ローマ人への手紙 黙想 【福音の祭司の務め】 20251009 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 15:14~21 15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。 15:15 ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、 15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。 15:17 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。 15:18 私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、 15:19 また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。 15:20 このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。 15:21 こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」     パウロは自分を「異邦人をささげ物としてささげる福音の祭司の務めを任された者」と語っている。自分を福音を伝える伝道者ではなく、異邦人のために礼拝をささげる祭司と表現したのは、自分が伝道し、教えた異邦人が福音によって変えられ、ローマ書12章に語られるように「生きた供え物」として神にささげられることを意味しているのだろう。ユダヤ的世界観を持たない異邦人を導き、彼らを生きた供え物として神にささげるまでにするには、どれほどの労苦が必要だったことだろう。 私は韓国CCCの金俊坤(キム・ジュンゴン)牧師が、民族福音化のスローガンのもとに雲のように集まった当時の青年たちに向かって、「私はあなたがた全員を神に生きた供え物としてささげたい」と語った説教を印象深く覚えている。その言葉はローマ書12章1節の引用であり、パウロの訴えを再び力強く語ったものでもあった。パウロが異邦人を福音のささげ物として神にささげる祭司として自分を理解したように、金俊坤牧師もまた、時代の青年たちを神にささげる生きた供え物としようとしたのだろう。 私は金俊坤牧師が自分の働きや教会の成功のために人を手段として扱った方ではなかったと信じている。だからこそ、純粋に神のために、多くの若者に従順と献身を求めることができたのだと思う。そうでなければ、青年たちが「生きた供え物」として神の前に立つことはできなかっただろう。献身の背中を見ずに献身することはできない。献身者から献身者が生まれるのは鉄則である。パウロからも、金俊坤牧師からも、福音のために献身する人々が絶えず生まれ続けた。 祭司が供え物を惜しんでささげないなら、それは善い祭司ではなく、悪い祭司である。神の栄光よりも人間の事情を優先し、犠牲や献身の挑戦を語らず、「生きた供え物」としての聖なる重みを示すこともできない私のような牧師は、パウロの雄弁をまねることも、ローマ人への手紙を最後まで読み通すことも難しい。信徒が「生きた供え物」として生きないのは、献身という言葉を耳で聞いただけで、実際に「生きた供え物」として生きる姿を見たことがないからなのだろう。

로마서 묵상 【복음의 제사장 직무】 20251009(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 15:14~21 15:15 그러나 내가 너희로 다시 생각나게 하려고 하나님께서 내게 주신 은혜를 인하여 더욱 담대히 대강 너희에게 썼노니 15:16 이 은혜는 곧 나로 이방인을 위하여 그리스도 예수의 일군이 되어 하나님의 복음의 제사장 직무를 하게 하사 이방인을 제물로 드리는 그것이 성령 안에서 거룩하게 되어 받으심직하게 하려 하심이라 15:17 그러므로 내가 그리스도 예수 안에서 하나님의 일에…

ローマ人への手紙 黙想 【ローマ人への手紙は「手紙」です】 20251008 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 15:1~13 15:1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。 15:2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。 15:3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。 15:4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。 15:5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。 15:6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。 15:7 ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。 15:8 私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、 15:9 また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。 15:10 また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」 15:11 さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」 15:12 さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。 15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。     ローマ人への手紙はしばしば「福音の精髄」と呼ばれ、キリスト教神学の完成された神学論文であると言われる。福音理解のための論理が卓越しているという意味であろう。しかし、現代の学問体系において論文とは、事実や解釈を体系的かつ客観的に提示し、検証可能な根拠によって正当化する文章形式である。したがって、このジャンルの本質は客観的叙述であり、必然的に著者の感情や直観は排除されなければならない。 ローマ人への手紙が福音を証しする過程で論理性を持つことは確かである。しかし、それは科学的な論証ではなく、パウロの感情的な訴えを含んでいる。また、それは学問的・言語的体系ではなく、キリスト者の生き方について語っているという点を見落としてはならない。ローマ人への手紙は「手紙」である。パウロは論文を書いたのではなく、ただ手紙を送ったにすぎない。福音を体系化しようとしたのではなく、福音に捕らえられ、その力に導かれてローマ教会に伝えようとしただけである。 ローマ人への手紙は、第1章から第11章までで福音を定義し、第12章から最後までで福音を生きることについて語っている。前半の論理的な雰囲気のために、ローマ人への手紙を神学的論文と呼ぶ人もいるが、実際には後半のほうが重要である。手紙という物語の中で定義されたこと、教理としてまとめられたことは、必ず生活の物語として解きほぐされなければならない。ローマ人への手紙の後半において、福音は学問的命題ではなく、人と人とを和解させる物語であった。論文には、そのようなことは書かれない。 パウロは論理的に理解させようとしたのではなく、その真理に従うように招いた。福音は頭で整理される概念ではなく、人生の中で悟り、応答する力である。自分の福音がどのようなものか言葉で整理できないなら、誰かに伝えてみればわかる。自分の福音が何であるかを確かめたいなら、共同体の中で人々と関わりながら生きてみればよい。ローマ人への手紙を読む正しい姿勢は、理解ではなく従順である。

