ゼカリヤ 黙想 【神の熱心】 20251021(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 8:1~17 8:1 次のような万軍の主のことばがあった。 8:2 万軍の主はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。 8:3 ──主はこう言われる──わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。 8:4 ──万軍の主はこう言われる──再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。 8:5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。 8:6 ──万軍の主はこう言われる──もし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。──万軍の主のことば。」 8:7 万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の沈む地から救い、 8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムのただ中に住まわせる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と義をもって彼らの神となる。」 8:9 万軍の主はこう言われる。「勇気を出せ。万軍の主の家である神殿を建てるために基が据えられた日以来、あなたがたはこれらのことばを、預言者たちの口から聞いてきたではないか。 8:10 その日以前は、人の働きに報酬がなく、家畜の働きにも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安がなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。 8:11 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。──万軍の主のことば── 8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。 8:13 ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。」 8:14 まことに、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと決意し──万軍の主は言われる──わたしは思い直さなかった。 8:15 そのように、今や再び、わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと決意した。恐れるな。 8:16 これがあなたがたのなすべきことだ。あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばきを行え。 8:17 互いに心の中で悪を謀るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むものだからだ。──主のことば。」   これはエルサレムに向けられた神の回復の宣言である。神は再びその都のただ中に住まわれると約束された。そのとき町の通りには老人と子どもたちが共に歩き、平和といのちが回復するだろう。神は散らされた民を各地から呼び集め、誠実と正義をもって彼らの神となられる。かつての不安と欠乏は消え去り、ぶどうの木は実を結び、大地は産物を生み、天は露を降らせる。回復されたユダは祝福の通路となる。神は民に「真実を語り、平和な裁きを行い、互いに害を企てるな」と命じられる。神がなさることと人がなすべきことは異なる。回復そのものは人間の働きではないが、人がすべきことは神の御心に従い、公義と平和を追い求めることである。 七章では、断食の問題をきっかけに人間の偽善と頑なさについて「おまえたちが立ち返らなかったので、わたしは怒った」と言われ、八章では「わたしはシオンのために激しくねたみ、熱意を燃やした」と語られる。七章は怒りの熱情であり、八章は回復の熱情である。だからそれはすべて神の愛の熱情である。救いの保証は人間の決意や持続力にあるのではない。神の働きは人間の意志が足りないからといって止まることはない。イザヤはメシアの到来を預言したとき、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と言った。救いに対する神の熱情は確かにそれを支え、ついには完成させる。神の熱情とは救いを動かす推進力である。人間にはその推進力がない。信頼すべきものは自分の信仰ではなく、神の約束とその熱情である。私たちは自分の力で救いを成し遂げたり守ったりする存在ではなく、神の熱情の中に捕らえられた存在である。それを信じることが信仰である。 「ねたみ」とは、あきらめることのできない頑固な愛を意味する。愛しているからこそ手放すことができないのだ。神の属性と人間の属性の中には共有するものと共有しないものがあるが、「ねたむ愛」という性質は共通している。私たちはすべての人に親切であることを愛と呼ぶわけではない。もし男女の愛にねたみがなければ、その愛の真実を疑わねばならない。愛の関係は特別であり、密やかであり、その中で自発的な献身が生まれる。愛には集中と献身の排他性がある。しかしその排他性は他者を閉め出すことではなく、関係に対する絶対的な集中を意味する。だからこそ純粋である。そのような愛を捨てきれない神の怒りは罪に向かい、回復の熱情は人に向かう。私たちの失敗よりも神の熱情は大きく、私たちの無関心よりもその愛は常に深い。ゆえに、救いの確信は私の誠実さにではなく、その方の熱情を信じる信仰にある。

스가랴 묵상 【하나님의 열심】 20251021(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 8:1~17 8:1 만군의 여호와의 말씀이 임하여 이르시되 8:2 만군의 여호와가 말하노라 내가 시온을 위하여 크게 질투하며 그를 위하여 크게 분노함으로 질투하노라 8:3 나 여호와가 말하노라 내가 시온에 돌아왔은즉 예루살렘 가운데 거하리니 예루살렘은 진리의 성읍이라 일컫겠고 만군의 여호와의 산은 성산이라 일컫게 되리라 8:4 만군의 여호와가 말하노라 예루살렘 길거리에 늙은 지아비와 늙은 지어미가 다시 앉을 것이라…

