에스겔 묵상 【나를 붙드시는 하나님의 은혜】 20250821(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:27~32 20:27 그런즉 인자야 이스라엘 족속에게 고하여 이르기를 주 여호와의 말씀에 너희 열조가 또 내게 범죄하여 나를 욕되게 하였느니라 20:28 내가 그들에게 주기로 맹세한 땅으로 그들을 인도하여 들였더니 그들이 모든 높은 산과 모든 무성한 나무를 보고 거기서 제사를 드리고 격노케 하는 제물을 올리며 거기서 또 분향하고 전제를 부어 드린지라 20:29 이에 내가 그들에게 이르기를…

エゼキエル 黙想 【何に対する従順なのか】 20250820 (水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 20:10~26 20:10 こうしてわたしは、エジプトの地から彼らを導き出し、荒野に導き入れ、 20:11 わたしの掟を彼らに与え、わたしの定めを告げ知らせた。人は、それらを行うなら、それらによって生きるからである。 20:12 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖なる者とする主であることを、彼らが知るようにした。 20:13 しかし、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らった。彼らはわたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを忌み嫌った。人は、それらを行うなら、それらによって生きるのに。さらに、彼らはわたしの安息日を甚だしく汚した。そこでわたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。 20:14 しかし、わたしはわたしの名のことを思い、彼らを導き出すのを見ていた国々の目の前で、わたしの名が汚されないようにした。 20:15 だがわたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に、彼らを導き入れない、と荒野で彼らに誓った。 20:16 それは、彼らがわたしの定めを忌み嫌い、わたしの掟に歩まず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。 20:17 それでも、わたしは彼らをあわれんで滅ぼさず、荒野で彼らを滅ぼし尽くさなかった。 20:18 わたしは荒野で彼らの子どもたちに言った。「あなたがたの父たちの掟に従って歩むな。彼らの慣わしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。 20:19 わたしがあなたがたの神、主である。わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行え。 20:20 また、わたしの安息日を聖なるものとせよ。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ」と。 20:21 しかし、子どもたちはわたしに逆らった。彼らはわたしの掟に従って歩まず、わたしの定めを忌み嫌った。人は、それらを行うなら、それらによって生きるのに。さらに、彼らはわたしの安息日を汚した。そこで、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らにわたしの怒りを出し尽くそうと思った。 20:22 しかし、わたしは手を引いた。わたしの名のことを思い、彼らを導き出すのを見ていた国々の目の前で、わたしの名が汚されないようにした。 20:23 だがわたしは、彼らを諸国の間に散らし、国々に追い散らす、と荒野で彼らに誓った。 20:24 彼らがわたしの定めを行わず、わたしの掟を忌み嫌い、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからである。 20:25 わたしもまた、良くない掟と、それによっては生きられない定めを彼らに与えた。 20:26 彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしはそのささげ物で彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。』   この本文から読み取るべきことは何だろうか。彼らは不従順であったが、私は従順して滅びないようにしなければならない――そうした教訓的なメッセージだけで十分なのだろうか。本当は、この本文は彼らの不従順をただ咎めているのではなく、イスラエルの歴史、いや人間の本性そのものに内在する「繰り返される不従順と裏切りの構造」を告発しているのではないだろうか。 彼らは荒野においてさえも不従順で反逆した。救いの途上にあってさえ、不従順を止めなかったのである。時が良くても悪くても、絶えず神を裏切り続けた。私たちがそれを読む理由は、数千年前に生きていた人々の行いを非難するためではない。むしろ、神と人間をより正確に理解するためなのである。 「従順しなければならない」という自責や勧告ではなく、私たちが本質的に従順できない存在であることを根本的に自覚しなければならない。イスラエルの不従順は、ある時代に限定された問題ではなく、人間存在全体が抱えている罪の性質の問題なのである。パウロがローマ書で告白したように、「善を行いたいという意思はあっても、実際には不従順へと傾かざるを得ない」というのが人間の現実である。 私たちが信じるのはイスラエルの歴史でも律法でもない。私たちが信じるのはただ福音である。ユダヤ教の亜流ではなく、福音のレンズを通して旧約を読むことこそ当然の姿勢である。したがって、福音の人が追い求める従順とは、イエス・キリストに対するものでなければならない。従順は自己の決意や意志ではなく、キリストの従順に連なる生活の中でのみ可能だからである。 このように、エゼキエル20章は人間の無能と不従順を明らかにすると同時に、神の恵みと憐れみを語っている。神はご自身の名と契約のゆえにイスラエルを最後まで捨てなかったように、その一貫した救済のためにキリストにおいて新しい道を開かれたのである。従順とは私の達成ではなく、救済の恵みに献身することによって生きる生活である。信仰において何よりも重要なのは、イエス・キリストに対する明確な告白である。

