마가복음 묵상 【남김없이, 후퇴없이, 후회없이】 20240207(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 12:35~4412:35 예수께서 성전에서 가르치실쌔 대답하여 가라사대 어찌하여 서기관들이 그리스도를 다윗의 자손이라 하느뇨12:36 다윗이 성령에 감동하여 친히 말하되 주께서 내 주께 이르시되 내가 네 원수를 네 발 아래 둘 때까지 내 우편에 앉았으라 하셨도다 하였느니라12:37 다윗이 그리스도를 주라 하였은즉 어찌 그의 자손이 되겠느냐 하시더라 백성이 즐겁게 듣더라12:38 예수께서 가르치실 때에 가라사대 긴 옷을 입고 다니는…

マルコの福音書 黙想 【立法者と法学者の対話】 20240205(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 12:28~3412:28 律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」12:29 イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。12:30 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』12:31 第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。12:33 そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」12:34 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。   人々は利益という基準でものごとを判断します。だから、御言葉を聞いても損するのが恐くて、時代と自分を省察することはなく、むしろ警戒し、敵対します。しかし、自分に対して率直で、時代に対して責任を持ち、真理に対して真剣な人がどこかにはいるはずです。今日の本文に登場する律法学者がその人だと思います。律法学者が聖書を筆写するときは、一字一字を確認し、それを声に出して読んだ後に書き写しました。もし一画でも間違いが出れば、筆写本全体を廃棄しなければならなかったそうです。したがって、律法学者はいわゆる一点一画も間違ってはならないほど、聖書に対して慎重な人でした。   今日、登場した律法学者は、イエス様のお話を聞いて尋常でないことを思い、イエス様に真剣に質問しました。「すべての中で、どれが第一の戒めですか」律法学者らしい質問です。律法の第一を尋ねたということは、律法の優先順位を尋ねたというより、律法の精神を尋ねたことです。イエス様は申命記6章をもって答えられました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。12:29-31」イエス様のお答えに「シェマ・イスラエル(שמע ישראל聞け、イスラエルよ)」という申命記の御言葉が出た時、律法学者の目は光ったと思います。待っていた答えが出たからです。   第一の戒めが神を愛することであり、第二の戒めが隣人を愛することと言われました。律法学者は第一の戒めは何かと尋ねましたが、イエスは第二の戒めまで答えました。その理由も順位ではなく、いわば律法の憲法精神のことだからです。すべての律法の精神は、この二つの優先的価値に基づいています。人間は罪を持っているので、その罪を治めてこそ神様を愛することができ、また人を愛することができます。だから、愛することができるように具体的に提示されたのが律法です。法学者は普段、愛という精神から離れている時代の律法に問題意識を持っていたはずです。立法者であるイエス様の宣言と律法学者の良心的洞察が申命記においてその精神を確認しました。   イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」とほめました。あゆみのすべての瞬間に、信仰が求められるすべての場面に、それが神の愛と隣人の愛に基づいているのか考えなければなりません。宗教的な熱心が愛という価値に反しているのではないか、規則と慣習が愛を損ねているのではないかと考えなければなりません。

마가복음 묵상 【입법자와 법학자의 대화】 20240206(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 12:28~3412:28 서기관 중 한 사람이 저희의 변론하는 것을 듣고 예수께서 대답 잘하신 줄을 알고 나아와 묻되 모든 계명 중에 첫째가 무엇이니이까12:29 예수께서 대답하시되 첫째는 이것이니 이스라엘아 들으라 주 곧 우리 하나님은 유일한 주시라12:30 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하고 힘을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하신 것이요12:31 둘째는 이것이니 네 이웃을 네 몸과…

