ヨハネの福音書 黙想 【世は分からない】 20250222(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 14:25-31 14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。 14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。 14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。 14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。 14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。 14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」 14:22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」 14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。 14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。 14:28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。 14:29 今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。 14:30 わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。 14:31 それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。  私たちにとって聖書は生きている神様の御言葉であり、私たちの信仰と人生の唯一の規範となるものです。 しかし、世の中にはこのような信仰を持って聖書を見ようとするのではなく、知性の目を通して聖書を研究し、その内容を調べる人々も大勢います。 彼らにとって聖書は興味深い古代文献であり、研究の対象以上でも以下でもないものです。    聖書を見るこのような観点の違いはどこから来るでしょうか。それは、 その聖書について誰から学んだのか、そのことが違いを生み出すのです。 人から聖書を学んだ人々は、人の目でその聖書を見るしかありません。 そのように学んで来たからです。 しかし、そのような方法では決して聖書を知ることはできません。 彼らの目には聖書は数多くの矛盾と神話のような物語で溢れている本であるからです。    そのため、私たちは世の中の観点、人からその御言葉を学ぶのではなく、聖書の著者からその御言葉について学ぶことが最も正確に聖書を知ることができる方法なのでしょう。 それが聖霊から聖書を学ぶことです。    私たちは御言葉を照らし、明らかにしてくださる聖霊を通して、世の中の常識、世の目でみると決して分からない神様の御言葉を学んでいきます。 この世の中の目で見れば苦難と忍耐、恐ろしいことに満ち溢れている聖書の中から、真の平安と慰め、愛を学んでいくのです。    聖霊はこのように私たちの中で働いておられます。 私たちを教え、世の中の観点、考えから私たちを守り、私たちを神様に導いてくださいます。だからこそ、私たちはその聖霊を頼りにして進んでいけば良いのです。…

요한복음 묵상 【세상은 알 수 없는】 20250222(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 14:25-31 14:25 내가 아직 너희와 함께 있어서 이 말을 너희에게 하였거니와 14:26 보혜사 곧 아버지께서 내 이름으로 보내실 성령 그가 너희에게 모든 것을 가르치고 내가 너희에게 말한 모든 것을 생각나게 하리라 14:27 평안을 너희에게 끼치노니 곧 나의 평안을 너희에게 주노라 내가 너희에게 주는 것은 세상이 주는 것과 같지 아니하니라 너희는 마음에 근심하지도 말고 두려워하지도…

ヨハネの福音書 黙想 【冒瀆される神】 20250221(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 14:15-24 14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。 14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。 14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。 14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。 14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。 14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。 14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」 14:22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」 14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。 14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。 14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。    福音書の中で最も多く表れている対立関係は、イエス様とユダヤ人の指導者たちの間の対立です。 その対立のテーマはいつも「律法」でした。 ユダヤ人の指導者たちは、自分たちが今まで守ってきたモーセの律法、そして、その律法作り出した口伝律法と呼ばれる規範です。しかしイエス様は彼らに「新しい戒め」を提示し、彼らと対立することが描かれています。    神様がモーセに与えた律法、それは確かに厳格に守らなければならない神様の御教えです。 しかし、その律法の基礎には神様の「愛」が示されています。 しかし、ユダヤ人たちは、その愛を見ることができず、表面的な律法だけを見ていたのです。 おそらく私たちも当時のユダヤ人たちと同じ状況であれば、律法の中に示されている神様の愛を見ることができなかったかもしれません。 しかし、確かなことは、今の私たちはその愛を見ることができます。それはイエス様が天に上り、聖霊を遣わしてくださったからです。    イエス様は人々に新しい戒めを与えました。 互いに愛すること、それもイエス様が私たちを愛したように互いに愛すること。 従って、イエス様は律法を廃棄するために来られた方ではなく、律法の成就のために来られたのです。 愛を基礎にして、その愛に向かって進んでいく律法の終着点、そこがまさにイエス様なのです。    今日の箇所でイエス様はそのようなご自分の戒めを守る者はわたしを愛する者だと言われました。 そして、その戒めがまさにイエス様が教えられた新しい戒め、互いに愛することなのです。 それと同時に、わたしを愛する人はわたしのことばを守ると言われました。 なぜならば、私たちは不完全な人間の愛ではなく、完全な神様の愛で互いを愛しなければならないからです。    その愛の中で、私たちはますます神様を知っていくことができます。 私たちの目には見えなかった神様の愛を、聖霊によってその愛を実践しながら神様を知り、その神様が私たちの中にともにおられることを知ることになるのです。    私たちが実践しなければならない戒めは、律法学者たちが提示した律法のようなものではありません。 イエス様が教えられた新しい戒め、その愛を実践することがまさに信仰の実践です。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=62LvYPYJMmTZG6Rb

