マタイによる福音書 黙想 【イエス様の共感】 20260202(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 9:14~26 9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。 9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。 9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」 9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。 9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。 9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。 9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。 9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。 9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。 9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26 この話はその地方全体に広まった。 生布の切れを古い衣に継ぎ当てしてはならないという言葉は、古いものを捨てよという意味ではない。長い時間を生きてきたものを顧みることなく、新しいものを押しつければ、新しいものも傷み、古いものも壊れてしまう、ということである。共に生きるためには、対象への尊重、他者の状態を読み取る感受性が必要なのだ。 新しいぶどう酒と古い皮袋も同じである。新しいぶどう酒は生きていて、内側から膨張する。古い皮袋は、残念ながら、もはやその膨らみに耐えることができない。問題は古さそのものではなく、その古さを無視する無礼さと無知であろう。新しいぶどう酒は大切だが、皮袋を理解しなければ、結局ぶどう酒さえ失ってしまう。 生布の切れも大切であり、古い衣も大切である。新しいぶどう酒も大切であり、古い皮袋もまた大切である。イエスの関心は、どちらが優れているかではなく、どうすれば共に生きられるか、という点にある。どれほど良いものであっても、相手の条件や状態を無視して押し通せば、それは破壊になりうるからである。 イエスが血の止まらない女を癒やされる物語は、会堂長ヤイロの娘を癒やされる物語のただ中に挟み込まれている。この二つの出来事は、それぞれ別々の話ではなく、一つのセットとして語られている。十二年もの間、血の病に苦しんできた女と、十二歳の会堂長ヤイロの娘がいる。一人は社会から排除された存在であり、もう一人は会堂長の娘である。 一人は名前すら知られず、もう一人は少なくとも「ヤイロの娘」という立場をもって登場する。しかし、イエスの前では、この二人は同じ重さで置かれている。娘を生かしてほしいと足早にイエスを導いていたヤイロ。しかしイエスは、心が急いている彼を道の途中に立ち止まらせる。そして群衆の中に身を潜めていた血の病の女と向き合い、語り合われる。 一刻を争うヤイロは、焦りでいっぱいだっただろう。ヤイロは自分の娘のために、イエスさえ憎く、血の病の女さえ憎く思えたに違いない。娘を愛するヤイロの前に立たされた血の病の女は、身の置きどころがなかっただろう。彼女もまた、誰かの娘であったことは間違いない。血の病の女は父親のことを思ったかもしれない。もし物語に登場しないその父親が、その場面を目にしていたなら、どれほど胸が痛んだことだろう。 だからこそ、イエスの共感が最も深く現れる呼びかけは「娘よ」である。「娘よ」という言葉は、本来ヤイロの娘に向けられてもおかしくない呼び名である。しかし孤独と喪失と苦しみを深く受け止められたイエスは、ご自身より年上であったであろう血の病の女を、「娘よ」と呼ばれる。イエスは実に繊細である。結局、イエスは生布の切れと新しいぶどう酒を生かし、ヤイロの娘も生かされる。そして古い衣と古い皮袋を生かすように、血の病の女も生かされる。「娘よ」と呼ばれたイエスの声帯の響きが、今も聞こえてくるようである。

마태복음 묵상 【예수님의 공감】 20260202(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 9:14~26 9:14 그 때에 요한의 제자들이 예수께 나아와 가로되 우리와 바리새인들은 금식하는데 어찌하여 당신의 제자들은 금식하지 아니하나이까 9:15 예수께서 저희에게 이르시되 혼인집 손님들이 신랑과 함께 있을 동안에 슬퍼할 수 있느뇨  그러나 신랑을 빼앗길 날이 이르리니 그 때에는 금식할 것이니라 9:16 생베 조각을 낡은 옷에 붙이는 자가 없나니 이는 기운 것이 그 옷을 당기어 해어짐이…

