마가복음 묵상 【진수성찬】 20240120(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 7:24-37 7:24 예수께서 일어나사 거기를 떠나 두로 지방으로 가서 한 집에 들어가 아무도 모르게 하시려 하나 숨길 수 없더라 7:25 이에 더러운 귀신 들린 어린 딸을 둔 한 여자가 예수의 소문을 듣고 곧 와서 그 발 아래에 엎드리니 7:26 그 여자는 헬라인이요 수로보니게 족속이라 자기 딸에게서 귀신 쫓아내 주시기를 간구하거늘 7:27 예수께서 이르시되 자녀로…

マルコの福音書 黙想 【心に入るもの】 20240119(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 7:14-23 7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。 7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」 7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。 7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。 7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。 7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、 7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」  ユダヤ人の律法学者たちは人間の清さを守るために数多くのことを禁止し、実践してきました。一般的に365個の禁止と248個の命令で613個の律法が実践されていると言われています。    その中には食物に対する律法も相当存在しています。 彼らは不正な食物を避けることで、自分たちの清さを守ることができると信じています。しかし、そんな彼らに、今日イエス様の御言葉は衝撃的なことだったでしょう。    律法に従う者たちが自分の中にあると信じている清さを守り、純粋であろうとしてきました。 ところがイエス様は人を汚すのは外側のものではないと言われています。さらに、人はすでに自ら自分自身を汚していると言われました。    人を汚す源は心にあります。 すべての食物はその心に入らず、そのまま腹に入り排出されるから、人を汚すことはできないとイエス様は言われました。これは逆に考えると、心に入れば汚い食物になることもできるということ、そして、その食物が人を汚すこともできることだとも見ることができるでしょう。    ここで、私たちは人の心に入ってきた一つの食物があったことを覚えなければなりません。それは最初の人間たちが食べた善悪を知る木の実です。    本来、神様のかたちに造られた人間、その性質に似ていた人間は自らを汚す心を持っていなかったはずです。しかし、彼らの心の中に入ってきた一つの食物、善悪を知る木の実と共に入り込んだ罪が人間の心を汚し、絶えず自らを汚す源になりました。    私たちの中にその汚れた罪の源が存在する限り、私たちは絶えず罪を犯し、自らを汚すしかないでしょう。 いくら世の中の何かでその心を清めようとしても、それらは私たちの心まで入ることができません。 ただ私たちの腹に入り、排泄されるだけです。しかし、罪が人の心に入ってきて心を汚したとしたら、私たちを清める何かが私たちの心に入って来れば、私たちは再び清められるだろうという希望もあるのです。    汚れた私たちの心に入ることができるのはこの世にただ一つしかありません。 それはイエス·キリストです。 今日の御言葉を通してイエス様は、人々に間接的に語っておられるのです。あなたがたの中にある罪を清めることができるのはこの世界のどんなものでもなく、私だけだと。    私たちの心の中で結ばれる実は、今日の箇所に書かれているその通りです。 悪い考えです。 しかし、私たちの中におられるお方を通して実を結ぶならば、その実は今日箇所の悪い実ではなく、私たちがよく知っている善の九つの実であるしょう。だからこそ、私たちは今日も私たちの中におられるお方に頼らなければなりません。自ら実を結ぼうとせず、そのお方の実を結べるようにと、清い心を与えてくださいとお祈りをささげるしかありません。 https://youtu.be/jQUDGu4BUZY?si=NlVaflQpYJ3GLo8t

마가복음 묵상 【마음으로 들어오는 것】 20240119(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 7:14-23 7:14 무리를 다시 불러 이르시되 너희는 다 내 말을 듣고 깨달으라 7:15 무엇이든지 밖에서 사람에게로 들어가는 것은 능히 사람을 더럽게 하지 못하되 7:16 사람 안에서 나오는 것이 사람을 더럽게 하는 것이니라 하시고 7:17 무리를 떠나 집으로 들어가시니 제자들이 그 비유를 묻자온대 7:18 예수께서 이르시되 너희도 이렇게 깨달음이 없느냐 무엇이든지 밖에서 들어가는 것이 능히 사람을 더럽게 하지 못함을 알지…

