マタイの福音書 黙想【謙遜を持って】20260117(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 3:11-17 3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。 3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。 3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」 3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。 3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。 3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」   イエス様がこの地に来られ、人々を教え、福音を宣べ伝え、病を癒やして歩まれたすべての働きの時、いわゆる「公生涯」と呼ばれる時は、今日の箇所に記されているこの出来事、イエス様がバプテスマをお受けられるこの時から始まります。  バプテスマのヨハネが授けていたのは「水のバプテスマ」であり、イエス様が後に授けられるのは、「聖霊と火によるバプテスマ」です。この二つは、その後も対比的に語られます。ヨハネの水のバプテスマが、悔い改めと新しい生の始まりを告げるものであったのに対し、イエス様が授けられる聖霊と火のバプテスマは、人を内側から聖く造り変えるバプテスマであると理解されています。  おそらく、バプテスマのヨハネが考えていたように、イエス様ご自身には、本来この水のバプテスマは必要のないものであったのかもしれません。しかし、イエス様は、ご自分がこのバプテスマを受けなければならないことを、はっきりと知っておられました。このバプテスマを通して、イエス様は父である神様の御心に、へりくだって従順をささげられました。そしてその時、イエス様こそが神様の御子であることを、父なる神様ご自身が直接に示されたのです。  私たちを悔い改めへと導く水のバプテスマ、そこから始まる新しい生は、「へりくだり」によって支えられています。私たちは、悔い改めを重ねるほどに、自分がどれほど聖められたかを誇る者となるのではなく、むしろ、ますますへりくだった姿へと変えられていくべきです。そのようなへりくだりを通して、神様は私たちに聖霊のバプテスマを与え、私たちを聖く造り変え、ご自身の御業のために用いてくださるのです。 https://youtu.be/QQiLmv4cjC0?si=PxklkWliHSqskPqF

마태복음 묵상【겸손으로 받는 세례】20260117(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 3:11-17 3:11 나는 너희로 회개하게 하기 위하여 물로 세례를 베풀거니와 내 뒤에 오시는 이는 나보다 능력이 많으시니 나는 그의 신을 들기도 감당하지 못하겠노라 그는 성령과 불로 너희에게 세례를 베푸실 것이요 3:12 손에 키를 들고 자기의 타작 마당을 정하게 하사 알곡은 모아 곳간에 들이고 쭉정이는 꺼지지 않는 불에 태우시리라 3:13 이 때에 예수께서 갈릴리로부터 요단…

マタイの福音書 黙想【主を迎えるために】20260116(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マタイの福音書 3:1-10 3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、 3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。 3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。 3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、 3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。 3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。 3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。  私たちが「キリスト者」になるということは、「イエス様を心の中に迎えること」から始まると言ってもよいほど、主を心の内にお迎えすることは、私たちの信仰の土台であり、基礎であります。そのため、私たちが伝道する時にささげる祈り、いわゆる「迎接の祈り」には、必ずイエス様を私たちの内にお迎えする祈りが含まれます。  この迎接の祈りも御言葉に基づいた祈りであるので、当たり前のことではありますが、今日の御言葉においても、また迎接の祈りにおいても、イエス様をお迎えするために必ず求められることがあります。それが、罪の告白と悔い改めです。  バプテスマのヨハネは、人々の前に立ち、「主の道を用意せよ」という預言の御言葉をそのまま引用し、イエス様が来られる道を備えるようにと宣告しました。そして、その備えとして彼が求めたのは、他の何かではありませんでした。ただ一つ、「悔い改め」ることでした。  私たちが主を心にお迎えするための道は、他にありません。悔い改めにあります。私たちは、この悔い改めを通して、主を私たちの内にお迎えするのです。この順序は、決して変わることはありません。悔い改めのない信仰はなく、悔い改めのない聖化もなく、悔い改めのない救いもありません。  この事実は、教会の内においても、また教会の外においても、きわめて重要な真理です。教会に行っているから、信仰があるからといって、悔い改めから自由になることでは決してありません。キリスト者は、日々の生活の中で絶えず罪と向き合い、ときには罪を犯してしまう存在であることを、互いに認め合わなければなりません。そして、その罪を悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことが求められています。私たちが罪に対する時は、罪そのものへの𠮟責が先立ってはいけません。𠮟責されるべきことは、罪に対する悔い改めがない姿です。  また教会の外にいる人々に対しても、彼らの罪をただ責めながら、「信仰がないから」と言って、まるで私たちとはまったく違う存在であるように切り離してはいけません。むしろ、彼らの内にも主をお迎えするための悔い改めが起こり、悔い改めにふさわしい実が結ばれるようにと祈り、その悔い改めの場へ招くべきでしょう。  主をすでに迎え入れた者だけが教会に集まるのではありません。神様が用いておられる教会を通して、人々が主をお迎えする悔い改めへと導かれ、実を結ぶのです。教会は、罪人と切り離された場所ではなく、絶えず罪人たちが訪れてくる場所にならなければなりません。それゆえ、教会の中にはさまざまな争いや、罪の問題が絶えず起こるでしょう。しかし、その中でイエス様に倣った愛と忍耐をもって、人々を主をお迎えする悔い改めの場へ導き続けていくこと、それこそが、この地にある教会に与えられた使命でしょう。 https://youtu.be/1QMlz4GKeUs?si=fkuVq1g99FYBLyH9