요한복음 묵상 【새 계명의 실천】 20250221(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 14:15-24 14:15 너희가 나를 사랑하면 나의 계명을 지키리라 14:16 내가 아버지께 구하겠으니 그가 또 다른 보혜사를 너희에게 주사 영원토록 너희와 함께 있게 하리니 14:17 그는 진리의 영이라 세상은 능히 그를 받지 못하나니 이는 그를 보지도 못하고 알지도 못함이라 그러나 너희는 그를 아나니 그는 너희와 함께 거하심이요 또 너희 속에 계시겠음이라 14:18 내가 너희를 고아와…

요한복음 묵상 【내가 곧 길이요】 20250220(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 14:1~14 14:1 너희는 마음에 근심하지 말라 하나님을 믿으니 또 나를 믿으라 14:2 내 아버지 집에 거할 곳이 많도다 그렇지 않으면 너희에게 일렀으리라 내가 너희를 위하여 처소를 예비하러 가노니 14:3 가서 너희를 위하여 처소를 예비하면 내가 다시 와서 너희를 내게로 영접하여 나 있는 곳에 너희도 있게 하리라 14:4 내가 가는 곳에 그 길을 너희가 알리라…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしが道である】 20250220(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 14:1~14 14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」 14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」 14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。 14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。 14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。 14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。 14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。   イエス様が「父の家に住む場所を用意しに行く」と言われたとき、トマスは「イエス様が先に行ってしまわれると、自分たちはその道を見つけることができないのではないか」と心配しました。トマスは物理的な意味での道について心配していましたが、イエス様はこう答えられました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。ヨハネ 14:6」 イエス様を伝えることを「伝道」と言います。それは「道を伝えること」です。私たちはイエス様について行って、どこかの道を歩むのではなく、イエス様ご自身が道なのです。イエス様を信じて何かをしなければならないのではなく、イエス様を信じることが信仰であり、救いなのです。イエス様とともに歩むことが、そのまま道となります。自分で道を作り、真理を探し、いのちを得ようとする人は、やがて忙しさに疲れ果て、最後には虚しさに陥ってしまいます。しかし、イエス様の中にいることが、「道」と「真理」と「いのち」を持つことなのです。私たちは、「イエスを信じる」ということが何を意味するのか、より真剣に考えざるを得ません。 今回は、ピリポが「父を見せてください」と言いました。トマスはイエス様に「道を示してください」と求め、ピリポは「神を見せてください」と求めました。しかし、その答えは、すぐ目の前におられるイエス様でした。イエス様は「わたしと父とは一つである」と宣言され、イエス様を見ることが、神を見ることであると教えられました。イエス様と共に歩むことが「道」であり、イエス様と共にいることが「神と共にいること」なのです。 現代では、イエス・キリストの唯一性が独善的だと見なされることがあります。しかし、イエス・キリストなしに天国へと続く道はなく、イエス・キリストなしに混沌とした偽りの世の中で真理を見出すことはできず、イエス・キリストなしにいのちを得ることもできません。すべての中で最も明確で、確実に確保された安全な場所、それはイエス・キリストの中にいることです。 イエスの中にいることとは、御言葉の中にいることを意味します。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ 1:14」人が「イエスの中にいる」と言うならば、その人は御言葉の中に生きることによって、それを証明しなければなりません。イエスの中にいるとは、自らの言葉と人格を通して、聖書と深く交わっている状態のことなのです。

ヨハネによる福音書 黙想 【新しい戒め】 20250219(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 13:31~38 13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。 13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。 13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」 13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」 13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」 13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」   イエス様が与えられた新しい戒めは、「互いに愛し合いなさい」というものです。古い戒めは、条文として記された律法でしょう。イエス様の意図は、律法の条項をすべて守ろうとする宗教的な努力ではなく、互いに愛し合うという人格的で関係的な要求です。 この言葉は難しいものです。律法を守ろうとしたことのある人、あるいは兄弟を愛そうとしたことのある人ならば、それがどちらも不可能であることを悟るからです。私たちは「律法ではなく信仰だ」と簡単に言いますが、その信仰がすなわち愛であるならば、愛を実践することは律法を守ることよりもさらに困難かもしれません。だからこそ、人々はむしろ決められたものを守るというやり方、すなわち律法主義的な信仰の中で、自分の信仰を確認しようとするのです。 ここで言われている愛とは、どのような愛でしょうか?守る力がないのに、無限に守らなければならない律法と同じように、実践する力がないのに、無限に愛し続けなければならないということでしょうか? どこまで愛せば、この愛に該当するのでしょうか? それは、兄弟を受け入れ、寛容に接する愛ではないでしょうか?無理に引き寄せて多くのことをしてあげる必要はありません。拒絶せずに受け入れるだけで、愛することができます。好きになれなくても、憎まないだけで愛することができます。非難せず、悪口を言わないだけでも、愛することができます。 実際の教会共同体で起こる争いは、「もっと良くしてあげないこと」が原因ではなく、「非難し、憎むこと」から始まるものです。あの人はそういう人だと認め、受け入れ、ともに生きること。それこそが、新しい戒めを守る愛なのです。

