에스겔 묵상 【회칠한 담, 무너진 틈】 20250805(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 13:1~16 13:1 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 13:2 인자야 너는 이스라엘의 예언하는 선지자를 쳐서 예언하되 자기 마음에서 나는 대로 예언하는 자에게 말하기를 너희는 여호와의 말씀을 들으라 13:3 주 여호와의 말씀에 본 것이 없이 자기 심령을 따라 예언하는 우매한 선지자에게 화 있을진저 13:4 이스라엘아 너의 선지자들은 황무지에 있는 여우 같으니라 13:5 너희 선지자들이 성 무너진…

エゼキエル 黙想 【決して引き延ばさない】 20250804 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 12:17~28 12:17 次のような主のことばが私にあった。 12:18 「人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、恐る恐るあなたの水を飲め。 12:19 この国の人々に言え。『神である主は、イスラエルの地にいるエルサレムの住民について、こう言われる。彼らは自分たちのパンを恐る恐る食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。こうしてその地は、そこに住むすべての者の暴虐のゆえに痩せ衰える。 12:20 人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。』」 12:21 次のような主のことばが私にあった。 12:22 「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消え失せる』と言っている、あのことわざは何なのか。 12:23 それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしは、あのことわざをなくす。イスラエルでは、もうそのように言わなくなる。』かえって、彼らにこう告げよ。『その日は近づき、幻のすべては実現する』と。 12:24 もう、むなしい幻も、へつらいの占いも、ことごとくイスラエルの家からなくなるからだ。 12:25 それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して引き延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを実現させる──神である主のことば。」 12:26 次のような主のことばが私にあった。 12:27 「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』 12:28 それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしのすべてのことば、わたしが語ることは、もはや引き延ばされることはなく、必ず成就する──神である主のことば。』」   エゼキエルは、一つの劇のように、主の命令に従い、震える手で食事をし、憂いに満ちた目で水を飲む。沈黙しているが、その身振りは大きな声で語っている。日常を当たり前だと思わず、今、自分の霊的な座標を点検し、主を畏れる心を持たねばならない。裁きは幻想ではなく、現実の苦痛として訪れ、主のことばは決してむなしく過ぎ去ることはない。 しかし、イスラエルの民は無責任で鈍感である。「日が延び、幻は実現しない」と言う。一時的には緊張したが、結局何も起こらなかったからだ。彼らは神に対する認識を、自分たちの都合で修正する。神はただ脅すだけで、実際には何も起こらないと考え、わざわざ緊張したり、日常を揺るがす必要はないと思っている。 宗教的な慣性に従って生きる人々。物理学における「慣性」とは、外部から力が加えられない限り、物体は今の運動状態を保とうとする性質である。彼らは立ち止まらず、立ち止まろうともしない。昨日と今日が同じで、今日と明日も変わらないと信じている。立ち止まって自分自身を見つめることはしない。いつか立ち止まらねばならないということさえ、忘れて生きている。今、自分がどこに立っていて、どこへ向かっているのか、尋ねようともしない。ただ、これまで通りの流れに身を任せているだけである。彼らにとって重要なのは、ただ一日を無事に過ごすこと。それだけだ。そのような人々にとって、神は必要に応じて現れ、必要がなくなれば退場する存在、つまり自分でコントロールできる対象になってしまう。 主は断固として語られる。「わたしが語ることばは、もはや遅れることはない。わたしが語ることばは実現する──神である主のことば──。反逆の家よ、わたしが語れば、それをおまえたちの生きている時代に実現する──神である主のことば。」12章25節 神のことばを曲げて受け取る者たちに対し、神ご自身がそれを正される。遅いと感じたのは、神が少しでも待ってくださった、すなわち裁きを猶予されたというだけのことだった。緊張しない者、緊張できない者は、昨日から続く慣性の流れの中で、裁きの日を迎えることになるだろう。 エゼキエルの身振り──食事をし、水を飲むという行為は、日常的で平凡な営みである。しかし、まさにその当たり前の生活の場において、神は「目を覚ませ」と語っておられる。捕囚されたバビロンの地で、彼らはそのようにして食べ、飲むことになるのだ。 私たちは毎日、食卓の前で祈っている。しかし、その祈りの中に霊的な緊張感を込めたことがどれほどあるだろうか。そういった祈りを聞いた記憶すら、ほとんどないかもしれない。私たちは、祈るという行為そのものが敬虔だと考え、それだけで満足している。だが、それもまた、意味を失った信仰の慣性かもしれない。 かけがえのない日常は、いつでも崩れる可能性がある。その切迫した終末論的な緊張感をもって、私たちは立ち止まらなければならない。むなしい慣性の運動を断ち切り、神の軌道の中へと歩みを戻さねばならない。

