ローマ人への手紙 黙想 【見捨てられること】 20250902 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 1:18~32 1:18 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 1:19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。 1:21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。 1:22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、 1:23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。 1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。 1:25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、 1:27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。 1:28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。 1:29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、 1:30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、 1:31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。 1:32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。     パウロは、人間が神を拒み、その不義によって神の真理を押し止めることこそが、すでに裁きの下にあることを示していると語った。神はご自身を創造の世界を通して明らかにされたが、人間は神を栄光に帰さず、感謝することもなく、かえって偶像に陥ってしまったのである。神は彼らを「見捨てられた(任せられた)」と言われたが、それは神がその人間の生活に介入されないという、裁きの一つの方式である。人間はその裁きを自由だと誤解し、それを享受する。しかし実際には、罪と欲望を幸福や人生の目的だと錯覚しながら生きているのだ。 ここでの「神が見捨てられる」という概念は、一見すると神の主権的な救い、あるいは聖徒の堅忍という神学的理解と衝突するように見える。もし神が機会を与えられたにもかかわらず、人々が最後まで拒み、結局神が彼らを見捨てられたのだとすれば、それは神の全的な救いや、最後まで支えてくださる恵みに反するのではないか、という問いを抱かざるを得ない。 しかし、パウロの文脈はそうではない。聖徒の堅忍とは、神が選ばれた者を最後まで支えてくださるという約束である。ここで重要なのは「最後まで支える」ということばであると同時に、それ以上に「選ばれた者」という対象である。そしてローマ書1章でパウロが語っている対象は、神に選ばれ召された再生した聖徒ではなく、神を拒む人類一般についてなのである。したがって、「見捨てられること」とは本来、恵みの外にあった者に与えられる裁きであり、すでに恵みの中にある聖徒の堅忍を否定するものではない。 ゆえに、神の主権的な救いと聖徒の堅忍は矛盾しない。むしろ裁きを行われる義の神と、救いを与えられる恵みの神が並んで現されており、互いをより鮮明にしているのである。パウロは救いの確実性を揺るがしているのではない。むしろ、神の恵みなしには人間が自ら救いに達することは絶対に不可能であることを強調しているのだ。 人はよく「イエスを信じなければ地獄に行く」と言うが、その表現は改めるべきである。聖書はすべての人間がすでに罪の中に生まれ、滅びの下にあるという事実を前提にしている。したがって、地獄とはイエスを信じないから新しく定められた罰ではなく、罪の中にある人間に与えられ、定められた結末なのである。それに対して天国とは、イエスを信じたことへの報酬ではなく、全く神の恵みによって新たに与えられる救いの賜物である。ゆえに「イエスを信じないから地獄に行く」という言い方は誤りであり、「イエスを信じて救われ、天国に行く」というのが正しい言い方なのである。

로마서 묵상 【내버려두심】 20250902(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 1:18~32 1:18 하나님의 진노가 불의로 진리를 막는 사람들의 모든 경건치 않음과 불의에 대하여 하늘로 좇아 나타나나니 1:19 이는 하나님을 알만한 것이 저희 속에 보임이라 하나님께서 이를 저희에게 보이셨느니라 1:20 창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니 그러므로 저희가 핑계치 못할찌니라 1:21 하나님을 알되 하나님으로…

ローマ人への手紙 黙想 【負い目のある者】 20250902 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 1:8~17 1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。 1:9 私が御子の福音を伝えつつ心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は絶えずあなたがたのことを思い、 1:10 祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。 1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。 1:12 というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。 1:13 兄弟たち、知らずにいてほしくはありません。私はほかの異邦人たちの間で得たように、あなたがたの間でもいくらかの実を得ようと、何度もあなたがたのところに行く計画を立てましたが、今に至るまで妨げられてきました。 1:14 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。 1:15 ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。 1:16 私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。 1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。     パウロが自分を「ギリシア人にも未開人にも、知恵ある者にも愚かな者にも負い目のある者」と告白したのは、福音の恵みを先に受けた者がどのような存在として召されているかを力強く語るものである。恵みは本質的に神に返すべき債務ではない。恵みは全く無償であり、人間の行為や償いによって報いることのできない神の賜物である。 しかし、恵みを受けた人は他の人々にその恵みを伝える責任を負っている。パウロはそれを「負債」と呼んだ。それはやってもよいことではなく、やらなければならないことなのである。信仰を私的な所有物として抱え込むことはできない。恵みは溜まった水ではなく、流れる川のようなものである。恵みを受けた者はその恵みを流し出さなければならず、その責任を無視する時、その人の中にある福音の認識は歪められ、縮小されてしまうであろう。 富める者は貧しい者に負債がある。学んだ者は学ばない者に負債を負っている。富を得、学問的知識を身につけ、社会的地位を得た人々は、それを私的利益としてのみ所有してはならず、社会的弱者に仕え、公的善を実現する責任を持っている。孔子は「学んだ者は必ず教えなければならない」と言った。善い負債意識を持つ人々は怠惰にならず、自らの功績を誇示することもない。彼らはただ、その負債を返すことができることを喜びとし、感謝するのである。