로마서 묵상 【로마서는 편지입니다】 20251008(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 15:1~13 15:1 우리 강한 자가 마땅히 연약한 자의 약점을 담당하고 자기를 기쁘게 하지 아니할 것이라 15:2 우리 각 사람이 이웃을 기쁘게 하되 선을 이루고 덕을 세우도록 할찌니라 15:3 그리스도께서 자기를 기쁘게 하지 아니하셨나니 기록된바 주를 비방하는 자들의 비방이 내게 미쳤나이다 함과 같으니라 15:4 무엇이든지 전에 기록한 바는 우리의 교훈을 위하여 기록된 것이니 우리로 하여금…

ローマ人への手紙 黙想 【福音とは、ともに生きること】 20251007 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 14:13–23 14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。 14:14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。 14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。 14:16 ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。 14:17 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。 14:19 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。 14:20 食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。 14:21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。 14:22 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。 14:23 しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。     福音は個人的なものから始まるが、決して個人の内面にとどまる私的な信念ではない。神と和解した人間が、再び他者と和解しながら生きる――それが福音という共同体的な出来事である。ローマ書の冒頭は罪と義、律法と恵みを論じているが、その結論は「ともに生きる生活」へと帰着する。他のすべての書簡もまた、同じ方向へと導かれている。 ローマ書14章はその頂点である。信仰の強い者と弱い者の葛藤、信仰の自由と良心の問題は、最終的に共同体という基準の中で再編される。福音は、正しいか誤っているかを切り分ける剣ではなく、愛の中で共に生きる器である。自由とは自らの義を主張する権利ではなく、隣人を立てるために自分を節制できる勇気のことである。 したがって、福音を持つ信仰は、共にぶつかり合いながら生きる過程の中でこそ明らかになる。信仰は自己確信の完全さよりも、他者を尊重する姿勢の中に現れる。ボンヘッファーはこう語った。「キリスト者は孤立して存在することはできない。孤立している者は、キリスト者ではあり得ない。」共同体なしに、福音を証しする生き方をすることはできないということだ。個の世界へと閉じこもる時代ではあるが、福音が持つ共同体性までを相対化してはならない。 信仰は個人の逃避にとどまらず、他者の痛みを共に担う責任的な実存として生きる。福音は「私の信仰」から始まるが、「私たちの愛」によって明らかにされる。ハンス・キュンクは次のように定義している。「教会とは、福音を入れておく壺ではなく、福音そのものが自ら湧き出す泉である。」教会は福音をただ伝えるために存在するのではなく、福音が現実として生きている空間として存在しなければならない。共に生きること――それこそがローマ書の結論であり、教会の存在理由であり、私たちが追い求めるべき価値なのである。

로마서 묵상 【함께 살아내는 일】 20251007(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 14:13–23 14:13 그런즉 우리가 다시는 서로 판단하지 말고 도리어 부딪힐 것이나 거칠 것으로 형제 앞에 두지 아니할 것을 주의하라 14:14 내가 주 예수 안에서 알고 확신하는 것은 무엇이든지 스스로 속된 것이 없으되 다만 속되게 여기는 그 사람에게는 속되니라 14:15 만일 식물을 인하여 네 형제가 근심하게 되면 이는 네가 사랑으로 행치 아니함이라 그리스도께서 대신하여 죽으신…

ローマ人への手紙 黙想 【ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです】 20251006 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 14:1–12 14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。 14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。 14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。 14:4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。 14:5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。 14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。 14:7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。 14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 14:9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。 14:10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。 14:11 次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」 14:12 ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。   パウロはローマ教会の中の対立について語っている。ある人は肉を食べ、ある人は野菜だけを食べていた。宗教的な理由である。ある人は特別な日を区別し、ある人はそれに縛られなかった。パウロはこう言って、この論争を貫く。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはいけません。」そのようなことは、本当に大切なことではない。 パウロが言う「信仰の強い人」とは、福音の中で自由を生きる人である。規則や形式を無視するのではない。彼らにはそれよりも大きな基準、すなわち生き方の方向があるからだ。「私たちの中で、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7-8)この言葉は、命と死の境を越えて、存在そのものが主に属しているという告白である。それが「強い信仰」である。生きることも死ぬことも主の御手の中にあるのに、食べる物のことで争うのは、福音の中心から離れているということだ。 信仰の弱い人は、本質に届かず、宗教的な慣習と伝統の枠の中で信仰を守ろうとする。その枠を越えることを恐れている。しかしパウロは、彼らの動機が不純だとは言わない。その慎みの中にも、神への愛と真心があるからだ。ただ、まだ福音の完全な自由を経験していないだけである。神はその心も尊く受け取られる。 「誰が正しいか」ではなく、「誰が主のものか」である。互いに自分の正しさを主張して争っているところに、主に属する人はいない。互いを尊重することは、礼儀の問題ではない。それは神の主権に従うことだからだ。神が受け入れた人を、なぜあなたが裁くのか。対立というものは、本来、正しさを見えなくしてしまう。教会とは、他の人を受け入れる空間の中で建てられる。 今朝、カン・デギョン伝道師の告別式がある。召された日、主はこう言われた。「あなたがたの体を、神に喜ばれる聖なる生きたささげ物としてささげなさい。」そして、送り出すこの日、再びこう語られる。「それゆえ、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものだ。」主にある信仰とは、命と死の間に線を引かないことだ。

