マタイによる福音書 黙想 【金貨も銀貨も持たず】 20260204(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 10:1~15 10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。 10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。 10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。 10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。 10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。 10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。 10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。 10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。 10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。 10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。 10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。 10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。 10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。 イエス様は弟子たちを遣わされます。弟子たちは、もはや後について歩くだけの者ではなく、遣わされた者となったのです。終わりだから遣わされるのではなく、遣わされて初めて終わるのです。経験より重要な理論はない、そう思わされます。イエス様は弟子たちを遣わすにあたって、金も銀も袋も持たないようにと言われました。使命は人の所有や準備によって始まり、成り立つのではなく、神様への依存によって始まり、築かれるものだからです。準備が多いから成し遂げられるのではなく、信頼が積み重ねられる中で成っていくのです。 このことは、キリスト者であれば誰もが受け入れ、理解できる話でしょう。しかし問題は現実です。献身や従順という言葉は理解できても、現実は常にそれと衝突します。これ以上譲れない必要があり、背負わなければならない責任があり、守り続けなければならない関係があります。効率や合理性の視点から見れば、信仰は無謀に映ります。だから人は、現実と正面衝突しないために、これを象徴的な意味へと和らげてしまいたくなるのです。信仰を捨てたわけでもなく、従わなかったわけでもない。けれども現実の前に立つと、途端に小さくなり、丁寧になってしまう。その結果、信じていることと生きていることの間に生まれる偽善や二重性から、逃れることができなくなります。 その戸惑いや恐れを否定することはできません。しかし、どれほど取捨選択をしてみても、イエス様の言葉は明確です。準備が整ってから行けとは言われず、先に行けと言われるのです。信仰は常に供給よりも先にあります。もし供給の確認を待つなら、確認できる場合もあるでしょう。しかしそのとき、信仰を確認することはできません。イエス様はそれを悟らせるために、弟子たちの背中を押して送り出されるのです。信仰が人生の形になるのは、信仰によって最初の一歩を踏み出した人の場合だけです。その人だけが、神様を知り、神様を経験することになるのです。 金も銀も袋も、収入も自分自身もすべて手放し、裸の手で出て行って、いったい何ができるのでしょうか。それは、私たちが究極的に何を恐れ、不安に思いながら生きているのかを、否定できなくさせるためです。問題はお金だけではありません。弟子たちは歓迎されることもあれば、拒まれることもあります。歓迎は高慢の罠となり、拒絶は被拒絶感や怒りの落とし穴となります。拒まれたときに足の塵を払い落とせと言われたのは、復讐や怒りのためではなく、その結果を自分の責任として抱え込まないための、守りの装置ではないでしょうか。逆さまに生きること。それこそが信仰を実際に使ってみることであり、最終的にそれが神様を経験する通路となるのです。










