マタイの福音書 黙想【立ち去る場、残す物】20260130(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 8:14-22 8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。 8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。 8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」 8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。 8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」 8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」 8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」 8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」  福音書を通してイエス様がなされたことを振り返ってみると、この世の誰も比べにならないほどの、偉大な業績が記されています。言うまでもなく、最も偉大な出来事は十字架の死と復活ですが、病を癒やし、悪霊を追い出し、人々を教え導かれたその働きだけを見ても、世界史の偉人たちの中でも最も偉大な人物として認められるのも不思議ではありません。    現代において、キリスト教に関わるメディアコンテンツやニュースに触れることは、決して難しいことではありません。新聞やインターネットの記事、あるいはYouTubeを見れば、日々、数えきれないほどのキリスト教に関する情報や話題が流れてきます。しかしそれらは、キリスト者だけに流れて来るものではなく、信仰を持っていない人々のところにも、同じように流れていく情報です。    そうした場で人々の意見をみると、いつも出て来るコメントがあります。「偉人イエスを尊敬しているが、キリスト教は好きではない」という声です。彼らが拒んでいるのは、イエス・キリストの御業や教えそのものではありません。イエス・キリストを信じると言いながらも、実際にはその名を宗教的道具として利用している人々の姿なのです。    イエス様は、多くの人々から尊敬され、驚くべき御業を行われながらも、富や名誉を求めることなく、最低限の安らぎさえも求められませんでした。イエス様は、常にこの地を立ち去る準備をしながら生きておられたのです。    しかし現代の人々は、まるでこの地に永遠に住むかのように、より多くを手に入れ、より多くを楽しむことに心を注いでいます。そのような姿が、キリスト者の中にも少なからず存在することを、私たちは日々増え続けていく有名な牧師や信仰者たちの不誠実な生き方に関する告発を通して、目の当たりにしています。そして、表に出ていないだけで、今この瞬間にも、同じようなことをしている人がいるということは、否定できません。    イエス様は、この地を立ち去る日を見つめながら生き、そして立ち去ってからは、福音を残されました。そのイエス様に従う私たちは、今何を見つめながら生きているのでしょうか。何を残して、この地を立ち去ろうとしているのでしょうか。今こそ、立ち止まって、自ら問い直さなければなりません。 https://youtu.be/qpPKGW20-dY?si=0Hrvj3h0qkcHQeKv

마태복음 묵상【떠날 곳, 남길 것】20260130(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 8:14-22 8:14 예수께서 베드로의 집에 들어가서 그의 장모가 열병으로 앓아 누운 것을 보시고 8:15 그의 손을 만지시니 열병이 떠나가고 여인이 일어나서 예수께 수종들더라 8:16 저물매 사람들이 귀신 들린 자를 많이 데리고 예수께 오거늘 예수께서 말씀으로 귀신들을 쫓아 내시고 병든 자들을 다 고치시니 8:17 이는 선지자 이사야를 통하여 하신 말씀에 우리의 연약한 것을 친히 담당하시고…

