ローマ人への手紙 黙想【苦難から希望まで】20250912(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 5:1-11 5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。 5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。 5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。    使徒パウロは本日の箇所で、私たちに与えられた義と、その義をお与えくださったイエス・キリストによる神様との平和について語ることから始めています。そして、その後に続けて、イエス・キリストがなさったこと、その方を通して私たちに成し遂げられたことについて語られています。    私たちがよく知っているイエス・キリストの福音は、十字架での死と復活です。またその福音は、私たちに対する神様の愛の確証であり、私たちに救いをもたらす神様の力です。そのイエス・キリストの福音の中に、苦難、忍耐、練られた品性、そして希望という要素が含まれているのです。    良いお知らせである福音の中に、なぜ私たちが恐れ、苦手だと思うような苦難や、忍耐、練られるという厳しい過程が含まれなければならないのでしょうか。ただ単純に、私たちを救われたという喜ばしい知らせ、私たちの希望だけを福音として語られないのはなぜでしょうか。それはイエス様ご自身が私たちの模範となられ、神様の救いがどのように成就するのか、その過程を直接私たちに示してくださったからです。    救いについて語るとき、必ず登場する表現に「すでに、しかし、まだ」という言葉があります。すでに私たちは救いを受けており、私たちに実現しましたが、実際に現れているのは一部分にすぎないということです。だからこそ私たちは今、神様の救いを部分的に体験しながら、完全に現れる未来を希望しつつ生きているのです。    聖書は明確に、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちが世の中で苦難に遭うことを証言しています。実際、私たちはこの世を生きながら、その信仰のゆえに数え切れないほど多くのことを手放さなければならず、時には批判を受け入れなければならないこともあります。しかし、その地点であきらめずに忍耐するならば、その苦難と忍耐は私たちの信仰の成長の土台となります。そうして私たちは練られた品性へと形作られていくのです。    その練られた品性の果てに、私たちは完全な希望を見つめることになります。苦難と忍耐と練られる過程を経て、世のものに満足せず、部分的に現れている神様の救いを体験し、それが完全に成し遂げられるその日への希望を抱いて生きるようになるのです。    イエス様は十字架につけられるまで苦難を受けられました。しかし私たちの完全な救いを成し遂げるために、そのすべての過程を忍耐され、救いの練りを完成されました。ついに、復活によって、完成された救いの希望を私たちに与えてくださったのです。このことが、私たちが歩んでいくべき道であり、イエス・キリストが私たちに示された、苦難から希望まで至る道なのです。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=woYMMLLFSDEx-tHq

로마서 묵상【환난부터 소망까지】20250912(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서  5:1-11 5:1 그러므로 우리가 믿음으로 의롭다 하심을 받았으니 우리 주 예수 그리스도로 말미암아 하나님과 화평을 누리자 5:2 또한 그로 말미암아 우리가 믿음으로 서있는 이 은혜에 들어감을 얻었으며 하나님의 영광을 바라고 즐거워하느니라 5:3 다만 이뿐 아니라 우리가 환난 중에도 즐거워하나니 이는 환난은 인내를, 5:4 인내는 연단을, 연단은 소망을 이루는 줄 앎이로다 5:5 소망이 우리를 부끄럽게…