마태복음 묵상【주님을 맞이하는 일】20260116(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마태복음 3:1-10 3:1 그 때에 세례 요한이 이르러 유대 광야에서 전파하여 말하되 3:2 회개하라 천국이 가까이 왔느니라 하였으니 3:3 그는 선지자 이사야를 통하여 말씀하신 자라 일렀으되 광야에 외치는 자의 소리가 있어 이르되 너희는 주의 길을 준비하라 그가 오실 길을 곧게 하라 하였느니라 3:4 이 요한은 낙타털 옷을 입고 허리에 가죽 띠를 띠고 음식은 메뚜기와 석청이었더라…

マタイによる福音書 黙想 【幼子イエスの苦難の道】 20260115(木」) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 2:13~23 2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。 2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 2:18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」 2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。 2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」 2:21 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。 2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。 2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。     「王が生まれた」という知らせは、ヘロデ王にとって喜ばしいものではなかった。いや、それは彼にとって不安そのものだったと言うべきだろう。ヘロデはユダヤの王であったが、ユダヤ人ではなかった。実際には、彼は“給料をもらう王”のような存在だった。彼の王位は、ローマに取り入り、帝国の承認によって与えられたものだったからである。それは、いつ失ってもおかしくない、不安定な地位だった。だからこそヘロデは、自分の立場を証明し、確保するために、最も弱い命を切り捨てた。異邦人である東方の博士たちが去り、王の誕生が特定できなくなると、ヘロデはすべての幼子を殺すという暴挙に出た。ヘロデの暴力は、力の誇示ではなく、不安から生まれた防衛反応である。正当性を持たない権力は、強いから暴力的になるのではない。不安だからこそ暴力的になるのだ。弱く、卑怯な人間ほど、より残酷になりやすい。 イエスは、生まれたその時から、殺される危険の中に置かれていた。宮殿ではなく家畜小屋で生まれ、虐殺の血の嵐を逃れて、エジプトへと逃れた難民となった。受肉とは、神が単に肉体という物質に変わった出来事ではない。それは、弱く貧しい人々の流す血と涙、胸が締めつけられるような痛みや焦燥までも、その身体の中に余すところなく引き受けられた出来事である。神は御子イエスを人として遣わされたが、この世の暴力を取り除かれなかった。むしろ、その暴力のただ中で生きる道を選ばれた。ついには、その暴力によって殺されることさえ許されたではないか。救いは、その場所から始まらなければならないからである。ヨセフとマリア、そして幼子イエスのエジプトへの避難とナザレへの帰還は、かつて救いの旅路であった出エジプトの記憶を呼び覚ます。 ヘロデが死んだ後、イエスの家族はイスラエルの地へ戻る。しかし、彼らはエルサレムには向かわなかった。一貫して、中心を避け続けたのである。イエスが幼少期を過ごしたのは、ガリラヤのナザレ。当時の人々から軽んじられ、嘲られていた田舎町だった。神の国は、中心で承認されて始まる王国ではない。権力や制度や資本が、神の国を築くことはできないからである。人は中央や高い場所に関心を向けるが、神の働きは、辺境の低い場所で、静かに、しかし確かに、神の国の土台を形づくっていく。人生が、休む場所のないベツレヘムのように疲れ果て、エジプトへ追いやられた難民のように不安で、ナザレのようにみすぼらしく感じられる時があっても大丈夫だ。神は、その場所でこそ、さらに多くのことをなさっておられるのだから。