マルコの福音書 黙想 【愚問賢答】 20240205(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 12:13~2712:13 さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした。12:14 その人たちはやって来てイエスに言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」12:15 イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」12:16 彼らが持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘ですか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。12:17 するとイエスは言われた。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスのことばに驚嘆した。12:18 また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。12:19 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。12:21 次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。12:22 こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」12:24 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。12:25 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。12:26 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」   すでにローマにへつらっていたパリサイ人たちはイエス様にカエサルがユダヤに徴収する過度な税金を納めるべきかという質問をし、復活を信じないサドカイ人たちは復活と継代結婚を主題に神学的な罠を掘ってイエス様に質問します。パリサイ人の質問に税金を払わなければならないと答えたらユダヤ人の反発を買うだろうし、払わなくても良いと答えたらローマ植民政府から制裁を受けたり、告発されるだろうという罠です。イエス様がサドカイ人たちが提起した復活の教理から発生するジレンマを解決できなければ、パリサイ人とサドカイ人の両方で攻撃を受けるサンドイッチになるかもしれません。もちろん、イエス様は彼らが掘った矛盾や罠に陥ることはありません。だからといって、イエス様が絶妙に賢い回答をしたということが本文のテーマではなく、または税金と献金のバランス、天国にはすべてが違うということがテーマではありません。   私はイエス様が彼らに向かって奥深い真理を語られているとは思いません。大切なことを教えているのではなく、ただ彼らの質問の矛盾を跳ね返しているだけです。豚には真珠をあげません。パリサイ人の税金質問に対しては、デナリ銀貨というコインにカエサルの形が刻まれているので、その形の持ち主に戻られるということ、彼らには神様の形がないので、神のものは神に返すことは彼らにとってはできません。カエサルに従う者によってカエサルのものはカエサルに戻り、神様の形をした人々は神様のためにささげます。税金と献金のバランスを言うのではなく、それぞれ追い求めることの通りになるということです。卑劣な売国的行為をしながら、質問まで卑劣にしないようにと口を塞いだのです。   天使を信じず、復活も信じなかった現実主義者のサドカイ人たちは、彼らの絶対的なモーゼ五書に復活の教理の根拠がないということを利用してイエス様に質問したのです。これに対してイエス様は、モーゼ五書でアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を話され、それが現在形で書かれたことを思い起こさせます。アブラハムとイサクとヤコブの時代に、彼らと共にした神様の実存的自覚なしに、信じもしない復活をもってけちを付けるなという意味で「生きている者の神」と言われたのです。分からないことについては率直で謙遜に聞いてこそ質問になり、それこそきちんとした答えを聞くことができます。神様に対する質問でも、人に対する質問でも、自分の利益と悪い意図を持って質問したなら、真実の答えがもどらないことは当然です。イエス様の知恵は、クリスチャンの税金に関する理解、または死生観に関するものではなく、愚問に対する賢答に関するものです。

마가복음 묵상 【우문현답】 20240205(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 12:13~2712:13 저희가 예수의 말씀을 책잡으려 하여 바리새인과 헤롯당 중에서 사람을 보내매12:14 와서 가로되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 아무라도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 않고 오직 참으로써 하나님의 도를 가르치심이니이다 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까12:15 우리가 바치리이까 말리이까한대 예수께서 그 외식함을 아시고 이르시되 어찌하여 나를 시험 하느냐 데나리온 하나를 가져다가 내게…

マルコの福音書 黙想 【永遠の権威】 20240203(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 11:20-33 11:20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」 11:22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。 11:23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。 11:24 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 11:25 また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」 11:27 彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、 11:28 こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」 11:29 イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。 11:30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」 11:31 すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。 11:32 だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」  この世で言われる権威は他の人々の上に立つことから出てきます。 他の人々より優れた財力、権力などが彼らの権威を立てる背景になります。すると、キリスト者にとって権威というのは何でしょうか。    今日の箇所の前半部でイエス様は神様の権威を紹介しています。 昨日の箇所で出て来た実を結ばなかいイチジクの木がイエス様の言葉によって枯れてしまったこと、それを通してイエス様は「神を信じなさい」と言われています。私たちにはすでにイエス様が神様であることが当然なことなので心に響かないかもしれませんが、当時の弟子たち、そしてマルコの福音書を記録したマルコと周りの人々にはそれが当然なことではありませんでした。本来なら「神を信じなさい」ではなく「私を信じなさい」と言うべきだったでしょう。    その後の内容まで見てみると、神の権威は他の人々より多く持っていることから明らかにされることではないようです。むしろ謙虚になることから、人々に与えること、許すことからその権威があらわれるようです。 文字通り自分より他人を優れた者とすることです。    その後は、当時のイスラエルの権威者たちがイエス様を訪ねてきます。彼らはイエス様にその「権威」が誰から授けられたのか、その権威が正しいものなのかを尋ねます。そのように質問することができた理由は、彼らは実際にイスラエルの民から認められた権威を持っている者たちだったからです。    しかし、彼らの持っている権威はどのようなものですか。他人のものを奪い、他人の上に立とうとし、そのためにはなかった罪さえも作り出すことが彼らの持っている権威でした。    このような彼らの権威を支えていたの、それが宮でした。そのため、イエス様は昨日の箇所で宮を浄化し、以後、この宮が崩れることを預言されたかも知れません。神様の権威を立てるべきの宮が、神様ではなく人間の権威を立てるための建物になってしまったからです。    人間の権威はいつか必ず崩れてしまうものです。そのため、今日箇所の大祭司の群れも、自分たちの権威を守るためにバプテスマのヨハネを処刑し、イエス様まで処刑しようと考えているのです。しかし、神様の権威は永遠に立つ権威であります。    イエス様の預言の通り、大祭司の群れの権威を支えていた宮は崩れました。そして、神様の権威を立てるイエス·キリストの十字架がこの地に立てられ、今も、そしてこれからも永遠に立つでしょう。すると、私たちが求めるべき権威はどこにあるのでしょうか?    もちろん、権威などいらないと考える方もいると思います。その権威が私たちのためのものなら、その考えはまさに正しいです。しかし、その権威は私たちのための権威ではなく、神様の権威です。ただその権威に参加し、神様の権威を立てていくことに用いられるものになるのです。だからこそ私たちは、いつか崩れてしまう世の中の権威ではなく、永遠に立つイエス·キリストの十字架の権威を持って、この世を生きていくべきではないでしょうか。  https://youtu.be/g6e8Ga8sjps?si=o7znDZ7UDVLgPfMP

