テサロニケ人への手紙第二 黙想 【伝統で一つになる教会】 20240830(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

テサロニケ人への手紙第二 2:13-3:5 2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。 2:14 そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。 2:15 ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。 2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、 2:17 あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。 3:1 最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。 3:2 また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。 3:3 しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。 3:4 私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。 3:5 主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。      長い間、教会は「伝統」を大切に守り、忘れてしまったら再びその伝統に戻るために努力してきました。このように教会が伝統を守り、大事にしてきたのは、教会がただ昔の良いものを守るため、または保守的な傾向を持っている集団であるからではありません。その「伝統」の中にある貴重な意味を知っていたためです。  パウロはテサロニケ教会の信徒たちに「私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい」と薦めています。ここで「教え」と翻訳されている言葉は、伝統、または昔からの教えなどの意味を持っている言葉です。初代教会時代、その中でも特にテサロニケ教会は、教会の伝統というものが生まれもしなかった時、初代教会教会の中でも初期に建てられた教会の一つであって、パウロが彼らに伝えた「伝統」ということは教会の伝統ではなかったはずです。パウロが伝えたのはイエス·キリストから受け継いだ教え、その信仰の伝統でしょう。  その反証としてパウロがテサロニケ教会に自分たちのための祈りを頼んだ時の内容、単純に宣教のためのお祈りだと思われるかもしれませんが、内容を細かく調べてみれば、私たちもよく知っているお祈りの内容です。それは主の祈りです。  略2千年前にイエス様が教えてくださった祈祷文と、略1,500年前の教会が一つの告白と認めた使徒信条は、その長い時間を越えて、一つの伝統として私たちに伝えられ、私たちも同じく祈り、告白しています。  イエス様が直接教えてくださった主の祈りはもちろん、使徒信条もやはりその内容に非の打ち所がない素晴らしいものなので、今の教会が同じく告白をしていることでもありますが、私たちは教会の「伝統」としてもこれらを守ってたのです。  教会が一つになることは、教会の間の協約、教団の間の協約などを通して行われるものではありません。 どれだけ離れたところにいても、どれだけ昔の教会であっても、神様に同じことを求め、同じ告白をささげることを通して全世界の教会が、そして2千年間この地に存在してきたすべての教会が一つになるのです。https://youtu.be/k3ZkdB1vgEE?si=PlQlue6mYIZsXmGB

데살로니가후서 묵상 【전통으로 하나되는 교회】 20240830(금) 최종석 전도사

데살로니가후서 2:13-3:5 2:13 주께서 사랑하시는 형제들아 우리가 항상 너희에 관하여 마땅히 하나님께 감사할 것은 하나님이 처음부터 너희를 택하사 성령의 거룩하게 하심과 진리를 믿음으로 구원을 받게 하심이니 2:14 이를 위하여 우리의 복음으로 너희를 부르사 우리 주 예수 그리스도의 영광을 얻게 하려 하심이니라 2:15 그러므로 형제들아 굳건하게 서서 말로나 우리의 편지로 가르침을 받은 전통을 지키라 2:16 우리…

