요한일서 묵상【아는 것이 힘이다】20260109(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한일서 5:13-21 5:13 내가 하나님의 아들의 이름을 믿는 너희에게 이것을 쓰는 것은 너희로 하여금 너희에게 영생이 있음을 알게 하려 함이라 5:14 그를 향하여 우리가 가진 바 담대함이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라 5:15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻은 줄을 또한 아느니라 5:16 누구든지 형제가 사망에 이르지 아니하는…

第一ヨハネの手紙 黙想 【御子のうちにあるいのち】 20260108(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一ヨハネの手紙 5:1~12 5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。 5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。 5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。 5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。 5:6 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。 5:7 三つのものが証しをします。 5:8 御霊と水と血です。この三つは一致しています。 5:9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。 5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。 5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。 5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 ヨハネは倫理規範を提示しているのではなく、神がいかなるお方であるかを存在論的に力強く語っている。「愛しなさい」という命令は、人間が何をすべきかという問いとして読まれがちであるが、実際にヨハネが切実に語ろうとしているのは、神がどのようにご自身を啓示され、その啓示の中で人間がどのように存在するのかということである。したがって、愛は付け加えるべき道徳ではなく、生きるべき存在のあり方なのである。 ヨハネは信仰を選択や決断として説明せず、「神から生まれたもの」と語る。これは、信仰が人間の決意から始まるのではなく、神ご自身が私たちの内で始められた出来事であることを意味している。そのアイデンティティの中において、愛は守るべき義務ではなく、生きていること、そして信じていることの証しとなる。 神の内に生きること、神を信じる信仰によって生きることは、愛というかたちでご自身を現されたイエス・キリストの内に生きる道以外には存在しない。神に近づくために啓示された道はイエス・キリストただおひとりであり、その啓示された通路は、ただ愛として現された。 聖霊は、そのことが真実であることを私たちの内に証ししてくださる。だからこそ、神を信じること、イエスを信じること、兄弟を愛すること、そして聖霊が私たちの内におられることは、互いに切り離された事柄ではない。これらは一つのいのちであり、一つの信仰であり、一つの生である。ヨハネが語る信仰とは、すべてを理解することではなく、イエス・キリストを信じることを通して、すべてが一つにつながっていくことなのである。

요한일서 묵상 【아들 안에 있는 생명】 20260108(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한일서 5:1~12 5:1 예수께서 그리스도이심을 믿는 자마다 하나님께로서 난 자니 또한 내신 이를 사랑하는 자마다 그에게 난 자를 사랑하느니라 5:2 우리가 하나님을 사랑하고 그의 계명들을 지킬 때에 이로써 우리가 하나님의 자녀 사랑하는 줄을 아느니라 5:3 하나님을 사랑하는 것은 이것이니 우리가 그의 계명들을 지키는 것이라 그의 계명들은 무거운 것이 아니로다 5:4 대저 하나님께로서 난 자마다 세상을…

第一ヨハネの手紙 黙想 【まだ行くべき道】 20260107(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一ヨハネの手紙 4:13~21 4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。 4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。 4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。 4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。 4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。 4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。 4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。 4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。 ヨハネが語ろうとしているのは、神を信じるとは、実際に、そして具体的に何を意味するのかという問いである。 ヨハネにとって信仰は、心の中の思いや言葉による告白にとどまるものではない。神が愛であるなら、その神のうちにとどまる生は、必然的に愛という姿となって現れる。だから兄弟愛は信仰の義務ではなく、信仰が実在していることを証明する絶対的なしるしとなる。 人々は信仰について多くを語ったが、共同体の中で責任を担おうとはしなかった。中には、ついに共同体を去っていった者もいた。ヨハネはこの問題を、責任や義務という言葉で縛ろうとはしない。代わりに、単純でありながら避けることのできない問いを投げかける。そこに愛はあるのか。 愛しているのに表すことができないなら、それは苦しみであり、愛していないのに愛しているふりをすることもまた重荷である。愛はいつも正直だ。だからこそ、愛は最もごまかしのきかない信仰の姿なのである。 ヨハネは「愛のうちには恐れがない」と語る。だからといって、裁きがないと言っているのではない。ただ、罰を恐れるあまり神を信じているのだとしたら、それはまだ愛が始まっていないのだと言うのである。神は恐ろしい裁判官ではなく、今ここに共におられる方である。それは、愛があるかないかの違いである。愛のうちに、すなわち神のうちにとどまる者は、裁きの前にあっても大胆である。 ヨハネが言う「兄弟」とは、清らかで理想的な同労者たちを情深く呼ぶ美しい呼称ではない。身近な存在でありながら、ときに疎ましく、傷や怒りを与えてくる人々のことである。そうした人々は、いつも私たちの周りにいる。ヨハネは、兄弟を愛さずに神を愛していると言うことは、自分自身を欺くことだと語る。神への愛は、必ず人への愛を通して、はっきりと現れるからである。経験上、憎い人を「履修」しきれなければ再履修があり、その時にはさらに手ごわい人が現れた。愛が重たく感じられるなら、まず憎まないことから、愛を始めてもよい。