마가복음 묵상 【영원한 권위】 20240203(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 11:20-33 11:20 그들이 아침에 지나갈 때에 무화과나무가 뿌리째 마른 것을 보고 11:21 베드로가 생각이 나서 여짜오되 랍비여 보소서 저주하신 무화과나무가 말랐나이다 11:22 예수께서 그들에게 대답하여 이르시되 하나님을 믿으라 11:23 내가 진실로 너희에게 이르노니 누구든지 이 산더러 들리어 바다에 던져지라 하며 그 말하는 것이 이루어질 줄 믿고 마음에 의심하지 아니하면 그대로 되리라 11:24 그러므로 내가 너희에게 말하노니 무엇이든지 기도하고 구하는…

マルコの福音書 黙想 【正しい方向】 20240202(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 11:11-19 11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。 11:12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。 11:14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。 11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。 11:16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。 11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」 11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。 11:19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。  聖書は数多くの比喩的表現を使って私たちに近づいてきます。このような比喩は、特に私たちが理解しにくい、そして当時のイスラエルの民が理解しにくかった将来のこと、預言などに多く用いられています。    今日の箇所にもその預言書に用いられた比喩的表現が用いられています。それは実のないイチジクの木と宮です。    実のないイチジクの木は預言書でイスラエルの裁きを預言するときに、裁かれるイスラエルを指す比喩として、表現としてよく用いられます。 この箇所はイエス様がイチジクの木を呪ったとよく知られているこの事件は、神様の言葉を成就するためのイエス様の働きであったのです。    今日の箇所に出てくるイチジクの木は、ある意味ではとてもかわいそうです。 その木が実を結ばなかったのは、木が自分の役目に果たしていなかったからではありません。ましろその役目に忠実に、自分が造られた通りに神様の時に実を結ばなかっただけです。しかしこの時は、旧約の預言書から見ると、神様の裁きの時が来たことを知らせるものでもあります。    私たちの目にはイエス様に実を捧げられなくて呪われたように見えるかも知れないイチジクの木は、もしかしたら私たちがかわいそうに思う存在ではなく、自分を犠牲にするまで御言葉の成就に献身した、近づいてきた神様の時を知らせた尊い存在だったかもしれません。    次に、イエス様と弟子たちは宮に向かいました。その宮には多くの人々が商売をしていました。両替をする者たち、鳩を売る者たち、彼らがしていたことは明らかに宮に必要なことでした。しかし、彼らの方向性は神に向かっていなかったようです。    様々な事情で捧げ物を宮まで持って来られない人たち、ローマの貨幣だけを持っている人たちが神様の御前に進んでいくためには鳩を売る人たちも、両替をしてくれる人たちも確かに必要な人です。しかし、彼らはそこで自分たちのための不正な利益を得ていた可能性が非常に高いです。イエス様もそのことを知っておられたので、単純に商人たちではなく強盗たちだ言われたかも知れません。そして彼らがそこで商売をするためには大祭司と律法学者たちの許可が必要であったので、彼らもまた共犯者だったのです。    旧約聖書で宮、そしてその以前の幕屋などは比喩的に神様の臨在を現す時によく使われます。そして今日、その宮で人々は自分の益のために不正を行いました。単に宮での商売ぐらいではなく、彼らは神様を利用して自分たちの益を作り出したのです。    このような者たちの結末を、私たちは旧約聖書から簡単に見つけることができます。神様の御前に捧げられる捧げ物で不当な益を得ていた祭司たちのことです。彼らにとって、神様は自分たち益のための手段に過ぎませんでした。彼らの祭祀の方向性は神様ではなく、自分たちに向かっていたのです。    今日の私たちの献身の方向性はどこに向かっているのでしょうか。確かに私たちの奉仕や献身が神様のために必要な場所であったとしても、その方向が神様に向かっていなければ、それは実やで商売をしていることと同じことです。   一年の頭、色々なことを決断し、一年の方向性を決めていくこの時期に、私たちのすべてのことの方向がどこに向かっているのかを共に振り返り、神様に向かっている正しい方向性を持つ私たちになりたいと思います。  https://youtu.be/0jAf5hkgw4E?si=etOuHoQv7-4k9YNM

