テモテへの手紙 第二 黙想【パウロの助言】20251101(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

テモテへの手紙 第二 1:1-8 1:1 神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。 1:3 私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 1:4 私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。 1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。 1:6 そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。 1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。 1:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。    テモテへの手紙第二は、パウロの書簡の中でも「獄中書簡」と呼ばれます。さらにその中でも、使徒パウロが生涯の最後に書いた手紙であると考えられています。ローマの牢獄で人生の終わりを迎えようとしていたパウロが、信仰の子であるテモテに心を込めて書き送った手紙なのです。    この手紙の冒頭が、今日の本文の箇所です。ここでパウロがテモテに願い、勧めていることは、これからの安楽な人生のための祝福や、健康、名誉などではありませんでした。むしろ、パウロ自身がそうであったように、福音のために苦難を受けることでした。  人生の最後に、自分の息子のような存在に伝えたかった言葉は、パウロが与えられる最も良い助言であったはずです。使徒パウロにとってそれは、神様の力により福音とともに苦難にあずかるということでした。  私たちは聖書を通して使徒パウロの生涯を知っています。文字で読むだけでも、数多くの死の危険を乗り越え、無視や迫害に耐え、御言葉を伝えるための資金を自ら働いてまで賄いながら、神様の御言葉を宣べ伝えた人物がパウロでした。しかし私たちが文字で感じ取る以上に、テモテはその姿をすぐ傍で見ていたので、誰よりもパウロの無事を祈り、その手紙を待っていたことでしょう。  そんなパウロが人生の終わりに語った「あなたも私と同じように、福音のために苦難を受けなさい」という言葉は、テモテにとって大きな衝撃と挑戦であったに違いありません。相当な恐れもあったことでしょう。しかしパウロは言います──神様が私たちにお与えになったのは、恐れる心ではないと。  私たちが福音のために生きるということは、確かに多くの苦難を伴う道です。小さな心配や不安から、ある者には命に関わる問題にまで及ぶこともあります。けれどもその中で私たちに与えられているのは、恐れではありません。神様は私たちに、力と愛と慎みの心、すなわちあらゆる苦難を乗り越える力を与えてくださっているのです。だからこそ私たちは今日も、福音のために生き、伴う苦難にくじけることなく、その道を歩むことができるのです。 https://youtu.be/CvVj2_Lhg7A?si=3naI8lWryBRfQiDK

디모데후서 묵상【바울의 조언】20251101(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

디모데후서 1:1-8 1:1 하나님의 뜻으로 말미암아 그리스도 예수 안에 있는 생명의 약속대로 그리스도 예수의 사도 된 바울은 1:2 사랑하는 아들 디모데에게 편지하노니 하나님 아버지와 그리스도 예수 우리 주께로부터 은혜와 긍휼과 평강이 네게 있을지어다 1:3 내가 밤낮 간구하는 가운데 쉬지 않고 너를 생각하여 청결한 양심으로 조상적부터 섬겨 오는 하나님께 감사하고 1:4 네 눈물을 생각하여 너 보기를…

ゼカリヤ書 黙想【自由を与える統治】20251031(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 14:16-21 14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。 14:17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムに上って来ない氏族の上には、雨が降らない。 14:18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、疫病が彼らに下る。これは、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つ疫病である。 14:19 これが、エジプトの罪への刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々の罪への刑罰となる。 14:20 その日、馬の鈴の上には「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中の鍋は祭壇の前の鉢のようになる。 14:21 エルサレムとユダのすべての鍋は、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえを献げる者はみなやって来て、その一つを取ってそれで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。     ゼカリヤ書の最後では、「イスラエルの神」「イスラエルの主」であった神様が、「全地の王」「万軍の主」として、その統治の範囲がイスラエルから全世界へ広がる、回復されることが示されています。    それと同時に、その神様の民となった全世界の人々には、「律法」を守ることが義務づけられます。律法とは、神様がご自身の民に与えられた命令であるからです。また、その律法を守らない者に与えられる裁きも、同じく存在します。    しかし、それは決して異邦人を律法の下に縛りつけるための支配ではありません。むしろこのような出来事は、全地のすべての者が、万軍が、神様の恵みのもとにおいて、その御子イエス・キリストによって救いを得るための、神様の特別な御計画なのです。    神様を自らの王と告白する者には、救いの名であるイエス・キリストが共に与えられます。神様の国の民となるということは、新たな抑圧ではなく、あらゆる抑圧からの自由と解放を意味するのです。    私たちの人生の主権は、「自分」という存在から神様へと移されました。私たちが「主よ」と呼ぶのが、まさにそのような信仰の告白なのです。私たちが神様に自分を委ねることは、決して自由を奪われることではありません。むしろそれは、真の自由を得る道なのです。 https://youtu.be/SzTIIzahEaw?si=uI-MrQ1UwNrdFbUp