에스겔 묵상 【무엇에 대해 순종할 것인가】 20250820(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:10~26 20:10 그러므로 내가 그들로 애굽 땅에서 나와서 광야에 이르게 하고 20:11 사람이 준행하면 그로 인하여 삶을 얻을 내 율례를 주며 내 규례를 알게 하였고 20:12 또 나는 그들을 거룩하게 하는 여호와인줄 알게 하려하여 내가 내 안식일을 주어 그들과 나 사이에 표징을 삼았었노라 20:13 그러나 이스라엘 족속이 광야에서 내게 패역하여 사람이 준행하면 그로 인하여…

エゼキエル 黙想 【わたしの名のために】 20250819 (火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 20:1~9 20:1 第七年の第五の月の十日、イスラエルの長老たちの何人かが、主に尋ねるために来て、私の前に座った。 20:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。 20:3 「人の子よ、イスラエルの長老たちにこう告げよ。『神である主はこう言われる。あなたがたが来たのは、わたしに尋ねるためなのか。わたしは生きている。わたしは決してあなたがたの求めに応じない──神である主のことば。』 20:4 あなたは彼らをさばくのか。人の子よ、あなたはさばくのか。彼らの先祖たちの、忌み嫌うべきわざを彼らに告げ知らせよ。 20:5 彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしがイスラエルを選んだとき、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地でわたしを彼らに知らせた。彼らに誓って、わたしがあなたがたの神、主であると言った。 20:6 その日、わたしは彼らをエジプトの地から導き出して、わたしが彼らのために探しておいた乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを彼らに誓った。 20:7 わたしは彼らに言った。「それぞれ、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である」と。 20:8 しかし、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。それぞれ、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てなかった。そこでわたしは、エジプトの地のただ中でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らにわたしの怒りを出し尽くそうと思った。 20:9 しかし、わたしはわたしの名のことを思い、彼らが住んでいる国々の目の前でわたしの名が汚されないようにした。国々の目の前で彼らをエジプトの地から導き出す、と知らせていたからだ。   イスラエルの長老たちが【主】のもとに来て尋ねようとしたとき、神は彼らの問いを退けられた。驚くべきことは神の拒絶そのものではなく、心が伴わないのに神を求める人間の姿である。彼らは、神を求める形式さえあれば、それが内容であるかのように自分を欺いていた。 それにもかかわらず、神は彼らを完全に捨てられなかった。神は最後まで見放されなかった。怒りによって滅ぼそうとされたその瞬間にも、神はあわれみを示された。そして「わたしの名のために、わたしはあなたがたを救った」と仰せられた。神の救いの根拠は、民の義ではなく、神ご自身の名、すなわち神のご性質と約束にあるのである。 詩篇23篇にも「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません……主は御名のために、わたしを義の道に導かれます」と記されている。では、神はわたしを愛するのではなく、ご自分の名のためだけに救っておられるのだろうか。 そうではない。もし神がご自分の名のために行動されないとすれば、ご自身を否定することになってしまう。神がその御名を守られるということは、神の契約とご性質、真実を最後まで支えられるという意味である。言い換えれば、神がご自分の名のためにわたしたちを導き、救ってくださるというのは、神ご自身を偽ることのない必然的な愛の行為なのである。