에스겔 묵상 【더디지 아니하리라】 20250804(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 12:17~28 12:17 여호와의 말씀이 또 내게 임하여 가라사대 12:18 인자야 너는 떨면서 네 식물을 먹고 놀라고 근심하면서 네 물을 마시며 12:19 이 땅 백성에게 말하되 주 여호와께서 예루살렘 거민과 이스라엘 땅에 대하여 이르시기를 그들이 근심하면서 그 식물을 먹으며 놀라면서 그 물을 마실 것은 이 땅 모든 거민의 강포를 인하여 땅에 가득한 것이 황무하게 됨이라…

エゼキエル 黙想 【去って行かれる神の栄光】 20250731 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 10:9~22 10:9 私が見ると、ケルビムのそばに四つの輪があり、一つの輪は一方のケルビムのそばに、もう一つの輪はもう一方のケルビムのそばに、それぞれあった。その輪は緑柱石の輝きのように見えた。 10:10 それらの形は四つとも同じで、一つの輪がもう一つの輪の中にあるようであった。 10:11 それらが進むとき、それらは四方のどの方向にも進み、進むときには向きを変えなかった。なぜなら、頭が向かうところにほかの輪も従い、それらが進むときには向きを変えなかったからである。 10:12 それらのからだ全体と、その背、その手、その翼、さらに輪、すなわちその四つの輪には、周りに目がたくさん付いていた。 10:13 私はそれらの輪が「車輪」と呼ばれるのを聞いた。 10:14 それぞれに四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、第四の顔は鷲の顔であった。 10:15 そのとき、ケルビムは飛び立った。それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。 10:16 ケルビムが行くと輪もそのそばを進み、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき輪もそのそばを離れず、向きを変えなかった。 10:17 ケルビムが止まると輪も立ち止まり、ケルビムが上ると輪も一緒に上った。生きものの霊が輪の中にあったからである。 10:18 主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった。 10:19 すると、ケルビムは翼を広げて、私の目の前で地上から上って行った。出て行くとき、輪もそのそばについて行き、主の宮の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光が彼らの上にあった。 10:20 彼らは、かつて私がケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見た生きものであった。私は彼らがケルビムであることを知った。 10:21 彼らはそれぞれ四つの顔と、それぞれ四つの翼を持っていた。その翼の下には人間の手のようなものがあった。 10:22 彼らの顔かたち、それは、私がかつてケバル川のほとりでその容貌と姿を見たとおりの顔であった。彼らはみな、前の方へまっすぐに進んで行った。   神の栄光が去って行かれる。臨在という言葉はよく使われるが、神が遠ざかられることについては、あえて語ろうとしないように思える。しかし神は、臨在を取り去り、遠ざかることもある。エゼキエルは、神が臨在されるはずの神殿において、神の栄光が撤退していく場面を目撃する。 秩序と基準を失った人間の宗教から離れていく神の栄光は、私たちが想像するような怒りの爆発ではなく、厳粛で、精密で、秩序正しい。エゼキエルはその栄光を、最初にケバル川のほとりで見た。神殿の外、捕囚の地のただ中で。今、彼はエルサレム神殿の中でその栄光を再び見る。しかし、その栄光は東の門に向かって去って行く。 神殿はもはや聖なるものではない。偶像崇拝、正義の喪失、神を知らぬ無意味な儀式。そのような場所に、神の栄光はもはやとどまることができない。神殿を離れた神の栄光は、ケルブの上にとどまっている。実のところ、神は物理的な制約の中にある人間のために、神殿にその栄光を現されたにすぎない。今や、それは動く聖所、移動する栄光である。神の栄光は決して小さくなったわけではない。時代を生きる人間たちが、それを拒んだだけなのだ。 神の栄光がとどまる場所を再び見出すための、神ご自身の移動である。信仰を失った空虚な家からその栄光は退かれるが、回復される信仰の時代に再び戻って来られるだろう。神は今もなお、その栄光がとどまることのできる場を探しておられる。それは、神の栄光を利用する人間的なもの、建物や演出されたショーではなく、あらゆる人間の目的を捨て、ただ神ご自身を慕い求める礼拝者たちの上に戻って来られるであろう。