요한복음 묵상 【새 계명】 20250219(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 13:31~38 13:31 저가 나간 후에 예수께서 가라사대 지금 인자가 영광을 얻었고 하나님도 인자를 인하여 영광을 얻으셨도다 13:32 만일 하나님이 저로 인하여 영광을 얻으셨으면 하나님도 자기로 인하여 저에게 영광을 주시리니 곧 주시리라 13:33 소자들아 내가 아직 잠시 너희와 함께 있겠노라 너희가 나를 찾을터이나 그러나 일찍 내가 유대인들에게 너희는 나의 가는 곳에 올 수 없다고 말한…

ヨハネによる福音書 黙想 【イエス様に受け取ったパン切れ】 20250218(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 13:21~30 13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」 13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。 13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。 13:24 そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。 13:25 その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」 13:26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。 13:27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」 13:28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。 13:29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。 13:30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。   イスカリオテのユダはイエス様を裏切ります。この本文は解釈や理解が難しいものです。物語の流れは分かりますが、その構造について説明することができません。ユダが自らの意志でイエス様を裏切ったのか、それともイエス様がユダを利用されたのか。ユダの中にサタンが入ったのであれば、なぜイエス様はそれを止められなかったのか。彼はもともとそのような役割を定められていたのか、それとも彼自身の意志の結果なのか。彼は今どこにいるのか――どのような答えを出しても、その反対の問いに完全に答えることはできません。神様のパズルは神様だけがご存じであり、私たちはその一部分しか見ることができません。そのため、すべてに自信を持って答えられないこともあります。 しかし、私たちはイスカリオテのユダの役割、すなわちイエス様が十字架へ向かう道には、肯定的であれ否定的であれ、多くの役割や出来事が必要だったことを知っています。「イエス様が無実の罪で死なれた」というのは、イエス様に罪がなかったことを意味しますが、「十字架で死なれたことが不当であった」という意味ではありません。なぜなら、イエス様はそのために来られたからです。そして、イエス様はその死を通して贖いを完成されるのです。したがって、人々の陰謀や裏切りさえも、救いの歴史を成し遂げる上で一つのピースとなったことは確かです。しかし、それが強制されたわけではないでしょう。そのピースを握りたくなければ、握らなかったはずです。もし人が神様からの使命を受け入れなければ、神様は別の人を通して働かれます。自由意志は、使命の前にも滅びの前にも、同じように与えられています。 ユダはイエス様の預言どおり、一つのパン切れを受け取り、外へ出て行きました。ヨハネによる福音書には聖餐に関する記述はありませんが、他の福音書を参考にして時間の流れを考えると、ユダが受け取ったパン切れはこれから始まる聖餐で用いられる過越しのパンだったでしょう。それは本来、キリストと結ばれるための主の御体ですが、ユダにとってはイエス様を裏切り、売ることのしるしとなりました。同じパンでも、その用途は異なっていたのです。 ユダがイエス様を売ったからといって、その計画が水泡に帰し、状況が覆ったわけではありません。神様の救済の歴史は、壮大な流れの中で進んでおり、ユダはその一切れの人生を生きただけなのです。なぜユダだったのか、それに対する神様のご計画というのは分かりません。しかし、私が知っているのは、私の信仰と人生もまた、一つのピースであるということです。人間の善と悪、信仰と不従順は、神様のパズルを変えることはできません。私たちはただ、自分のピースがどこに収まるべきなのか、恐れをもって生きなければならないのです。一切れのパン、銀三十枚を手にして裏切る人生を歩むべきではありません。信仰のに立ち、真実と良心の一切れとなり、恥じることのないピースとして生きていくことを願います。

요한복음 묵상 【예수님께 받은 한 조각】 20250218(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 13:21~30 13:21 예수께서 이 말씀을 하시고 심령에 민망하여 증거하여 가라사대 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 너희 중 하나가 나를 팔리라 하시니 13:22 제자들이 서로 보며 뉘게 대하여 말씀하시는지 의심하더라 13:23 예수의 제자 중 하나 곧 그의 사랑하시는 자가 예수의 품에 의지하여 누웠는지라 13:24 시몬 베드로가 머릿짓을 하여 말하되 말씀하신 자가 누구인지 말하라 한대 13:25…