Ⅱコリント12【この恵み】2200721(木) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 8:1~158:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。8:2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。8:3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、8:4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。8:6 それで私たちは、テトスがこの恵みのわざをあなたがたの間で始めたからには、それを成し遂げるようにと、彼に勧めました。8:7 あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。8:8 私は命令として言っているのではありません。ただ、他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。8:10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは献金を実行することだけでなく、その志を持つことも、昨年から始めて他に先んじていました。8:11 ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。8:12 喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。8:13 私は、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、むしろ平等になるように図っています。8:14 今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。8:15 「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった」と書いてあるとおりです。   パウロはコリント教会ともめている中でも、より厳しい状況にある教会のためにコリント教会の聖徒たちに献金をお願いしています。マケドニア教会は、「満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました」と言います。マケドニア教会とは、ピリピ教会とデサロニケ教会をいいます。ピリピ人への手紙を読んでみると、コリントの手紙とは異なり、感謝と喜びがあふれます。彼らはパウロを忠実にサポートしました。パウロはコリント教会に対し、信仰と言葉と知識が優れていますが、「この恵み」、すなわちエルサレム教会のために献金することにおいても優れるようにお勧めします。   本家であるエルサレム教会が飢饉で大変になったとき、パウロは自分が開拓した地中海周辺の教会に献金を頼み、エルサレム教会に伝えました。パウロにとって、それらの教会は一つの神様の教会であるからです。それは経済的困難に直面したエルサレム教会のためのものでもあり、異邦教会が聖なる公同の教会、聖徒の交わりによって、公教会の一員として認められ、編入される機会でもありました。そういうことで、パウロはエルサレム教会に送る献金の募金について本気でした。   最近、日本で政治家を狙った銃器狙撃事件があり、背景には宗教団体に財産を捧げた被害者の恨みがありました。オウムしんりきょうのテロ事件の後、日本は宗教に対して硬直しましたが、今回の統一教会の財産献納事件ができたため、宗教に対する不信はさらに深まるものと見られます。統一教という類似宗教だけでなく、韓国の制度権の教会の中でも財政問題で多くの問題を起こしており、それによる分乱と失望は、脱宗教化を加速させています。   そんな恥と偏見の時代に生きますが、パウロが言った「この恵み」、つまり自分も豊かでない中で、大切なものを分け与える恵み、自分の大切なことをささげる恵みは、信仰においてあきらめたり、置き換えることができないものです。信仰にとって、それは選択ではなく、必須であり、一体です。疑いと非難の時代に献金について数多くの見解と主張があふれ出てきていますが、明らかなことは、神様のためにお金を使わない人は、結局神様を信じることはできないという事実です。これに、献金をしなければ神様を信じることができないのかという質問が出てくると思いますが、人は自分が価値があると思うところにお金を使い、その原則は絶対に不変で、「yes」と答えるしかありません。   神様にささげるということは、堕落した宗教に財産を奪われるのと違います。 「たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。15」これは出エジプト記16章の神様がイスラエルの民にマナを与えたお話です。マナは毎朝降り、二日分を取っても一日分しか食べられませんでした。たくさんのことを蓄積した人が豊かな人ではなく、貪らず恵みの中に分け与える人が豊かな人です。邪悪な宗教団体がその良いことを悪用しただけです。 たくさんのことをささげるとたくさんの祝福を受けると言いたくありません。祝福の定義もされていないからです。ただ、惜しみなくささげ、仕えながら生きること、それがすでに祝福であると言いたいのです。それを実践せずに、口で信仰を語ってみても、信仰というものの実体を見つけることはできません。

고린도후서 묵상12【이 은혜】220721(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 8:1~158:1 형제들아 하나님께서 마게도냐 교회들에게 주신 은혜를 우리가 너희에게 알게 하노니8:2 환난의 많은 시련 가운데서 저희 넘치는 기쁨과 극한 가난이 저희로 풍성한 연보를 넘치도록 하게 하였느니라8:3 내가 증거하노니 저희가 힘대로 할뿐 아니라 힘에 지나도록 자원하여8:4 이 은혜와 성도 섬기는 일에 참여함에 대하여 우리에게 간절히 구하니8:5 우리의 바라던 것뿐 아니라 저희가 먼저 자신을 주께 드리고…

