에베소서 묵상 【내게도 빛 비추어 주시면】 20231026(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에베소서 5:1~145:1 그러므로 사랑을 입은 자녀 같이 너희는 하나님을 본받는 자가 되고5:2 그리스도께서 너희를 사랑하신 것 같이 너희도 사랑 가운데서 행하라 그는 우리를 위하여 자신을 버리사 향기로운 제물과 생축으로 하나님께 드리셨느니라5:3 음행과 온갖 더러운 것과 탐욕은 너희 중에서 그 이름이라도 부르지 말라 이는 성도의 마땅한 바니라5:4 누추함과 어리석은 말이나 희롱의 말이 마땅치 아니하니 돌이켜 감사하는…

エペソ人への手紙黙想 【心のうちに部屋づくり】20231025(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エペソ人への手紙 4:25~324:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。   パウロが警戒するのは嘘、怒り、貪欲、憎しみと紛争という感情に包まれている人々です。しかし、パウロは今、不特定多数に君子の道を教えているわけではありません。聖徒たちに教会共同体に影響を及ぼしかねない否定的な感情の管理について語っているのです。このような感情というのは、特別な悪人のものではなく、日常的に存在するものだからです。 誰もが欺瞞に長けて欲張ります。人と関係していると、誰かが嫌になる時があり、誤解が生じ、怒りが起き、それによって葛藤し、紛争しがちです。   私たちはある完璧な状態を追求します。教会と家庭と職場とすべての人間関係で円満なことを追求します。しかし、どこかで小さな亀裂は必ず生じますし、私たちはそのために感情全体が影響を受けやすいです。カール·ユングはこういう時に掃除をすることをお勧めします。物理的環境を整理整頓するだけでもごちゃした心が慰められ、整頓されるからです。問題はそのような感情そのものではなく、その感情の波及効果です。否定的な感情は避けられませんが、それが自分の心の中に広がらないようにパーティションをつけることは大切です。   そうでなければ、小さな損傷がすべての心を飲み込み、私たちを怒らせ、憂鬱にさせます。感情がこみ上げていかないようにするためには、心の中に部屋を作ってそれを入れ、自分の感情は平静を保っていなければなりません。誰かと感情的対立があれば、それを部屋に入れておいて憎しみという感情に突き進まないようにしなければなりません。それが這い出てきて、自分の精神と関係と全感情を支配するようにしてはいけません。その感情はその部屋の中で解決します。自分の心がその感情に支配されないようにしなければならず、共同体がその感情に影響を受けないようにしなければなりません。   すなわち、パウロは心を落ち着かせた後、その部屋のドアを開けて赦すようにと言います。キリストが私を赦したように、彼らを赦すようにと言います。赦せなければ、自分のすべての感情が悪魔に支配されてしまうからです。肉を持つ限る人間に罪は消えません。その罪を解決できない人間が共に生きていくためには赦ししかありません。神様が私のためにしてくださった方法もそれです。他人を赦す道が私の生きる道です。不快なことはいつも起こります。心の中に小さな部屋を作り、それを入れ、自分の心は平常心を維持します。神様が私を赦した恵みが思い出されれば、その時そのドアを開けて私も赦しを告げたいです。私が、神様に、そして人々に赦されたように······

에베소서 묵상 【마음 안에 방 만들기】 20231025(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에베소서 4:25~324:25 그런즉 거짓을 버리고 각각 그 이웃으로 더불어 참된 것을 말하라 이는 우리가 서로 지체가 됨이니라4:26 분을 내어도 죄를 짓지 말며 해가 지도록 분을 품지 말고4:27 마귀로 틈을 타지 못하게 하라4:28 도적질하는 자는 다시 도적질하지 말고 돌이켜 빈궁한 자에게 구제할 것이 있기 위하여 제 손으로 수고하여 선한 일을 하라4:29 무릇 더러운 말은 너희 입밖에도…