로마서 묵상 【빚진 자】 20250902(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 1:8~17 1:8 첫째는 내가 예수 그리스도로 말미암아 너희 모든 사람을 인하여 내 하나님께 감사함은 너희 믿음이 온 세상에 전파됨이로다 1:9 내가 그의 아들의 복음 안에서 내 심령으로 섬기는 하나님이 나의 증인이 되시거니와 항상 내 기도에 쉬지 않고 너희를 말하며 1:10 어떠하든지 이제 하나님의 뜻 안에서 너희에게로 나아갈 좋은 길 얻기를 구하노라 1:11 내가 너희…

ローマ人への手紙 黙想 【キリスト・イエスのしもべ】 20250901 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 1:1~7 1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。 1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、 1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。 1:5 この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。 1:6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました── 1:7 ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。   パウロはローマ書を始めるにあたり、自らを「イエス・キリストの僕」と紹介している。ここで私は二つのことを考えた。 第一に、使徒という権威ある職分の前に、まず「僕」というアイデンティティを語った点である。奴隷制度が存在した時代に「僕」が何を意味するのか、改めて説明する必要はないだろう。むしろ、現代において「僕」という言葉が歪められて用いられていることを確認しなければならない。「神の僕」「主の僕」という呼称は、本来なら最も低い身分を意味するが、実際には特権を持つ地位のように受け取られている。僕として生きようとするのではなく、特権階級として扱われたい者たちの口に「主の僕」という名が付けられているのだ。ゆえに「主の僕」という言葉が響くところには、むしろ「人の主人」というこだまが聞こえてくる。 第二に、パウロが自らを「神の僕」ではなく「イエス・キリストの僕」と言った点である。しかしそれは区別ではなく、同一の意味である。キリストの僕とならずに神の僕となることはできない。神へと至るすべての道はイエスを通している。何事であってもその道を通らなければ神に到達することはできない。イエスという名を持つ人格の前で彼を愛すると告白できない者が「神を愛する」と言うのは、宗教的で抽象的な虚飾にすぎない。愛はイエスの御名の前で告白され、膝はイエスの御名の前でかがめられなければならない。もし誰かが自らを「神の偉大な僕」と称するなら、その人は事実上イエス・キリストに敵対する者である。福音の働きは権力や自己誇示から始まるのではなく、イエス・キリストに従う僕の立場から始まる。

로마서 묵상 【예수 그리스도의 종】 20250901(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 1:1~7 1:1 예수 그리스도의 종 바울은 사도로 부르심을 받아 하나님의 복음을 위하여 택정함을 입었으니 1:2 이 복음은 하나님이 선지자들로 말미암아 그의 아들에 관하여 성경에 미리 약속하신 것이라 1:3 이 아들로 말하면 육신으로는 다윗의 혈통에서 나셨고 1:4 성결의 영으로는 죽은 가운데서 부활하여 능력으로 하나님의 아들로 인정되셨으니 곧 우리 주 예수 그리스도시니라 1:5 그로 말미암아 우리가…