마가복음 묵상 【치사한 종교】 20240118(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 7:1~13 7:1 바리새인들과 또 서기관 중 몇이 예루살렘에서 와서 예수께 모였다가7:2 그의 제자 중 몇 사람의 부정한 손 곧 씻지 아니한 손으로 떡 먹는 것을 보았더라7:3 (바리새인들과 모든 유대인들이 장로들의 유전을 지키어 손을 부지런히 씻지 않으면 먹지 아니하며7:4 또 시장에서 돌아 와서는 물을 뿌리지 않으면 먹지 아니하며 그외에도 여러가지를 지키어 오는 것이 있으니 잔과…

マルコの福音書 黙想 【恥ずべき宗教】 20240118(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 7:1~13 7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。 7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。 7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、 7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。 7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」 7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」 7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。 7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。 7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、 7:12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。 7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」 「コルバン」は「神様に捧げた献物」という意味のアラム語です。神様にささげることを約束したなら、もちろんそれは最優先されなければならないのです。ですから、「コルバン」には問題がありません。ただ、ゴルバンを誤解したり、悪用したりすることが問題です。イスラエルの律法には、親への敬虔の義務条項がありました。ところが、ある人たちはゴルバンをすると言って、それを親に敬わなければならない財政で使いました。親より神様が優先だから、神様にささげたかたと言って親の敬いの義務は果たさないということです。または、親に敬うお金でゴルバンすると約束し、後で一定の違約金を払って取り消すというやり方で親に敬う義務を回避することもありました。宗教的制度がむしろ律法の精神にある人間性を喪失し、破壊する道具になっていたのです。これに対してイエス様は厳しく責めました。 哲学者で心理学者のウィリアム·ジェームズは、宗教を「制度的な宗教」と「個人的な宗教」に区別しました。制度宗教は神学の体系、礼拝の形式、団体の組織などの権威が強調されますが、個人的な宗教というのは良心と救いを必要とする不完全さ、絶望的な人間の理解をより大切に思います。ウィリアム·ジェームズは個人的な宗教をより根本的な宗教であると考えていましたが、実は器なしでは水を入れることができないように制度的宗教と人間の宗教性はともなければならないことです。制度に偏る時は個人的霊性が全力を傾けなければならず、個人的宗教はもう一度それを盛り込む器、すなわち新しい体系を作らなければなりません。そして、それは繰り返されます。神様は完全で永遠ですが、制度的宗教は完全ではなく、また永遠であることもないからです。 今日本文に登場する律法主義者たちは宗教的制度が定めた行為で信仰の全てを実現できると考えていました。一人の人間の宗教的苦悩と質問がなくても、制度宗教が正解を教えることができ、人間はそれを暗記して行動することで信仰を実現できると考えたのです。その最大の被害は人間性の喪失または破壊です。ゴルバンの名で抑圧と搾取と暴力と戦争までも可能になるからです。宗教の名前、ゴルバンの名前で無責任と非常識なことが起こります。それを学んで増幅させたところが異端、カルトです。ルネサンスがあったから、宗教改革がありました。まず、人間のところに戻ってこそ、聖徒のところを守ることができます。人間性と社会性、良心と道理が本来の位置を取り戻す時、制度的宗教は信仰を入れる美しい器になると思います。