エペソ人への手紙黙想 【古い人、新しい人】20231024(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エペソ人への手紙 4:17~244:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。   パウロは第二のコリントの手紙4章で「外なる人、内なる人16」という区分をし、今日の本文では「古い人、新しい人22-24」という表現をしました。これは出監する収監者に言いそうな新しい人にならなければならないという啓導の言葉ではありません。信仰生活や形が変わらなければならないという行為の変化を求めることではありません。ある時点で外なる人は腐敗し、内なる人は強くなり、ある時点で肉体は古くになり、霊により、新しい人になります。この時点というのは福音が悟られる時点です。内なる人は強くなり、新しい人を着るというのは、福音が自分の人生を支配するようになる時点です。信仰はその時から始まります。   キリスト教の信仰の目的は、より道徳的で、より宗教的に生きることではありません。より良い人になることは福音の希望により、この地で欲張る必要のないという身分の変化を経た人の結果です。良い人とは欲張らない人で、悪い人とは欲張りばかりの人です。すべての罪は欲から生まれます。しかし、内なる人を強くし、新しい人を着る人は、必要と執着を区別する人です。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。4:22-24」   パウロは第二のコリントの手紙5章で「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。17」と言いました。条件節を留意して読まなければなりません。「キリストのうちにあるなら」新しい人になります。キリストの福音が自分の人生を支配していなければなりません。行為は、そのアイデンティティから生まれる生き方です。パウロが「私は日々死んでいるのですⅠコリント15:31」と言ったのは、毎日殉教の意志を誓ったのではなく、この地で生きるために最善の方法を選んだのです。   幸いなことに、本文は私たちに自分で古い人を殺し、新しい人になれとは言いません。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るようにと言いました。「キリストにを着る ガラテヤ3:27」ということです。 心臓と肺部まで自分で改造するのではありません。不可能なことです。福音を考えずに口で話してはいけません。深く考えるのです。信仰生活は福音の結果です。今までたくさん聞いてきました。しかし、聞いたことでは福音はわかりません。自分が新しい人であるということに気づくまで、福音と自分の関係について考え続けなければなりません。

에베소서 묵상 【옛사람과 새사람】 20231024(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에베소서 4:17~244:17 그러므로 내가 이것을 말하며 주 안에서 증거하노니 이제부터는 이방인이 그 마음의 허망한 것으로 행함 같이 너희는 행하지 말라4:18 저희 총명이 어두워지고 저희 가운데 있는 무지함과 저희 마음이 굳어짐으로 말미암아 하나님의 생명에서 떠나 있도다4:19 저희가 감각 없는 자 되어 자신을 방탕에 방임하여 모든 더러운 것을 욕심으로 행하되4:20 오직 너희는 그리스도를 이같이 배우지 아니하였느니라4:21 진리가…

