ローマ人への手紙 黙想 【自由の条件】 20250917 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙  7:1~6 7:1 それとも、兄弟たち、あなたがたは知らないのですか──私は律法を知っている人たちに話しています──律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だけです。 7:2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死んだら、自分を夫に結びつけていた律法から解かれます。 7:3 したがって、夫が生きている間に他の男のものとなれば、姦淫の女と呼ばれますが、夫が死んだら律法から自由になるので、他の男のものとなっても姦淫の女とはなりません。 7:4 ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。 7:5 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。 7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。     パウロは律法と聖徒の関係を結婚にたとえている。ここで語られているのは一般的な意味での結婚ではなく、当時の結婚制度を取り巻く社会的状況である。結婚は愛の関係であると同時に、法と社会秩序によって強制される制度であった。特に女性にとってそうであった。妻は夫の権威と支配の下に束縛され、経済的にも社会的にも独立することができなかった。妻が夫の支配から解放される唯一の道は夫の死であった。ユダヤやローマの伝統に離婚は存在したが、それは例外的であり、女性の権利を守るためではなかった。したがって、権利を奪われた女性が自由と解放を得る唯一の道は夫の死であった。 パウロはこの状況を引き合いに出して律法を説明した。人間は律法の下で不当な夫に縛られた妻のように自由のない存在である。律法が死ななければ解放はない。しかし聖徒はキリストの死と結び合わされたことによって、律法に対してすでに死んだ者となり、古い夫である律法から根本的に解放された。ここで語られている自由は、以前の束縛から解かれた状態にとどまるものではなく、新しい結びつきへと導かれるものである。 パウロがこの関係を説明したのは、律法の下にある人間の無力さを示すためであった。自由や権利を奪われた女性はそれを自覚するが、宗教的抑圧はしばしば自覚されない。もしパウロが宗教を築こうとしたのであれば、律法の垣根を取り払うことはなかっただろう。しかし福音は人を隷属させるものではなく、解放し自由にするものである。パウロの主題は教会組織や敬虔、聖化ではなく、福音そのものであった。 規則は個人にとっても共同体にとっても生活のために重要である。福音の自由を知ったからといって、人間が社会的存在としてすべての規則を破棄することはできない。しかしそれを福音と混同してはならない。パウロには二つの訴えがあった。一つは福音そのものへの訴えであり、もう一つは教会への訴えである。このことを理解すればパウロの教えに矛盾はない。信仰は規則を守る律法的な信仰ではなく、キリストとの愛の結合から生まれる自発的な従順である。教会はそのような福音の人々によって建てられていく。

로마서 묵상 【자유의 조건】 20250917(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 7:1~6 7:1 형제들아 내가 법 아는 자들에게 말하노니 너희는 율법이 사람의 살 동안만 그를 주관하는 줄 알지 못하느냐 7:2 남편 있는 여인이 그 남편 생전에는 법으로 그에게 매인바 되나 만일 그 남편이 죽으면 남편의 법에서 벗어났느니라 7:3 그러므로 만일 그 남편 생전에 다른 남자에게 가면 음부라 이르되 남편이 죽으면 그 법에서 자유케 되나니 다른…