마태복음 묵상 【아기 예수의 고생길】 20260115(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 2:13~23 2:13 저희가 떠난 후에 주의 사자가 요셉에게 현몽하여 가로되 헤롯이 아기를 찾아 죽이려하니 일어나 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 피하여 내가 네게 이르기까지 거기 있으라 하시니 2:14 요셉이 일어나서 밤에 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 떠나가 2:15 헤롯이 죽기까지 거기 있었으니 이는 주께서 선지자로 말씀하신바 애굽에서 내 아들을 불렀다 함을 이루려 하심이니라 2:16…

マタイによる福音書 黙想 【マタイが語る東方の博士】 20260114(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 2:1~12 2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」 2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。 2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。 2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」 2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。 2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。 2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。 2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。     クリスマスにサンタクロースの情緒を楽しむように、東方の博士たちの物語も、ただクリスマスの飾りとして消費されているのではないだろうか。サンタクロースは作られた物語だが、東方の博士たちの物語は、聖書が語る神の啓示である。星、らくだ、黄金、乳香、没薬――これらは確かにクリスマスに親しみ深く、温かい情緒を生み出す。しかしその温かさこそが、東方の博士の物語が持つ鋭いメッセージを覆い隠しているのかもしれない。マタイがこの物語を福音書の冒頭に置いたのは、親しみやすさのためではなく、むしろ慣れた信仰を揺さぶる不快さのためであっただろう。 東方の博士の物語は、四つの福音書の中でマタイにしか記されていない。マタイはユダヤ人の読者に問いかけている。いったい誰が神の来臨を見抜いたのか。ヘロデは政治権力を持ち、祭司長たちと律法学者たちは宗教的権威と聖書の知識を持っていたが、神が来られたとき、彼らはどこにも行かなかった。東方の博士たちがエルサレムに来たとき、聖書を開いて「ベツレヘムだ」と答えたのはユダヤの宗教エリートたちだった。しかし彼らは文字としての情報を提供しただけで、その御言葉に従って動こうとはしなかった。メシアがベツレヘムに生まれることは皆が知っていたが、それを現実の信仰として受け取った者はいなかった。 その情報を信じて道を歩いたのは、異邦人である東方の博士たちだけだった。彼らには律法もなく、神殿もなく、宗教的な誇りもなかった。神の約束を学んだこともなかった。御言葉を持つ者たちはその場にとどまり、御言葉を信じた異邦人たちだけが動いたのである。マタイはこの対比を通して、ユダヤ人の歪められた信仰を正面から批判している。マタイ福音書において最初に礼拝したのはユダヤ人ではなく異邦人であり、神の恵みは民族や宗教の境界を越えていく。イエスは御言葉を語る人よりも、その御言葉を聞いて、それを求めて旅立つ人にご自身を現される。 イエスは誕生日の贈り物をもらうためにこの地に来られたのではない。高価で立派なものをささげることが、この物語の主題なのだろうか。イエスが受け取られたのは黄金や乳香や没薬ではなく、神を求めて歩いてきた彼らの人生の物語であった。クリスマスに、温かい教会の中で子どもたちの東方の博士の劇を眺めている私たちは、果たして山を越え水を渡って主を求めている者なのか、御言葉に従って巡礼の道を歩いている者なのか、それともエルサレムにとどまり情報を知って満足している者なのかを、問われているのである。

마태복음 묵상 【마태의 동방박사】 20260114(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 2:1~12 2:1 헤롯왕 때에 예수께서 유대 베들레헴에서 나시매 동방으로부터 박사들이 예루살렘에 이르러 말하되 2:2 유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시뇨 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라 하니 2:3 헤롯왕과 온 예루살렘이 듣고 소동한지라 2:4 왕이 모든 대제사장과 백성의 서기관들을 모아 그리스도가 어디서 나겠느뇨 물으니 2:5 가로되 유대 베들레헴이오니 이는 선지자로 이렇게 기록된바…

