マタイの福音書 黙想【主が主なる理由】20260314(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生
マタイの福音書 22:34-46 22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 22:38 これが、重要な第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、 22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。 今日の箇所は、律法主義者たちと神の御子であるイエス様との違いを、はっきりと示している箇所であると言えるでしょう。律法学者たちは数多くの律法を知っていましたが、その本質については知りませんでした。一方、イエス様はそのすべての律法を貫く一つの主題、すなわち「愛」について語られました。 律法を守ってきたユダヤ人たちにとって、いつの間にかその律法が持っていた意味は失われ、伝統と習慣という名目だけが残るようになっていました。そのため、イエス様がこれまで行われた多くの仕業は、彼らにとっては伝統を破り、自分たちが守ってきた規則を壊す衝撃的で冒瀆的な行為としてしか見えなかったのです。 しかし、イエス様がそのようなことを行われたのは、その律法が与えられた本来の意図、その本質が何であるかを示すためでした。イエス様を試そうとしていた律法学者は、イエス様がどの律法が一番重要であるとおっしゃったなら、それに対して批判をするわなの準備をしていたでしょう。しかしイエス様は律法の行為について語られたのではなく、その本質である「愛」について語られました。ですから、このイエス様の答えに反論するということは、律法全体に反論することと同じであったため、彼らは何も反論することができなかったのです。律法の完成であるイエス様だからこそできるお答えだったのです。 今度はイエス様が彼らに質問されました。キリストとは誰なのか、すなわちメシアは誰であり、どのような存在なのかという質問です。律法学者たちの答えは当然、律法に書かれているとおり、ダビデの子として来られる方でした。確かにイエス様はダビデの血統、その系図に従って来られました。しかし、それだけがイエスがキリストである理由ではありませんでした。 「主が私の主に言われた」という言葉は、翻訳の過程を経た結果の表現です。その原文となる詩篇110篇1節は、「主は(ヤハウェは、すなわち、神は)私の主に言われた」と記されています。簡単にまとめると、「主である神様が、主であるキリストに言われた」という風に、今日の箇所の流れの中で、その名詞をよりはっきりと表すことができます。 ダビデは、自分の子孫として来られるキリストを「主」と呼びました。その理由は、自分がキリストより優れた存在ではなく、むしろキリストが来られるために用いられる存在であることを知っていたからです。しかし律法学者たちはその本質を理解できず、ただダビデの子孫、王の血統という人間的な側面だけを考えてきたのでした。 当時の文化と言語的な特徴の一つは、子は父と同等な存在として見なされるという思想です。そのため彼らは、ただローマの皇帝にだけ「主」という称号を使わなければなりませんでした。ローマ皇帝が「神の子」であると信じられていたからです。ですから彼らは、あえて答えることができなかったのです。 しかし、今日イエス様が彼らに示された御言葉は、ローマ皇帝ではなく、キリストこそが「神の御子」であるということでした。それが、キリストが主であり、私たちの主となる理由です。おそらく彼らの中には、すでにその答えを知っていた者もいたかもしれません。しかし、それを口に出すことはできませんでした。それは彼らがイエスを殺そうとした理由、すなわち’自らを神の子とし、神を冒瀆した’というイエス・キリストを訴えようとしているのに、イエスを本当に神の御子として認めることになり、同時にローマに対する反逆にもなってしまうからです。 イエス様が私たちの主である理由は数えきれないほどあります。その方が行われた御業によっても説明することができますし、その御性質によっても、また預言によっても説明することができます。しかし、最も最初に、そして最も確かで簡潔に説明できる方法は、その方の存在そのものによる説明でしょう。この世界を造られ、私たちを造られた神の御子、神ご自身であられるお方であるからこそ、イエス・キリストは私たちの主であられるのです。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=sD3PcfEsxCUrUTym










