열왕기하 묵상 【파괴하는 결혼】 20240708(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 8:16~298:16 이스라엘 왕 아합의 아들 요람 제 오년에 유다 왕 여호사밧이 오히려 위에 있을 때에 그 아들 여호람이 왕이 되니라8:17 여호람이 위에 나아갈 때에 나이 삼십 이세라 예루살렘에서 팔년을 치리하니라8:18 저가 이스라엘 왕들의 길로 행하여 아합의 집과 같이 하였으니 이는 아합의 딸이 그 아내가 되었음이라 저가 여호와 보시기에 악을 행하였으나8:19 여호와께서 그 종 다윗을…

列王記第二 黙想 【神様のアフターケア】 20240706(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 8:1-6 8:1 エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」 8:2 この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。 8:3 七年たった後、彼女はペリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。 8:4 そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。 8:5 彼が王に、死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」 8:6 王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。すると王は彼女のために、一人の宦官に「彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりなさい」と命じたのであった。    私たちは神様から恵みを受けたものでありますが、その恵みを簡単に、そしてすぐに忘れてしまう存在でもあります。そして、この事実について私たち自身よりも、神様の方がよくご存じでしょう。  人間に向けた神の救いは取り消されることがあるか、そうでないかの神学的論争は数百年にわたって今も続いています。どちらかが正しくて、片方が間違っていると定義できないのは、どちらも聖書的、神学的根拠を持っているからです。  人間の視点から見ると、救いは十分に取り消される可能性があるものです。それは、先ほどお話ししたように、人間は神の恵みを忘れてしまう存在であるからです。しかし、神様の視点から見れば、神様が救おうと決めた人の救い決して取り消されないでしょう。人間がその恵みを忘れるとしても、神様がその人を忘れず、最後まで彼らにアフターケアを行ってくださるためです。  神様がエリシャを通して息子を生き返らせてくださった今日の箇所の女は、この神様のアフターケアの姿をよく見せてくれる証人であるでしょう。恐ろしい飢饉の中で生き返れたその家族に、再び飢饉が襲ってきます。このままでは、彼らは再び死を迎えるしかないでしょう。その飢饉で生き返ることができたのは、彼らの力ではなく、ただ神様の力であったからです。  しかし、今日、神様はエリシャを通して再び彼らを命に導いてくださいます。改めて神様の力で彼らを飢饉から、迫り来る死から救い出してくださったのです。  今日の私たちも同じく、神様の御言葉を通して死から命に移された者たちです。しかし、それにもかかわらず、自ら再び死に向かって進む者たちでもあります。しかし、神様はそのような私たちを手放さず、私たちを命の道に続いて導いてくれます。  救いが私たちの力で獲得しなければならないことであれば、私たちの救いは明らかに取り消される可能性があります。おそらく、誰も救いに至ることはできないでしょう。しかし、救いが完全に神様の恵みで行われるものであるということは、私たちにとって大きな恵みです。私たちの力ではなく神様の力であれば、それが取り消されることも、忘れられることもなく、一度救おうと決めた者たちに絶えず与えられる神様のアフターケアによって、必ず救いに至ることになるからです。https://youtu.be/I6jiDZcdJ7g?si=gqJLC947utD3Zmim

열왕기하 묵상 【하나님의 애프터 케어】 20240706(토) 최종석 전도사

열왕기하 8:1-6 8:1 엘리사가 이전에 아들을 다시 살려 준 여인에게 이르되 너는 일어나서 네 가족과 함께 거주할 만한 곳으로 가서 거주하라 여호와께서 기근을 부르셨으니 그대로 이 땅에 칠 년 동안 임하리라 하니  8:2 여인이 일어나서 하나님의 사람의 말대로 행하여 그의 가족과 함께 가서 블레셋 사람들의 땅에 칠 년을 우거하다가 8:3 칠 년이 다하매 여인이 블레셋…