エペソ人への手紙黙想 【奉仕について】20231023(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エペソ人への手紙 4:7~164:7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。4:8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」4:9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。4:10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。   牧師は御言葉を教え(11)、その御言葉を通して聖徒を整え、奉仕の働きをさせます(12)。それは究極的に聖徒の成長のためのものであり(13)、教会の有機的な連合のためのものです(15、16)。牧師は聖徒に教会共同体のための奉仕をさせ、キリストのからだなる教会を有機的な生命体として活動させる責任があります。しかし、牧師は主人ではなく、聖徒も牧師による受動的存在ではありません。聖徒は教会の主体であり、それぞれ部分として一緒に礼拝共同体を立てていかなければならない有機的な責任があります。皆がそれぞれの信仰の力量と賜物に従って教会共同体に奉仕をしなければなりません。   個人主義と責任を負わないのは時代の現象です。責任の限界と補償を重視する時代ですが、教会奉仕には経済的補償ができず、契約による責任を付与することもできません。神様と聖徒の間で確認され、約束された恵みと献身の中で行われることです。家庭共同体も同様です。家庭の構成員はそれぞれの尊厳を持っていますが、その中で誰かは必ず仕えます。掃除と洗濯を数日だけ延ばしても、家族の環境は劣悪になります。母親の犠牲なしには家族の基本的尊厳は守られません。母親という個人が尊厳を持たないから仕えるのではなく、家族の尊厳を守るために犠牲するからです。母親たちは彼らの母親たちを通してそれを学び、愛に基づいて犠牲し、仕えることを通して受ける恵みがどのようなものなのかをよく知っているので、恵みのない母親の奉仕という試みには陥りません。   だが、教会共同体は常にこの問題でお互いに傷つけ合っています。愛に基づいた献身がなければ、奉仕が引っ掛かりになることは時間の問題です。恵みのない奉仕という言葉が枯れてしまった教会の糾弾になりましたが、どこからどのような恵みを受ければ教会のための十分な奉仕ができるでしょうか?奉仕の中に恵みがあるのに、恵みのない奉仕と言って奉仕の場を離れるとどこで恵みに再会できるでしょうか?奉仕で疲れるのは、奉仕の仕組みが非合理的だからかもしれません。再構成する努力は必要です。ただし、奉仕のない礼拝は存在しません。礼拝そのものが奉仕であり、犠牲であり、献身でなければならないからです。英語では礼拝をサービスともいいます。礼拝がサービスであることは、聖徒と隣人に行う奉仕があるからです。   仕事はプロが行うもので、奉仕はアマチュアが無償で行うというイメージがどうしてもありますが、奉仕というは漢字が持つ本来の意味はそうではありません。奉は山参を手で包む象形文字です。かけがえのないもの、最善のもので仕えることが奉仕です。新約聖書に奉仕の意味で使われた言葉はいくつかあります。奴隷の労働や経済活動のための労働、公的労働などを意味する奉仕がありますが、本文12節でいう奉仕はそれとは異なるディアコニア(διακονια)です。他人のための人格的な仕えのことです。ここで執事のアイデンティティが出てきました。執事はディアコノス(διάκονος)です。奉仕する人、仕える人です。恵みは外にありません。自分の奉仕活動を持続させる恵みは、自分の中にすでにある恵みを奉仕を通して活性化することです。その中で共同体は、キリストの教会らしくなっていきます。

에베소서 묵상 【봉사에 대해서】 20231023(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에베소서 4:7~164:7 우리 각 사람에게 그리스도의 선물의 분량대로 은혜를 주셨나니4:8 그러므로 이르기를 그가 위로 올라가실 때에 사로잡힌 자를 사로잡고 사람들에게 선물을 주셨다 하였도다4:9 올라가셨다 하였은즉 땅 아랫 곳으로 내리셨던 것이 아니면 무엇이냐4:10 내리셨던 그가 곧 모든 하늘 위에 오르신 자니 이는 만물을 충만케 하려 하심이니라4:11 그가 혹은 사도로, 혹은 선지자로, 혹은 복음 전하는 자로, 혹은…

10月エペソ人々への手紙黙想【祝福の時】 20231021 (土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