マタイによる福音書 黙想 【ただ、おことばを下さい】 20260129(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 8:1~13 8:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。 8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。 8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。 8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」 8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、 8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。 8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。 8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。 8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」 8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。 8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。 8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。 百人隊長はローマの将校、すなわち支配者の側に立つ人物である。しかしイエスは、その人の中に、ユダヤ人の中では見いだすことのできないほど大きな信仰があると言われる。当時この言葉を聞いていたユダヤ人たちと、今この物語を読んでいる私たち、そしてイエスが考えておられる「信仰」は、それぞれ異なっているように思える。イエスが語られる信仰とは、ただ純粋な信仰である。それは宗教でもなく、政治でもなく、社会的な何ものでもない。イエスは百人隊長を通して、神の国が血統や宗教的所属によって保証されるものではないことを、はっきりと示される。 百人隊長は、イエスを自分の家に迎えることさえふさわしくないと言う。先に癒やされた重い皮膚病の人も同じであった。彼らは回復を求めるが、癒やしを権利として主張しない。百人隊長は自分を低くする。同時に、イエスの権威を正確に理解し、認めている。「ただお言葉をください。」これまで奇跡を求める人は数多くいた。しかし彼は、イエスの人格と御言葉の力そのものを信頼した。この姿勢の中に、イエスは信仰を見いだされたのである。 私たちはこの箇所を、マタイ福音書7章を思い起こしながら読む必要がある。「主よ、主よ」と呼び、多くのことを成し遂げてきた見慣れた人々と、名もなき異邦人の将校との違いは何なのか。それは、神を自分の言葉で所有しようとした人々と、御言葉の権威の下に自分を低く置いた人との違いではないだろうか。信仰とは、自分をどこに置くかという問題である。正解を語る能力ではなく、自分を空にし、神の御言葉に自分を整列させる姿勢である。 「ただお言葉をください。御言葉が働かれるでしょう」と語り、そのように信じる信仰は、決して容易ではない。御言葉を信じるとはどういうことなのかを、真剣に考える人は多くない。ただ「御言葉だけでもありがたい」と言って、恵みを受けたつもりになることが多い。しかし信仰とは、歯を食いしばって信じることではなく、その内にある信頼が自然に表れることにほかならない。御言葉に神の力があり、御言葉そのものが神であると信じるなら、御言葉を読まなかったり、軽く扱ったりすることはできない。「ただお言葉をください」という信仰は、もしかすると、まだ本気で認めたことも、試みたこともない信仰なのかもしれない。

마태복음 묵상 【말씀으로만 하옵소서】 20260129(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 8:1~13 8:1 예수께서 산에서 내려오시니 허다한 무리가 좇으니라 8:2 한 문둥병자가 나아와 절하고 가로되 주여 원하시면 저를 깨끗케 하실수 있나이다 하거늘 8:3 예수께서 손을 내밀어 저에게 대시며 가라사대 내가 원하노니 깨끗함을 받으라 하신대 즉시 그의 문둥병이 깨끗하여진지라 8:4 예수께서 이르시되 삼가 아무에게도 이르지 말고 다만 가서 제사장에게 네 몸을 보이고 모세의 명한 예물을 드려…