ゼカリヤ 黙想 【欲望のペルソナ】 20251020(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 7:1~14 7:1 ダレイオス王の第四年、第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。 7:2 そのとき、ベテルは主の御顔を求めるために、サル・エツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを遣わして、 7:3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」 7:4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。 7:5 「この国のすべての民と祭司たちにこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、本当にこのわたしのために断食したのか。 7:6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。 7:7 エルサレムとその周りの町々に人が住み、平和であったとき、またネゲブやシェフェラに人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げたことばは、これらのことではなかったのか。」 7:8 それから、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。 7:9 万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。 7:10 やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で悪を企むな。」 7:11 ところが、彼らは拒んでこれを聞こうともせず、肩を怒らせ、その耳を鈍くして聞き入れなかった。 7:12 彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。 7:13 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の主は言われる──。 7:14 わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを吹き散らした。この地は、彼らが去った後荒れすたれ、行き来する者もいなくなった。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」   ユダが断食を行っていた理由は、バビロンによって神殿が蹂躙された重要な日々を記憶し、その痛みを心に刻むためであった。4月の断食はエルサレムの城壁が破られた日、5月の断食は神殿と都が焼かれた日、7月の断食は総督ゲダルヤが暗殺され共同体が崩壊した日、10月の断食はエルサレムがバビロンに包囲された日である。イスラエルはバビロン捕囚の時代から、この四つの断食日を70年以上守り続けてきた。いわばそれは伝統となり、それ自体が宗教であった。 ところが、捕囚からの帰還後、神殿は再建されつつあった。そこで人々は祭司と預言者に問いかけた。「私たちは神殿が崩壊したことを悲しんで断食してきたが、今やその神殿が再建されつつあるのだから、もはや断食を続ける理由はないのではないか」──すなわち、「肯定的な現実の中で、過去の否定的な記憶を悲しみ続ける必要があるのか」というのである。この問いは、形式に縛られず、合理的に本質を回復すべきだという主張のようにも聞こえる。 しかし、神はその問いの動機を指摘される。「断食を続ける必要があるのか」という異議申し立ては、実のところ「食べたり飲んだりしたい」という欲望から来ており、信仰の本質を深く考えた結果ではなく、敬虔の重荷を下ろそうとする言い訳にすぎないというのだ。彼らが断食していた時も、その断食は神のためではなく、自らの宗教的敬虔さを誇示する道具でしかなかった。長い年月、自分を欺き、信仰を演出してきた彼らの偽善と盲目を、神はすでにご存じであった。 神は、この卑しい断食論争の上に、少し異なる主題を語られる。「真実な裁きを行い、互いに慈しみと憐れみを施し、やもめと孤児、寄留者と貧しい者を虐げてはならない。」これはどう考えても、断食という敬虔な行為とは異なる、社会の正義、人権、福祉に関する命令である。イザヤ書にも同様の言葉が記されており、「断食」という主題と「神の公義」という主題が並んで語られることは不思議ではない。 しかしここで、私たちは一つの根本的な問いを避けて通ることができない。なぜ社会的正義と慈善が、断食を置き換える原理として登場するのか? 形式的で偽善的な断食を克服する方法であるならば、例えば、より厳格で真実な断食を要求することもできただろうし、より深い悲嘆と悔い改めの方法を命じることもできただろう。だが神は、断食の克服を「より強い敬虔の要求」ではなく、「正義と憐れみを実践する社会的な生き方」として示された。なぜ神は、敬虔な行為ではなく社会的実践を通して断食の本質を回復させようとされるのだろうか? エルサレムがなぜ滅びたのかを考えねばならない。それはバビロンが強大だったからではなく、ユダが神の公義と正義を捨てたからである。宗教的には神を礼拝していると言いながら、社会的には弱者を虐げ、神の名を語りながら生活の中では不正を行い、正義を無視していた。その結果として神殿は破壊されたのである。したがって、断食は神殿という物理的な建物が壊されたことへの嘆きではなく、その原因である「公義を愛さなかった堕落した宗教」への痛恨であった。 ゆえに神はこう語られる。「神殿が再び建てられるということは、石や壁を積み上げることではなく、正義と公義、慈しみと憐れみが再び築かれることなのだ。」形式的な断食ならば、やめて食べてもよいだろう。しかし、断食の理由を忘れてはならない。神殿が崩壊した理由が「不義」だったなら、神殿が建てられる道は「正義の回復」である。だからこそ、断食と神の公義は常に一体である。 神は、繰り返される盲目的な行為にも、合理的で進歩的な身振りにも欺かれない。断食してもよいし、食べてもよい。変えてもよいし、変えなくてもよい。その判断の根拠は、伝統でも習慣でも形式でもなく、神の言葉に従い、神の心を読み取る信仰である。断食は、願いを取引する手段でも、駄々をこねるための道具でもなく、自らの欲望を放棄し、神の心と世の痛みに参与することである。私たちは、もっと多く断食しなければならないのだ。