에스겔 묵상 【떠나는 하나님의 영광】 20250731(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 10:9~22 10:09 내가 보니 그룹들 곁에 네 바퀴가 있는데 이 그룹 곁에도 한 바퀴가 있고 저 그룹 곁에도 한 바퀴가 있으며 그 바퀴 모양은 황옥 같으며 10:10 그 모양은 넷이 한결 같은데 마치 바퀴 안에 바퀴가 있는 것 같으며 10:11 그룹들이 행할 때에는 사방으로 향한대로 돌이키지 않고 행하되 돌이키지 않고 그 머리 향한 곳으로…

エゼキエル 黙想 【亜麻布と炭火】 20250730 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 10:1~8 10:1 私が見ていると、ケルビムの頭上の大空に、サファイアのような、王座に似たものがあり、それがケルビムの上に現れた。 10:2 主は亜麻布の衣をまとった者に命じられた。「ケルビムの下にある車輪の間に入り、ケルビムの間の炭火をあなたの両手に満たし、それを都の上にまき散らせ。」この人は私の目の前でそこに入って行った。 10:3 その人が入って行ったとき、ケルビムは神殿の南側に立っていて、雲がその内庭を満たしていた。 10:4 主の栄光がケルビムの上から上り、神殿の敷居に向かった。神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。 10:5 そのとき、ケルビムの翼の音が外庭にまで聞こえた。それは、全能の神が語られるときの声のようであった。 10:6 主が亜麻布の衣をまとった者に「車輪の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じられると、この人は入って行き、輪のそばに立った。 10:7 すると、ケルビムのひとりがケルビムの間から、ケルビムの間にある火の方に手を伸ばして、その火を取り、亜麻布の衣をまとった者の両手にそれを盛った。この人はそれを受け取ると、出て行った。 10:8 ケルビムの翼の下には人間の手の形があった   神の栄光が去り始めたとき、エゼキエルが見た聖所の幻は厳粛だった。神は亜麻布(あまぬの)を身にまとった者に命じ、ケルブの下にある炭火を取って、エルサレムの町の上に撒き散らすようにされた。神が人間の堕落した宗教の場を離れるという象徴は、炭火を町に投げ与えることで表された。その炭火は裁きの火であると同時に、清めと回復をもたらす密やかな火でもあった。   木は特別な素材である。炭は、木が完全に燃え尽きた姿だ。木は燃え尽きても、炭という新たな存在として再び始まる。中途半端に燃えた薪は煙だけを上げ、再び火を灯すのは難しいが、炭は静かな熱意を内に秘め、再び火を宿す。激しくはないが、決して冷めることなく、深く、穏やかに燃え続ける。   炭にはそれ自体に清めの使命がある。浄水器のフィルターは炭の原理を利用している。水に入れれば水が清められ、空気中に置けば空気が浄化され、土に入れれば土壌が良くなる。炭は周囲のものを清める。神は人を炭のように造り、用いられることもある。荒野の火はモーセを40年間燃やし尽くし、彼が完全に燃え尽きて炭のようになったとき、神は彼を再び呼び出された。失敗と挫折を経験していたペテロのために、復活のイエスは炭火で魚を焼いて待っておられた。   ケルブの下にある炭火を持ち出す者は、亜麻布を身にまとっていた。粗布(あらぬの)は粗く織られた布だが、亜麻布は時間と手間をかけて、亜麻を精製し、緻密に織り上げて得られるものだ。それは麻布よりも繊細で、さらに清らかな衣、すなわちリネン、セイマホ(細麻布)である。それはイエスの遺体を包んだ布であり、『ヨハネの黙示録』に登場する小羊の花嫁が身にまとう義の衣でもある。   芯を持つ木は炭になる。炭になった人は、自らを焼いた火を静かに内に抱く。だから、その人のそばにいると、心が落ち着き、温かさに包まれる。一片の炭をのぞき込めば、その中には広大な銀河が瞬いている。偽りと貪欲は火によって焼かれ、炭は残された世界を清めていくだろう。亜麻布をまとい、炭火のように長く燃え続け、再び火を宿した人。そんな人がいるところに、神の栄光は再び戻ってくるのだ。  

