葉である。漢字で見ると「身を捧げる」という意味だが、それが人間を主語にしてしまう。「私が献身した」「献身を記念する」「献身が足りない」――このように語った瞬間、福音の文法はひっくり返ってしまう。本来は神が召し、人が応答することが福音の秩序であるはずなのに、いつの間にか人間の決断が前に出て、神の召しが後ろに押しやられてしまう。 人間的には、すべてを認めたいし、その信仰の決意に拍手を送りたい気持ちもある。しかしイエスに従うということは、弟子たちが自分の力で作り出した選択ではない。イエスの召しが一人の人間の中心を変えてしまうときに現れる結果なのだ。イエスに捕らえられた人は、人生が再配置される。その再配置は、ある人にとっては網と舟を捨てる形で現れ、またある人にとっては痛みを伴いながらも親に申し訳なく思う形で現れることもある。召しへの応答を自己憐憫に絡めてはならない。それは本当に犠牲であり損だったのだろうか。真に自分を捧げた献身者なら、そうは思わないはずだ。 朝鮮時代の王は、死んだ後に王の名が与えられた。つまり世宗大王は、自分が「世宗」という名で呼ばれるとは知らないまま死んだ。その名は墓において初めて用いられる廟号(びょうごう)である。燕山君と光海君も王であったが、彼らには王の名が与えられなかった。献身かどうかは神学校に入ったかどうかではなく、その人の人生が終わったとき、次の世代の評価に委ねるべきである。そのとき人々が墓碑に「献身者」と刻んでくれるなら、彼は献身者であったと言えるだろう。そう考えると、「献身者」という名を得ることは、それほど重要なことだろうか。各自が自分に与えられた召しの中で、その召しに恥じないように生きればよいのではないだろうか。

마태복음 묵상 【헌신의 정체】 2026019(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 4:12~25 4:12 예수께서 요한의 잡힘을 들으시고 갈릴리로 물러 가셨다가 4:13 나사렛을 떠나 스불론과 납달리 지경 해변에 있는 가버나움에 가서 사시니 4:14 이는 선지자 이사야로 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되 4:15 스불론 땅과 납달리 땅과 요단강 저편 해변 길과 이방의 갈릴리여 4:16 흑암에 앉은 백성이 큰 빛을 보았고 사망의 땅과 그늘에 앉은 자들에게 빛이 비취었도다…

マタイの福音書 黙想【謙遜を持って】20260117(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 3:11-17 3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。 3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。 3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」 3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。 3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。 3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」   イエス様がこの地に来られ、人々を教え、福音を宣べ伝え、病を癒やして歩まれたすべての働きの時、いわゆる「公生涯」と呼ばれる時は、今日の箇所に記されているこの出来事、イエス様がバプテスマをお受けられるこの時から始まります。  バプテスマのヨハネが授けていたのは「水のバプテスマ」であり、イエス様が後に授けられるのは、「聖霊と火によるバプテスマ」です。この二つは、その後も対比的に語られます。ヨハネの水のバプテスマが、悔い改めと新しい生の始まりを告げるものであったのに対し、イエス様が授けられる聖霊と火のバプテスマは、人を内側から聖く造り変えるバプテスマであると理解されています。  おそらく、バプテスマのヨハネが考えていたように、イエス様ご自身には、本来この水のバプテスマは必要のないものであったのかもしれません。しかし、イエス様は、ご自分がこのバプテスマを受けなければならないことを、はっきりと知っておられました。このバプテスマを通して、イエス様は父である神様の御心に、へりくだって従順をささげられました。そしてその時、イエス様こそが神様の御子であることを、父なる神様ご自身が直接に示されたのです。  私たちを悔い改めへと導く水のバプテスマ、そこから始まる新しい生は、「へりくだり」によって支えられています。私たちは、悔い改めを重ねるほどに、自分がどれほど聖められたかを誇る者となるのではなく、むしろ、ますますへりくだった姿へと変えられていくべきです。そのようなへりくだりを通して、神様は私たちに聖霊のバプテスマを与え、私たちを聖く造り変え、ご自身の御業のために用いてくださるのです。 https://youtu.be/QQiLmv4cjC0?si=PxklkWliHSqskPqF