스가랴 묵상 【욕망의 페르소나】 20251020(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 7:1~14 7:1 다리오왕 사년 구월 곧 기슬래월 사일에 여호와의 말씀이 스가랴에게 임하니라 7:2 때에 벧엘 사람이 사레셀과 레겜멜렉과 그 종자를 보내어 여호와께 은혜를 구하고 7:3 만군의 여호와의 전에 있는 제사장들과 선지자들에게 물어 가로되 우리가 여러 해 동안에 행한대로 오월간에 울며 재계하리이까하매 7:4 만군의 여호와의 말씀이 내게 임하여 이르시되 7:5 온 땅의 백성과 제사장들에게 이르라…

ゼカリヤ書 黙想【罪の行方】20251018(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 5:1-11 5:1 私が再び目を上げて見ると、なんと、一つの巻物が飛んでいた。 5:2 御使いは私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「飛んでいる巻物を見ています。その長さは二十キュビト、幅は十キュビトです。」 5:3 すると彼は私に言った。「これは全地の面に出て行くのろいだ。盗む者はみな、一方の面に照らし合わせて取り除かれ、また、偽って誓う者はみな、もう一方の面に照らし合わせて取り除かれる。」 5:4 「わたしがそれを送り出す。──万軍の主のことば──それは盗人の家に、また、わたしの名によって偽りの誓いを立てる者の家に入り、その家の真ん中にとどまって、その家を梁と石とともに絶ち滅ぼす。」 5:5 私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」 5:6 私が「これは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ升だ。」さらに言った。「これは、全地にある彼らの目だ。」 5:7 見よ。鉛のふたが持ち上げられると、エパ升の中に一人の女が座っていた。 5:8 彼は、「これは邪悪そのものだ」と言って、その女をエパ升の中に閉じ込め、エパ升の口の上に鉛の重しを置いた。 5:9 それから、私が目を上げて見ると、なんと、二人の女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、あのエパ升を地と天の間に持ち上げた。 5:10 私は、私と話していた御使いに尋ねた。「この人たちは、エパ升をどこへ持って行くのですか。」 5:11 彼は私に言った。「シンアルの地に、あの女のために神殿を建てるためだ。それが整うと、そこの台の上にその升を置くのだ。」    ゼカリヤが見た巻物は、神様の完全な裁きでした。あらゆる罪を犯した人々の家に入り、その家を裁き、滅ぼすことがその巻物の役割だったのです。    しかしその後に示された幻には、「エパ升」と呼ばれる穀物を入れるかごと、「邪悪」と呼ばれた女、そして鉛の重しが登場します。天使はその女をエパ升の中に入れ、鉛のかたまりでその上を覆って密封し、それをシンアルの地、バビロンの平野へと運びました。    イスラエルには依然として罪が満ちており、神様は彼らを裁かねばなりませんでした。しかし厳密に言えば、神様が裁かれる対象はイスラエルという民族そのものではなく、彼らの罪でした。それでも神様はご自分の民を深く愛しておられるがゆえに、彼らを滅ぼすのではなく、彼らの中にある罪を滅ぼし、悪を取り除かれることを、このゼカリヤの幻を通して示されたのです。つまりこの幻は、罪に対する神様の裁きと、罪からの回復を同時に表しているのです。      シンアルの地に移されたエファは、罪の起源へと戻されたものとして解釈されるのが一般的です。バビロンのシナル平原は『創世記』のバベルの塔の事件が起こった場所であり、また地理的にもエデンの園と同じ地域にあるとされています。そして罪の始まりは、最初の人間アダムにあったのです。      アダムが負わねばならなかった罪の代価、それを贖うためにこの地に来られた第二のアダムこそ、主イエス・キリストでした。ですからイエス様はすべての罪を背負って十字架につけられ、罪からすべての民を回復されたのです。      私たちの内にあった罪は、その場で消え去ったわけでも、行方不明になったわけでもありません。どこかに移された罪を、誰かが代わりに担ってくださったからこそ、その罪が再び私たちに戻ることなく、その問題が完全に解決されたのです。だからこそ、私たちは自分の罪がどこへ行ったのか、どのようにして回復されたのかを忘れてはなりません。その罪を背負ってくださった主イエス・キリストを決して忘れてはならないのです。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=OprDNDH7O4jApzGV