에스겔 묵상 【베옷과 숯불】 20250730(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 9:1~11 9:1 그가 또 큰 소리로 내 귀에 외쳐 가라사대 이 성읍을 관할하는 자들로 각기 살륙하는 기계를 손에 들고 나아오게 하라 하시더라 9:2 내가 본즉 여섯 사람이 북향한 윗문 길로 좇아 오는데 각 사람의 손에 살륙하는 기계를 잡았고 그 중에 한 사람은 가는 베옷을 입고 허리에 서기관의 먹 그릇을 찼더라 그들이 들어 와서 놋…

エゼキエル 黙想 【聖所から始まる裁き、額に印を受けた者たち】 20250729 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 9:1~11 9:1 この方は私の耳に大声で叫ばれた。「破壊する武器をそれぞれ手に持った、この都を罰する者たちを連れて来い。」 9:2 見ると、六人の男が、それぞれ打ち壊す武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もう一人の人が、亜麻布の衣をまとい、腰には書記の筆入れを付けて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。 9:3 ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルビムから立ち上り、神殿の敷居へ向かっていた。腰に書記の筆入れを付け、亜麻布の衣をまとっている者を呼び寄せて、 9:4 主は彼にこう言われた。「都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを嘆き悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。」 9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに主はこう言われた。「この者の後について都の中を行き巡って、打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない。 9:6 年寄りも、若い男も、若い娘も、幼子も、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、しるしが付けられた者には、だれにも近づいてはならない。まず、わたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。 9:7 それから主は彼らに言われた。「神殿を汚し、庭を刺し殺された者で満たせ。さあ、行け。」彼らは出て行って、都の中で打ち殺した。 9:8 彼らが打ち殺しているとき、私だけが残された。私はひれ伏して叫んだ。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出し、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのですか。」 9:9 主は私に言われた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、地は流血で満ち、都も不正で満ちている。彼らは『主はこの地を見捨てられた。主は見ておられない』と言っているのだ。 9:10 だから、わたしもあわれみをかけない。わたしは惜しまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行いを返す。」 9:11 そのとき、腰に筆入れを付け、亜麻布の衣をまとった、あの人がこう報告した。「私は、あなたが私に命じられたとおりに行いました。」   神は裁きの中にあっても、共同体の罪を知り、嘆き悲しむ者たちを区別される。救いの印を受けた者とは、敬虔な外見を持つ者でもなく、宗教的行為に慣れ親しんだ者でもない。罪を知り、それを認め、嘆き悲しみ、涙を流す者たちである。時代と共同体の罪に心を痛め、悲しむ者たちである。イエスが山上の垂訓で「悲しむ者は幸いである。彼らは慰められるであろう」と語られた、その人々である。 エゼキエルが見た「印」は、裁きから守られる保護のしるしであると同時に、究極的には神の所有として生きる存在であることを認められた者たちの証でもある。多くの人々が聖所の中にいたが、自分の欲望に従っていた者たちは、裁きを免れることができなかった。しかし、どこかで時代と共同体の罪に心を痛め、嘆き悲しんだ者たちは、神の保護を受けることができた。 本当に恐れるべきことは、神が「聖所から裁きを始める」と言われたその言葉である。キリスト者にとって、世の堕落よりも恐ろしいのは、神を信じる者たちの無感覚と自己欺瞞である。宗教は信仰を内包する器であるが、その本来の目的を失った瞬間、神に敵対する側に立つことになる。だからこそ、神はご自身の家から裁きを始められるのである。 「印」は、守られる象徴であると同時に、聖なる責任のしるしでもある。信仰と良心が悲しむべき時に、宗教的な誇りを語る愚か者たちがいる一方で、救いと信仰の誇りを語るべき時に、それを恥ずかしく思う偽りの者たちもいる。私の額に刻まれた永遠の救いのしるし、イエス・キリストを誇りとし、時代が直面する宗教の堕落に心を痛め、それに責任を持つことのできるキリスト者を、神はきっと区別されるであろう。  

에스겔 묵상 【성소에서 시작되는 심판, 이마에 표를 받은 사람들】 20250729(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 9:1~11 9:1 그가 또 큰 소리로 내 귀에 외쳐 가라사대 이 성읍을 관할하는 자들로 각기 살륙하는 기계를 손에 들고 나아오게 하라 하시더라 9:2 내가 본즉 여섯 사람이 북향한 윗문 길로 좇아 오는데 각 사람의 손에 살륙하는 기계를 잡았고 그 중에 한 사람은 가는 베옷을 입고 허리에 서기관의 먹 그릇을 찼더라 그들이 들어 와서 놋…