Ⅱコリント11【神のみこころに添って悲しみ】2200720(水) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 7:8~167:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。7:10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。7:11 見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。7:13 こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。7:14 私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。7:15 テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。7:16 私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。   パウロはコリント教会を叱責しましたが、そのゆえに彼らが心配しすぎることを恐れて後悔することもありました。しかし、今は後悔していません。痛みはありましたが、よく締めくくりました。彼らに心配があったからこそ悔い改めることができたのです。パウロは人々の心が傷つくことを心配しましたが、神様は万事は益とし、パウロには不安が消えました。何もしなければ何も変わりませんが、パウロの手紙をきっかけに、コリント教会は悔い改め、新しくなることができました。   パウロはこれを「神のみこころに添って悲しみ」と言いました。神様のみこころに添う悲しみは、世の悲しみと心配こととは違います。たとえ困難があっても必ず美しい結果をもたらします。ここの神様のこころに添う心配とは、教会と福音のための心配でしょう。朝の祈りで読みました伝道の書で、ソロモンは世の中の楽しみをすべて味わっても、それは虚しいと告白しました。世の快楽では魂の渇きを解決することはできません。世の心配は神様に委ね、神様のみこころにかなった心配を持って歩む一日になることを祈ります。

고린도후서 묵상11【하나님의 뜻대로 하는 근심】220720(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 7:8~167:8 그러므로 내가 편지로 너희를 근심하게 한 것을 후회하였으나 지금은 후회하지 아니함은 그 편지가 너희로 잠시만 근심하게 한줄을 앎이라7:9 내가 지금 기뻐함은 너희로 근심하게 한 까닭이 아니요 도리어 너희가 근심함으로 회개함에 이른 까닭이라 너희가 하나님의 뜻대로 근심하게 된 것은 우리에게서 아무 해도 받지 않게 하려 함이라7:10 하나님의 뜻대로 하는 근심은 후회할 것이 없는 구원에…

Ⅱコリント10【とともに死に、ともに生きるために】2200719(火) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 7:2~77:2 私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。7:3 私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。7:4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。私は慰めに満たされ、どんな苦難にあっても喜びに満ちあふれています。7:5 マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。7:6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。7:7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。   パウロとコリント教会が葛藤したのは、パウロがコリント教会に対して教会らしさを求めたからです。パウロはコリント教会に対して教会らしさと聖徒らしさを求めました。ところが、コリント教会はその叱責を受け入れず、人格的な問題にし、パウロとコリン教会が対立して葛藤したのです。ここでパウロは、責任について話します。教会と聖徒には責任があります。それに教会の存在目的であります。パウロはそれを放置しているコリントについて厳しく警告したことであり、その旨を訴えています。   私たちはもし誰かの財産を損壊したら、その責任を負い、賠償をしなければなりません。職場で業務の責任がどこまでなのかを確認し、責任を負わないことはしません。もちろん、私たちは私たちの責任の中で働かなければなりませんが、自分の人生に対して責任を負うということは、人生の道の中で出会うことに責任を負うことではないでしょうか。回避できません。使徒パウロは、神様の働きができない責任は誰が負うかと問います。教会が教会らしく立てられない責任は誰が負うのか、宣教が進展しない責任は誰が負うのでしょうか。パウロは信仰と宣教の共同体であるコリントに「とともに死に、ともに生きるために」と彼らに与えられた責任を勧め、訴えます。「私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。3」

고린도후서 묵상10【함께 죽고 함께 살게 하고자 함이라】220719(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 7:2~77:2 마음으로 우리를 영접하라 우리가 아무에게도 불의를 하지 않고 아무에게도 해롭게 하지 않고 아무에게도 속여 빼앗은 일이 없노라7:3 내가 정죄하려고 이 말을 하는 것이 아니라 이전에 말하였거니와 너희로 우리 마음에 있어 함께 죽고 함께 살게 하고자 함이라7:4 내가 너희를 향하여 하는 말이 담대한 것도 많고 너희를 위하여 자랑하는 것도 많으니 내가 우리의 모든 환난…