에스겔 묵상 【내 이름을 위함이라】 20250819(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 20:1~9 20:1 제 칠년 오월 십일에 이스라엘 장로 두어 사람이 여호와께 물으려고 와서 내 앞에 앉으니 20:2 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 20:3 인자야 이스라엘 장로들에게 고하여 이르기를 주 여호와의 말씀에 너희가 내게 물으려고 왔느냐 나 주 여호와가 말하노라 내가 나의 삶을 두고 맹세하노니 너희가 내게 묻기를 내가 용납지 아니하리라 하셨다 하라 20:4 인자야…

エゼキエル 黙想 【罠にかかった若獅子、折られたぶどうの枝】 20250818 (月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 19:1~14 19:1 「あなたはイスラエルの君主たちのためにこの哀歌を唱えよ。 19:2 あなたの母は何であったのか。雌獅子だ。彼女は雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。 19:3 雌獅子は子獅子のうちの一頭を取り上げた。それは若い獅子となり、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は落とし穴で捕らえられた。彼らはこれに鉤をつけ、エジプトの地へ引いて行った。 19:5 雌獅子は待ちくたびれて、自分の望みが消え失せたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子と定めた。 19:6 これも雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物をかみ裂くことを習い、人を食い滅ぼすようになった。 19:7 この獅子は、やもめたちを犯し、町々を廃墟とした。その吼える声のために、地とそこに満ちているものは、おののいた。 19:8 そこで、諸国の民は周りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。 19:9 彼らはそれに鉤をかけて檻に入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれを砦に閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。 19:10 あなたの母は、水のほとりに植えられた、あなたのぶどう園のぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。 19:11 その強い枝は王の杖となり、その背丈は茂みの中でひときわ高く、多くの小枝をつけて、際立って見えた。 19:12 しかし、激しい憤りをもってそれは引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らした。その強い枝も折られて枯れ、火がそれを焼き尽くした。 19:13 今や、それは荒野に、乾いた、潤いのない地に移し植えられ、 19:14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。   エゼキエル書19章は、イスラエルの指導者たちのための哀歌である。雌獅子が子獅子を育てて王のようにしたが、その権威を守り切れず、罠にかかって捕らえられ、捕囚として引きずられて行った。もう一匹の子を立てたが、彼もまた町々を荒らし、ついにはバビロンに捕らえられて行った。ぶどうの木は、かつて水のほとりに植えられ、力強く豊かであったが、今はその繁栄も権威も失われてしまった。雌獅子とぶどうの木はユダの全盛期を象徴する。しかし後の世代はその栄光を守り切ることができなかった。 このアイロニーはユダの歴史だけではない。ある世代は汗を流して種を蒔くが、栄光を受けることはできない。別の世代は先の世代の献身の上に繁栄と権利を受けながらも、それを放蕩に消費し、自ら滅びていく。人類の歴史の中で、この逆説は繰り返されてきた。 種を蒔く者と刈り取る者が違っても、不満に思う理由はない。神は種を蒔く者の誠実を知っておられ、刈り取る者の労苦をも知っておられる。そして、与えられた恵みを浪費した世代の無責任と怠惰も決して神の御前に隠れることはできない。神はすべての労苦と犠牲を覚えておられ、同時に無責任さと怠慢もご存じである。世が与える報酬に一喜一憂しないなら、私たちはより価値ある道を選ぶことができる。 では、どの道を選ぶのか。夜明けを切り開く世代となるのか、それとも夜の闇に消え、瓦礫の中に立ち尽くす世代となるのか。私たちが今享受しているものは、自分の努力や実力によるものではなく、時代の恵みを受けているにすぎない。その時代を築いた人々は献身したが、すべての恵みを享受することはできなかった。時代が後退していると思いながら、実はなお残されたものを享受していると考えると、自分はまるで罠にかかった若獅子のようであり、枯れゆくぶどうの木のようであり、恐ろしくなる。

