マタイの福音書 黙想【赦しの価値】20260228(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 18:21-35 18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」 18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。 18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。 18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。 18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。 18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。 18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。 18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。 18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。 18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。 18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。 18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』 18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。 18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」  かつてネットで流行っていた言葉があります。「許可をもらうことより、赦されるのが簡単」という言葉です。その由来はある夫婦の話からです。夫が買いたい何かを手に入れるためには、妻の許可を得て物を買うのではなく、先に物を買って、その後に妻から赦されるほうがより簡単、という話です。  しかし、より現実的に許可と赦しを見るなら、赦しはそのように簡単なものではないということに気づかされます。もしかすると、この世のすべての人が最も難しいと感じていることが、この赦しではないかと思えるほどです。もしお互いにこのような赦しが簡単に成されるものであったなら、この世の争いのほとんどは起こらなかったでしょう。結局、赦すことのできない私たちの姿が、今この世の数多くの争いの原因となっているのです。  このような赦しは、たいてい私たちの「利益」と深く関係しています。今日の箇所の内容のような金銭的、物理的な利益とともに、私たちのプライドどを守ったり、顔を立てたりするなどの精神的な利益、そのようなものを守ろうとする欲望が、私たちの中で赦しを難しいものとする原因となるのです。私たちが誰かを赦すということは、それらを手放すことと同じだからです。  赦すということは、すべてを我慢しながら生きるという意味ではありません。問題があるなら、それに応じてふさわしい解決策を探さなければなりません。しかし、その解決策に至るまで、赦しの心を持って解決策を探すことと、そのような心もないまま問題の解決だけを求めることには、その過程においても結果においても大きい違いがあります。赦しは単なる結果にだけ影響を与えるのではありません。過程から結果に至るまで、すべての瞬間に影響を与えるのです。  この世を生きていくために、私たちが当然必要とし、守りたいものがあります。しかし私たちは、そのようなものを赦しと引き換えることで、最も良いものを受けることができます。それは、私たちが誰かを赦したように、ほかの何かで許されることのできない私たちの罪が赦されること、私たちが天の御国の一員となること、そしてその天の御国の一員としてこの世を生きていくことです。 https://youtu.be/exRy7FEMd4s?si=RPjobdmTJp-fK8Un

마태복음 묵상【용서의 가치】20260228(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 18:21-35 18:21 그 때에 베드로가 나아와 이르되 주여 형제가 내게 죄를 범하면 몇 번이나 용서하여 주리이까 일곱 번까지 하오리이까 18:22 예수께서 이르시되 네게 이르노니 일곱 번뿐 아니라 일곱 번을 일흔 번까지라도 할지니라 18:23 그러므로 천국은 그 종들과 결산하려 하던 어떤 임금과 같으니 18:24 결산할 때에 만 달란트 빚진 자 하나를 데려오매 18:25 갚을 것이…

マタイの福音書 黙想【失わない共同体】20260227(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 18:10-20 18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。 18:11 – 18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。 18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。 18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。 18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。 18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。 18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。 18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。 18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」  「迷う一匹の羊のたとえ」と呼ばれる今日の御言葉の節は、その前後の文脈とあわせて読むと、私たちにさらに深い洞察を与えます。失ったものを取り戻したときの喜びのように、神様もまた、迷い出た者が立ち返ることを大いに喜ばれるというメッセージは、これまで多くの説教の中で、私たちへの救い、または伝道や宣教、あるいは教会を離れた人々を呼び戻す働きに力を与えてきました。    しかし、この御言葉を改めて見つめ直すと、より大切なところは、失われたものを取り戻すことよりも、そもそも失わないことであると気づかされます。この御言葉は、外部に向けて適用される前に、まず私たちの内部に適用されるべきものです。これを外側にだけ当てはめているなら、私たちは羊を失うことを繰り返すだけでしょう。イエス様は、「迷う羊を探し出しなさい」とだけ語られたのではなく、「わたしのうちにとどまりなさい」と語られました。    これまでイエス様が教えられた祈りは、確かに静かな部屋での密やかな祈りでした。しかし今日の箇所では、心を一つにして共に祈ることを教えられています。そしてそこに現れるのが「教会」という存在です。イエス様はご自分の教えを覆されたのではありません。同じ志を持つ共同体、すなわち教会のあるべき姿を教えておられるのです。    イエス様が語られたとおり、イエス様の御名によって集まる教会の力は、この世が打ち勝てないほどのものです。しかし、そのような教会の形成を妨げる要因は、ほとんどの場合、教会の外にあるのではなく、教会の中にあります。    現代においても、さまざまな理由で教会が分裂し、内部の争いが絶えない現実があります。その結果、教会を去る人も少なくありません。空いた席に新しい人が加わり、それを神様の恵みだと言うこともよくあります。しかしそれは緊急処置にすぎません。その教会に刻まれた、教会がその人に刻んだ本質的な傷は、まだ直ってはいないのです。その傷を予防し、また癒やしていく道は、互いに小さな子どものようにへりくだること、その小さな者を受け入れることであり、そして赦し合うです。    「証文の出しおくれ」ということわざを見て、「出しおくれたけれど、証文が用意できたからよかった」と言う人はいません。最も望ましいのは、牛を失わず、なおかつ囲いも整えられることです。私たちは、へりくだりと顧みと赦しが満ちあふれる関係を築き、イエス様に似た教会を建て上げていかなければなりません。そのようにして互いを守り合うのです。    そのように建てられる教会こそが、イエス様の御名によって集まり、イエス様ご自身がその中に共にいてくださる共同体なのです。 https://youtu.be/FG3HQsE4_xg?si=46dHGmeak0XzZz8ihttps://youtu.be/_q8QUYxphWs?si=lkpAHDoRMqI20fhU