エペソ人々への手紙 3:14-21 3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、 3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。 3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。 3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、 3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。  教会奉仕のために学びながら多くの牧師先生に聞いた助言の中で「祝福祈祷」の重要性について聞いたことがあります。 礼拝の最後の派遣祈祷、祝道ではなく、一人一人のために祝福しながら祈ることの重要性です。      神学を学びながら「願副主義信仰」の危険性を深く感じ、このままではいけないと何度も試験と課題に書いて提出した記憶は、いつの間にか「祝福」という単語に拒否感を感じる原因になり、祝福祈祷をするならば、何を、どのように祝福しながら祈るべきかという質問に至りました。    神様が私たちに言われた「福」は何でしょうか。 一人一人考えている答えがあると思います。 私も自分なりの答えを持っています。 しかし、最初に浮かんだ福のイメージは聖書が言う福とは少し違うようです。 聖書が言う数多くの福の一部ではあっても、最も重要な福の核心とは少し違いました。 皆さんはどうでしょうか?    今日、使徒パウロはエペソ教会のために神様に祝福の祈りを捧げています。 そして、その内容には最も重要な福の核心だけが含まれています。 父なる神とその一人子イエス・キリストとその神様の聖霊。 三位一体神を知ることと、その愛の中に留まること。 それが福の源です。 それ以外のことは、折りにかなって助ける恵みによって与えられるだけのものです。    私たちが望んだ祝福が与えられなかった時、私たちは簡単に神様を恨んだりします。 今この時が苦難と忍耐の時だと思ってしまいます。 しかし、すでに最も重要な祝福は私たちに与えられています。 神様の福音が与えられている今の毎瞬間が祝福の時です。 https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=19_27bAZuubVWI0r

10월 에베소서 묵상 【축복의 때】 20231021 (토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

에베소서 3:14-21 3:14 이러므로 내가 하늘과 땅에 있는 각 족속에게 3:15 이름을 주신 아버지 앞에 무릎을 꿇고 비노니 3:16 그의 영광의 풍성함을 따라 그의 성령으로 말미암아 너희 속사람을 능력으로 강건하게 하시오며   3:17 믿음으로 말미암아 그리스도께서 너희 마음에 계시게 하시옵고 너희가 사랑 가운데서 뿌리가 박히고 터가 굳어져서 3:18 능히 모든 성도와 함께 지식에 넘치는 그리스도의 사랑을 알고 3:19 그 너비와 길이와 높이와…

10月エペソ人々への手紙黙想【閉じ込められたようでも】 20231020 (金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

エペソ人々への手紙 3:1-13 3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。 3:2 あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。 3:3 先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。 3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです。 3:5 この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。 3:6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。 3:7 私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。 3:8 すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、 3:9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。 3:10 これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、 3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。 3:12 私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。 3:13 ですから、私があなたがたのために苦難にあっていることで、落胆することのないようお願いします。私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。  イエス・キリストを信じてクリスチャンになるということは、世の中から見ると自分自身に制限をかけるような、自ら監獄に入って閉じ込められた者のようになるのかもしれません。 世の中の人々は自然にしていることを、クリスチャンたちは信仰によって我慢し、むしろ自分を制限することに力と心と時間を注いでるからです。  今日の本文のパウロがまさにそのような人です。 優れた学識を持ち、ローマ市民権者であり、サンヘドリン公会の会員であり、一生の豊かな暮らしが保障されていたパウロはイエス・キリストのために閉じ込められた者となりました。 パウロは自身の他の手紙で、世の中の背景をキリストのために損であり、ちりあくただと思っていると告白し、そのような彼の姿を見て人々は「博学があなたを狂わせている」と嘲りし、非難しました。 このようにすべてを捨ててイエス·キリストを得た彼は今、牢獄に閉じ込められています。 世の中の豊かさを享受しながら自由に生きることができたはずの彼は、イエス·キリストによって自由を失ったように見えます。 しかし、彼の手紙のどこにも牢獄に閉じ込められ、弱くなり、絶望している姿は現れていません。 むしろ誰よりも自由な人のように見えます。 今、牢獄に閉じ込められている者が日常を生きている人々を慰め、励ましています。 世の中の人々の目に映るクリスチャンとはこのような存在であるしょう。 享受できること、楽しめることを諦めて自分を制限する人、自ら牢獄に入ろうとしているような愚かな人生を生きる人。 こんな姿を見て誰かは残念に思うかもしれません。 嘲るかもしれません。 しかし、彼らの目には見えない、実はこの世の誰よりも自由な人であり、世の中の何とも換えられない貴重なものを得た人。 それがクリスチャンです。   https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=l3_bThCMHhmoNUXd