エゼキエル 黙想 【偶像を礼拝する神の聖所】 20250728 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 8:1~18 8:1 第六年の第六の月の五日、私が自分の家に座っていて、ユダの長老たちも私の前に座っていたとき、神である主の御手がそこで私の上に下った。 8:2 私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見えるところから下の方が火であり、腰から上の方が琥珀のきらめきのように輝いて見えた。 8:3 すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪の房をつかまれた。すると、霊が私を地と天の間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへと携え行き、ねたみを引き起こす「ねたみ」という像がある、北に面した内門の入り口に連れて行った。 8:4 なんと、そこには、私がかつて平地で見た幻と同じような、イスラエルの神の栄光があった。 8:5 その方は私に言われた。「人の子よ。さあ、目を上げて北の方を見よ。」私が目を上げて北の方を見ると、なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像があった。 8:6 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたには彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌み嫌うべきことをしているではないか。あなたはなおもまた、大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:7 それから、この方は私を庭の入り口に連れて行かれた。見ると、壁に一つの穴があった。 8:8 この方は私に言われた。「人の子よ。さあ、壁に穴を開けて通り抜けよ。」私が壁に穴を開けて通り抜けると、一つの入り口があった。 8:9 この方は私に言われた。「入って行き、彼らがここでしている悪い忌み嫌うべきことを見よ。」 8:10 私が入って行って見ると、なんと、這うものや動物のあらゆる形、すなわち忌むべきものや、イスラエルの家のすべての偶像が、周りの壁一面に彫られていた。 8:11 また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っていて、その中にはシャファンの子ヤアザンヤも立っていた。彼らはみなその手に香炉を持ち、香の濃い雲が立ち上っていた。 8:12 この方は私に言われた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちが、暗闇の中、それぞれ自分自身の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの地を見捨てられた』と言っているのだ。」 8:13 また私に言われた。「あなたはなおもまた、彼らが行っている大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:14 それから、この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。 8:15 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。あなたはなおもまた、これよりも大きな忌み嫌うべきことを見る。」 8:16 それから、この方は私を主の宮の内庭に連れて行かれた。すると、なんと、主の神殿の入り口、すなわち、玄関広間と祭壇との間に二十五人ばかりの人がいた。彼らは主の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた。 8:17 この方は私に言われた。「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ、彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしているではないか。 8:18 だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」   バビロンにいたエゼキエルは幻の中でエルサレムの神殿に導かれ、そこで起こっている偶像礼拝の光景を目撃します。神殿の内外では密かに獣の形に香を焚き、バビロンの神を拝み、太陽に向かってひれ伏しています。エゼキエルの幻はメタ認知です。その時代の宗教から一歩外に出て、現実を痛烈に見つめています。教会でさえも神を排除し、他のものに心を奪われながら生きる霊的姦淫を告発しているのです。神がもはや我慢されないと語られる臨界点です。 偶像が目に見えるものであれば、恐れることもあるでしょう。しかし偶像とは目に見えるものではなく、人間の欲望が何らかの形をとったに過ぎません。すべての偶像礼拝の本質は他宗教にあるのではなく、自分自身を礼拝する「自己崇拝」にあります。偶像とは気づかぬうちに作り出されたものであり、つまりは自我の欲望が宗教の名を借りて乗っかっているのです。神殿の中で偶像礼拝が行われるというのは、大胆だからではなく、むしろ卑怯だからです。宗教から抜け出す勇気もなく、神を歪め、自分の欲望に置き換えるという卑怯さに他なりません。 人間は常に見えるもの、触れるものを作り、それに「神」という名札をつけようとします。神を信じていると言う人でさえ、御言葉との人格的な関係を始めず、感覚にばかり頼っています。しかし、自分の考えと心を信じることを「信仰」とは言いません。そこから聞こえてくる声が本当に神のものであるとは限りません。聖書を読み、それを解釈し、自分の人生に重ね合わせるべきです。自己省察のない、ただ自分のための要求だけをする宗教的形態は、すでに偶像になっているのです。偶像を避ける道は、神の御言葉という人格的な通路のほかにありません。 偶像を捨てるとは、単に物を取り除くことではなく、人生の中心軸を再び神へと移すことです。福音の力とは自分を覆い隠すことではなく、貪欲な自我とそのために築いたものを自ら降ろす勇気にあります。神より良いものなど本来ありません。神より良く見えるもの、それを打ち壊してこそ神の美しさが見え、そしてそのとき、教会と信徒の隅々に入り込んでいた偶像も力を失うことでしょう。