列王記第二 黙想 【裁きからの救い】 20240705(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 7:11-20 7:11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。 7:12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」 7:13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」 7:14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。 7:15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。 7:16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。 7:17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。 7:18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、 7:19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。 7:20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。   神様の御言葉はどれ一つ地に落ちることなく、そのまま成し遂げられるということを私たちは頭では知っていても、本当にその事を信じることは思ったより簡単にはできません。  今日の箇所で引き続き強調されていることは、神の人が告げたことばのとおり、つまり神様の御言葉のとおりに成し遂げられたということです。  その御言葉を通して誰かは困難から立ち上がられ、誰かは悲惨な終わりを迎えました。しかし、それらのどれも、同じく神様の御言葉です。  私たちは裁きの神様について考えることに恐れを覚えるしかない存在でしょう。しかし、私たちが裁き受けなければならない存在であるということを認めたくなくて、または私たちが信じる良いお方である神様が、そのような恐ろしい方であるということを認めたくなくて、私たちの色々な考えで神様のことをかってに解釈してしまうのです。  しかし、私たちは神様が罪に対して裁かなければならない方であるという事実、罪に対する代価としては容赦なく裁く神様であるということを忘れてはいけません。その事実があるからこそ、私たちに与えられている恵みがどれほど大きなものかを知ることができるためです。  確かに今日の御言葉は、神様の御言葉とおりに裁きがあると、私たちに語っています。しかし、聖書はその裁きから救われる方法も共に私たちに語っています。私たちがよく知っているように、イエス·キリストの福音を信じることです。  私たちに伝えられた神様の御言葉はどれ一つ地に落ちることない。そしてその中には確かに裁きに対する御言葉も含まれています。しかし、そのすべての内容は裁きと救いという別のメッセージではなく、裁きからの救いという一つの御言葉なのです。  裁きに対する御言葉は間違いなく私たちが恐れるべき御言葉であり、その神様を恐れなければなりません。しかし、その裁きから救い出すために、今日も私たちの日常の中で働いておられる方が神様です。そのため、私たちは恐れを通して、より大きな恵みを知ることになるでしょう。  裁きとそれに対する恐れは、誰かにとっては聞きたくもないお知らせであるかもしれません。しかし、救われる者たちにとっては、裁きとそれに対する恐れは、救いへの感謝と喜びをさらに大きくしてくれる美しいお知らせの一部であるでしょう。https://youtu.be/ZWktcXSPVCY?si=x1YwjUlPIrA0lMjb

열왕기하 묵상 【심판으로부터의 구원】 20240705(금) 최종석 전도사

열왕기하 7:11-20 7:11 그가 문지기들을 부르매 그들이 왕궁에 있는 자에게 말하니  7:12 왕이 밤에 일어나 그의 신복들에게 이르되 아람 사람이 우리에게 행한 것을 내가 너희에게 알게 하노니 그들이 우리가 주린 것을 알고 있으므로 그 진영을 떠나서 들에 매복하고 스스로 이르기를 그들이 성읍에서 나오거든 우리가 사로잡고 성읍에 들어가겠다 한 것이니라 하니 7:13 그의 신하 중 한…