ローマ人への手紙 黙想 【アブラハムの信仰は、どのようにしてイエスを信じる信仰となるのか】 20250911 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:18~25 4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。 4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。 4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。 4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。 4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、 4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。 4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。   パウロはアブラハムについて、「望み得ない時に望みを抱いて信じた」と語ります。アブラハムは、自分の百歳という老いた身体と、サラの死んだ胎という不可能な現実の前にあっても、神の約束を信仰によって受け入れました。信仰とは、現実を無視したり、避けたりすることではありません。むしろ、現実を正面から見据えた上で、その向こう側で働かれる神の力を期待し、信頼することなのです。アブラハムが神の約束を疑わなかったと記されていますが、彼にも人間的な揺らぎが確かに存在しました。それは欠点なのでしょうか?信仰も人生も、揺らがずに自動的に立つことなどありません。大切なのは、揺れながらも、最終的に神をしっかりと掴み直すところへ戻っていくことです。帰るべき場所、心を預ける場所は、神以外にないのです。信仰とは、自信から出るものではなく、神を信頼するところから生まれる粘り強い希望です。 「『彼には義と認められた』と書いてあるのは、彼だけのためでなく、私たちのためでもあるのです」(ローマ4:23–24)。アブラハムの信仰について語るのは、ある一人の英雄的な人物の物語を語ろうとするのではなく、神が信仰を通して人を義とされる方法を明らかにするためなのです。すべてが変わっても、信仰の価値は変わりません。アブラハムの信仰は歴史の中で終わった出来事ではありません。それこそが信仰の原型であり、同じ本質の信仰を持つ者たちに、今も変わらず同じ祝福が与えられるのです。では、どのようにして「同じ本質」となるのでしょうか?「義と認められた」という表現は、法的でありながら存在論的な決定です。ルターは、「同時に義人であり、罪人である(simul justus et peccator)」と述べました。アブラハムに義が転嫁されたように、死者の中からイエスをよみがえらせた神を信じる者にも、義が転嫁されるのです。 アブラハムはモリヤの山で、息子を献げよという神の命令に従いました。それは決定的な出来事でした。アブラハムは、神が息子を再び生かすことがおできになると信じていました。モリヤ山では、イサクが死ぬ直前に止められましたが、イエス・キリストの苦しみと死は、残酷なまでに現実そのものでした。イエスは死に、そして復活されました。したがって、この物語はアブラハムの偉大さを称えるためにあるのではなく、キリストを証しするためにあるのです。大切なのはアブラハムではなく、その信仰を通して明らかにされる神の救いのご計画なのです。キリストこそ、アブラハムの従順を完全に成し遂げた方であり、十字架の死と復活は、アブラハムの信仰を究極的に完成させる出来事です。アブラハムの信仰はメシアに向けられた影であり、私たちの信仰はそのメシアを信じる具体的な告白なのです。 私たちは、アブラハムの信仰という過去の模範に届かないからといって、自分を責める必要はありません。むしろ、今日の私たちの人生の中で、信仰によって義とされるという、現実に与えられた祝福を味わうべきなのです。結局のところ重要なのは、人間アブラハムの信仰そのものではなく、そのような信仰を可能にした神の約束と誠実さなのです。ですから、イエスを信じる者は皆、アブラハムの子孫であり、その信仰の系譜の中にある者なのです。この信仰は人間の理解を超えています。望み得ない中で信じること、死者を生かす神を信頼すること、現実よりも神の約束に重きを置くこと。それがアブラハムの祝福であり、今日イエスを信じる私たちが受けている祝福なのです。

로마서 묵상 【아브라함의 믿음은 어떻게 예수님을 믿는 믿음이 되는가】 20250911(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:18~25 4:18 아브라함이 바랄 수 없는 중에 바라고 믿었으니 이는 네 후손이 이같으리라 하신 말씀대로 많은 민족의 조상이 되게 하려 하심을 인함이라 4:19 그가 백세나 되어 자기 몸의 죽은 것 같음과 사라의 태의 죽은 것 같음을 알고도 믿음이 약하여지지 아니하고 4:20 믿음이 없어 하나님의 약속을 의심치 않고 믿음에 견고하여져서 하나님께 영광을 돌리며 4:21 약속하신…

ローマ人への手紙 黙想 【それで聖くなれるのか】 20250910 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:9~17 4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、 4:10 どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。 4:11 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、 4:12 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。 4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。 4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。 4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。 4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。 4:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。   パウロは前日の本文で、すべての人が罪のもとにあり、律法や行いによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされると語った。だからこそ神がアブラハムの信仰を義と認められたことを思い起こさせたのである。続く今日の本文では、アブラハムが義とされたのは「割礼を受ける前」であったという事実を喚起している。アブラハムはまず信仰によって義とされ、その後に割礼を印として受けたのである。したがって割礼は救いの条件ではなく、すでに与えられた信仰の義を確認するしるしに過ぎない。イスラエルの歴史を見ても同じである。出エジプトは割礼を受けてから起こったのではなく、むしろ出エジプトという救いを先に経験し、荒野の旅を終えカナンに入ろうとしたときに割礼を受けた。律法もまた出エジプトの後に与えられた。割礼よりも、律法よりも、救いの恵みが常に先であった。 もし律法によって約束が成り立つのなら、信仰は無意味となり、約束は破棄されることになる。結局、律法は人間の罪を明らかにするだけであり、信仰による救いという福音の安全装置なしには誰も神の怒りを逃れることができない。律法が相続の条件であるならば、人間は相続の権利を得ることができず、ゆえにただ信仰によってのみ救いが可能だというのがパウロの力強い主張である。そして信仰でなければ、神の約束はすべての子孫に適用されることができない。信仰でなければ、私自身にも救いの機会が与えられない。これこそがイエスがトマスに「見ずに信じる者は幸いである」と言われた理由である。こうしてアブラハムは血統的イスラエルだけの祖先ではなく、信仰によって生きるすべての人の祖先となる。 しかしここで私たちは割礼そのものを問い直さざるを得ない。割礼はもともと神とアブラハムの間の契約を思い起こさせる信仰的なしるしであったが、時が経つにつれユダヤ人にとっては民族的誇りと境界線として機能するようになった。肉体に刻む単なるしるしに過ぎなかったのに、イスラエルはそれを救いの絶対条件のように執着したのである。律法にはそれなりの精神があるとしても、割礼そのものにこだわったことは一種の集団的催眠であった。本来の意味は失われ、外面的行為が本質であるかのように強調され、「我々は割礼を受けた民」という同一化が「我々は選ばれた民族だ」という優越感へと固定されてしまったのである。 パウロはまさにこの幻想を打ち砕いた。アブラハムが義とされたのは割礼以前であったことを証拠として提示し、救いの本質は集団的所属や外面的しるしではなく、心に刻まれる割礼、すなわち福音を受け入れることであると宣言したのだ。では、この時代の教会にとって割礼とは何であろうか。世と自分を区別する私たちだけのしるしとは何か。私たちは所属や権威に頼って福音の深みを見失ってはいないだろうか。制度や集団的同一化の中で「あなたたちの天国」を自画自賛しながら生きてはいないだろうか。教会の存在理由は集団的しるしや社会的影響力ではなく、他者に近づき、受け入れる共同体の実現である。パウロは帝国の心臓部、ローマ教会に向かってまさにこれを説いたのである。