마태복음 묵상【겸손으로 받는 세례】20260117(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 3:11-17 3:11 나는 너희로 회개하게 하기 위하여 물로 세례를 베풀거니와 내 뒤에 오시는 이는 나보다 능력이 많으시니 나는 그의 신을 들기도 감당하지 못하겠노라 그는 성령과 불로 너희에게 세례를 베푸실 것이요 3:12 손에 키를 들고 자기의 타작 마당을 정하게 하사 알곡은 모아 곳간에 들이고 쭉정이는 꺼지지 않는 불에 태우시리라 3:13 이 때에 예수께서 갈릴리로부터 요단…

マタイの福音書 黙想【主を迎えるために】20260116(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 3:1-10 3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。 3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。 3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、 3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。 3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。 3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。  私たちが「キリスト者」になるということは、「イエス様を心の中に迎えること」から始まると言ってもよいほど、主を心の内にお迎えすることは、私たちの信仰の土台であり、基礎であります。そのため、私たちが伝道する時にささげる祈り、いわゆる「迎接の祈り」には、必ずイエス様を私たちの内にお迎えする祈りが含まれます。  この迎接の祈りも御言葉に基づいた祈りであるので、当たり前のことではありますが、今日の御言葉においても、また迎接の祈りにおいても、イエス様をお迎えするために必ず求められることがあります。それが、罪の告白と悔い改めです。  バプテスマのヨハネは、人々の前に立ち、「主の道を用意せよ」という預言の御言葉をそのまま引用し、イエス様が来られる道を備えるようにと宣告しました。そして、その備えとして彼が求めたのは、他の何かではありませんでした。ただ一つ、「悔い改め」ることでした。  私たちが主を心にお迎えするための道は、他にありません。悔い改めにあります。私たちは、この悔い改めを通して、主を私たちの内にお迎えするのです。この順序は、決して変わることはありません。悔い改めのない信仰はなく、悔い改めのない聖化もなく、悔い改めのない救いもありません。  この事実は、教会の内においても、また教会の外においても、きわめて重要な真理です。教会に行っているから、信仰があるからといって、悔い改めから自由になることでは決してありません。キリスト者は、日々の生活の中で絶えず罪と向き合い、ときには罪を犯してしまう存在であることを、互いに認め合わなければなりません。そして、その罪を悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことが求められています。私たちが罪に対する時は、罪そのものへの𠮟責が先立ってはいけません。𠮟責されるべきことは、罪に対する悔い改めがない姿です。  また教会の外にいる人々に対しても、彼らの罪をただ責めながら、「信仰がないから」と言って、まるで私たちとはまったく違う存在であるように切り離してはいけません。むしろ、彼らの内にも主をお迎えするための悔い改めが起こり、悔い改めにふさわしい実が結ばれるようにと祈り、その悔い改めの場へ招くべきでしょう。  主をすでに迎え入れた者だけが教会に集まるのではありません。神様が用いておられる教会を通して、人々が主をお迎えする悔い改めへと導かれ、実を結ぶのです。教会は、罪人と切り離された場所ではなく、絶えず罪人たちが訪れてくる場所にならなければなりません。それゆえ、教会の中にはさまざまな争いや、罪の問題が絶えず起こるでしょう。しかし、その中でイエス様に倣った愛と忍耐をもって、人々を主をお迎えする悔い改めの場へ導き続けていくこと、それこそが、この地にある教会に与えられた使命でしょう。 https://youtu.be/1QMlz4GKeUs?si=fkuVq1g99FYBLyH9