マタイによる福音書 黙想 【狭い門】 20260128(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:13~29 7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。 7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。 7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。 7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。 7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。 7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。 7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。 7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。 7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。 7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」 7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。 7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 この本文には、異邦人も、無神論者も、露骨に悪い人間も登場しない。イエスが語っておられる対象は、最初から最後まで、宗教に慣れ親しんだ人々である。道を歩く人も、語る人も、預言する人も、主の名を呼ぶ人も、すべて宗教的な言語と行為に親しんでいる人々の話である。したがってこれは、信仰の外にいる人々への警告ではなく、宗教のただ中にいる人々に向けて、その宗教的言語が生み出してきた自己欺瞞を暴く言葉である。 広い道とは、宗教と区別された「世の道」を指しているのではない。むしろ広い道とは、宗教がうまく機能している道のことである。すでに整えられ、慣れ親しんでおり、説明を必要とせず、多くの人々が疑いなく共に歩いている道である。あえて決断しなくてもよく、今の自分の生活を解体しなくてもよい。既存の宗教というシステムの上に乗りさえすれば、自然に流れていくことができる。信仰と献身の形をしていながら、自分を手放さなくてもよいがゆえに、その道は広いのである。 それに対して、狭い道は宗教的な難易度が高いから狭いのではない。自分を捨てなければ通ることができないがゆえに狭いのである。この道を妨げているのは道幅ではなく、自分自身である。自分の体格や荷物をそのまま抱えたままでは進むことができない。狭い道を行こうとする者は、自分を削り、捨てながら進まなければならない。だからこそ狭い道なのである。 イエスは偽預言者を警告されるが、それを見分ける基準が、いわゆる正統教理であるとは言われない。マタイによる福音書7章で語られている、「裁くな」「罪に定めるな」「自分の目の梁を先に見よ」「人からしてもらいたいと思うことを人にせよ」という流れの中で語られている言葉である。実とは、この流れから切り離された独立した概念ではない。偽預言者と真の預言者の決定的な違いは、教えている内容の正統性や、所属教団、出身神学校ではなく、人を集めて教えようとするその動機にある。健全な共同体であれば、その実を見て分別することができるはずである。 「主よ、主よ」と神を呼ぶことさえ、イエスは指摘される。神を呼ぶこと、その回数や声の大きさは、神の前に立つ真実さや深さと必ずしも比例しない。神への呼びかけが、神の御心に自分自身を調律する場へとつながらないとき、その言葉は親密さではなく仮面となる。そのとき、イエスの応答は「わたしはあなたがたを知らない」である。これは、うまくできたかどうかの問題ではなく、知っているか知らないかの問題である。倫理の問題ではなく、関係の問題である。関係がないところに、倫理や熱心さが築かれることはない。 預言も、力も、奇跡も、それらはすべて現象であった。それが偽りであったからではなく、それらのゆえに、父の御心を問わなくなったからである。神はすでに啓示しておられ、今も啓示しておられるにもかかわらず、人間は絶えず別の啓示を探し求める。それを神そのものだと思い込み、従っていく。御言葉の前に真剣ではなく、見えるもの、感じられるものに神を付与する。それは耐えがたいほど軽い存在のあり方である。 最後のたとえにおいて、倒れた家は、神の言葉がなかった家ではない。確かに御言葉を聞き、理解し、知っていた家である。しかし、神の言葉はその人の人生の構造にはなっていなかった。御言葉はあったが、それを材料として人生を築いてはいなかった。雨が降り、洪水が起こり、風が吹いたとき、その実が明らかになる。実は、根と幹と枝が一つの完全な構造をなしているときにのみ結ばれる。 皮肉なことに、神がいなくても宗教は大きく、華やかで、よく回っていく。それを基準にしてしまえば、人は生ける屍のようになる。自分を削り、周囲に目を配り、緊張をもって狭い道を歩き、自分の動機を吟味し、宗教的な形態から必死に逃れなければならない。見えるものよりも、見えないところで神を見いださなければならない。そうして与えられた時間の中で、「信仰」というものを築き上げていくのである。