Ⅱテサロニケ 黙想 【不法の者】 20240829(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱテサロニケ 2:1~122:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。2:9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、2:10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。2:11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。2:12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。 ■テサロニケ教会内には、キリストの再臨に関する誤解がありました。そのため、パウロはそれを正す必要がありました。当時、主の日が間近に迫っていると教える者たちがいたり、主がすでに再臨されたと教える者もいました。パウロはその誤った知識を修正し、その誤った教えの背後にある悪意や原因も取り除く必要があったのです。 ■主の再臨については、すべての信徒が関心を持っています。イエス様を愛する者は、イエス様が再び来られることを待ち望んでいるからです。しかし、イエス様を愛していない者は、再臨に関心がありません。それを信じてもいません。本書は、そのような者を「不法の者」と呼んでいます。不法の者たちの関心は、信徒たちの関心を利用して利益を得たり、宗教的に支配しようとすることです。これを終末論的な支配または終末論的なコントロールと呼びます。 ■異端やカルトの問題は、信仰の問題というよりも経済的な問題です。現在活動しているいわゆる異端宗教は、聖書解釈の誤りではなく、愚かな信徒たちを対象に宗教ビジネスをしているカルトです。信徒たちはそれに騙されているのです。恥ずかしいことに、異端やカルト新興宗教団体は教会内でその宗教市場の可能性を学びました。信徒が神の言葉を知らないという市場分析が終わったのです。再臨は重要な営業戦略となり、それを餌にして自分が支配できる愚かな人々を探しているのです。 ■イエス・キリストを待ち望む信徒であれば、必ず分別しなければならないことがあります。それは、再臨のタイミングではなく「人」です。再臨の時は分別しようとしても分別できないでしょう。神の時に神が来られるのです。人はその時を分別するのではなく、その時を語る人々を分別しなければなりません。再臨だけではありません。神について語る人々をすべて分別する必要があります。 ■多くの人々は、素晴らしい牧師がいる良い教会に通えば信仰生活をうまくやれると思っています。もちろん、それはその通りでしょう。しかし、そのような教会と牧師を分別するのは各個人がすべきことではないでしょうか?霊的という言葉を多用し、扇動するのが好きな人々には注意してください。私は個人的に、ある人が自分の教会や主任牧師に対して過剰な自負心や誇りを持っているのを見ると、その教会の支配構造を疑います。 ■御言葉を知らなければ、御言葉を分別する基準がありません。自分の心にあるものを読み取れなければ、神に対して正直であることができず、騙そうとする者の心の中にあるものを分別できなければ、騙されるしかありません。Ⅱテサロニケで言う「不法の者」は、異端の者や危険なカルト宗教の者に限りません。私たちの中に混ざっているかもしれないし、もしかしたら私たちが購読し視聴しているYouTubeチャンネルかもしれません。そこに神はいません。自分で読み、考え、質問する方法で神を学ぶ人は、騙されることはありません。騙す人も不法であり、騙される人も不法です。人を追いかける者は必ず人の罠に陥るでしょう。人の言葉を消し、神の御言葉の前に座りましょう。

데살로니가후서 묵상 【불법의 사람들】 20240829(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

데살로니가후서 2:1~122:1 형제들아 우리가 너희에게 구하는 것은 우리 주 예수 그리스도의 강림하심과 우리가 그 앞에 모임에 관하여2:2 혹 영으로나 혹 말로나 혹 우리에게서 받았다 하는 편지로나 주의 날이 이르렀다고 쉬 동심하거나 두려워하거나 하지 아니할 그것이라2:3 누가 아무렇게 하여도 너희가 미혹하지 말라 먼저 배도하는 일이있고 저 불법의 사람 곧 멸망의 아들이 나타나기 전에는 이르지 아니하리니2:4 저는…

데살로니가전서 묵상 【동행】 20240827(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

데살로니가전서 5:23~285:23 평강의 하나님이 친히 너희로 온전히 거룩하게 하시고 또 너희 온 영과 혼과 몸이 우리 주 예수 그리스도 강림하실 때에 흠 없게 보전되기를 원하노라5:24 너희를 부르시는 이는 미쁘시니 그가 또한 이루시리라5:25 형제들아 우리를 위하여 기도하라5:26 거룩하게 입맞춤으로 모든 형제에게 문안하라5:27 내가 주를 힘입어 너희를 명하노니 모든 형제에게 이 편지를 읽어 들리라5:28 우리 주 예수…