마태복음 묵상【잃지 않는 공동체】20260227(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 18:10-20 18:10 삼가 이 작은 자 중의 하나도 업신여기지 말라 너희에게 말하노니 그들의 천사들이 하늘에서 하늘에 계신 내 아버지의 얼굴을 항상 뵈옵느니라 18:11 (없음) 18:12 너희 생각에는 어떠하냐 만일 어떤 사람이 양 백 마리가 있는데 그 중의 하나가 길을 잃었으면 그 아흔아홉 마리를 산에 두고 가서 길 잃은 양을 찾지 않겠느냐 18:13 진실로 너희에게…

マタイによる福音書 黙想 【石臼の重さ】 2026026(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 18:1~9 18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」 18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。 18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。 18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。 18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。 18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。 18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。 18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。   イエス様は子どもを弟子たちの真ん中に立たせられる。子どもは自分で立つことのできない、依存的な存在である。神様なしでも立てると信じる自己確信を高慢と呼び、回心とはその思い違いが崩れることである。信仰とは、ただ神様のみにより頼む状態である。 子どもを受け入れることが、そのままイエス様を受け入れることであり、それは弱い者に対する態度がそのまま神様に対する態度であるという意味である。高慢な人にとって弱い者は、煩わしく、負担であり、時には脅威となる存在である。だから高慢な者は、弱い者をそのままにせず、押しのけ、這い上がれないようにする。 その高慢が活性化する場所は共同体である。イエス様の警告は強く、厳しい。ひき臼の比喩は誇張ではない。自我の密度を空しくすれば軽くなり上へと上がるだろう。しかし高慢は重いものであるから沈む。ひき臼の重さは、すなわち自己の重さである。 手や足や目を切り捨てよという御言葉も同じである。失敗したら自傷せよという意味ではない。神様よりも愛しているもの、その高慢を断ち切れということである。弟子たちの問いは「天の御国で誰が一番大きいのですか」という問いであったが、イエス様の答えは天国だけの話ではない。この地上においても、大きく見えるが大きくないものと、小さく見えるが小さくなく、むしろ大きいものが十分に見られるのである。

마태복음 묵상 【연자 맷돌의 무게】 20260226(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 18:1~9 18:1 그 때에 제자들이 예수께 나아와 가로되 천국에서는 누가 크니이까 18:2 예수께서 한 어린 아이를 불러 저희 가운데 세우시고 18:3 가라사대 진실로 너희에게 이르노니 너희가 돌이켜 어린 아이들과 같이 되지 아니하면 결단코 천국에 들어가지 못하리라 18:4 그러므로 누구든지 이 어린 아이와 같이 자기를 낮추는 그이가 천국에서 큰 자니라 18:5 또 누구든지 내 이름으로…

마태복음 묵상 【변화산 아래에서】 20260225(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 17:14~27 17:14 저희가 무리에게 이르매 한 사람이 예수께 와서 꿇어 엎드리어 가로되 17:15 주여 내 아들을 불쌍히 여기소서 저가 간질로 심히 고생하여 자주 불에도 넘어지며 물에도 넘어지는지라 17:16 내가 주의 제자들에게 데리고 왔으나 능히 고치지 못하더이다 17:17 예수께서 대답하여 가라사대 믿음이 없고 패역한 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며  얼마나 너희를 참으리요 그를 이리로…