요한일서 묵상 【아직도 가야 할 길】 20260107(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한일서 4:13~21 4:13 그의 성령을 우리에게 주시므로 우리가 그 안에 거하고 그가 우리 안에 거하시는 줄을 아느니라 4:14 아버지가 아들을 세상의 구주로 보내신 것을 우리가 보았고 또 증거하노니 4:15 누구든지 예수를 하나님의 아들이라 시인하면 하나님이 저 안에 거하시고 저도 하나님 안에 거하느니라 4:16 하나님이 우리를 사랑하시는 사랑을 우리가 알고 믿었노니 하나님은 사랑이시라 사랑 안에 거하는…

요한일서 묵상 【성육신과 형제 사랑】 20260106(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한일서 4:1~12 4:1 사랑하는 자들아 영을 다 믿지 말고 오직 영들이 하나님께 속하였나 시험하라 많은 거짓 선지자가 세상에 나왔음이니라 4:2 하나님의 영은 이것으로 알지니 곧 예수 그리스도께서 육체로 오신 것을 시인하는 영마다 하나님께 속한 것이요 4:3 예수를 시인하지 아니하는 영마다 하나님께 속한 것이 아니니 이것이 곧 적그리스도의 영이니라 오리라 한 말을 너희가 들었거니와 이제 벌써…

第一ヨハネの手紙 黙想 【受肉と兄弟愛】 20260106(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一ヨハネの手紙 4:1~12 4:1 愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。 4:2 神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。 4:3 イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。 4:4 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。 4:5 彼らはこの世の者です。ですから、世のことを話し、世も彼らの言うことを聞きます。 4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。 4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。 4:8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 ヨハネは、「もっともらしく聞こえるからといって信じてはならず、必ずその霊を見分けなければならない」と語る。世の中には一理(いちり)あるように思える言葉が数多く存在する。しかし、私たちが見分け、信じるべきものは一理ではなく、真理である。ヨハネがこのように語ったのは、彼の時代に信仰を惑わし、人々を欺く思想が実際に存在していたからである。ヨハネの手紙が記された1世紀末のヘレニズム世界には、「霊は高貴であり、肉体は劣ったもの、あるいは悪である」とする二元論的な思想が広く浸透しており、その考え方は教会の中にまで入り込んでいた。その結果、人々はイエス・キリストが人間の身体を取って来られるはずがなく、ただ霊的存在として現れたに過ぎないと考えるようになった。このような思想は、後にグノーシス主義として体系化されていくが、ヨハネの時代にはまだ完成された教理体系ではなく、知的に洗練され、霊的にも深く見える身振り(ジェスチャー)として人々を魅了していたのである。 ヨハネは、イエスを実際に見、触れ、語り合い、共に生活し、さらに肉体の死と復活の現場にまで立ち会った、「人間イエス」の生き証人であった。彼の記憶の中には、肉体と人格をもったイエスの姿が鮮明に刻まれていた。だからこそ、イエスの人間性、すなわち受肉を否定する教えに対して、彼が沈黙することはあり得なかったのである。キリストは人として来られたのではなく、霊的幻影として現れたのだと主張する二元論者たちに対し、ヨハネはそれを「神に属さない、反キリストの霊」であると断固として言い切った。世の思考様式の中にとどまっている限り、人は時代が提供する「もっともらしい理屈」に容易に流されてしまう。私たちが生きる現代の思考様式もまた、一つの時代が生み出した断片的な一理を、合理的であるかのように共有しているに過ぎないのかもしれない。 ヨハネの霊の識別に対する語調は、きわめて断固としている。しかし本文を読むと、1節から6節まで偽りの霊について語っていた流れが、7節から突然「愛」という主題に移っているように見える。だが、ヨハネが複数の主題を無秩序に並べたわけではない。彼は、霊の識別が真に成し遂げられたなら、その結果は必ず神と実際に結ばれた生へと現れる、という前提の上で語りを進めているのである。すでに第3章でも愛について語っているように、ヨハネにとって霊の識別は、愛という主題の外側にあるのではなく、その内側に含まれている問題である。神と結ばれているなら、その関係は神の存在のあり方として現れざるを得ず、その存在のあり方こそが愛なのである。 それゆえヨハネは、愛する者は神から生まれた者であり、神を知っている者だと言い、愛さない者は神を知らないと断言する。神は愛を行われる方であるだけでなく、その存在そのものが愛だからである。人が神を先に愛したのではなく、神が先に人を愛し、人の罪のために御子を宥めの供え物としてお与えになった。その方法こそが、受肉と十字架の出来事であった。ヨハネは、そのすべての出来事の証人である。したがってヨハネにとって受肉とは、神学的論争の対象ではなく、神の愛をどれほど現実的に体験したかという問題であった。人格としてご自身を現された神を知らなければ、神格としての神を真に知ることはできない。神格である神が人格となって、人格をもつ人間を訪ねてくださったからこそ、人間に救いと信仰が始まったのである。ゆえに、最も霊的な信仰とは、常に人格の上に築かれた信仰なのである。