스가랴 묵상【죄의 행방】20251018(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 5:1-11 5:1 내가 다시 눈을 들어 본즉 날아가는 두루마리가 있더라 5:2 그가 내게 묻되 네가 무엇을 보느냐 하기로 내가 대답하되 날아가는 두루마리를 보나이다 그 길이가 이십 규빗이요 너비가 십 규빗이니이다 5:3 그가 내게 이르되 이는 온 땅 위에 내리는 저주라 도둑질하는 자는 그 이쪽 글대로 끊어지고 맹세하는 자는 그 저쪽 글대로 끊어지리라 하니 5:4…

ゼカリヤ書 黙想【これらは何ですか】20251017(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ゼカリヤ書 4:1-14 4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。 4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。 4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」 4:4 私は、私と話していた御使いに言った。「主よ、これらは何ですか。」 4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」 4:6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。 4:7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」 4:8 また、私に次のような主のことばがあった。 4:9 「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成させる。』そのときあなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知る。 4:10 だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る主の目である。」 4:11 私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」 4:12 そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」 4:13 すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」 4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」      私たちが信仰を持って生きる中で直面する最大の困難は、私たちの人生の中で示される神様の御心を理解できないことです。私たちはその御心を知らないがゆえに、苦難の中で挫折し、時には神様を恨んでしまうのです。    そのようなとき、私たちが神様にどのように祈っているのかを振り返ってみると、問題の解決や状況を打開するための力や方法を求めてはいないでしょうか。その時間の中で、私たちはどれほど神様の御心を知りたいと願っているでしょうか。    ゼカリヤに示された幻は、彼にとって非常に曖昧で理解し難いものでした。確かに目の前に鮮明に見えていたにもかかわらず、その幻が意味するところを全く理解することができなかったのです。だからこそゼカリヤは尋ね、神様は彼に答えてくださいました。    幻と私たちに訪れる苦難は、別の問題のように思えるかもしれません。しかし、その中に神様の御心があるという点においては同じです。神様は私たちに理由のない苦難を与えられることはなく、私たちの必要を知っておられ、最も良いものを与えてくださるお方だからです。    だからこそ、今日私たちが神様にささげるべき祈りも、ゼカリヤのようであるべきです。「これらは何ですか。ここにはどんな御心があるのでしょうか。主よ、知りません」という祈りです。    私たちの人生は、誰にも完全に解釈することができないものです。私たちの解釈は、状況によって刻一刻と変わるからです。人生全体を知ることができなければ、すべての瞬間を完全に理解することはできません。    その答えは神様のもとにしかありません。誰も知りえないとしても、私たちを造り、ご自身の計画どおりに導かれる神様はすべてをご存じです。私たちはただ神様の霊によってのみ、人生のすべての瞬間、その意味を見出すことができます。私たちが神様にその御心を求めるとき、神様は必ず私たちに答えてくださいます。 https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=wt1esMAFce6CiyNc

스가랴 묵상【무슨 뜻이니이까】20251017(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

스가랴 4:1-14 4:1 내게 말하던 천사가 다시 와서 나를 깨우니 마치 자는 사람이 잠에서 깨어난 것 같더라 4:2 그가 내게 묻되 네가 무엇을 보느냐 내가 대답하되 내가 보니 순금 등잔대가 있는데 그 위에는 기름 그릇이 있고 또 그 기름 그릇 위에 일곱 등잔이 있으며 그 기름 그릇 위에 있는 등잔을 위해서 일곱 관이 있고 4:3…

