マタイの福音書 黙想【立ち去る場、残す物】20260130(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
マタイの福音書 8:14-22 8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。 8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。 8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」 8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。 8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」 8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」 8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」 8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」 福音書を通してイエス様がなされたことを振り返ってみると、この世の誰も比べにならないほどの、偉大な業績が記されています。言うまでもなく、最も偉大な出来事は十字架の死と復活ですが、病を癒やし、悪霊を追い出し、人々を教え導かれたその働きだけを見ても、世界史の偉人たちの中でも最も偉大な人物として認められるのも不思議ではありません。 現代において、キリスト教に関わるメディアコンテンツやニュースに触れることは、決して難しいことではありません。新聞やインターネットの記事、あるいはYouTubeを見れば、日々、数えきれないほどのキリスト教に関する情報や話題が流れてきます。しかしそれらは、キリスト者だけに流れて来るものではなく、信仰を持っていない人々のところにも、同じように流れていく情報です。 そうした場で人々の意見をみると、いつも出て来るコメントがあります。「偉人イエスを尊敬しているが、キリスト教は好きではない」という声です。彼らが拒んでいるのは、イエス・キリストの御業や教えそのものではありません。イエス・キリストを信じると言いながらも、実際にはその名を宗教的道具として利用している人々の姿なのです。 イエス様は、多くの人々から尊敬され、驚くべき御業を行われながらも、富や名誉を求めることなく、最低限の安らぎさえも求められませんでした。イエス様は、常にこの地を立ち去る準備をしながら生きておられたのです。 しかし現代の人々は、まるでこの地に永遠に住むかのように、より多くを手に入れ、より多くを楽しむことに心を注いでいます。そのような姿が、キリスト者の中にも少なからず存在することを、私たちは日々増え続けていく有名な牧師や信仰者たちの不誠実な生き方に関する告発を通して、目の当たりにしています。そして、表に出ていないだけで、今この瞬間にも、同じようなことをしている人がいるということは、否定できません。 イエス様は、この地を立ち去る日を見つめながら生き、そして立ち去ってからは、福音を残されました。そのイエス様に従う私たちは、今何を見つめながら生きているのでしょうか。何を残して、この地を立ち去ろうとしているのでしょうか。今こそ、立ち止まって、自ら問い直さなければなりません。 https://youtu.be/qpPKGW20-dY?si=0Hrvj3h0qkcHQeKv










