Ⅰコリント 黙想18【ガチョウの夢】220526(木) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 11:27~3411:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。11:31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。11:32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。 33節の「ですから」は、コリント教会の聖餐式に現れた問題をまとめる結論的な勧告のための接続詞です。そして「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」と言います。時間とお金がある豊かな人はは食べ物を持って先に来ますが、貧しくて忙しい労働者は手ぶらでしかも遅く来ます。パウロの結論は、兄弟たちが来るのを待ち合わせるということです。お互いを待ち合わせるということは、お互いのために待つということでしょう。全員が聖餐に参加するためです。もし、食べ物を作る集まりでしたら、皆が早くから来て互いに奉仕するように進められたと思います。ともにするということは、必ず誰かの犠牲が伴うことだからです。パウロはそれが最も大切なことだと思ったので、残りは後で教えるということで省きます。 みんなで聖餐に参加するために待ち合わせるということから、ある神学者の遺言が思い出されました。チェコのプラハ広場にはヤン・フス(Jan Hus)という神学者の像があります。ヤン・フスは15世紀に堕落した教会の時代にみことばと聖餐を改革しようとしたことで、異端とされ、火型された人です。彼が死んだのは、司祭だけが受けていた聖餐の杯をすべての聖徒に分け、さらにチェコ語で説教したからです。チェコ語でHusはガチョウです。人々はヤン・フスの改革的な説教をガチョウのきゃあきゃあの音だとからかいました。ヤン・フスは遺言を残しました。「ガチョウの夢は叶わなかったが、いつかガチョウの夢は必ず叶えられて空を飛ぶだろう」彼の死後、100年後に宗教改革が起こり、ガチョウの夢は叶われました。「ですから、互いに待ち合わせなさい」…教会は、すべての人に聖餐を配餐されるガチョウの夢を見ながら待ち合わせます。