에스겔 묵상 【함정에 걸린 사자 새끼, 꺾인 포도나무 가지】 20250818(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 19:1~14 19:1 너는 이스라엘 방백들을 위하여 애가를 지어 19:2 부르기를 네 어미는 무엇이냐 암사자라 그가 사자들 가운데 엎드리어 젊은 사자 중에서 그 새끼를 기르는데 19:3 그 새끼 하나를 키우매 젊은 사자가 되어 식물 움키기를 배워 사람을 삼키매 19:4 이방이 듣고 함정으로 그를 잡아 갈고리로 꿰어끌고 애굽 땅으로 간지라 19:5 암사자가 기다리다가 소망이 끊어진 줄을…

エゼキエル 黙想 【明確な神の御声】 20250814 (木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 17:1~10 17:1 次のような主のことばが私にあった。 17:2 「人の子よ。イスラエルの家に謎をかけ、たとえを語れ。 17:3 『神である主はこう言われる。大きな翼、長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り去り、 17:4 その若枝の先を摘み取り、それをカナンの地へ運び、商人の町に置いた。 17:5 また、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに柳のように植えた。 17:6 それは生長し、丈は低いが、よく生い茂るぶどうの木となった。その枝は鷲の方に向き、根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を作り、若枝を出した。 17:7 さて、大きな翼と豊かな羽毛を持つもう一羽の大鷲がいた。すると、このぶどうの木は、潤いを得るために根をその鷲の方に向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっているところからその鷲の方に伸ばした。 17:8 このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結んで見事なぶどうの木となるように、水の豊かな良い地に植えられていた。』 17:9 言え。『神である主はこう言われる。それはうまく育つであろうか。その根は抜き取られ、その実は摘み取られ、芽の付いた若枝はことごとく枯れないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの人々を必要としない。 17:10 見よ。それは植えられたが、うまく育つだろうか。東風がそれに吹きつけると、すっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。』」   本文は、バビロンとエジプトという大国に挟まれたイスラエルの緊迫した国際情勢を比喩した啓示である。近東は、エジプトが衰退し、バビロンが支配する秩序へと再編されるだろう。ゆえに、イスラエル最後の王ゼデキヤの責任は重大であった。しかしゼデキヤは、同盟国であるエジプトとの間で右往左往した。大義や義理を考えたのかもしれないが、それ以上に重要な「民の命」という優先順位を守ることができなかった。 神はエレミヤとエゼキエルを通して、バビロンを刺激してはならないというメッセージを繰り返し与えられた。それは「誰が味方か」という陣営選択の問題ではない。ゼデキヤは、最優先で民を生かす道を探さなければならなかった。神の御心は、国際情勢の判断や政治的分析の上に、神の啓示と御言葉によって養われた識別力を通して聞こえる。バビロンに仕えよと仰せられたのは敗北主義ではなく、一人でも多くの民を救うための道であった。 その時、近東のゼデキヤは地の変化を読み取ることができなかった。別の時代、極東の半島でも同じことがあった。明から清へ、清から日本帝国へと秩序が再編されるたびに、守旧派は事大の観念に囚われていた。義理や伝統、感情や人脈に縛られ、民がより多く死なねばならない道を選んだ。それが不従順であり、背信である。民を生かす道こそが従順であり、信仰である。 信仰があると言いながらも、命に対する責任と良心がなく、救わねばならないという使命がないなら、それは信仰ではなかったことの証明である。ゼデキヤが滅んだのは政治的判断を誤ったからではなく、民を救うべき良心と使命に目を閉じたからであり、その結果として目をえぐられたのだ。神の御声を聞くということは、神の心にかなった思いを抱くことであり、現実を認識する土台の上に良心と使命が生きているとき、神の御声は聞こえるのである。

에스겔 묵상 【선명한 하나님의 음성】 20250814(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