ローマ人への手紙 黙想 【神の賜物は】 20250916 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ローマ人への手紙 6:15~23 6:15 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。 6:16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。 6:17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、 6:18 罪から解放されて、義の奴隷となりました。 6:19 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。 6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。 6:21 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。 6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。 6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。   パウロはローマ人への手紙5章で、アダムとキリストを対比させて福音を説明した。アダムの罪の後、すべての人が罪の中に生まれ、死のもとに入ったように、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるすべての人に義といのちが与えられた。人間はそれぞれ独立して善悪を選び、自らの救いを達成できる自律的な存在ではない。善を行いたいと願ってもそのとおりにできず、悪を避けようと思っても避けられない。これは単なる意志の問題ではない。人間は望むと望まざるとにかかわらず、アダムとキリストという代表のもとに属する存在であるという意味である。神がいないと言い信じる人はどこにでもいるが、自らその枠組みの外に出ることができる人は誰もいない。 パウロは「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれました」(ローマ5:20)と言った。これは福音の偉大な宣言だが、一方で「罪を多く犯すほど恵みも多く受けられる」という誤解を招きかねない言葉でもある。しかしパウロの意図は、罪と恵みが量的に比例するということではない。むしろ、罪を深く自覚するほど、神の恵みをより深く知るようになるという意味である。パウロはこの誤解を正すために、洗礼の意味を持ち出す。洗礼とはイエス・キリストの死と復活に結びつけられる出来事である。すなわち、洗礼を受けた者は古い人がキリストとともに十字架につけられて罪に対して死に、よみがえられた主と結ばれて新しいいのちに生きるのである(ローマ6:3-5)。したがって、なお罪を犯し続け、それを正当化したり恵みによって合理化する人の口から出る「恵み」や「信仰」は、その真実性を疑わざるを得ない。 続いてパウロは、しもべと主人のたとえを用いて説明する。人間は決して中立的な存在ではなく、必ずある主人のもとに置かれている。分別のある人なら、人間が本来的に自立した存在ではなく、従属的であることに異を唱えられないだろう。罪に従えば罪のしもべとなり、神に従えば義のしもべとなる。世を好めば世のしもべとなり、みことばを好めば神のしもべとなる。これは避けられない帰結である。世の期待に従って生きながら口先で信仰を語っても、その中身は空虚である。世の忙しい歩みを止め、神の前に立ち止まる勇気がなければ、信仰は居場所を失い、消えていく。真実な信仰であるならば、立ち止まり、問い、従うことが必ず伴う。 いわゆる「ただで受けた恵み」に頼って、緊張感なく罪を重ねて生きることはできない。パウロが語る恵みとは、新しい主人に仕える力であり、真の自由を得る力である。その人の生き方が恵みの実在を証明する。完全であるという意味ではない。人は依然として不完全である。しかし、敬虔な時も、失敗してつまずく時も、良心はそれを映し出す。パウロはこう結論する。 「罪の報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23 恵みとは罪の言い訳ではなく、永遠のいのち、すなわち救われた聖徒の生へと導く力である。

로마서 묵상 【하나님의 은사는】 20250916(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 6:15~23 6:15 그런즉 어찌하리요 우리가 법 아래 있지 아니하고 은혜 아래 있으니 죄를 지으리요 그럴 수 없느니라 6:16 너희 자신을 종으로 드려 누구에게 순종하든지 그 순종함을 받는 자의 종이 되는 줄을 너희가 알지 못하느냐 혹은 죄의 종으로 사망에 이르고 혹은 순종의 종으로 의에 이르느니라 6:17 하나님께 감사하리로다 너희가 본래 죄의 종이더니 너희에게 전하여 준바…

ローマ人への手紙 黙想【空けられ、満たされる】20250913(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 5:12-21 5:12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に── 5:13 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。 5:14 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。 5:15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。 5:16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。 5:17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。 5:18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。 5:19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。 5:20 律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。 5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。    ヘブライ民族、イスラエルの民、そして彼らによって記された聖書を理解するうえで、必ず心に留めておくべき一つの原理があります。それは「代表性の原理」です。一人称の視点、ある一人の出来事や語られた言葉は、単にその人だけに留まるのではなく、その人を代表とする共同体や集団を念頭に置いて伝えられている、という原理です。  私たちがよく知るアダムとエバの罪、族長たちに与えられた約束、モーセに与えられた律法や預言者たちに与えられた預言など、旧約聖書の数多くの出来事は、この原理を含んでいます。また、新約聖書を記したヘブライ民族出身の使徒パウロも、当然のようにこの原理を持って手紙を書きました。  そして、この原理を直接的に用いて福音を語っている代表的な箇所が、きょうの本文です。すなわち、一人の罪と一人の従順、人間の最初の代表であったアダムの罪と、不滅の代表であられるイエス・キリストの従順です。  私たちには理不尽なことに思われるアダムの罪、不従順と、その結果として入ってきた死は、私たちの中に満たされる場所を空けるための出来事です。最初の代表であったアダムの不従順の結果を認めなければ、私たちの心は空けられません。空けられないということは、そこに満たすこともできないということです。  最初の代表アダムの罪を認め、自分を空けてからこそ、第二の代表であるイエス・キリストの従順と義が私たちの内に満たされるのです。律法によって罪が増し加わった分、その場所に神様の恵みが満ちあふれ、さらにあふれ出すのです。  私たちの人生において神様にささげる罪の告白と悔い改めの祈りは、単に恐れや罪悪感による行為ではありません。それは、自分の中に善があるという思い込み、偽りの義を無くし、場所を空ける時間であり、その場所に神様の恵みを受け入れるための第一歩なのです。 私たちは罪人です。使徒パウロが語るように、罪人の中のかしらのような存在です。しかし、だからこそ、永遠の命に至らせるイエス・キリストの恵みが、私たちの内に満ちあふれます。 https://youtu.be/2KqgSaLNAcE?si=ky9yZlrxbwrjWPub