마가복음 묵상 【올바른 방향】 20240202(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 11:11-19 11:11 예수께서 예루살렘에 이르러 성전에 들어가사 모든 것을 둘러 보시고 때가 이미 저물매 열두 제자를 데리시고 베다니에 나가시니라 11:12 이튿날 그들이 베다니에서 나왔을 때에 예수께서 시장하신지라 11:13 멀리서 잎사귀 있는 한 무화과나무를 보시고 혹 그 나무에 무엇이 있을까 하여 가셨더니 가서 보신즉 잎사귀 외에 아무 것도 없더라 이는 무화과의 때가 아님이라 11:14 예수께서 나무에게 말씀하여 이르시되 이제부터…

マルコの福音書 黙想 【主がお入り用なのです】 20240201(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 11:1~1011:1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。11:2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。11:3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」11:4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。11:7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。11:8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。11:9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。11:10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」   イエス様はこれからエルサレムに入ります。弟子たちはイエス様の命令どおり、人の家の中につながれている子ろばをほどいて、引いて来させます。持ち主は「なぜ人の子ろばをもっていくのか」と聞きますが、弟子たちはイエス様が教えてくださった通り「主がお入り用なのです。」と答えます。すると、持ち主は何も言わずに子ろばを出してくれます。神様の必要については、神様が主権的に定め、召し、用います。人が神様のために先にできることはありません。召されることを知ること、それに従うことです。   イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入ります。大きい馬ではなく、経験のない子ろばです。足が地に引かれるような子ろばに乗って行かれるイエス様の姿を想像すると、滑稽です。それゆえ、子ろばに乗ったイエス様の目の高さは人々の目の高さです。人々はイエス様を歓迎し、自分の上着と葉の付いた枝を道端に敷いてイエス様の道ににレッドカーペットのようなものを作りました。   イエス様がエルサレムに入るということは十字架の日が近いて来たということです。イエス様の人気は絶頂で、政治的回復を願うイスラエルは、期待に胸を膨らませてイエス様を迎えました。あれほど歓呼した人々だが、イエス様が政治的に敗北したと思った瞬間、十字架に付けろと叫んだことを覚えます。あの人たちは、まさに4日前にホサナで熱狂したその人たちです。熱狂も裏切りもすべて誤解でした。イスラエルは政治的解放を期待しましたが、イエス様は人間の罪の鎖を解くために来られました。   子ろばとのことについてちょっとした想像をしてみました。突然、連れ出された子ろばはぎこちなく、戸惑っていました。イエス様を乗せて歩くことに自信がなく、また人々が自分だけを見つめるようで負担を感じていました。しかし、そのようなことも時間が経つことにつれて慣れてきます。拍手と賛辞を受けながらレッドカーペットを歩き続けた子ろばは、いつの間にか自分が崇められているような錯覚を起こしました。背中に乗せたイエス様は目には見えなかったでしょうから。緊張しなければなりません。イエス様の栄光を自分が受けようとすることはろばの子ではなく、悪魔の子だからです。   イエス様は謙遜で、小さい子ろばに乗られたのですが、子ろばは勘違いして気勢が等々として歩き回る格好になったのです。トロイア戦争に勝って帰ってきたアガメムノーンは、用意されたレッドカーペットを神のものだと言い、踏むことをしませんでした。アガメムノーンは神的権威を借りずにひたすら「人」に尊敬される「人」になりたいと宣言しました。私たちの宗教よりギリシャ神話の方がもっと人間的であるようです。   牧師が外部に出かけると、歓迎され、もてなしを受る場合があります。人々は牧師を歓迎することは、イエス様を乗せてきた子ろばだと思うからです。ところが、もてなしを受けると、自分が当然のようにもてなしを受ける資格があると勘違いしてしまいます。子ろばの話しは私が作ったフィクションですから、子ろばに申し訳ないですが、牧師にはそのような誘惑と危険が実在します。子ろばがイエス様に背中に乗ってはいけないのではないですか?子ろばのアイデンティティは偉大ではなく、有名でもなく、実力があるものでもありません。イエス様を乗せた子ろばのアイデンティティは小さなもので、見栄えのないものです。しかし、何でもむやみに背中に乗せることはない、純粋なものです。「…まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。…主がお入り用なのです。11:2,3」