마태복음 묵상 【좁은 문】 20260128(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:13~29 7:13 좁은 문으로 들어가라 멸망으로 인도하는 문은 크고 그 길이 넓어 그리로 들어가는 자가 많고 7:14 생명으로 인도하는 문은 좁고 길이 협착하여 찾는 이가 적음이니라 7:15 거짓 선지자들을 삼가라 양의 옷을 입고 너희에게 나아오나 속에는 노략질하는 이리라 7:16 그의 열매로 그들을 알찌니 가시나무에서 포도를, 또는 엉겅퀴에서 무화과를 따겠느냐 7:17 이와 같이 좋은 나무마다…

マタイによる福音書 黙想 【不安が流れていく先】 20260127(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 7:1~12 7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。 7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。 7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。 7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。 7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。 7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。 7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。 昨日の本文でイエスは、「明日のことを思い煩うな」と語り、生存の圧力の中で神を父として信頼する道を教えられた。そして続く今日の御言葉は、「裁くな」という言葉から始まる。しかし主題が変わったのではない。思い煩いの話が終わり、裁きの話が新しく始まったのではない。思い煩いは心の中だけにとどまらず、言葉や態度や行動となって現れる。自分の人生をコントロールできないとき、人は他人をコントロールしようとし、自信を失って不安になるとき、誰かを「間違っている」と責め立てて自分の正当性を確保しようとする。 だからこそ「思い煩うな」という禁止から「裁くな」という禁止へと続いていくのである。どちらも関係という意味で破壊的だ。思い煩いが神を信頼できない仕方だとすれば、裁きは人を憎む仕方である。少なくとも、ここでイエスが禁じておられる裁きには、そのような感情が混ざっている。それは関係の中で自然に生まれる葛藤の感情というより、自分の内にある不安や欠乏が外へ漏れ出す心理的な防衛機制に近い。だからイエスは、「まず自分の目から梁を取り除き、その後ではっきり見て兄弟の目からちりを取り除きなさい」と言われたのだ。結局イエスは、あなたの内から始まった不安を他者へ流し込むような非難をやめよ、と語っておられるのである。 したがって、正当な批判意識まで捨てよという意味ではない。批判意識のない社会や宗教は自浄能力を失い、堕落していく。問題だらけなのに「裁くな」という御言葉を文字通りにだけ握りしめてしまえば、結局は墓の上に漆喰を塗るだけの宗教になってしまう。思い煩いを手放すとは思考を止めることではなく、主人を入れ替えることだったように、裁きをやめるとは判断力を捨てることではなく、判断の目的を変えることだ。相手を打ち倒す根拠のない非難ではなく、共同体を生かすための批判意識である。批判意識が消える瞬間、共同体も制度も教会も、一人の魂も病んでいることを感じ取る感覚さえ失ってしまうだろう。 だからこそ6節の「聖なるものを犬に与えるな。あなたがたの真珠を豚の前に投げるな」という御言葉も、次の主題が始まるのではなく、前の御言葉を受け継いでいる。裁かないことが無条件に善なのではない。断罪を手放すからといって、分別まで手放してはならない。イエスはまさにその無分別を、「犬と豚」という荒々しい比喩で厳しく警告される。聖なるものは雑に扱われてよいものではなく、真珠はどこにでも投げてよいものではない。ゆえにイエスが禁じておられるのは「分別」ではなく「断罪」である。同時に、信仰や愛という名のもとで無分別になることも禁じておられるのだ。 イエスはさらに「求めなさい。探しなさい。たたきなさい…」と言われる。これもまた続いている内容である。私たちはしばしばこの箇所を切り離し、「祈れば望むものが手に入る」という約束のように引用する。しかし文脈に沿って読むなら、イエスの焦点は欲望の成就ではなく、分別の知恵である。なぜなら7章は「断罪するな」(1~5節)で始まり、「だからといって無分別になるな」(6節)へと続いているからだ。断罪と無分別の間、その危うい均衡の上で、イエスは「求めよ」と言われる。つまり分別の知恵と判断力を求めよ、というのである。 イエスが用いられた接続詞には、文脈の構造を伝える重要な意味がある。「求め、たたけ」という7節の言葉も突然飛び出したものではなく、先に語られた「裁くな、しかし真珠を豚に投げるな」という緊張の上に置かれた御言葉である。断罪すれば人を傷つけ、無分別になれば聖なるものが踏みにじられる。だからその間で道を見失わないために、神に求めなければならない。語るべきか黙るべきか、健全な批判なのか聖なる沈黙なのか――分別のために求め、探し、たたくのである。 この解釈が正しいことを示す証拠が、12節の結論である。「だから、あなたがたが人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」もし7節が金や名誉を得る祈りの公式であるなら、結論に「だから」という接続詞が来るはずもなく、内容が黄金律で締めくくられる理由もない。イエスは祈りの答えを「欲望の充足」で終わらせず、「他者を扱う仕方の変化」で終わらせる。つまりイエスが求めよと言われたのは、共同体と関係のための分別の知恵を求めよということであり、その知恵が最終的に尊重と回復を生み出すということだ。だからイエスは最後に釘を刺すように言われる。「これが律法であり預言者である。」これこそ聖書全体が語る信仰の核心であり、神の国の民が現実の中で生きるべき道なのである。

마태복음 묵상 【염려가 흘러가는 곳】 20260127(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 7:1~12 7:1 비판을 받지 아니하려거든 비판하지 말라 7:2 너희의 비판하는 그 비판으로 너희가 비판을 받을 것이요 너희의 헤아리는 그 헤아림으로  너희가 헤아림을 받을 것이니라 7:3 어찌하여 형제의 눈속에 있는 티는 보고 네 눈속에 있는 들보는 깨닫지 못하느냐 7:4 보라 네 눈속에 들보가 있는데 어찌하여 형제에게 말하기를 나로 네 눈속에 있는 티를 빼게하라 하겠느냐 7:5…