로마서 묵상【비워진 곳에 채워지는 은혜】20250913(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서 5:12-21 5:12 그러므로 한 사람으로 말미암아 죄가 세상에 들어오고 죄로 말미암아 사망이 들어왔나니 이와 같이 모든 사람이 죄를 지었으므로 사망이 모든 사람에게 이르렀느니라 5:13 죄가 율법 있기 전에도 세상에 있었으나 율법이 없었을 때에는 죄를 죄로 여기지 아니하였느니라 5:14 그러나 아담으로부터 모세까지 아담의 범죄와 같은 죄를 짓지 아니한 자들까지도 사망이 왕 노릇 하였나니 아담은 오실…

ローマ人への手紙 黙想【苦難から希望まで】20250912(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ローマ人への手紙 5:1-11 5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。 5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。 5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。 5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。 5:9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。 5:11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。    使徒パウロは本日の箇所で、私たちに与えられた義と、その義をお与えくださったイエス・キリストによる神様との平和について語ることから始めています。そして、その後に続けて、イエス・キリストがなさったこと、その方を通して私たちに成し遂げられたことについて語られています。    私たちがよく知っているイエス・キリストの福音は、十字架での死と復活です。またその福音は、私たちに対する神様の愛の確証であり、私たちに救いをもたらす神様の力です。そのイエス・キリストの福音の中に、苦難、忍耐、練られた品性、そして希望という要素が含まれているのです。    良いお知らせである福音の中に、なぜ私たちが恐れ、苦手だと思うような苦難や、忍耐、練られるという厳しい過程が含まれなければならないのでしょうか。ただ単純に、私たちを救われたという喜ばしい知らせ、私たちの希望だけを福音として語られないのはなぜでしょうか。それはイエス様ご自身が私たちの模範となられ、神様の救いがどのように成就するのか、その過程を直接私たちに示してくださったからです。    救いについて語るとき、必ず登場する表現に「すでに、しかし、まだ」という言葉があります。すでに私たちは救いを受けており、私たちに実現しましたが、実際に現れているのは一部分にすぎないということです。だからこそ私たちは今、神様の救いを部分的に体験しながら、完全に現れる未来を希望しつつ生きているのです。    聖書は明確に、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちが世の中で苦難に遭うことを証言しています。実際、私たちはこの世を生きながら、その信仰のゆえに数え切れないほど多くのことを手放さなければならず、時には批判を受け入れなければならないこともあります。しかし、その地点であきらめずに忍耐するならば、その苦難と忍耐は私たちの信仰の成長の土台となります。そうして私たちは練られた品性へと形作られていくのです。    その練られた品性の果てに、私たちは完全な希望を見つめることになります。苦難と忍耐と練られる過程を経て、世のものに満足せず、部分的に現れている神様の救いを体験し、それが完全に成し遂げられるその日への希望を抱いて生きるようになるのです。    イエス様は十字架につけられるまで苦難を受けられました。しかし私たちの完全な救いを成し遂げるために、そのすべての過程を忍耐され、救いの練りを完成されました。ついに、復活によって、完成された救いの希望を私たちに与えてくださったのです。このことが、私たちが歩んでいくべき道であり、イエス・キリストが私たちに示された、苦難から希望まで至る道なのです。 https://youtu.be/TaIUDJUsvYU?si=woYMMLLFSDEx-tHq

로마서 묵상【환난부터 소망까지】20250912(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

로마서  5:1-11 5:1 그러므로 우리가 믿음으로 의롭다 하심을 받았으니 우리 주 예수 그리스도로 말미암아 하나님과 화평을 누리자 5:2 또한 그로 말미암아 우리가 믿음으로 서있는 이 은혜에 들어감을 얻었으며 하나님의 영광을 바라고 즐거워하느니라 5:3 다만 이뿐 아니라 우리가 환난 중에도 즐거워하나니 이는 환난은 인내를, 5:4 인내는 연단을, 연단은 소망을 이루는 줄 앎이로다 5:5 소망이 우리를 부끄럽게…