Ⅱテサロニケ 黙想 【バウロが規範について語る理由】 20240826(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱテサロニケ 5:12~225:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、5:13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。5:19 御霊を消してはいけません。5:20 預言を軽んじてはいけません。5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。5:22 あらゆる形の悪から離れなさい。 ■バウロの勧めは、共同体への配慮から来ています。12節ではリーダーを尊重することについて、13節では互いに大切にし、平和を保つことについて語っています。14節では、弱い者を一時的な支援にとどまらず、忍耐強く支え続けるよう勧めています。そして、15節では、たとえ誰かに心を傷つけられたとしても、感情的に反応するのではなく、長い目でその人を受け入れるようにと勧めています。これは、共同体の平和を保つための勧告です。外部からの危機に対抗するためには、内部の結束が不可欠だからです。内部が揺らげば、外部の脅威がなくても自ら崩れてしまうでしょう。バウロが語っているのは、イエス様を信じる者が守るべき道徳的な規範ではなく、共同体の一員として主体的な配慮を持つべきだという勧めなのです。 ■イエス様を信じた罪人たちは、信仰の中でも葛藤を引き起こします。自分は赦されたと言いながら、憎む兄弟を赦しません。助けているようで、すぐに疲れて諦めてしまいます。リーダーに感謝するよりも不満を抱き、聖徒同士の間で絶え間ない不和があります。そのような人々は、共同体の体質を弱め、危機に追い込んでしまいます。新約聖書の手紙に見られるほとんどの行動に関する勧告の背景には、規範、そのものを語る目的ではなく、共同体の関係性を高めるための人格的な訴えです。まことに守るべきものは規範ではなく、共同体です。だからこそ、規範が必要なのです。イエス様が命じた自己否定が実践されているかどうかは、隣人に対する態度と関係を見ればわかるのです。 ■16節の「いつも喜びなさい」ということは、喜べない状況にあっても内なる喜びを失わないことを意味しています。17節の「絶えず祈りなさい」ということも、すべての瞬間に神様に依存することを指しています。18節の「すべてのことにおいて感謝しなさい」ということは、高慢を戒め、恵み意識することを促しています。19節の「御霊を消してはいけません」と20節の「預言を軽んじてはいけません」ということは、共同体を通じて与えられる神様のメッセージを謙虚に受け取ることを勧めています。今日の本文が勧めているすべてのことは、キリスト者として守るべき規則ではなく、イエス・キリストの共同体を大切にする者たちが成長していく過程で結んでいく実です。美しい勧めの言葉ではなく、必死に戦わなければならない激しい自己との闘いが伴います。腐心しなければ成長はありません。

데살로니가전서 묵상 【바울이 규범을 말하는 이유】 20240826(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

데살로니가전서 5:12~225:12 형제들아 우리가 너희에게 구하노니 너희 가운데서 수고하고 주 안에서 너희를 다스리며 권하는 자들을 너희가 알고5:13 저의 역사로 말미암아 사랑 안에서 가장 귀히 여기며 너희끼리 화목하라5:14 또 형제들아 너희를 권면하노니 규모 없는 자들을 권계하며 마음이 약한 자들을 안위하고 힘이 없는 자들을 붙들어 주며 모든 사람을 대하여 오래 참으라5:15 삼가 누가 누구에게든지 악으로 악을 갚지…

テサロニケ人への手紙第一 黙想 【耐えきれなくなって】 20240823(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