マルコの福音書 黙想 【わたしだ。恐れることはない】 20240117(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 6:45~56 6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。6:46 そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。6:47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。6:48 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。6:49 しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。6:50 みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。6:51 そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。6:52 彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。6:53 それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。6:54 彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。6:55 そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。   イエス様は多くの人々に囲まれ、多くのことをしておられましたが、イエス様が追い求めることは大衆の人気や忙しい日々ではありませんでした。静かなところで、神様の御前に出る、そのような時間が好きでした。好きというか、それによって満たされ、イエス様の使命を果たすことができたからです。 それはイエス様の平安を司ることです。忙しい人、まじめな人、成果を出した人、成功をした人は大勢いますが、彼らが皆平安を持っているわけではありません。   イエス様は「五つのパンと二匹の魚」の後で直接指揮して人々を家に送りかえし、弟子たちは海の向い側に行かせました。そしてご自身一人でお祈りに行きました。イエス様が祈られらた後に海を見ると、風の吹く夜の海で苦労して櫓を漕いでくる弟子たちが見えました。イエス様は水の上を歩いて弟子たちに向かって行きました。   夜の海では何でも怖いです。弟子たちはイエス様を見て幽霊と思って怖がっていましたが、イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、イエス様が船に乗られると風は止まって穏やかになりました。海は変わらないです。だが、人々が言うには、朝の海は美しいと言い、夜の海は怖いと言います。怖いのは状況ごとに変わる人の心です。   イエス様が一人でお祈りに行かれた話しと弟子たちが夜海の風の中で恐れていた時、イエス様が水の上を歩いてこられた話しが全部、平安に関する話しです。私が乗っていた船に波浪が起き、恐ろしかったとき、イエス様が私の船に来られ、私の心と私の周りを静めてくださったことがあるかたこそ、私はイエス・キリストを信じる信仰をもって歩むことはできます。   イエス様が海の上を歩いたということは、世の中の風波という人生の困難の上を歩いて来られたということです。イエス様はその上を歩いてこられ、こう言われました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」 マタイの福音書には話しがもう少し続きます。ペトロがイエス様について水の上を歩きますが、夜の海を見て恐れる瞬間、海に溺れる話です。イエス様を信じて頼っている時は、ペトロも水の上を歩きましたが、波打つ世に集中すると怖くなり、その水の中に潜り込んでいきました。信仰は平安であり、不信心は不安です。風吹く波の上を歩き、私の船で来られるイエス様の中で平安です。

마가복음 묵상 【내니 두려워 말라】 20240117(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 6:45~56 6:45 예수께서 즉시 제자들을 재촉하사 자기가 무리를 보내는 동안에 배 타고 앞서 건너편 벳새다 로 가게 하시고6:46 무리를 작별하신 후에 기도하러 산으로 가시다6:47 저물매 배는 바다 가운데 있고 예수는 홀로 뭍에 계시다가6:48 바람이 거스리므로 제자들의 괴로이 노 젓는 것을 보시고 밤 사경 즈음에 바다 위로 걸어서 저희에게 오사 지나가려고 하시매6:49 제자들이 그의 바다…

マルコの福音書 黙想 【あなたがたが、あげなさい】 20240116(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 6:30~44 6:30 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。6:31 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。6:32 そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。6:33 ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。6:34 イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。6:35 そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。6:36 皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」6:37 すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」6:38 イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」6:39 するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。6:40 人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。6:42 彼らはみな、食べて満腹した。6:43 そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。   五つのパンと二匹の魚で五千人が食べさせてかた残りがあった有名な話です。イエス様は弟子たちにお金がないことと食事を提供する方法がないことを知っておられましたが、弟子のピリポに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」と言われました。不可能で不合理な要求にピリポはしばらく戸惑いましたが、「五つのパンと二匹の魚」の話では「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」という御言葉が核心です。必要は目の前に見える時、私の耳にいつも聞こえるイエス様の御声です。「あなたが与えなさい!」そしてその後の御声は省略されています。 「あなたが食べさせ始めると、私はまかなう!」   食べて満腹になれる量はご飯一杯と決まっています。人々はお金のことでいつも心配しているようですが、何とかしてみんな食べているようです。物乞いはもらって食べる、奪いとる人は奪って食べる、自分だけ食べたい人は一人で食べる、多くの人を食べさせる人はみんなで食べます。恵みで食べることなら、もらうことではなく、自分一人だけではなく、みんなで食べた方がいいではないでしょうか。「五つのパンと二匹の魚」の奇跡は、自分のお弁当を差し出した子どものように、隣人に食べ物を与える人から始まる奇跡です。   当時、現場の給食方法についていろいろ想像したことがあります。間もなく暗くなるから、配食と食事の時間は限られています。12人の弟子では足りないです。イエス様が天に祈られた時、「ポン」と4配食車の数十台が「パッ」と現れたのではないということです。一人が隣の一人に自分のものを分けて渡す場合に素早く配食が行われます。ですから奇跡は人の手と手の間で起こったのです。   私たちの祈りには「フードトラックを送ってくだされば私が食べさせます」という条件がついているかもしれませんが、「食べさせ始めたら供給する」というのが神様の方法です。「不変の原則は、状況よりも信仰が先」ということです。「パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた」ということは、与えられただけで与えなかった人はいなかったということです。分けてあげる隣の人がいなくなった人は、それをカゴに入れました。だから残るがあったのです。「五つのパンと二匹の魚」の奇跡は、あげようとして、食べさせようとして、分け与えようとしている人がいれば今も起こります。栄養過多で食事量を減らし、みな運動していると言われています。切に経験したい奇跡というのは、五千人分を自分一人で食べる食いしん坊ではなく、欲張りの人間が「あなたのものを隣人に分け与えなさい」といわれるイエス様の御言葉に従う奇跡です。