マタイによる福音書 黙想 【かごを編む神】 20260112(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マタイによる福音書 1:1~17 1:1 アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。 1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、 1:3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、 1:4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、 1:5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、 1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、 1:7 ソロモンがレハブアムを生み、レハブアムがアビヤを生み、アビヤがアサを生み、 1:8 アサがヨシャファテを生み、ヨシャファテがヨラムを生み、ヨラムがウジヤを生み、 1:9 ウジヤがヨタムを生み、ヨタムがアハズを生み、アハズがヒゼキヤを生み、 1:10 ヒゼキヤがマナセを生み、マナセがアモンを生み、アモンがヨシヤを生み、 1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。 1:12 バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、 1:13 ゼルバベルがアビウデを生み、アビウデがエルヤキムを生み、エルヤキムがアゾルを生み、 1:14 アゾルがツァドクを生み、ツァドクがアキムを生み、アキムがエリウデを生み、 1:15 エリウデがエレアザルを生み、エレアザルがマタンを生み、マタンがヤコブを生み、 1:16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。 1:17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。   マタイ1章の系図は一見すると退屈に見えるが、実は福音の神学を凝縮した序文である。マタイが想定していた第一の読者が、民族的誇りに満ちたユダヤ人であったことを忘れてはならない。神はダビデに「あなたの王位は永遠に堅く立つ」と約束されたが、歴史の中で政治的意味におけるダビデ王朝はすでに滅びていた。この地点で、イスラエルも、旧約を読む私たちも、深い混乱に直面する。 ユダヤ人たちは、神の約束は破棄されたのではなく、まだ実現していないのだと理解した。だからこそ、イスラエルの歴史を貫く情緒はメシア待望となった。来るべきメシアは、ダビデの王権を歴史の中で回復する者でなければならないと信じられた。そうでなければ、ダビデ契約が崩れてしまうからである。バビロン捕囚の後、ペルシア、ギリシア、ローマの支配を受けながらも、ユダヤ人はその期待を手放さなかった。現代イスラエルの一部は、現在のパレスチナ紛争もその延長線上に置いている。 それゆえ、マタイ福音書1章の系図は衝撃的である。マタイが系図を通して語ろうとしているのは、栄光に満ちたダビデではなく、人間の誇ることのできない歴史であった。義父を誘惑して系譜をつないだタマル、元娼婦であったラハブ、異邦人ルツ、ダビデの人生を横切ったバテシェバ(ダビデとバテシェバの出来事は強姦ではなく姦通であり、バテシェバの誘惑がかなりの部分を占めていたと私は考えている)、そしてエホヤキンの呪いは、ユダヤ人にとって消し去りたい汚点である。しかしマタイはそれらを削除せず、むしろメシアの系譜の中心に据える。 マタイは、ユダヤ人が待ち望んでいたダビデはすでに来たのだと言う。ただし、それは彼らが想像していた政治的ダビデではなかった。イエスがメシアであることを神学的に解釈する根拠が、この1章の系図なのである。この解釈なしには、イスラエルの系譜の正統性を説明することはできない。人々は理解できず、語ることもできないまま、ただ隠してきただけである。しかしマタイの解釈によって、イスラエルの歴史は矛盾なく本来の位置を取り戻した。 籠を編むには、二本、三本の素材を交差させなければならない。布を織るのも同じである。救済史の約束は神の経糸、すなわち縦の緊張として全体を支え、その間を通過する個々の人生が緯糸となって横切りながら編み込まれていく。救済史は人間の純粋さによってではなく、それを織り、編み上げる神によって成し遂げられる。曲がっていても、編組によってまっすぐに組み込まれる。職人は回し、巻き、絡め、固定する。緩めば崩れ、引きすぎれば切れる。大切なのは職人の手である。私の従順も、私の弱さも、一つの糸として神の御手の中で編み込まれていくことを願っている。

마태복음 묵상 【바구니를 짜는 하나님】 20260112(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마태복음 1:1~17 1:1 아브라함과 다윗의 자손 예수 그리스도의 세계라 1:2 아브라함이 이삭을 낳고 이삭은 야곱을 낳고 야곱은 유다와 그의 형제를 낳고 1:3 유다는 다말에게서 베레스와 세라를 낳고 베레스는 헤스론을 낳고 헤스론은 람을 낳고 1:4 람은 아미나답을 낳고 아미나답은 나손을 낳고 나손은 살몬을 낳고 1:5 살몬은 라합에게서 보아스를 낳고 보아스는 룻에게서 오벳을 낳고 오벳은 이새를 낳고…