Ⅱ列王記 黙想 【良い知らせを伝える人】 20240704(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 7:3~107:3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。7:4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」7:5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。7:6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7:7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。7:8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。7:9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」7:10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」   サマリア城がアラム軍に包囲され、壊滅的な飢饉に苦しんでいるとき、城門の入口には四人のらい病患者がいました。彼らはイスラエル社会から排除され、隔離された人々です。彼らもイスラエル人なので、イスラエルの中に留まれば飢饉で死んでしまいますし、城の外に出ればアラムに殺されます。それで彼らはアラムに降伏して生き残ることを決心しました。アラムが彼らを殺せばそれまでですが、降伏したので生き延びるかもしれません。彼らには生き残るための他の選択肢はありませんでした。しかし、らい病患者たちが敵陣に入ってみると、誰もいませんでした。アラム軍は、ヘテ人とエジプトの大軍が自分たちを攻撃しに来るという幻聴を聞いて、夜中に逃げ出したのです。つまり、実際にはイスラエルは包囲されていなかったのに、その中で飢え死にしそうになっていたのです。人を食べる勇気でアラムと戦えば勝てたのです。人間の生き様はこのようなものです。イスラエルは包囲されていないのに、食べ物を求めて人肉を食べ、アラムは追ってくる敵がいないのに慌てて逃げだします。イスラエルもアラムも存在しない仮想の敵を怖がって隠れたり逃げ回ったりしています。   「悪しき者は、追う者もいないのに逃げるが、正しい人は若獅子のように頼もしい。箴言28:1」存在しない敵のゆえに隠れたり、逃げ回ったりしていないか振り返るべきです。力がなくても、実力がなくても隠れたり逃げたりしなのは、状況や条件を神様が作られるからです。神様の用いられる手段はさまざまです。相手の目を覆い、相手の耳に幻聴を聞かせれば、勝つことができます。自分はみじめで実力のないものですが、神様は世界のすべての状況と条件を主観される方ですから、実力のない者が勝つこともあり、神様の中ではそれは奇跡ではありません。力があるからといって高慢になることと、力がないからといって落ち込むことだけが信仰の敵です。本文には信仰というのは誰にも見当たりませんが、わずかに残った人間性が信仰の代わりを果たしています。四人のらい病患者はアラム軍の戦利品を取って隠していましたが、すぐに良心の呵責を感じました。まだサマリアの城内は阿鼻叫喚の状態だったからです。その知らせをサマリアの全ての人々に知らせなければなりませんでした。らい病患者たちは、彼らの表現で「良い知らせ」、神様の救いの知らせをイスラエルに伝えました。愚かな話の中で唯一美しいのは、らい病患者たちが伝えた神様の救いの知らせです。  

열왕기하 묵상 【아름다운 소식을 전하는 사람】 20240704(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 7:3~107:3 성문 어귀에 문둥이 네 사람이 있더니 서로 말하되 우리가 어찌하여 여기 앉아서 죽기를 기다리랴7:4 우리가 성에 들어가자고 할지라도 성중은 주리니 우리가 거기서 죽을 것이요 여기 앉아 있어도 죽을지라 그런즉 우리가 가서 아람 군대에게 항복하자 저희가 우리를 살려 두면 살려니와 우리를 죽이면 죽을 따름이라 하고7:5 아람 진으로 가려하여 황혼에 일어나서 아람 진 가에 이르러…

Ⅱ列王記 黙想 【責任を追わない人々】 20240703(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 6:24~7:26:24 この後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲した。6:25 サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。6:26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んだ。「わが主、王よ。お救いください。」6:27 王は言った。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」6:28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちは今日、それを食べて、明日は私の子どもを食べましょう』と言ったのです。6:29 それで私たちは、私の子どもを煮て食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」6:30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の衣を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は衣の下に粗布を着ていた。6:31 彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」6:32 エリシャは自分の家に座っていて、長老たちも彼と一緒に座っていた。王は一人の者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのを知っていますか。気をつけなさい。使者が来たら戸を閉め、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」6:33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」7:1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」7:2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」   エリシャがアラム軍に食べさせて送り返した後、アラムがイスラエルを侵略しなかったとされていましたが、アラムが再びイスラエルを侵攻する内容が出てくることから、これは時間が経過した後のことだとわかります。アラムがイスラエルの首都サマリアを包囲して孤立させると、城内の物価が急騰し、飢餓のために子どもの人肉を食べることまで起こります。食べて生きる平和が破られると、人間は尊厳を守ることができません。めしは恐ろしいものです。国家や社会でその責任と権限を委任された者は、命をかけて人々が平和に食べて生きられるように働かなければなりません。   しかし、イスラエルの王は民生の苦痛を訴える民に対して、これは神のなさることだと言います。そしてエリシャを殺そうとします。エリシャを殺そうとするのは、当時アラム軍を全滅させずに生かして返したことの責任を問うためです。考え方が一貫して責任転嫁です。国家が軍事的危機に直面することと経済的苦痛に直面すること、政策と決定の失敗の責任は王にあります。アラム軍を生かして返したのはエリシャの提案ですが、決定権者は王です。彼はアラム軍が来たことをエリシャに責任を押し付け、城内が地獄に変わっていくことを神様に責任を押し付けます。自分が決定したにみかかわらずエリシャに全責任を負わせようとするのです。責任を取らずに責任転嫁をするリーダーは委任される資格がありません。安全と平和のために責任を負う人は、危機が来ないように責任を果たすべきであり、万一危機や失敗が来たときはその責任を負うべきです。   政治においても軍事においても宗教においても、責任を取ろうとしない社会の人々は大変です。エリシャは責任を取る人です。自分を殺しに来た王の軍隊に明日の今頃には城内の物価が平常に戻るだろうと預言します。これを聞いた王の将軍は、それは神でもできないことだと嘲笑します。するとエリシャは、その将軍は神様がなさることを見ることはできるが、それを経験することはできないと再び預言します。その将軍は不信仰と卑怯と腐敗した権力に責任を負うことになるでしょう。人間の不従順と罪悪の中でも神様の御業は川のように流れていきますが、反逆する人間は川を見ずに、川に流されて消えていくでしょう。  