ゼカリヤ 黙想 【火から取り出した燃えさし】 20251016 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ゼカリヤ 3:1~10 3:1 主は、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアを私にお見せになった。サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。 3:2 主はサタンに言われた。「サタンよ、主がおまえをとがめる。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめる。この者は、火から取り出した燃えさしではないか。」 3:3 ヨシュアは汚れた服を着て、主の使いの前に立っていた。 3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちにこう答えた。「彼の汚れた服を脱がせよ。」そしてヨシュアに言った。「見よ、わたしはあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」 3:5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。 3:6 主の使いはヨシュアを諭して言った。 3:7 「万軍の主はこう言われる。『もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたもまた、わたしの家を治め、わたしの庭を守るようになる。この立っている者たちの間に出入りすることをわたしはあなたに許す。 3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。 3:9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。──万軍の主のことば──一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。 3:10 その日には、──万軍の主のことば──あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木といちじくの木の下に招き合う。』」   ゼカリヤは幻の中で大祭司ヨシュアを見た。ヨシュアは主の使いの前に立ち、その右にはサタンが立って彼を訴えていた。ヨシュアは聖なる祭司であったが、汚れた衣を身にまとっていた。サタンの告発は根拠のあるものだった。誤りではない。大祭司には「罪」という問題があった。しかし神は彼の欠点について、「火の中から取り出された焦げた木片のような者」と言われた。罪はある。だが神がヨシュアを救い出し、祭司として再び用いようとしておられるのだ。罪の現実を否定せず、むしろ恵みの現実をより深く示される。 神は天使たちに命じ、ヨシュアの汚れた衣を脱がせ、美しい衣を着せられる。イエスはこの旧約の記憶の中から「放蕩息子のたとえ」を語られたのだろう。そしてパウロはその記憶を受けて、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」(エペソ4章)と勧めたのだろう。衣が変わるということは、存在の転換を意味する。神が着せてくださる衣は倫理の衣ではなく、存在そのものの衣である。神はヨシュアの罪を否定されなかったが、ヨシュアを見捨てられもしなかった。神は彼を再び祭司として立てられた。サタンが告発していたその場で、神は恵みの判決を下されたのである。これこそが「福音に弁護される法廷」である。 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の中で、ジャン・ヴァルジャンはパン一切れを盗んで投獄され、出獄後も前科者の烙印のために世から拒まれる。唯一、司教ミリエルだけが彼を温かく迎え、食事と宿を与えた。しかしヴァルジャンはその好意を裏切り、銀の燭台を盗んで逃げる。やがて警察に捕らえられて戻ったとき、罪は明白であり、告発は正当であった。だがミリエル司教は言う。「これは私があげたものです。しかも銀の皿も差し上げたのに、持って行かなかったのですか。」ヴァルジャンは断罪の場で、かえって歓待を受けた。彼の人生を変えたのは、告発による正義ではなく、慈悲による赦しだった。ゼカリヤのヨシュアと『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンはどちらも告発されたが、その結末は断罪ではなく、回復であった。 神はヨシュアに清い冠をかぶらせ、その前に七つの目を持つ新しい石を据えられる。そして言われる。「この地の罪を一日のうちに除く。」その「一日」とは十字架の日である。キリストの死と復活によって、世界のすべての罪が一度に取り除かれた。告発は終わり、恵みが始まった。パウロが「新しい人を着なさい」と語ったとき、それは道徳的な強制ではなく、十字架の恵みによって古い衣を脱ぎ、新しい衣、すなわちキリストの義を着る救済の出来事を意味していた。燃え尽きもせず、燃え残りでもない、あの中途半端に焦げた不格好な棒切れのような私にも、神は新しい衣を着せてくださった。 Epilogue この箇所は聖徒の存在論的救いを証ししているが、決して牧師や指導者の道徳的堕落を覆い隠す神学的言い訳として誤用されてはならない。恵みとは罪の隠蔽ではなく、存在の変革である。赦しとは悪の逃げ道を与えることではなく、その悪を正直に見つめ直す場所で新しい実存を築く信仰の行為である。ゆえに恵みは免罪符ではない。罪の現実を耐え抜き、それを超える責任と信頼の決断でなければならない。神は罪を軽んじられない。その深みを通過した者の存在を新しくされるのだ。赦しを語る言葉、信仰を語る言葉が、空しく宙に消え去ることなく、一人の魂の深みに沈潜し、現実を変える真理となることを願う。

스가랴 묵상 【불에서 꺼낸 그슬린 나무토막】 20251016(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

스가랴 3:1~10 3:1 대제사장 여호수아는 여호와의 사자 앞에 섰고 사단은 그의 우편에 서서 그를 대적하는 것을 여호와께서 내게 보이시니라 3:2 여호와께서 사단에게 이르시되 사단아 여호와가 너를 책망하노라 예루살렘을 택한 여호와가 너를 책망하노라 이는 불에서 꺼낸 그슬린 나무가 아니냐 하실때에 3:3 여호수아가 더러운 옷을 입고 천사 앞에 섰는지라 3:4 여호와께서 자기 앞에 선 자들에게 명하사 그…