マタイの福音書 黙想【恐れの対象】20260131(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 8:23-34 8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。 8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。 8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。 8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。 8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」 8:28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。 8:29 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」 8:30 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。 8:31 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。 8:32 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。 8:33 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。 8:34 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。  イエス様の奇跡を目の当たりにした人々の反応は、多くの場合、「恐れ」を伴うものでした。しかし、その同じ反応の先にある結果は、二つに分かれます。その恐れの中でイエス様を受け入れるのか、それともイエス様から離れるか、箴言の中心的な教えである「主を恐れることは知識の初め」。神様は、確かにそのような「恐れ」を用いられるお方です。      人は、人間の常識では理解できない出来事に直面すると、恐れを感じる存在です。ある人は、そのような現象は存在しない、ただの作り話だ、と言い切るかもしれません。しかしその多くは、明確な証拠や事実に基づく否定というよりも、むしろ「それを認めたくない」というある種の恐れからのものです。もしかすると、イエス様の福音を拒む人々の姿も、それに似ているのかもしれません。      イエス様と出会った人々がそうであったように、私たちの内にもまた「恐れ」があります。しかしその恐れは、私たちにとって不要なものではなく、むしろ信仰がより深められていくために必要な感情です。大事なのは、その恐れの後に続く、どのような姿勢を取るかということです。恐れているから遠ざかるのではなく、恐れを抱きつつその下に進んでいくことです。      今日の箇所に登場する弟子たちは、イエス様の御力の前に恐れを感じながらも、イエス様に従うことをやめませんでした。その結果、彼らはこの世の何ものも恐れず、福音を大胆に宣べ伝える者へと変えられたのです。      主を恐れる者にとってこの世のものは、もはや恐れの対象になりません。すでにこの世に打ち勝った主を恐れ、その主と共に歩んでいるからです。 https://youtu.be/ZWktcXSPVCY?si=xmlpXGE8SmqOP7Sd

마태복음 묵상【두려움의 대상】20260131(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 8:23-34 8:23 배에 오르시매 제자들이 따랐더니 8:24 바다에 큰 놀이 일어나 배가 물결에 덮이게 되었으되 예수께서는 주무시는지라 8:25 그 제자들이 나아와 깨우며 이르되 주여 구원하소서 우리가 죽겠나이다 8:26 예수께서 이르시되 어찌하여 무서워하느냐 믿음이 작은 자들아 하시고 곧 일어나사 바람과 바다를 꾸짖으시니 아주 잔잔하게 되거늘 8:27 그 사람들이 놀랍게 여겨 이르되 이이가 어떠한 사람이기에 바람과…

マタイの福音書 黙想【立ち去る場、残す物】20260130(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 8:14-22 8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。 8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。 8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」 8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。 8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」 8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」 8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」 8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」  福音書を通してイエス様がなされたことを振り返ってみると、この世の誰も比べにならないほどの、偉大な業績が記されています。言うまでもなく、最も偉大な出来事は十字架の死と復活ですが、病を癒やし、悪霊を追い出し、人々を教え導かれたその働きだけを見ても、世界史の偉人たちの中でも最も偉大な人物として認められるのも不思議ではありません。    現代において、キリスト教に関わるメディアコンテンツやニュースに触れることは、決して難しいことではありません。新聞やインターネットの記事、あるいはYouTubeを見れば、日々、数えきれないほどのキリスト教に関する情報や話題が流れてきます。しかしそれらは、キリスト者だけに流れて来るものではなく、信仰を持っていない人々のところにも、同じように流れていく情報です。    そうした場で人々の意見をみると、いつも出て来るコメントがあります。「偉人イエスを尊敬しているが、キリスト教は好きではない」という声です。彼らが拒んでいるのは、イエス・キリストの御業や教えそのものではありません。イエス・キリストを信じると言いながらも、実際にはその名を宗教的道具として利用している人々の姿なのです。    イエス様は、多くの人々から尊敬され、驚くべき御業を行われながらも、富や名誉を求めることなく、最低限の安らぎさえも求められませんでした。イエス様は、常にこの地を立ち去る準備をしながら生きておられたのです。    しかし現代の人々は、まるでこの地に永遠に住むかのように、より多くを手に入れ、より多くを楽しむことに心を注いでいます。そのような姿が、キリスト者の中にも少なからず存在することを、私たちは日々増え続けていく有名な牧師や信仰者たちの不誠実な生き方に関する告発を通して、目の当たりにしています。そして、表に出ていないだけで、今この瞬間にも、同じようなことをしている人がいるということは、否定できません。    イエス様は、この地を立ち去る日を見つめながら生き、そして立ち去ってからは、福音を残されました。そのイエス様に従う私たちは、今何を見つめながら生きているのでしょうか。何を残して、この地を立ち去ろうとしているのでしょうか。今こそ、立ち止まって、自ら問い直さなければなりません。 https://youtu.be/qpPKGW20-dY?si=0Hrvj3h0qkcHQeKv