テサロニケ人への手紙第一 3:1-13 3:1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、 3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、 3:3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。 3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。 3:5 そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。 3:6 ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。 3:7 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。 3:8 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。 3:9 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。 3:10 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。 3:11 どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。 3:12 私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。 3:13 そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。    テサロニケ教会に向けた使徒パウロの心がどのようなものかを最もよく見せてくれる箇所は、まさに今日の箇所だと思います。その中でも特に「耐えきれなくなり」、「耐えられなくなって」などの言葉遣いから、使徒パウロがどれほどテサロニケ教会と信徒たちを大切に思い、愛しているかを見ることができるようです。    パウロが彼らを正しく教育し, 彼らが主にあって堅く立つことをどれほど願っていたか, 彼らのために行ったことが単純に必要に応じて、合理的な判断から行っったのではなく,「耐えきれなくなり」という言葉を反復して使い、強調しています。    テサロニケ人への手紙はパウロの書簡の中でも「教理書簡」と呼ばれるグループに分類される主観です。私たちにとって「教理」というのは硬くて、理性的で原則的な印象を与えますが、今日、パウロが見せてくれる姿はそのような教理の印象とは全く違う、感情的で衝動的な行いでした。    実際、私たちキリスト者が追求しなければならない教理、キリスト者として正しく生きていくために必要な教えは、まさにこのようなものではないでしょうか。いつの間にか教会の教えは硬くなり、伝道や教育、礼拝などは形式的なものになってしまいました。しかし、これらは私たちに理性的で原則的なものになってはいけないもの、私たちの心が「耐えきれなくなって」行わなければならないものでしょう。    キリスト者は耐えきれなくなって神様を愛し、教会を愛し、すべての人を愛しなければなりません。今日の箇所のパウロがテサロニケ教会を愛し、彼らのために行うことを耐えきれなくなったように、そして、それよりも先に神様がこの世を愛することを耐えきれずにイエス·キリストをこの地に遣わし、人々がご自分の御前に来れる道を開いてくださったためです。    私たちが様々な苦難の中にあっても神様の恵みの御座の前に動揺せず立つことができるようになることは、私たちの意志や努力で可能になることではありません。神様に向ける耐えられない切実な愛の心を私たちに与え、その心を通して働かれる聖霊を通して、主にあって堅く立つことができるようになるでしょう。

데살로니가전서 묵상 【참다 못하여】 20240823(금) 최종석 전도사

데살로니가전서 3:1-13 3:1 이러므로 우리가 참다 못하여 우리만 아덴에 머물기를 좋게 생각하고 3:2 우리 형제 곧 그리스도의 복음을 전하는 하나님의 일꾼인 디모데를 보내노니 이는 너희를 굳건하게 하고 너희 믿음에 대하여 위로함으로 3:3 아무도 이 여러 환난 중에 흔들리지 않게 하려 함이라 우리가 이것을 위하여 세움 받은 줄을 너희가 친히 알리라 3:4 우리가 너희와 함께 있을…

Ⅱテサロニケ 黙想 【神のことばを受けたとき】 20240822(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱテサロニケ 2:13~202:13 こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。2:15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。2:16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。2:17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。2:20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。 ■パウロはテサロニケの聖徒らが神様の御言葉を受け入れたことに感謝し、彼らがその御言葉を人間の言葉ではなく、神様の御言葉として受け入れたため、その御言葉の力が彼らの中で働いていると述べています。御言葉を伝えるのは人間ですが、それを受け取る際にそれを人間の言葉ではなく神様の御言葉として受け入れるという表現は、テサロニケの聖徒たちがパウロが伝えた福音を人間のものと見なさず、神様の真理の御言葉として受け入れたことを意味しています。神様の御言葉として受け入れると、その御言葉は人の中で働き始め、人生を変える力となるのです。 ■逆に言えば、信じようとしない人は、何を言っても信じないということです。「無神論者」というのは、無神と有神のどちらかを信じたいものを信じているに過ぎません。どちらにせよ、信じなければならないのです。神様が存在することを科学的に証明することはできませんし、神様が存在しないこともそのような方法では証明できません。神様を検証可能な科学的な方法で証明することはできません。証明されたからといって、それが信仰というわけではありません。ただ神様を信じることで、神様の御言葉を証しします。私の中にある信仰が神様を証明します。信じると言いながら、神様の御言葉の実在を信じない半端な者は、自称無神論者よりも悪いのです。 ■言葉遊びかもしれませんが、「無神論者」ではなく「無信論者」なので、何を言っても信じないのです。信じようとしないから、目の前に現れた神様もいないと言い張るだけなのです。自分を信じ、自分に満ちています。神様がいないと言い張るだけで、合理的な無神論者として扱われることはあるかもしれません。しかし、「無信論者」という言葉は成立しない自己矛盾の概念です。信じなければ認識できるものは何もないからです。確認したから認識するのではなく、確認の上、それを信じたから認識するのです。自分を疑わなければ、神様を信じることはできないでしょう。それが神様の御言葉を受け取る方法です。テサロニケ教会は聖霊を経験した良い土です。御言葉が神様であることを経験したので、彼らはまさしく神様を出会った人々です。