열왕기하 묵상 【책임지지 않는 사람들】 20240703(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 6:24~7:26:24 이후에 아람 왕 벤하닷이 그 온 군대를 모아 올라와서 사마리아를 에워싸니6:25 아람 사람이 사마리아를 에워싸므로 성중이 크게 주려서 나귀 머리 하나에 은 팔십 세겔이요 합분태 사분 일 갑에 은 다섯 세겔 이라6:26 이스라엘 왕이 성 위로 통과할 때에 한 여인이 외쳐 가로되 나의 주 왕이여 도우소서6:27 왕이 가로되 여호와께서 너를 돕지 아니하시면 내가…

Ⅱ列王記 黙想 【何が見えますか】 20240702(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 6:15~236:15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。6:16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。6:17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。6:18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。6:19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。6:20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」6:22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」6:23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。   エリシャのしもべが朝起きると武装したアラムの軍隊が町を包囲しているのを見ました。エリシャはしもべを安心させ、敵の軍勢よりも味方が多いと言いますが、従者の目には味方が見えません。エリシャの目にだけ何かが見えているようです。エリシャが祈り、しもべの霊の目が開かれると、しもべの目には火の馬と戦車がエリシャを取り囲んでいるのが見えました。アラム軍に集中していると神様の軍勢は見えません。恐怖に焦点を当てていると神様は見えません。ムンクの描いた「叫び」の青ざめた顔を思い出します。しかし、絵の中の主人公が何を見ているかは分かりません。彼の後頭部を想像してみてください。そのためには彼が何を見ているかを想像する必要があります。見る視線を1度ずつ移動させるだけで視点は360個になります。目をどのように開くか、どの視点で見るかによって、あるものが見えないこともあれば、見えなかったものが見えることもあるでしょう。   再びエリシャが祈ると、今度はアラム軍が盲目になります。目があっても見ることができない状態になります。前が見えないので武器は無用の長物で、大軍の戦闘力もゼロです。エリシャは盲目のアラム軍をイスラエルの首都サマリアに連れて行きます。目があっても見えないので、敵陣の中心に歩いて入ります。盲目の人々がすることはそういうことです。サラマーゴの小説『白の闇』では、伝染病で盲目になった人々が作る暴力的な社会で盗み、姦淫を描かれています。見えないから人間性が崩れます。神様が見えなければ人間らしく生きることはできません。サマリアに到着すると、エリシャは再び祈り、アラム軍の目を開けます。アラム軍はムンクの「叫び」よりも激しく叫んだでしょう。しかし、エリシャは彼らを殺さず、むしろ美味しいものを食べさせて送り返します。全滅させるよりも痛快な勝利です。その後、アラムはイスラエルを侵略することはありませんでした。目があるからといってすべてを見ているわけではなく、力があるからといってすべてを勝ち取るわけではありません。信仰の目をしっかり開いて歩みたいと思います。