로마서 묵상 【그것으로 거룩해질 수 있을까】 20250910(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:9~17 4:9 그런즉 이 행복이 할례자에게뇨 혹 무할례자에게도뇨 대저 우리가 말하기를 아브라함에게는 그 믿음을 의로 여기셨다 하노라 4:10 그런즉 이를 어떻게 여기셨느뇨 할례시냐 무할례시냐 할례시가 아니라 무할례시니라 4:11 저가 할례의 표를 받은 것은 무할례시에 믿음으로 된 의를 인친 것이니 이는 무할례자로서 믿는 모든 자의 조상이 되어 저희로 의로 여기심을 얻게 하려 하심이라 4:12 또한…

ローマ人への手紙 黙想 【行いより大きな信仰、信仰より大きな神】 20250909 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:1~8 4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 4:3 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 4:4 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 4:5 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 4:6 同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。 4:7 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。 4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」   ローマ人への手紙3章で、パウロはすべての人が罪のもとにあることを明らかにし、律法の行いによっては義と認められることができず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのだと語った。この宣言は当時のユダヤ人には耳慣れないものであり、パウロが律法を否定したり、新しい思想を唱えていると誤解される可能性もあった。そこでパウロは、ユダヤ人にとって最も信頼される象徴であるアブラハムを呼び出す。ユダヤ人が祖と仰ぎ誇りとしていたアブラハムさえも、実は行いではなく信仰によって義と認められたのだという事実を思い起こさせようとするのである。パウロは、いかなる場合においても、神の恵みとそれを信じる信仰に基づいた義認だけが神の方法であると語ろうとしているのである。だからこそパウロは、アブラハムとダビデを引き合いに出し、信仰によって得られる義と罪の赦しの幸い、すなわち神から始まった恵みについて語っているのである。 アブラハムがアブラハムとなり得たのは、能力や努力のおかげではなかった。いわゆる「信仰が強かった」からでもなかった。人々が「信仰深い」と言うときのその信仰ではなかった。アブラハムは最初から最後まで、神の召しに導かれて生きた。歯を食いしばって献身したのでもなく、信仰が強かったから従ったのでもなかった。ただ、それ以外は見えなかったからである。だからこそ、恵みなのだ。人々の目には難しく、立派に見えたかもしれないが、アブラハム自身にとっては苦しいことではなかっただろう。他のものは見えなかったからである。パウロは律法ではなく信仰だと言っているが、その信仰さえもアブラハムがひねり出したものではなかった。すべては、神がアブラハムを召し、支えられた恵みによって可能になったのである。 アブラハムの生涯は部分的な成就で終わった。空の星のような子孫の代わりにイサク一人を得ただけであり、カナンの地の嗣業の代わりに墓穴ひとつを所有したにすぎなかった。その未完成の中にあっても、アブラハムはなおその道を歩み続けた。疑わないことが信仰なのではなく、その道を最後まで歩むことこそが信仰である。自分の空間と時間を超えて、神が成し遂げられる約束に捕らえられて生きることである。アブラハムが恐れの中で揺れ動き、待つ中で過ちを犯したときでさえ、神は彼を見捨てられなかった。信仰とは、完全な人の力ではなく、弱き者を支えられる神の恵みの出来事である。 これを何と呼べばよいだろうか。アブラハムとダビデは誰よりも激しい信仰と従順の生涯を生きた人々であったが、それらすべてが神の恵みであったことを語らざるを得ない証言で終わる。逆に、自分は信仰が強いからその信仰によって何かができると思っている人は、アブラハムの人生も、ダビデの証言も、パウロの訴えも理解できないだろう。パウロは律法ではなく恵み、行いではなく信仰について語っているが、それはすなわち「私」ではなく「神」について語っているのである。歴史の中で問題を引き起こしてきたのは、信仰のない人々ではなく、自分は信仰が強いとうぬぼれる人々であった。肩や首に入った力を抜き、自分の位置と関係を告白しなければならない。神の召しと導きは、いつでも私の信仰と従順よりも大きいのである。