스가랴 묵상【자유를 주는 통치】20251031(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 14:16-21 14:16 예루살렘을 치러 왔던 이방 나라들 중에 남은 자가 해마다 올라와서 그 왕 만군의 여호와께 경배하며 초막절을 지킬 것이라 14:17 땅에 있는 족속들 중에 그 왕 만군의 여호와께 경배하러 예루살렘에 올라오지 아니하는 자들에게는 비를 내리지 아니하실 것인즉 14:18 만일 애굽 족속이 올라오지 아니할 때에는 비 내림이 있지 아니하리니 여호와께서 초막절을 지키러 올라오지 아니하는…

ゼカリヤ 黙想 【王になった神様】 20251030(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 14:9~15 14:9 主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。 14:10 全土はゲバからエルサレムの南のリンモンまで、アラバのようになる。しかしエルサレムは高くそびえ、ベニヤミンの門から第一の門のところを経て隅の門まで、またハナンエルのやぐらから王家のぶどうの踏み場まで、元の場所にそのまま残る。 14:11 そこには人々が住み、もはや聖絶の物はなく、エルサレムは安らかに住む。 14:12 これは、主がエルサレムを攻めるどの民にも加えられる疫病である。彼らの肉は、まだ足で立っているうちに腐る。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。 14:13 その日、主からの大いなる混乱が、彼らの間に起こる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いに殴りかかる。 14:14 ユダもエルサレムで戦う。周りのすべての国々の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。 14:15 馬、らば、らくだ、ろば、彼らの宿営にいるすべての家畜にも、同じような疫病が臨む。   主の日は、イスラエルという国家の回復ではない。その日は、世界のすべての国々が消え去り、ただ神だけが王として統治される日である。人間が築いた権力や体制、欲望と不義の構造は崩れ去り、神は、人間に委ねられた支配がゆがめられ、見捨てられたところを正し、ご自身の正義と秩序のために直接統治される。私たちは思い起こすべきだ。神がこの世界に委ね、求められたものは何であったのか。それは、正義と慈しみ、そしていのちの秩序であった。 その日は、すべての高慢が解体される日でもある。高慢は臆病さと似ており、虚勢が消えれば何も残らない。「エルサレムを攻めた民の肉は、そのままで腐り、目は眼窩の中で朽ち、舌は口の中で腐る。」(14:12)悪はその日に自ら崩れ去るだろう。その災いは、悪人の肉体だけでなく、悪によって築かれた腐敗の構造そのものをも解体する。 しかし、神を求める者にとってそれは災いではなく慰めであり、滅びではなく回復である。崩れゆく世界のただ中で、神は新しい創造を起こされる。その光は、人間が作り出す繁栄の灯ではなく、神のうちで、すべての被造物が本来の場所を見いだす平和の光である。ゼカリヤが見た終末は、終わりではなく始まりであった。現実を破壊として見る者には恐れがあり、神の新しい創造として見る者には希望がある。

스가랴 묵상 【왕이 되신 하나님】 20251030(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 14:9~15 14:9 여호와께서 천하의 왕이 되시리니 그날에는 여호와께서 홀로 하나이실 것이요 그 이름이 홀로 하나이실 것이며 14:10 온 땅이 아라바 같이 되되 게바에서 예루살렘 남편 림몬까지 미칠 것이며 예루살렘이 높이 들려 그 본처에 있으리니 베냐민 문에서부터 첫문 자리와 성 모퉁이 문까지 또 하나넬 망대에서부터 왕의 포도주 짜는 곳까지라 14:11 사람이 그 가운데 거하며 다시는…