マタイによる福音書 黙想 【逆説的に…】 20260126(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 6:25~34 6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。 6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。 6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。 6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。 6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。 6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。 6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。 6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。 今日の本文は、直前に語られた「宝をどこに積むのか」「神と富とを同時に仕えることはできない」という御言葉に続いて出てくる。重要なキーワードは「思い煩い」だろう。しかしイエスは、思い煩いを性格的な繊細さとして扱われない。誰を主人として仕えているのか、その結果として必然的に生まれるものとして扱われる。神が主人でなければ富が主人になる。富が主人になれば、人の人生は食べて生きる問題に侵食され、ついには思い煩いが避けられない生活様式になってしまう。 けれども、人間にも言いたいことがある。私たちは、鳥やユリを用いた詩的な表現よりも、はるかに具体的で露骨な問題を語ることができる。底をついた残高、関係の危機、病の恐怖――思い煩わずにはいられない現実の中で、私たちはまるで追い詰められたネズミのように必死にもがく。だからこそ、口に出せなかった言葉が胸の奥で膨らむ。「イエスの御言葉が良いことは分かっています。でも正直に生きてみると、あまりにも非現実的です!」この感情に共感することには説得力がある。しかし、だからといって思い煩う生き方まで説得力があるわけではない。その罠から抜け出さなければならない。 食べること、飲むこと、着ることは、実際に私たちの一日を左右する力をもっている。重要な霊的原理は、重要な現実を正面から扱わざるを得ない。だからイエスは、私たちの最も重要な現実である「生存の圧力」に真正面から触れられる。これもまた逆説である。イエスは最も現実的な問題を取り上げながら、それを最も非現実的に見える方法――「思い煩うな」という解決で扱われるように見える。けれども実は、現実を扱う人間のやり方こそが最も非現実的であり、それが「思い煩い」だと語っておられるのである。 思い煩いはみっともなく見えるが、たいていはまじめで勤勉だ。これも逆説的だ。私たちは「備え」という言葉で不安を合理化する。しかし思い煩いとは、苦しみを避けるための備えではなく、苦しみを前払いしてしまうことに過ぎない。だからイエスは問われる。「あなたがたのうち誰が、思い煩ったからといって背丈を一尺でも伸ばすことができるだろうか。」ここで「一尺」と訳された一キュビトは約45センチである。背が低いことを心配して45センチ伸びるなら、私もたくさん心配しただろう。思い煩いは熱心に生きる技術のように見えるが、実際には人生の幅を狭めてしまう無効な精神労働なのかもしれない。 「まず神の国と神の義を求めなさい。」ここで「まず」とは時間の順番ではなく優先順位である。国を先に求めるとは「お金を無視しなさい」という意味ではなく、「お金が主人にならないようにしなさい」という意味だ。イエスは私たちの必要を否定されない。ただ、その必要が神になってしまうことを止められる。必要は現実だが、それが神になった瞬間、人は果てしなく不安になる。「そうすれば、これらのものはすべて与えられる」という約束もまた逆説である。それは報いの公式ではなく、関係に対する信頼である。神は「欲しいもの」をすべて与えるとは言われず、「必要なもの」をご存じだと言われた。 「一日の苦労は、その日だけで十分である。」一日に担うべき苦しみがあるという事実も、主は認めておられる。人生は苦しみを避けられない。この前提が違えば、この御言葉の解釈も変わらざるを得ない。それでも主は、その苦しみが一日を越えてはならないように境界を引かれる。だとすれば、信仰とは苦しみを消す力ではなく、苦しみの範囲を限定する力だと言うべきではないだろうか。今日の十字架は今日負えばよく、明日の十字架は明日の恵みによって負えばよい。逆説的に、私たちが今日を十分に生きられない理由は、明日がいつも今日を侵食してくるからである。 現実は重く、明日は恐ろしい。しかし今日と明日は神より大きくない。必要は現実だが、私の主人の現実はお金ではない。「神の国をまず求めよ」という言葉は、「現実を捨てよ」という意味ではなく、「現実を神の下に置け」という意味である。神の御言葉をより現実的に受け取る方法――それは現実をあまり考えないことではなく、神をより現実として受け取ることだ。これも逆説である。誰であれ、信仰を取り出して実際に用いてみない限り、この御言葉はその人の内で現実にならない。神を最優先に置く瞬間、人は最も現実的な人生を生きるようになるだろう。逆説的に――。

마태복음 묵상 【역설적으로…】 20260126(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 6:25~34 6:25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 목숨이 음식보다 중하지 아니하며 몸이 의복보다 중하지 아니하냐 6:26 공중의 새를 보라 심지도 않고 거두지도 않고 창고에 모아 들이지도 아니하되 너희 천부께서 기르시나니 너희는 이것들보다 귀하지 아니하냐 6:27 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나…