로마서 묵상 【행위보다 큰 믿음, 믿음보다 큰 하나님】 20250909(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:1~8 4:1 그런즉 육신으로 우리 조상된 아브라함이 무엇을 얻었다 하리요 4:2 만일 아브라함이 행위로써 의롭다 하심을 얻었으면 자랑할 것이 있으려니와 하나님 앞에서는 없느니라 4:3 성경이 무엇을 말하느뇨 아브라함이 하나님을 믿으매 이것이 저에게 의로 여기신바 되었느니라 4:4 일하는 자에게는 그 삯을 은혜로 여기지 아니하고 빚으로 여기거니와 4:5 일을 아니할지라도 경건치 아니한 자를 의롭다 하시는 이를…

ローマ人への手紙 黙想 【ローマ人への手紙が伝える福音の密度】 20250908 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 3:21~31 3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。 3:26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。 3:28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。 3:30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。 3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。   新約聖書における「律法」という言葉は、古代イスラエル社会を支えていた政治的・宗教的な規範だけを意味するのではない。それは、人間が自らの力で神の前に義とされようとして築き上げてきたあらゆる制度や規律、そして自分を守ろうとする意志をも包含するのである。その熱心さも純粋なものではなく、もともと成り立たないものであり、今なお不可能である。人間の本性は罪の状態から離れたことがなく、その内から義が生まれることはない。だから神はそれを要求されなかった。それは失望や放棄ではなく、人間存在の限界を明確に示される方法であった。人間は「他者より自分の方がましだ」という相対的な義を追い求めたが、神はその道を閉ざし、まったく別の道を開かれた。その道以外の道は、初めから存在しなかった。 その道とは、律法の外で起こり成就した神の義、すなわちイエス・キリストを通した救いであった。そしてそれは、人間の行いを排除しなければならないという前提を持っていた。だから救いの条件はただ信仰である。救いは信仰によってのみ与えられる。ゆえに信仰を定義しなければならない。信仰とは感情や非理性的な態度ではない。信仰は人間の省察と内面的な深みを通して開かれる最も高貴な能力である。しかしそれすらも自ら生み出すことはできない。信仰は神が恵みの通路として与えてくださるものである。すべての人が罪の下にあるゆえに、誰も神の栄光に到達できない。しかし城門の外のキリストの十字架において、神は義と愛を同時に示された。罪を裁きつつ罪人を義とされるという、矛盾のように見える出来事が十字架で完成したのである。この無理に見えながらも完全な法的解決の根拠は神の愛である。神はご自身で忍耐し、ご自身で苦しみを担い、ご自身で血を流すことによってこの業を成し遂げられた。 ゆえに人間には誇るべきものがない。いや、誇ることはできる。イエス・キリストを誇ることはできる。ただしそれを当然のように、堂々と誇ることはできない。誰かが身代わりに死んだことで生き残った人間が、どうして胸を張ることができるだろうか。この救いは悟った者から次の悟る者へと伝わり、さらに新しい救いを生み出していく。それが宣教であり、その間に働くものは常に信仰である。その信仰を恥じない人々によって伝えられていくのである。こうして伝えられた信仰を通して、神はユダヤ人の神であるだけでなく、異邦人の神としても現れる。信仰は律法を廃するのではなく、完成させる。人間が誤っただけで、律法そのものが誤ったことは一度もないからである。律法の究極の目的は、人間を超越する何かではなく、最も人間らしい生き方であった。福音の中に生きることが救われた生であり、それこそが最も人間らしい生き方なのである。

로마서 묵상 【로마서가 전하는 복음의 밀도】 20250908(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 3:21~31 3:21 이제는 율법 외에 하나님의 한 의가 나타났으니 율법과 선지자들에게 증거를 받은 것이라 3:22 곧 예수 그리스도를 믿음으로 말미암아 모든 믿는 자에게 미치는 하나님의 의니 차별이 없느니라 3:23 모든 사람이 죄를 범하였으매 하나님의 영광에 이르지 못하더니 3:24 그리스도 예수 안에 있는 구속으로 말미암아 하나님의 은혜로 값 없이 의롭다 하심을 얻은 자 되었느니라 3:25…