마태복음 묵상【떠날 곳, 남길 것】20260130(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 8:14-22 8:14 예수께서 베드로의 집에 들어가서 그의 장모가 열병으로 앓아 누운 것을 보시고 8:15 그의 손을 만지시니 열병이 떠나가고 여인이 일어나서 예수께 수종들더라 8:16 저물매 사람들이 귀신 들린 자를 많이 데리고 예수께 오거늘 예수께서 말씀으로 귀신들을 쫓아 내시고 병든 자들을 다 고치시니 8:17 이는 선지자 이사야를 통하여 하신 말씀에 우리의 연약한 것을 친히 담당하시고…

マタイによる福音書 黙想 【ただ、おことばを下さい】 20260129(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 8:1~13 8:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。 8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。 8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。 8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」 8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、 8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。 8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。 8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。 8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。 8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。 8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。 百人隊長はローマの将校、すなわち支配者の側に立つ人物である。しかしイエスは、その人の中に、ユダヤ人の中では見いだすことのできないほど大きな信仰があると言われる。当時この言葉を聞いていたユダヤ人たちと、今この物語を読んでいる私たち、そしてイエスが考えておられる「信仰」は、それぞれ異なっているように思える。イエスが語られる信仰とは、ただ純粋な信仰である。それは宗教でもなく、政治でもなく、社会的な何ものでもない。イエスは百人隊長を通して、神の国が血統や宗教的所属によって保証されるものではないことを、はっきりと示される。 百人隊長は、イエスを自分の家に迎えることさえふさわしくないと言う。先に癒やされた重い皮膚病の人も同じであった。彼らは回復を求めるが、癒やしを権利として主張しない。百人隊長は自分を低くする。同時に、イエスの権威を正確に理解し、認めている。「ただお言葉をください。」これまで奇跡を求める人は数多くいた。しかし彼は、イエスの人格と御言葉の力そのものを信頼した。この姿勢の中に、イエスは信仰を見いだされたのである。 私たちはこの箇所を、マタイ福音書7章を思い起こしながら読む必要がある。「主よ、主よ」と呼び、多くのことを成し遂げてきた見慣れた人々と、名もなき異邦人の将校との違いは何なのか。それは、神を自分の言葉で所有しようとした人々と、御言葉の権威の下に自分を低く置いた人との違いではないだろうか。信仰とは、自分をどこに置くかという問題である。正解を語る能力ではなく、自分を空にし、神の御言葉に自分を整列させる姿勢である。 「ただお言葉をください。御言葉が働かれるでしょう」と語り、そのように信じる信仰は、決して容易ではない。御言葉を信じるとはどういうことなのかを、真剣に考える人は多くない。ただ「御言葉だけでもありがたい」と言って、恵みを受けたつもりになることが多い。しかし信仰とは、歯を食いしばって信じることではなく、その内にある信頼が自然に表れることにほかならない。御言葉に神の力があり、御言葉そのものが神であると信じるなら、御言葉を読まなかったり、軽く扱ったりすることはできない。「ただお言葉をください」という信仰は、もしかすると、まだ本気で認めたことも、試みたこともない信仰なのかもしれない。

마태복음 묵상 【말씀으로만 하옵소서】 20260129(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 8:1~13 8:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라 8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘 8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라 8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려…