第一ヨハネの手紙 黙想 【信仰のしるし】 20260105(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

第一ヨハネの手紙 3:13~24 3:13 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。 3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。 3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。 3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。 3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。 3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。 3:21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。 3:22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。 3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。 3:24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。 ヨハネの手紙一における「愛しなさい」という命令は、文脈を無視して突然現れた倫理的要求ではない。ヨハネは初めから意図された流れに従って語りを進め、ついに自分が本当に語りたかった結論、すなわち愛に到達する。その順序は明確である。信仰は抽象的な概念ではなく、実際に見て、聞いて、触れたいのちのことばとの出会いから始まった。そしてその出会いは、個人の内面的体験にとどまらず、初めから関係の中で現れる生き方であった。 この関係を守るために、ヨハネは「光の中を歩みなさい」と語る。しかし、光の中を歩むとは、罪がないという意味ではない。罪は依然として存在するが、それを隠さず認めることによって、私たちは神との関係の中にとどまることができる。問題は罪そのものではなく、罪を否定することによって神との関係を脅かす偽善である。ヨハネが求めているのは道徳的完全さではなく、関係の真実さなのである。 ヨハネは、この関係が生活の中でどのように検証されるのかを、さらに具体的に示さなければならなかった。神を知っているということは、知識にとどまることはできず、必ず生き方の方向や態度として現れなければならない。その最初の試金石が兄弟である。神との交わりは、必然的に信徒同士の交わりへとつながっていく。だからこそ、ヨハネが語る「新しい戒め」とは、兄弟愛にほかならない。ヨハネが初めから語ってきた、いのちと光、そして交わりが実際に存在していることを示す、最も具体的な結果が愛なのである。 真実か偽りか、神に属しているのか、この世に属しているのかは、宗教的な教理論争によって確認できるものではない。それらはすべて言葉に過ぎない。それは、その人がどこにとどまり、何を愛して生きているのかによって、隠しようもなく明らかになる。信仰において、愛は美徳ではない。すでに死からいのちへと移されたという事実を証明する結果である。ヨハネにとって、愛は信仰の目標ではなく、その信仰が真実かどうかを測る基準であった。 ヨハネの手紙一全体では、「愛」という語が原語で約46回繰り返され、本日の本文だけでも7回用いられている。この語を繰り返さずには、彼は語り続けることができなかったのである。ヨハネは愛を語るために、初め(太初)とみことばといのち、そして神から出発し、人間の最も正直な生活の場へと降りてきた。そしてそのすべての歩みを通過した末に、動かすことのできない、疑うことのできない結果としての愛を見いだした。ヨハネの手紙一は、その発見を記した書である。ヨハネ神学の温度は、私の隣にいる兄弟の体温と同じである。