ローマ人への手紙 黙想 【アブラハムの信仰は、どのようにしてイエスを信じる信仰となるのか】 20250911 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ローマ人への手紙 4:18~25 4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。 4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。 4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、 4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。 4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。 4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、 4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。 4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。   パウロはアブラハムについて、「望み得ない時に望みを抱いて信じた」と語ります。アブラハムは、自分の百歳という老いた身体と、サラの死んだ胎という不可能な現実の前にあっても、神の約束を信仰によって受け入れました。信仰とは、現実を無視したり、避けたりすることではありません。むしろ、現実を正面から見据えた上で、その向こう側で働かれる神の力を期待し、信頼することなのです。アブラハムが神の約束を疑わなかったと記されていますが、彼にも人間的な揺らぎが確かに存在しました。それは欠点なのでしょうか?信仰も人生も、揺らがずに自動的に立つことなどありません。大切なのは、揺れながらも、最終的に神をしっかりと掴み直すところへ戻っていくことです。帰るべき場所、心を預ける場所は、神以外にないのです。信仰とは、自信から出るものではなく、神を信頼するところから生まれる粘り強い希望です。 「『彼には義と認められた』と書いてあるのは、彼だけのためでなく、私たちのためでもあるのです」(ローマ4:23–24)。アブラハムの信仰について語るのは、ある一人の英雄的な人物の物語を語ろうとするのではなく、神が信仰を通して人を義とされる方法を明らかにするためなのです。すべてが変わっても、信仰の価値は変わりません。アブラハムの信仰は歴史の中で終わった出来事ではありません。それこそが信仰の原型であり、同じ本質の信仰を持つ者たちに、今も変わらず同じ祝福が与えられるのです。では、どのようにして「同じ本質」となるのでしょうか?「義と認められた」という表現は、法的でありながら存在論的な決定です。ルターは、「同時に義人であり、罪人である(simul justus et peccator)」と述べました。アブラハムに義が転嫁されたように、死者の中からイエスをよみがえらせた神を信じる者にも、義が転嫁されるのです。 アブラハムはモリヤの山で、息子を献げよという神の命令に従いました。それは決定的な出来事でした。アブラハムは、神が息子を再び生かすことがおできになると信じていました。モリヤ山では、イサクが死ぬ直前に止められましたが、イエス・キリストの苦しみと死は、残酷なまでに現実そのものでした。イエスは死に、そして復活されました。したがって、この物語はアブラハムの偉大さを称えるためにあるのではなく、キリストを証しするためにあるのです。大切なのはアブラハムではなく、その信仰を通して明らかにされる神の救いのご計画なのです。キリストこそ、アブラハムの従順を完全に成し遂げた方であり、十字架の死と復活は、アブラハムの信仰を究極的に完成させる出来事です。アブラハムの信仰はメシアに向けられた影であり、私たちの信仰はそのメシアを信じる具体的な告白なのです。 私たちは、アブラハムの信仰という過去の模範に届かないからといって、自分を責める必要はありません。むしろ、今日の私たちの人生の中で、信仰によって義とされるという、現実に与えられた祝福を味わうべきなのです。結局のところ重要なのは、人間アブラハムの信仰そのものではなく、そのような信仰を可能にした神の約束と誠実さなのです。ですから、イエスを信じる者は皆、アブラハムの子孫であり、その信仰の系譜の中にある者なのです。この信仰は人間の理解を超えています。望み得ない中で信じること、死者を生かす神を信頼すること、現実よりも神の約束に重きを置くこと。それがアブラハムの祝福であり、今日イエスを信じる私たちが受けている祝福なのです。

로마서 묵상 【아브라함의 믿음은 어떻게 예수님을 믿는 믿음이 되는가】 20250911(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

로마서 4:18~25 4:18 아브라함이 바랄 수 없는 중에 바라고 믿었으니 이는 네 후손이 이같으리라 하신 말씀대로 많은 민족의 조상이 되게 하려 하심을 인함이라 4:19 그가 백세나 되어 자기 몸의 죽은 것 같음과 사라의 태의 죽은 것 같음을 알고도 믿음이 약하여지지 아니하고 4:20 믿음이 없어 하나님의 약속을 의심치 않고 믿음에 견고하여져서 하나님께 영광을 돌리며 4:21 약속하신…