마태복음 묵상【주님을 맞이하는 일】20260116(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 3:1-10 3:1 그 때에 세례 요한이 이르러 유대 광야에서 전파하여 말하되 3:2 회개하라 천국이 가까이 왔느니라 하였으니 3:3 그는 선지자 이사야를 통하여 말씀하신 자라 일렀으되 광야에 외치는 자의 소리가 있어 이르되 너희는 주의 길을 준비하라 그가 오실 길을 곧게 하라 하였느니라 3:4 이 요한은 낙타털 옷을 입고 허리에 가죽 띠를 띠고 음식은 메뚜기와 석청이었더라…

マタイによる福音書 黙想 【幼子イエスの苦難の道】 20260115(木」) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 2:13~23 2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。 2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 2:18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。 2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」 2:21 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。 2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。 2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。     「王が生まれた」という知らせは、ヘロデ王にとって喜ばしいものではなかった。いや、それは彼にとって不安そのものだったと言うべきだろう。ヘロデはユダヤの王であったが、ユダヤ人ではなかった。実際には、彼は“給料をもらう王”のような存在だった。彼の王位は、ローマに取り入り、帝国の承認によって与えられたものだったからである。それは、いつ失ってもおかしくない、不安定な地位だった。だからこそヘロデは、自分の立場を証明し、確保するために、最も弱い命を切り捨てた。異邦人である東方の博士たちが去り、王の誕生が特定できなくなると、ヘロデはすべての幼子を殺すという暴挙に出た。ヘロデの暴力は、力の誇示ではなく、不安から生まれた防衛反応である。正当性を持たない権力は、強いから暴力的になるのではない。不安だからこそ暴力的になるのだ。弱く、卑怯な人間ほど、より残酷になりやすい。 イエスは、生まれたその時から、殺される危険の中に置かれていた。宮殿ではなく家畜小屋で生まれ、虐殺の血の嵐を逃れて、エジプトへと逃れた難民となった。受肉とは、神が単に肉体という物質に変わった出来事ではない。それは、弱く貧しい人々の流す血と涙、胸が締めつけられるような痛みや焦燥までも、その身体の中に余すところなく引き受けられた出来事である。神は御子イエスを人として遣わされたが、この世の暴力を取り除かれなかった。むしろ、その暴力のただ中で生きる道を選ばれた。ついには、その暴力によって殺されることさえ許されたではないか。救いは、その場所から始まらなければならないからである。ヨセフとマリア、そして幼子イエスのエジプトへの避難とナザレへの帰還は、かつて救いの旅路であった出エジプトの記憶を呼び覚ます。 ヘロデが死んだ後、イエスの家族はイスラエルの地へ戻る。しかし、彼らはエルサレムには向かわなかった。一貫して、中心を避け続けたのである。イエスが幼少期を過ごしたのは、ガリラヤのナザレ。当時の人々から軽んじられ、嘲られていた田舎町だった。神の国は、中心で承認されて始まる王国ではない。権力や制度や資本が、神の国を築くことはできないからである。人は中央や高い場所に関心を向けるが、神の働きは、辺境の低い場所で、静かに、しかし確かに、神の国の土台を形づくっていく。人生が、休む場所のないベツレヘムのように疲れ果て、エジプトへ追いやられた難民のように不安で、ナザレのようにみすぼらしく感じられる時があっても大丈夫だ。神は、その場所でこそ、さらに多くのことをなさっておられるのだから。

마태복음 묵상 【아기 예수의 고생길】 20260115(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 2:13~23 2:13 저희가 떠난 후에 주의 사자가 요셉에게 현몽하여 가로되 헤롯이 아기를 찾아 죽이려하니 일어나 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 피하여 내가 네게 이르기까지 거기 있으라 하시니 2:14 요셉이 일어나서 밤에 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 떠나가 2:15 헤롯이 죽기까지 거기 있었으니 이는 주께서 선지자로 말씀하신바 애굽에서 내 아들을 불렀다 함을 이루려 하심이니라 2:16…