마가복음 묵상 【너희가 먹을 것을 주어라】 20240116(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 6:30~44 6:30 사도들이 예수께 모여 자기들의 행한 것과 가르친 것을 낱낱이 고하니6:31 이르시되 너희는 따로 한적한 곳에 와서 잠간 쉬어라 하시니 이는 오고 가는 사람이 많아 음식 먹을 겨를도 없음이라6:32 이에 배를 타고 따로 한적한 곳에 갈쌔6:33 그 가는 것을 보고 많은 사람이 저희인줄 안지라 모든 고을로부터 도보로 그 곳에 달려와 저 희보다 먼저…

マルコの福音書 黙想 【人生が導く責任】20240115(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 6:14~29 6:14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」6:15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。6:16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」6:17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。6:18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。6:19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。6:20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。6:23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。6:24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」6:25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」6:26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。6:27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、6:28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。6:29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。   イエス様が「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者はない」と評価されたバプテスマのヨハネはヘロディア母子によってあえなく死にました。ここでバプテスマのヨハネという人の生と死の意味について問わざるを得ませんでした。死というのは避けては通れないものであり、生きていた人の死を目撃した人は質問します。「この人が生きていたことの意味は何ですか?」と。ところが、そのような質問をする人と、その質問に答えようとする人はくせのように「目的」に沿って考えます。だから死者の生前の業績など並べますが、死の前ではかえってみすぼらしくなるだけです。もし成就したことがなかったり、失敗したなら、その人生は目的がなかったとか、目的に失敗したと言えるでしょうか。   一時『The Purpose Driven Life』という本が流行りました。私はその時も思いました。「ある目的のために人生の全存在を従属させることができるのだろうか?、一体その目的ということは何だろうか。」聖徒を宗教の道具にしたい扇動者は、人生の目的をよく言いますが、他人が言う自分の人生の目的ということは言い換えれば、自分の人生を道具したいということです。もちろん、人生には大小の責任がありますが、だからと言って責任が人生の目的であることでもありません。私の人生の目的は私が言うべきです。ただ、生きているということ、生きていくということこそ、代替不可能な人生の目的なのです。与えられた時間を生きることより重大な目的と使命はありません。すべての人には自分だけの物語があります。あえて人生の目的があるとすれば責任を持ってその物語を続けることです。   死というのは誰にでも見知らぬ姿で訪れます。バプテスマのヨハネは、予期せぬ死に、彼の物語だけが残っています。バプテスマのヨハネがイエス・キリストの道を備えたとしてバプテスマのヨハネの人生の目的がその役割にあるわけではありません。バプテスマのヨハネの人生が虚しかったり、死が悲惨ではないことは、神様がバプテスマのヨハネに定めた目的どおりに与えられた時間を生きたからです。人生の長さと終わり方は、人が決めることではありません。バプテスマのヨハネは、その間に責任を持って歩んだ人です。だからキリストの道を備えることができたのです。自分の人生に重さがない人は、神様の召しを重く受けとることはできません。人生という重大な目的のために自ら恥じのなし、責任ある生き方をしたいと願います。