에스겔 17:1~10 17:1 여호와의 말씀이 내게 임하여 가라사대 17:2 인자야 너는 수수께끼와 비유를 이스라엘 족속에게 베풀어 17:3 이르기를 주 여호와의 말씀에 채색이 구비하고 날개가 크고 깃이 길고 털이 숱한 큰 독수리가 레바논에 이르러 백향목 높은 가지를 취하되 17:4 그 연한 가지 끝을 꺾어 가지고 장사하는 땅에 이르러 상고의 성읍에 두고 17:5 또 그 땅의 종자를…

エゼキエル 黙想 【悔い改め、その恥の告発】 20250813水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

エゼキエル 16:53~63 16:53 わたしは彼女たちを元どおりにする。ソドムとその娘たち、サマリアとその娘たち、また彼女たちの中にいるあなたを元どおりにする。 16:54 こうして、あなたは自分自身の恥辱を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべてのことによって、辱めを受ける。 16:55 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは元のところに帰り、サマリアとその娘たちも元のところに帰り、あなたとあなたの娘たちも元のところに帰って来る。 16:56 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。 16:57 しかしそれは、あなたの悪がさらけ出される前のことであって、今はアラムの娘たちや、その周りのすべての者、およびペリシテ人の娘たちのそしりの的となっている。彼女たちはあなたを四方から侮っている。 16:58 あなたは、自分の淫らな行いと忌み嫌うべきわざの報いを受けている──主のことば。 16:59 まことに、神である主はこう言われる。わたしは、あなたがしたとおりのことをあなたに返す。あなたは誓いを蔑んで、契約を破ったのだ。 16:60 だが、わたしは、あなたが若かった日々にあなたと結んだ契約を覚えて、あなたと永遠の契約を立てる。 16:61 わたしがあなたの姉と妹を選び取って、あなたとの契約には含まれていないものの、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の生き方を思い出し、恥じることになる。 16:62 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知る。 16:63 こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──神である主のことば。』」   エゼキエル書16章は、神がエルサレムを契約の妻として選ばれたにもかかわらず、その妻が淫行と裏切りを犯したことを告発している。神は裁かれるが、その裁きの後には回復も約束された。ただし、回復はすぐには訪れない。まずエルサレムは自分の恥を覚え、その恥に向き合わなければならない。恥を認め、責任を受け入れる場所でこそ、恵みが真実に経験されるからである。恥を知ってこそ、それを覆ってくださる感謝を知り、絶望を知ってこそ、救いの喜びが何であるかを知ることができる。 人は本能的に恥ずかしいことを隠したくなる。だから私たちは回避する。言い訳をしたり、状況や他人のせいにしたりする。そして自分自身をも欺く。しかし、だからといって恥の根が消えるわけではない。それは手のひらで空を覆い、目隠しして「見えていないふり」をしているに過ぎない。 信仰は、恥に向き合う勇気を必要とする。だから常に痛みが伴う。自分自身を認めることは苦しいことだからである。しかし、人が神の前で恥をさらけ出す瞬間、ただ神のご性質にだけ頼ることになる。自分の恥を神に告げることのできる勇気ある人の欠点を、神が覆ってくださるのだ。神の前で自分の恥を隠したままで保てるものは何もない。ゆえに、魂が正直でない者は悔い改めることができない。 「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び…」(ヘブル12:2)イエス様も恥を受けられた。十字架は侮辱的で恥ずかしい刑罰であった。イエス様は人類の罪を背負われただけではなく、私が認め、告白する私自身の恥を代わりに背負われたのである。そのためにキリストは恥を避けられなかった。それを告白できないなら、十字架はまだ私のものではない。 しかし、私たちは十字架の前でさえ、自分の恥を告白する勇気を持たない。悔い改めの祈りと言っても、多くの場合「聖なる言葉」で飾られている。口では罪人だと告白しながらも、その告白がかえって敬虔な人だという拍手を受けることになる。安全に見えるが、真実ではない。それは恥に向き合うのではなく、巧みに隠すことだ。だから、恥をさらして祈ることは非常に難しく、真の悔い改めの祈りは稀である。必要なのは自己憐憫ではなく、悔い改めである。悔い改めは、人前で言葉にするものではなく、静かな時の中で深い内面において行うものである。