Ⅱコリント9【キリストのうちにあるなら】2200716(土) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 5:11~215:11 そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかしそれが、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。5:12 私たちは、またしてもあなたがたに自分を推薦しているのではありません。むしろ、あなたがたに私たちのことを誇る機会を与え、心ではなくうわべを誇る人たちに応じられるようにしたいのです。5:13 私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。5:14 というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。5:15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。5:16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。5:18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。5:19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。5:20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。5:21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。   「私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。13」パウロは今まで無理したことがあるなら、それは神様のためにしたことであり、完全にしたことがあれば、それは教会と聖徒のためにしたことだと言います。その熱意と献身を知ってもらえずに、逆に裏切られ、排斥されたら、パウロの心は彼らから離れるようなことでしょう。   しかし、パウロはすべてが神様から出ることだと言います。すべてが神様から出てきて、神様がキリストを通して私たちを神様と和解させ、それに従い、私たちにも和解させる職分を与えられたと言います。だから彼らも神様から出てきたので、すべての状況が神様の中にあります。パウロを非難する人々、苦める人々さえも神様の許しの中にいます。   そして14節、15節でキリストの死について語ります。キリストの死こそ、神様の愛が私たちを捕らえているということです。一人がすべての人に代わって死んだので、皆が死んだのです。キリストが代わりに死んだのは、それによって生きた人々がキリストのために生きるようにするためです。パウロが死んでキリストのために生きていなかったならば、パウロはこの状況に耐えられなかったでしょう。   「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。17」神様の恵みの中で生きました。この告白が自分を裏切り、非難した人々に対しても耐えた理由であり、むしろ彼らのために求め、彼らのために自分の命さえも惜しまないと告白した力です。「キリストの中」にあれば、「新しい被造物」です。パウロがコリント教会に教えようとするのは、すでに神様がパウロに教えておられたことです。情熱と忍耐の理由は、すでに神様から受けた恵みの中にあります。

고린도후서 묵상9【그리스도 안에 있으면】220716(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 5:11~215:11 우리가 주의 두려우심을 알므로 사람을 권하노니 우리가 하나님 앞에 알리워졌고 또 너희의 양심에도 알리워졌기를 바라노라5:12 우리가 다시 너희에게 자천하는 것이 아니요 오직 우리를 인하여 자랑할 기회를 너희에게 주어 마음으로 하지 않고 외모로 자랑하는 자들을 대하게 하려 하는 것이라5:13 우리가 만일 미쳤어도 하나님을 위한 것이요 만일 정신이 온전하여도 너희를 위한 것이니5:14 그리스도의 사랑이 우리를…

Ⅱコリント8【幕屋が壊れても】2200715(金) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 5:1~105:1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。5:3 その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。5:4 確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。5:5 そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。5:6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。5:7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。5:8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。5:9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。   パウロは人生を幕屋、つまり、テントにたとえました。テントを張ったら、再びたたんで別の場所に移動しなければなりません。幕屋の家は私たちの肉を指します。体は臨時的なものということです。人が肉体にすべての価値をかけてしまうなら、生老病死は悔しくて恐ろしいことになります。しかし、臨時であることが分かる人は受け入れ方が異なります。死は存在の終わりではないからです。クリスチャンというのは、ある日に死という恐ろしい結末に出会うのではなく、最初から死ぬ存在として送られたことを知っている人です。   死を受け入れることができるのは、死が予期せぬ失敗ではなく、神様の秩序の中にあることを知る信仰があるからです。信仰がなければ、誰も死を説明することはできません。ですから信仰の中で死というのは絶望ではなく、かえって希望になります。パウロは命が死を吞み込んだと表現しました。死は死で終わりません。誰もが死にますが、何を信じるかによって、今、この肉体の幕屋でどのように生きるべきかを決めることができるでしょう。

고린도후서 묵상8【장막 집이 무너지면】220715(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 5:1~105:1 만일 땅에 있는 우리의 장막 집이 무너지면 하나님께서 지으신 집 곧 손으로 지은 것이 아니요 하늘에 있는 영원한 집이 우리에게 있는 줄 아나니5:2 과연 우리가 여기 있어 탄식하며 하늘로부터 오는 처소로 덧입기를 간절히 사모하노니5:3 이렇게 입음은 벗은 자들로 발견되지 않으려 함이라5:4 이 장막에 있는 우리가 짐 진것 같이 탄식하는 것은 벗고자 함이 아니요…