요한일서 묵상 【믿음의 표지】 20260105(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한일서 3:13~24 3:13 형제들아 세상이 너희를 미워하거든 이상히 여기지 말라 3:14 우리가 형제를 사랑함으로 사망에서 옮겨 생명으로 들어간 줄을 알거니와 사랑치 아니하는 자는 사망에 거하느니라 3:15 그 형제를 미워하는 자마다 살인하는 자니 살인하는 자마다 영생이 그 속에 거하지 아니하는 것을 너희가 아는 바라 3:16 그가 우리를 위하여 목숨을 버리셨으니 우리가 이로써 사랑을 알고 우리도 형제들을…

ヨハネの手紙第一 黙想【真理を知っている者たちへ】20260103(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの手紙第一 2:12-27 2:12 子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。 2:13 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。 2:14 幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。 2:15 あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。 2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。 2:17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。 2:18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。 2:19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。 2:20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。 2:21 私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。 2:22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。 2:23 だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。 2:24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。 2:25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。 2:26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。 2:27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。      使徒ヨハネの手紙が書かれた時代は、他の福音書や使徒たちの手紙よりも後の時期であったと考えられています。これはすでに、イエス・キリストの「福音」が多くの人々に伝えられていたという事実と、その福音を利用しようとする者、あるいは歪めようとする者、すなわち反キリストたちが現れ始めた時代であったことを意味しています。    そのような背景をもつこの手紙の中で、使徒ヨハネは、この手紙を書いた目的を明確に語っています。それは、この手紙を受け取る人々が「真理を知らないから」ではなく、「すでに真理を知っているから」でした。では、すでにその真理を知っている者たちに、なぜあらためて手紙を書く必要があったのでしょうか。その理由こそ、この時代に現れた反キリストたちの存在にありました。    反キリストたちは、もともとは教会共同体の中にいた者たちでした。しかし彼らは、その共同体から出て行った者たちです。彼らが具体的にどのような教えによって人々を惑わしたのか、その詳細は記されていません。しかし、イエスがキリストであることを否定し、御父と御子との関係を否定していたことは、この手紙の内容から明らかです。    人々は、このような反キリストたちによって、おそらく自分たちが最初に聞いた福音――すなわち、神様の御子であるイエス・キリストが成し遂げられた御業そのものから、次第に目をそらしていったのでしょう。しかし使徒ヨハネは、彼らに対して、最初に聞いたその福音、その原点に立ち返るようにと勧めています。そしてその福音は、人が自らの力で理解したものではなく、彼らの内に与えられた注ぎの油、すなわち聖霊様が悟らせてくださったものであることを教えています。    人が教える福音には、不完全さも、限界も、誤りもあります。しかし、福音の当事者であられる御父と御子、そしてその御霊の教えには、限界も不足も誤りもありません。その教えは本質的に完全です。にもかかわらず、人はしばしば本質ではないものに心を奪われてしまいます。そこには真理はありません。    それゆえ、本質ではないものを追い求める者は、真の自由を得ることができません。常に何かに縛られたまま生きることになります。しかし、福音の本質、その真理に従って生きる者には自由があります。イエス様ご自身が、その真理が私たちを自由にすると語られたからです。    私たちは、真理を知っている者として、自由を持って生きているでしょうか。もし、そうでないとするなら、今、私たちは何に縛られて生きているのでしょうか。反キリストは、遠くにいる存在ではありません。私たちのすぐそばにいる存在、あるいは私たち自身の内側にいるかも知れません。福音の本質から離れ、本質ではないものにこだわり、それを追い求めるその姿が、反キリスト的な姿なのです。私たちはその姿から、真理によって、再び自由に戻らなければならないでしょう。 https://youtu.be/2KqgSaLNAcE?si=jD-ekD2IU5085lsj