エゼキエル 黙想【神様の怒り】20250830(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

エゼキエル 24:1-14 24:1 第九年の第十の月の十日、私に次のような主のことばがあった。 24:2 「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日付を書き記せ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せたからだ。 24:3 あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。『神である主はこう言われる。鍋を火にかけよ。これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。 24:4 これに肉片、ももと肩の良い肉片をみな一緒に入れ、選り抜きの骨でこれを満たせ。 24:5 選り抜きの羊を取れ。鍋の下には薪を積み、よく沸騰させて、その中の骨も煮よ。 24:6 それゆえ、神である主はこう言う。ああ、流血の都、さびついている鍋。そのさびは落とせない。一切れずつそれを取り出せ。くじで決めてはならない。 24:7 彼女の血は、まだそこにある。彼女はそれを裸岩の上に流し、地面に流して、土をかぶせようとはしなかった。 24:8 わたしが、憤りを募らせ、復讐するために、その血を裸岩の上に流して、おおわれないようにしたのだ。 24:9 それゆえ、神である主はこう言う。ああ、流血の都。わたしもこれに薪を積み上げよう。 24:10 薪を増やし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、香料を混ぜ、骨を焦がせ。 24:11 鍋を空にして炭火にかけ、その銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ。 24:12 しかし、 その骨折りは無駄であった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお火の中にあった。    イスラエルの民の数多くの罪のただ中で、神様は彼らへの裁きを繰り返し語っておられます。そしてその裁きのたとえとして、さびついた鍋のたとえをエゼキエルを通して告げてくださいます。    どれほど良いものを入れても、さびついた鍋で煮れば、中身にもさびが移ってしまいます。その鍋をきれいにしなければ、もはや使うことはできません。そのようなさびた鍋のようなイスラエルに向けて、神様は彼らがさびついていることを戒めると同時に、そのさびを焼き尽くし、清めてくださいます。    しかし、そこには一つの条件があります。すなわち、神様が彼らに向けた怒りをおさめてくださってこそ、彼らのさびは取り除かれ、清められるということです。神様は確かに彼らに対して怒っておられ、その罪を憎んでおられます。彼らの罪を見過ごすことも、忘れることもなさいません。    イスラエルのすべての行いに応じて、神様は彼らをお裁きになります。そしてその裁きにおいては、誰ひとり生き残ることはできません。すべての人は神様の裁きの座の前で堂々と立つことはできません。神様が彼らのすべての行いを覚えておられるからです。    しかし、それは神様が彼らを見捨てられたという意味ではありません。多くの罪と悪のただ中にあっても、神様が彼らへの怒りをおさめてくださるなら、彼らのあらゆる汚れは清められるのです。    その怒りをおさめるために、この地にイエス・キリストが来られました。神様と人との間の仲介者として、和解のいけにえとして、唯一の道であり、真理であり、いのちである方として来られました。そのお方を通して、私たちに向けられた神様の怒りはおさまり、私たちは聖められます。    このように、人のすべての行いに基づいて裁かれる神様の御前で、私たちの行いの代価を身代わりに払ってくださったイエス・キリストのゆえに、私たちは聖められ、永遠のいのちを与えられます。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=QTzWjEyZMQeBNtX3

에스겔 묵상【하나님의 분노】20250830(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

에스겔  24:1-14 24:1 아홉째 해 열째 달 열째 날에 여호와의 말씀이 내게 임하여 이르시되 24:2 인자야 너는 날짜 곧 오늘의 이름을 기록하라 바벨론 왕이 오늘 예루살렘에 가까이 왔느니라 24:3 너는 이 반역하는 족속에게 비유를 베풀어 이르기를 주 여호와께서 이같이 말씀하시기를 가마 하나를 걸라 24:4 건 후에 물을 붓고 양 떼에서 한 마리를 골라 각을 뜨고…