マタイによる福音書 黙想 【変貌の山の下で】 20260225(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 17:14~27 17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、 17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。 17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」 17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。 17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」 17:21 21 17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。 17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。 17:24 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」 17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」 17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。 17:27 しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」   弟子たちは変貌の山で、神様の愛する子であるという御声を聞いた。しかし山を下りたとき、弟子たちは律法学者たちと言い争っており、悪霊につかれた子どもはけいれんして倒れていて、切迫した父親は弟子たちが何の助けにもならなかったとイエス様に訴えた。山の上では神様の御子であることが示されたが、山のふもとでは何一つ作動していなかった。それが本文に現れているイエス様の叱責の理由であった。 弟子たちは権威を与えられていたが、信頼が作動しないために力が発揮されなかった。群衆は奇跡見物をして歩くだけで、神の国を信じもせず追い求めもせず、律法学者たちは相変わらず既得権のための揚げ足取りに余念がなかった。イエス様は悪霊を追い出せなかった弟子たちに、あなたがたの信仰が小さいからだと言われたが、それは信仰の大きさというより信頼の状態と言うべきである。神様は明らかに示されたが、人々の信仰は見いだすことができなかった。 悪霊を追い出すからといって、それが信仰であるとは限らない。マタイの福音書7章では、わたしの名によって悪霊を追い出しても、わたしはあなたがたを全く知らないと言われた。その場合は、部分的に力が現れたとしても、関係がなかったことへの叱責である。結局のところ、問題は力そのものではなく、関係と信頼の問題であった。 そして再び宮の税の話へと続く。この物語は、宗教が税を納めるかどうかという問題ではなく、変貌の山から続いているイエス様の正体に関することである。宮は神様の家であり、イエス様は神様の御子である。変貌の山で、これはわたしの愛する子であるという御声を聞いた人々が、実際の生活の中でその信仰をどのように表すのかという問いである。16章を通して、イエス様はそのことを語っておられたのである。

マタイによる福音書 黙想 【イエス様は変わられたのだろうか】 20260224(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 17:1~13 17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。 17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。 17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。 17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。 17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。 17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」 17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」 17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。 17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」 17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。   イエス様はIncarnationによって私たちのただ中に来られた。御言葉が肉となられた。天が地へと下って来た出来事である。それは神性が変わったということではなく、その栄光が低い所へと降りて来られたということである。イエス・キリストのケノーシス、すなわち自己の空しさは、存在論的な変化ではなく、栄光の隠蔽であった。神であられることが変わったのではない。ただ神様が人間の条件の中へ入って来られたのである。 人間はTransformationを望む。変身したいと願う。もっと強く、もっと輝き、もっと優れた存在になりたいと思う。技術や知識によって自分を変え、アップグレードしようとする。しかしその多くは外面的な調整や状態の改善にすぎない。本質を自ら変え出すことのできる存在ではない。努力もし、前向きな期待も抱くが、人間は自力救済が不可能な存在である。 山の上で起こった出来事はTransfigurationであった。イエス様が変身して、より神的な存在になられたのではなく、隠されていた栄光が現れたのである。イエス様は変わられなかった。ベツレヘムのIncarnationによって栄光は覆われていたが、変貌の山のTransfigurationによって本来の栄光が現れ、神様はそれを弟子たちにお示しになったのである。 人間の罪の姿も、神様があらわされれば天下に露わになるだろう。しかし神様が照らしてくだされば、その人を通して神様のかたちが現れることもある。自らをTransformationによって新しくすることはできないが、Incarnationされたキリストのうちにあるとき、私たちはキリストの栄光にあずかる存在としてTransfigurationされ得る。神様の創造が私の内にあり、その上に光が注がれるなら、私もまた光を放つことができる。

마태복음 묵상 【예수님은 변화하셨을까】 20260224(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 17:1~13 17:1 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 그 형제 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라가셨더니 17:2 저희 앞에서 변형되사 그 얼굴이 해 같이 빛나며 옷이 빛과 같이 희어졌더라 17:3 때에 모세와 엘리야가 예수로 더불어 말씀하는 것이 저희에게 보이거늘 17:4 베드로가 예수께 여짜와 가로되 주여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 주께서 만일 원하시면 내가 여기서…