マタイによる福音書 黙想 【収穫の働き手】 20260203(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マタイによる福音書 9:27~38 9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。 9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。 9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。 9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。 9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。 9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。 9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。 9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。 9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。 9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。 9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 イエス様が語られた「収穫」という言葉を理解するにあたって、私たちの中には少なからず誤解がある。ここで語られている収穫とは、生産量が多く希望に満ちた楽観的な状態を指しているのではない。イエス様が群衆をご覧になって抱かれたのは、可能性への期待ではなく、もはやこれ以上放置することのできない限界点に達した人間の現実に対する深い憐れみであった。それを「収穫」と表現された理由は、マタイ福音書9章が描いている状況そのものが説明している。人々はすでに苦しみの中で問いを抱え、道を見失い、さまよっていたからである。 それならば、収穫する働き手が何をなすべきかについても見えてくる。収穫する働き手とは、人を集めて満たす者ではない。イエス様が見ておられるこの現実を、同じまなざしで見ることのできる者である。「働き手が少ない」という言葉は、人がいないという意味でも、能力が足りないという意味でもない。イエス様が群衆をご覧になったときに抱かれた、その憐れみのまなざしを共有できる者が少ない、という意味である。それが失われると、イエス様の慈しみのまなざしは外面的な成果として誤解され、人は動員の手段や数字へと還元されてしまうからである。 したがって、今求められているのは、時代の人々が感じている苦しみを個人の失敗として扱わず、牧者を失ってさまよっている状態であることを認め、もはや先延ばしにできない切迫さと切実さを共に感じ取ることである。今日の本文に登場する苦しみは、見ることができないこと、そして悪霊につかれて語ることができないことである。目があっても見えず、口があっても語ることができない――それは、この時代が患っている障害を示している。それを乗り越えていくすべての営みが収穫であり、その働きを共に担う同労者こそが収穫する働き手である。イエス様はそのために、祈るようにと命じられたのである。