マタイによる福音書 黙想 【狭い門】 20260128(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:13~29 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 この本文には、異邦人も、無神論者も、露骨に悪い人間も登場しない。イエスが語っておられる対象は、最初から最後まで、宗教に慣れ親しんだ人々である。道を歩く人も、語る人も、預言する人も、主の名を呼ぶ人も、すべて宗教的な言語と行為に親しんでいる人々の話である。したがってこれは、信仰の外にいる人々への警告ではなく、宗教のただ中にいる人々に向けて、その宗教的言語が生み出してきた自己欺瞞を暴く言葉である。 広い道とは、宗教と区別された「世の道」を指しているのではない。むしろ広い道とは、宗教がうまく機能している道のことである。すでに整えられ、慣れ親しんでおり、説明を必要とせず、多くの人々が疑いなく共に歩いている道である。あえて決断しなくてもよく、今の自分の生活を解体しなくてもよい。既存の宗教というシステムの上に乗りさえすれば、自然に流れていくことができる。信仰と献身の形をしていながら、自分を手放さなくてもよいがゆえに、その道は広いのである。 それに対して、狭い道は宗教的な難易度が高いから狭いのではない。自分を捨てなければ通ることができないがゆえに狭いのである。この道を妨げているのは道幅ではなく、自分自身である。自分の体格や荷物をそのまま抱えたままでは進むことができない。狭い道を行こうとする者は、自分を削り、捨てながら進まなければならない。だからこそ狭い道なのである。 イエスは偽預言者を警告されるが、それを見分ける基準が、いわゆる正統教理であるとは言われない。マタイによる福音書7章で語られている、「裁くな」「罪に定めるな」「自分の目の梁を先に見よ」「人からしてもらいたいと思うことを人にせよ」という流れの中で語られている言葉である。実とは、この流れから切り離された独立した概念ではない。偽預言者と真の預言者の決定的な違いは、教えている内容の正統性や、所属教団、出身神学校ではなく、人を集めて教えようとするその動機にある。健全な共同体であれば、その実を見て分別することができるはずである。 「主よ、主よ」と神を呼ぶことさえ、イエスは指摘される。神を呼ぶこと、その回数や声の大きさは、神の前に立つ真実さや深さと必ずしも比例しない。神への呼びかけが、神の御心に自分自身を調律する場へとつながらないとき、その言葉は親密さではなく仮面となる。そのとき、イエスの応答は「わたしはあなたがたを知らない」である。これは、うまくできたかどうかの問題ではなく、知っているか知らないかの問題である。倫理の問題ではなく、関係の問題である。関係がないところに、倫理や熱心さが築かれることはない。 預言も、力も、奇跡も、それらはすべて現象であった。それが偽りであったからではなく、それらのゆえに、父の御心を問わなくなったからである。神はすでに啓示しておられ、今も啓示しておられるにもかかわらず、人間は絶えず別の啓示を探し求める。それを神そのものだと思い込み、従っていく。御言葉の前に真剣ではなく、見えるもの、感じられるものに神を付与する。それは耐えがたいほど軽い存在のあり方である。 最後のたとえにおいて、倒れた家は、神の言葉がなかった家ではない。確かに御言葉を聞き、理解し、知っていた家である。しかし、神の言葉はその人の人生の構造にはなっていなかった。御言葉はあったが、それを材料として人生を築いてはいなかった。雨が降り、洪水が起こり、風が吹いたとき、その実が明らかになる。実は、根と幹と枝が一つの完全な構造をなしているときにのみ結ばれる。 皮肉なことに、神がいなくても宗教は大きく、華やかで、よく回っていく。それを基準にしてしまえば、人は生ける屍のようになる。自分を削り、周囲に目を配り、緊張をもって狭い道を歩き、自分の動機を吟味し、宗教的な形態から必死に逃れなければならない。見えるものよりも、見えないところで神を見いださなければならない。そうして与えられた時間の中で、「信仰」というものを築き上げていくのである。

마태복음 묵상 【좁은 문】 20260128(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:13~29 7:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고 7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라 7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐 7:17 이와 같이 좋은 나무마다…