ゼカリヤ 黙想 【主の日】 20251029(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ゼカリヤ 14:1~8 14:1 見よ、主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。 14:2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」 14:3 主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。 14:4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。 14:5 「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。 14:6 その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。 14:7 これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。 14:8 その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。   「主の日が来る。」(14:1)エルサレムの都は攻められ、民の半分は捕らえ移される。それはまるで、かつてのバビロン侵攻の出来事をもう一度語るようであり、またローマによる滅亡を予告する言葉としても読むことができる。しかし、ゼカリヤの雄弁は単なる歴史の再現ではない。彼が語るのは終末的な「最後の日」、すなわち神がこの世界の秩序を新しくされる「主の日」である。ゼカリヤが見たエルサレムの崩壊は、帝国の歴史ではなく、神の新しい創造が始まるために、人間に与えられた秩序が壊される「創造的破壊」であった。人の秩序が崩れ、神の支配が始まる転換の瞬間なのである。 「その日には光がなく……夕べにも光があるだろう。」(14:6–7)昼と夜、成功と失敗という秩序は、人間にとってあまりにも当たり前のものだ。しかしその当たり前の秩序が退き、新しい時間が到来する。死すべき人間が心の底から願う究極の祝福、それがこの「新しい時」である。どんな論理も、どんな秩序も、神を教えることはできない。人間にとって厳格な時間でさえ、神を先取りしたり支配したりすることはできない。すべてが終わったかのような暗闇の中にあっても、その闇の只中で、神は新しい光を備えられる。光は闇の中でこそ、その価値をより深く放つ。だからゼカリヤは言うのだ。「夕べにも光があるだろう。」私には「ない」ように見えても、神には「ある」。それが信仰の言葉である。 そして「その日、エルサレムから生ける水が湧き出で、その半分は東の海に、半分は西の海に流れる。」(14:8)十三章に出てきた「清めの泉」から、今や生ける水が全世界へと流れ出す。その泉はとどまることなく、絶えず湧き出る。闇の中にも光があり、廃墟の中にも水が湧く。「主の日」は破壊と滅亡の日ではなく、慰めと希望の日である。その生ける水は、罪と後悔に苦しむ人間の心に流れ込み、それを潤し、洗い清め、再び流れ出ていく。たとえ人生の「青い夕暮れ」を迎えるような虚しさの中にあっても、「主の日」には光が差し込む。

스가랴 묵상 【여호와의 날】 20251029(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 14:1~8 14:1 여호와의 날이 이르리라 그 날에 네 재물이 약탈되어 너의 중에서 나누이리라 14:2 내가 열국을 모아 예루살렘과 싸우게 하리니 성읍이 함락되며 가옥이 약탈되며 부녀가 욕을 보며 성읍 백성이 절반이나 사로잡혀가려니와 남은 백성은 성읍에서 끊쳐지지 아니하리라 14:3 그 때에 여호와께서 나가사 그 열국을 치시되 이왕 전쟁 날에 싸운 것 같이 하시리라 14:4 그 날에…

ゼカリヤ 黙想 【罪と汚れをきよめる泉】 20251028(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 13:1~9 13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 13:2 その日──万軍の主のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。 13:3 なお預言する者があれば、その人を生んだ父と母が彼に向かって言う。『あなたは生きていてはならない。主の名を使って噓を告げたから。』彼が預言しているときに、彼を生んだ父と母が彼を突き刺す。 13:4 その日、預言者たちはみな、自分が預言する幻を恥じる。彼らはもはや人を欺くための毛衣を着なくなる。 13:5 また彼は、『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。 13:6 だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら、彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。 13:7 剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。 13:8 全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。 13:9 わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」   神はダビデの家とエルサレムの人々のために、「罪と汚れから清める泉」を開かれると語られた。ここで言う「泉」はヘブライ語でマコール(מָקוֹר)である。それは人工的に水を貯めた貯水池ではなく、自然に湧き出る水の源泉を意味する。貯水池の水はたまるが、泉の水は流れる。 貯水池の水は時が経つと枯れたり腐ったりするが、泉は湧き出て流れ続けるので、常に新しい。 詩篇36篇9節に「あなたはいのちの源であり」とあるが、ここでの「源」がマコールである。またエレミヤ書2章13節で、「彼らは生ける水の源であるわたしを捨て、水のない貯水池を掘った」と言われるときの「生ける水の源」もマコールである。その泉で洗われるなら、清められることができる。自分で洗うのではなく、泉そのものによって自分が洗われるのだ。神はそれを約束された。 熱心な人々の中には、信仰を「保存」しようとする者がいる。信仰を守り、閉じ込めようとする。そのために、聞こうともせず、見ようともせず、試みたり挑戦したりもしない。昔のやり方のまま、貯水池にもう一杯の水を注ぎ込み、再び閉じ込めようとする。しかし、信仰を保存していると思った瞬間、すでに変質が始まっているのかもしれない。自分の罪をその泉に洗い流し、とどまらず、流れ出ていくとき、信仰は動き続けるいのちとなる。神の泉は今も湧き出ている。その流れの中でこそ、私たちは清められ、生きている。

스가랴 묵상 【죄와 더러움을 씻는 샘】 20251028(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 13:1~9 13:1 그 날에 죄와 더러움을 씻는 샘이 다윗의 족속과 예루살렘 거민을 위하여 열리리라 13:2 만군의 여호와가 말하노라 그 날에 내가 우상의 이름을 이 땅에서 끊어서 기억도 되지 못하게 할것이며 거짓 선지자와 더러운 사귀를 이땅에서 떠나게 할 것이라 13:3 사람이 오히려 예언할 것 같으면 그 낳은 부모가 그에게 이르기를 네가 여호와의 이름을 빙자하여 거짓말을…