로마서 묵상 【그러므로 사나 죽으나 우리가 주의 것이로라】 20251006(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 14:1–12 14:1 믿음이 연약한 자를 너희가 받되 그의 의심하는 바를 비판하지 말라 14:2 어떤 사람은 모든 것을 먹을만한 믿음이 있고 연약한 자는 채소를 먹느니라 14:3 먹는 자는 먹지 않는 자를 업신여기지 말고 먹지 못하는 자는 먹는 자를 판단하지 말라 이는 하나님이 저를 받으셨음이니라 14:4 남의 하인을 판단하는 너는 누구뇨 그 섰는 것이나 넘어지는 것이…

ローマ人への手紙 黙想【権威に対する姿勢】20251004(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 13:1-7 13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。 13:4 彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。 13:5 ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです。 13:6 同じ理由で、あなたがたは税金も納めるのです。彼らは神の公僕であり、その務めに専念しているのです。 13:7 すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。    聖書の御言葉は、私たちに平安を与えることもあれば、時には私たちを混乱させることもあります。    それは聖書が私たちを混乱させるために書かれたからではありません。聖書の御言葉と現実との間にある隔たり、その隔たりを生み出した原因である人間の罪が、完全なる真理である神様の御言葉をそのまま受け入れられず、むしろ混乱をもたらす言葉として受け取ってしまうからです。      社会の中でタブーとされる多くの会話の主題がありますが、その中でも特に政治は敏感な問題の一つです。人それぞれ政治的立場が異なり、その立場はその人の思想や利益と深く結びついているからです。したがって、すべての人を満足させ、納得させる政治を行える人物は誰一人として存在しません。      そのような指導者、権威について、今日の御言葉は「従うべき」と語っています。非常に重い言葉です。さらに彼らに逆らうことは神に逆らうことと同じであるとまで語られています。自分に不利益となる政策を行う政治家、品性が疑われるあの政治家にさえ、従わなければならないように聞こえ、不快にまで感じるかもしれません。      では、なぜ聖書は彼らに従うべきと語るのでしょうか。特に、この本文が書かれた背景を考えるなら、自分たちを迫害する者にまで従うべきだと命じているのでしょうか。それは、その権威が神様から来ているからです。つまり、私たちが従うべき対象は、その人の権威ではなく、その人に権威を与えられた神様なのです。      権威に従うということは、その者のそばに仕える奸となるということではありません。むしろ、忠実な、何より神様の忠実なしもべとして、彼らを立てられた神様の御言葉から逸れないように守り、神様の御業を行うにあたって妨げがないように助けることです。そして、それこそが臣下である者たちが果たすべき神様の御業なのです。      したがって、私たちが考える「権威に従うべき」という意味も、少しは変わる必要があるでしょう。あくまでも私たちが従うべき対象は神様です。そのしるしとして、神様が権威を与えられた者たちに従うことが、神様の御言葉を守り行うこととなるのです。ゆえに、あくまでも私たちの優先順位はこの地の権威ではなく、神様にあります。神様の御言葉をないがしろにしてまで権威に従うことは、決して正しいことではありません。      そのようにして始まった代表的な出来事が宗教改革です。実際、ルターはカトリック教会を憎んでいた人ではなく、誰よりも愛していた人でした。だからこそ、教皇とその教会という当時最高の権威、神様が立てられたと考えられていた人とその教会が御言葉から逸れ、御言葉の上に立とうとする姿を見て、ルターは迷い出ていた教皇と教会を正し、神様の御言葉の権威を取り戻そうとしたのです。      これは単に政治の問題だけではありません。私たちの生活の場である家庭、職場、学校の座に立てられた権威、そして教会に至るまで、すべての権威が神様から与えられていることを覚え、彼らが神様の御言葉から逸れないように誠実を尽くすこと――それこそが神様の権威、神様の命に誠実を尽くす道なのです。 https://youtu.be/XjpwgnFKIL4?si=vAV9k6yqm7uqTLpz

로마서 묵상【권세를 대하는 자세】20251004(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 13:1-7 13:1 각 사람은 위에 있는 권세들에게 복종하라 권세는 하나님으로부터 나지 않음이 없나니 모든 권세는 다 하나님께서 정하신 바라 13:2 그러므로 권세를 거스르는 자는 하나님의 명을 거스름이니 거스르는 자들은 심판을 자취하리라 13:3 다스리는 자들은 선한 일에 대하여 두려움이 되지 않고 악한 일에 대하여 되나니 네가 권세를 두려워하지 아니하려느냐 선을 행하라 그리하면 그에게 칭찬을 받으리라…