エゼキエル 黙想 【滅びるということ】 20250828 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 23:22~35 23:22 それゆえ、オホリバよ、神である主はこう言われる。「見よ。わたしは、あなたの心がすでに離れ去ったあなたの愛人たちを、あなたに対して駆り立てて、周りからあなたを攻めに来るようにする。 23:23 彼らはバビロン人、すべてのカルデア人、ペコデやショアやコアの人々、それに加えてアッシリアのすべての人々である。すべての若く魅惑的な男たち、総督、長官、士官、名士たち、馬に乗る者たちである。 23:24 彼らは、軍馬、戦車、車をもって、また民の大集団を率いてあなたに立ち向かい、大盾、盾、かぶとを着けて周りからあなたを攻める。わたしが彼らにさばきを委ねるので、彼らは自分たちのさばきにしたがって、あなたをさばく。 23:25 わたしがあなたに、わたしのねたみを向けるので、彼らは激しい憤りをもって、あなたに事を行う。彼らはあなたの鼻と耳を切り取り、残りの者は剣に倒れる。彼らはあなたの息子や娘たちを連れ去り、残りの者は火で焼き尽くされる。 23:26 彼らはあなたの着ている物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取る。 23:27 わたしはあなたの淫らな行いと、エジプトの地以来の淫行をやめさせ、あなたが彼らを仰ぎ見ず、もうエジプトを思い出さないようにする。」 23:28 神である主はこう言われる。「見よ。わたしは、あなたが憎む者の手、あなたの心が離れ去った者の手にあなたを渡す。 23:29 彼らは憎しみをもってあなたを取り扱う。すなわち、あなたの労苦の実をことごとく奪い取り、あなたを丸裸のまま捨て去る。こうして、あなたの淫行と淫乱と姦淫の恥は暴かれる。 23:30 これらのことがなされるのは、あなたが異邦の民を慕って姦淫をし、彼らの偶像であなたの身を汚したからである。 23:31 あなたが姉の道を歩んだので、わたしは彼女の杯をあなたの手に渡す。」 23:32 神である主はこう言われる。あなたは姉の杯、深くて大きい杯を飲む。物笑いと嘲りがたっぷり入った杯を。 23:33 あなたは酔いと悲しみに満たされる。恐怖と荒廃の杯、これがあなたの姉サマリアの杯。 23:34 あなたはこれを飲み、飲み干して、杯のかけらまでかみ、自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだ。──神である主のことば。 23:35 それゆえ、神である主はこう言われる。「あなたはわたしを忘れ、わたしをあなたのうしろに投げやったから、あなたも自分の淫らな行いと、淫行の責めを負え。」   オホリバにたとえられた南ユダの裏切りと裁きである。神は、エルサレムがバビロンと不義な同盟を結び、その力と文化を慕い求め、まるで淫らな女のように彼らと関係を結んだと告げられる。だが、彼らが慕い、より頼んだそのバビロンこそが、結局は神の道具となってエルサレムを滅ぼすのである。信ずべき対象を裏切ったエルサレムは、頼みにしていたものに裏切られ、滅びに至るのだ。姉サマリア、すなわち北イスラエルがすでに飲んだその裁きの杯を、妹エルサレムも避けることはできない。 しかし、その裁きとは不可逆的な終結を意味するのだろうか。カール・バルトは、神の裁きは破壊的な行為ではなく、人間の自己矛盾が露わになる場だと語った。そうであるなら、人間はいかなる形であれ「滅び」を免れることはできないであろう。その意味で、「滅びる」という経験は絶望に見えるが、神の視点においては回復のための愛の方法なのである。「死ねば終わり」とする唯物論や、実存的虚無主義によっては、この「滅びの神学」を理解することはできない。裁きは終結ではなく、神の民としての回復へと導く神の介入だからである。聖書は、死ぬ者であっても「主にあって死ぬ者は幸いだ」と告げている。 アリストテレスが『詩学』で悲劇の役割をカタルシスとして説明し、破滅の極みにおいて感情の浄化と成熟がもたらされると考えたように、エルサレムの没落もまた浄化と新しい創造のための出来事である。人間の不義が明らかになってこそ、神の義が現れる。ゆえに裁きはすべての終結ではなく、契約回復の転換点となる。人間はそれを句点と誤解するが、神にあってはただの読点にすぎない。神の時間を持たない人間は、それを認め、信じるべきである。限られた時間だけを信じて生きているが、それほど頼りにならないものはない。興亡盛衰に執着せず、むしろ神との関係に集中すべきではないだろうか。

에스겔 묵상 【망한다는 것】 20250828(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 23:22~35 23:22 그러므로 오홀리바야 나 주 여호와가 말하노라 내가 너의 연애하다가 싫어하던 자들을 격동시켜서 그들로 사방에서 와서 너를 치게 하리니 23:23 그들은 바벨론 사람과 갈대아 모든 무리 브곳과 소아와 고아 사람과 또 그와 함께 한 모든 앗수르 사람 곧 준수한 소년이며 다 방백과 감독이며 귀인과 유명한 자, 다 말 타는 자들이라 23:24 그들이 병기와…